00244_弁護士を「安くて強い味方」に変える。3つの鉄則と2つの裏技

1 費用は「経費」ではなく「投資」

「弁護士費用って、どうしてこんなに高いんですか?」
この言葉を、私は飽きるほど聞いてきました。

たしかに、安くはありません。

しかし、ただ
「高い」
と嘆くだけでは、あなたは問題の本質を見落としています。

弁護士に支払う費用は、経費ではありません。

それは、あなたの権利や会社を守るための
「危機管理の投資」
です。

そして、その投資のリターン(費用対効果)を最大化するか、ドブに捨てるかは、すべて依頼者であるあなたの準備と行動にかかっています。

要するに、弁護士費用の回収率は、依頼者の準備と行動で決まる、ということです。

我々プロの時間(タイムチャージ)を最大限に安く買い叩くための、3つの鉄則と裏技を、ご紹介しましょう。

2 弁護士費用を劇的に抑える「3つの鉄則」

弁護士費用は、主に
「弁護士が費やす時間と労力」
に比例します。

この時間と労力を依頼者側でいかにカットし、効率化できるか。

ここが勝負の分かれ目です。

鉄則1:【予防法務の真髄】問題が「膿む前」に「ウミの素」を潰せ

最も費用を抑える方法は、トラブルが重大化する前に手を打つことです。

事態が深刻化すれば、交渉で済んだものが調停になり、訴訟へと発展します。

そうなれば、着手金は高額になり、報酬金は膨れ上がり、実費(印紙代、郵券代など)も跳ね上がります。

弁護士の労力(時間)は、雪だるま式に増大するのです。

「これ、ちょっと怪しいな」
「相手が感情的になり始めたな」
と感じたその瞬間が、費用対効果の臨界点です。

予防と早期対応こそが、究極のコスト削減なのです。

もちろん案件により上下しますが、初動の差がそのまま桁を変えることは珍しくありません。

鉄則2:【情報戦の勝者】「時系列と証拠」を完璧に整えて丸投げしろ

弁護士の仕事で最も時間を食うのが、
「依頼者からのヒアリングと証拠の整理」
です。

「とりあえず全部渡すので、あとはよろしく」
といった“丸投げ型”の依頼が、どれほどコストを押し上げるか、依頼者は全くわかっていません。

あなたの曖昧な記憶や怒りの独白を交えたダラダラとした説明は、1時間あたり数万円のタイムチャージをムダに燃やしている行為に他なりません。

弁護士はあなたのカウンセラーではありません。

法務トラブルの外科医です。

彼らが必要としているのは、感情ではなく、メスを入れるための正確なデータなのです。

次にあげる実務的行動は、品質を落とさずにコストを削る王道です。

(1)時系列の作成
「いつ(日付)」「誰が」「どこで」「なぜ」「何を(どのように)したか」「いくらの問題があるか」の5W2Hを客観的な事実のみで箇条書きにする。
あなたの主観や憶測は一切不要です。

(2)証拠の整理
関連する契約書、メール、メッセージ、議事録、写真、録音などを日付順に並べ、どの資料がどの時系列の事実に対応するか、整理する。

準備が整っていれば、弁護士は本質である
「法的評価」

「戦略構築」
に専念でき、結果として時間も費用も抑えられます。

鉄則3:【契約の鉄槌】見積もりを「3社以上」取り、曖昧な費用を叩き潰す

最初に相談した弁護士に、その場の勢いで依頼を決めるのは、戦場における最大の愚行です。

最低でも3社以上から見積もりを取り、費用の内訳を徹底的に比較しましょう。

ただし、ここには
「危険な落とし穴」
があります。

見積もりを比較検討している間にも、火種が拡大し、事態が致命的に悪化するケースは少なくありません。

費用を抑えることと、事態の早期収束のどちらを優位に取るか。

この優先順位を決めるのは、弁護士ではなく、当事者であるあなた自身です。

見積もりでは、以下の
「ブラックボックス費用」
をクリアにさせることが重要です。

・着手金: 成功報酬制(回収できなければゼロ)を謳う事務所もあり
・実費の預かり金(預託金): 詳細な内訳を求め、高すぎないか確認する
・日当: 遠方出張の際の日当(半日〇万円、終日〇万円)が妥当な金額か
・キャンセルポリシー:緊急着手後に依頼を撤回する場合、発生済みの経費や着手金がどのように清算されるか

そして、委任契約書を締結する際には、
「どの業務範囲までが対象で、どんな場合に追加費用が発生するのか」
平易な言葉で明確にさせ、書面に残すことです。

良心的な事務所は、言わなくても説明してくれるでしょう。

「口頭での約束」
は、法務の世界ではクソの価値もありません。

すべてを文書化し、費用の透明性を確保することが、不必要な追加出費を防ぐための決定的な手段なのです。

3 【裏技公開】弁護士を「賢く安く」使うための2つの仕込み

裏技1:「無料相談」をリサーチの場として活かしきる

多くの事務所が提供する
「初回無料相談」
は、
「ただでしゃべってくれる時間」
ではありません。

それは、
「自分の選択肢と、弁護士の質を見極めるためのプロとの接点」
です。

無料相談の30分を有効に使うには、準備が必要です。

・相談事項を1枚の紙にまとめる
・聞きたいことの優先順位をつけておく
・「何を決めるための相談か?」という目的意識を明確にする
・いきなり契約するのではなく、「どの弁護士が自分に合うか」を見極めるためのリサーチの場として使う。

このスタンスが、費用面でも精神面でも、最も効率的です。

裏技2:「途中まで自分で」というコスト意識を持つ

実は、弁護士に “全部丸投げ”しなくてもいい場面は、意外と多いのです。

・通知文のたたき台は自分で作っておく
・登記に必要な書類の取得は、自分で済ませておく

もちろん、法的に誤った記載をしては意味がありませんので、あくまでも
「下書き」

「構想案」
に留めたうえで、弁護士にチェックを依頼する方法が現実的です。

私の事務所でも、
「文面は自分で作るので、確認だけお願いします」
というケースに対しては、フルスケールでの起案よりも低廉な形で対応しています。

弁護士は、
「すべてを代行してくれる人」
ではなく、
「自分でやり切れない、核心的な部分だけ、適切にサポートしてくれる人」
として使う。

その視点を持つだけで、費用のコントロールは劇的に変わるのです。

4 おわりに  弁護士は“高い”のではなく、“無駄に使うと高くつく”だけ

弁護士費用というのは、最初の相談からの依頼の流れ次第で、大きく変わってくるものです。

何も準備せずに“丸投げ”し、焦って今すぐの対応を求めるような流れになれば、当然費用はかさみます。

一方で、事前準備をしっかりして、目的意識を持って活用し、自分でできる部分は自分でやる。

こうした対応ができれば、弁護士費用は驚くほど抑えることができます。

「高くつくのが怖い」
と思って最初から敬遠してしまうのではなく、
「どうすれば費用を抑えつつ、きちんとしたサポートを受けられるか?」
という費用対効果の視点で一歩を踏み出していただければと思います。

恐れず使いこなしてください。

プロは、使い方次第で安く強い味方になります。

最後に。

あなたの怠慢と感情が、そのまま弁護士費用に上乗せされることを、決して忘れないことです。

著:畑中鐵丸

00243_“善意を余剰コストと見なされた”とき、プロがとるべき3つの判断_泥をかぶったプロの「仕切り直し」論

実務家の修羅場:「善意」が舐められた

「知識と善意」
でクライアントの危機を救ったプロフェッショナルが、組織の都合や損得勘定によって
「非礼極まりないコストカット」
を提示される――。

そんな修羅場に直面したことは、ありませんか。

そのようなときに必要なのは、感情論ではありません。

徹底した実務論です。

私がかつて経験したことをお話ししましょう。

ある企業が、事業存続に関わる緊急危機に陥った時、私は、経営者との強い信頼関係を前提に、非常時対応を提供しました。

本来であれば破格の報酬が発生すべきところ、善意と義理で大幅にディスカウントし、休日返上・徹夜で緊急の文案作成に即応しました。

弁護士として、まさに命がけの“火消し”のような役割を果たしたのです。

その後、目先の危機が沈静化したと見るや、その企業グループの財務・会計顧問――金銭管理やコスト調整を担い、経営層にも影響力を持つその専門家――が、突如登場し、信義則に反する提案をしてきました。

“弁護士”の超人的な努力を
「終わったコスト」
として計算尺に乗せ、
「もう片付いた」
「費用はカットできる」
といった主張を展開し、一方的で形式的な
「費用抑制」
を言い渡したのです。

(経営者の代理として登場した会計顧問は)あたかも当然かのように、私の連日にわたる非常時対応については、評価もなければ謝意もありませんでした。

それは、たとえるなら――火を消した直後の消防士に向かって、
「火はもう消えたのだから、ギャラは削ってもいいよね」
と言い放つようなものです。

実際、危機は“片付いて”などいませんでした。

私の予見どおり、子会社関連での新たな事案が次々と噴出。

再び火の手が上がったとき、その会計顧問は姿を現さず、代わって経営者本人と子会社の社長から、
「ぜひ引き続きご対応をお願いします」
という救援の要請が舞い込んできたのでした・・・。

プロが取るべき「3つの判断」の基準

信義の不履行や構造的な裏切りに直面したとき、私たちプロフェッショナルは、どう対応すべきでしょうか。

悔しさや憤りで自らを消耗させるのではなく、その感情を戦略へと転換することができます。

場合によっては撤退するケースもあるでしょうが、怒りを交渉条件に置き換え、信頼の修復、または再設計を図る選択肢がある、ということです。

その際、私が基準としているのが、次に紹介する
「3つの判断」
です。

第1の判断:感情を「機能不全コスト」として精算する

感情は放置してはいけません。

怒りは、
「チームの機能不全コスト」
として認識し、それを書面で可視化できる条件として整理し、再契約や再関与の要件に明確に組み込むのです。

そうすることで、感情は“構造”に昇華し、
「怒りの処理」

「再構築の条件交渉」
へと変わります。

さて、私は、経営者に対し、次のように書面で伝えました。

「流石のお人好しの私でも、会計顧問の態度には笑って受け流せず、滅多に怒らない私にしてはめずらしく、怒りの感情が邪魔して、仕事が前に進みません」

これは、単なる愚痴ではありません。

「仕事が前に進まない」
という事態は、
「プロフェッショナルの機能不全」
であり、危機なのです。

思考の停止は、対応の遅れと判断ミスを招き、結果としてサービス品質が低下します。

その影響は、最終的にクライアントの実損として現れます。

会計顧問が破壊したのは、危機時における弁護士の“即応力”という
「信頼という名の最上級インフラ」
でした。

このインフラの再起動には、クライアント企業の経営者による、最低限の敬意を示す具体的な行動が求められます。

(1)謝罪と関係性の再定義

当該企業は、会計顧問に
「私の短絡的な行動が、チームの緊急対応機能を停止させた」
という事実を認めさせ、私に対して正式に謝罪させることが、最低限の誠意といえます。

これは、単なるケジメではありません。

プロの仕事に対する敬意の最低ラインです。

もしこの謝罪がなされなければ、今後、私は、経営者本人を
「その程度の人物」
と見なすだけでなく、従来のような義理や配慮に基づくハイサービスは一切停止し、契約書上に記載された最小限の対応(たとえば口頭助言)に切り替えることになります。

(2)過去の「善意による立替え対応」の精算

この件においては、他の専門家(協力弁護士)に急ぎ依頼した案件も含まれていました。

クライアント企業が、会計顧問の短慮な判断を鵜呑みにして支払いを止めた結果、私自身の人間的信用を毀損する事態となりました。

そこで、私は、当該企業に対し、所定の支払確約文書を正式に提出するよう求めました。

これは、過去の善意を単なる“サービス”で終わらせないための、実務上の
「筋」
というものです。

第2の判断:「将来の裏切りリスク」は「確実な先入金(担保)」でヘッジする

また、私は、経営者に、書面で次のようにも伝えました。

「結局、『休日返上・徹夜で対応しても、最後は会計顧問が出てきて不義理をされる』という事態が、また繰り返されるだけです」

これは、憶測ではありません。

過去の事実に基づいた、れっきとした“展開予測”です。

この会計顧問の意思決定パターンは明快です。

「危機時の対応には一時的に同意するが、沈静化すれば、プロの努力は“余剰コスト”と見なす」

この行動原理が過去に何度も繰り返されてきた以上、私が次にとるべき対応も明快です。

時間との闘いの業務が続くことが予想されるなか、緊急対応費用と難関事案対応費用の担保として、弁護士法人宛に●●万円の支払いを要求しました。

これは、金額の問題ではありません。

信用の再構築に必要な、最低限の“構造的条件”なのです。

先入金がなければ、私は動きません。

なぜなら、
「もはや、あなたの口約束や謝罪には、私のペン一本の価値すら担保する信用力がない」
という、状況だっただからです。

「後払い」
という仕組みは、信頼を前提としています。

その仕組みは
「信頼が成立している場合にだけ、機能するシステム」
です。

一度でも不義理があったのであれば、そのシステムは破綻しているのですから、信頼を前提とする支払条件も、見直す必要があります。

・構造を変える
・リスクは、担保によってヘッジする

それが、プロフェッショナルの取るべき態度です。

緊急対応を求めるのであれば、相応の担保を積む――それが、ビジネスの鉄則です。

第3の判断:「信頼関係」を“即応性の設計思想”として捉え直す

危機対応において、我々プロフェッショナルが通常を超える力を発揮できるのは、契約書だけでは説明できない、
「信頼という設計思想」
が共有されているときです。

そこでは、
「契約で定めた以上のことを、必要なら即座にやる」
ということが、暗黙の前提になっています。

この信頼があるからこそ、
「休日返上」
「徹夜対応」
といった極限パフォーマンスが自然に発動されるのです。

裏を返せば、その信頼を破壊した瞬間、危機対応のエンジンは止まり、
「即応性」
は消えます。

今回、会計顧問はそれを理解せず、目先のコスト削減のために、信頼という無形資産を切り捨てました。

信頼関係は、情緒や個人感情で築かれるものではありません。

信頼を失った組織は、感情論では再起動できません。

それは
「人間関係における感情の問題(単なる非礼の問題)」
ではなく、
「業務インフラの故障(組織機能の設計ミスの問題)」
だからです。

要するに、組織間における信頼関係とは、合理的な設計と合意に基づいて初めて再構築できるインフラです。

当該企業にとって必要なのは、具体的には、
・「チーム再設計の意志がある」を示す明確な態度であり、
・信頼の回復を前提とした契約条件の見直しであり、
・プロの能力を軽視した判断に対する明確な謝意だったのです。

プロとしての鉄則:感情を「契約」と「行動」に変換すること

恩を仇で返されたと感じたとき、感傷に浸ってはいけません。

怒りを抱えて黙っていても、状況は何ひとつ改善されません。

プロフェッショナルである以上、必要なのは感傷ではなく、再設計です。

・怒りを契約条件に変える
・不信感を担保に置き換える
・「プロの価値と矜持」を、相手に再認識させる行動に出る

要するに、信頼が損なわれたなら、感情ではなく契約で応じるのです。

それが、プロとしての矜持であり、仕返しではなく
「仕切り直し」
です。

補論:プロフェッショナルの最終手段――「不義理を教材に変える知の戦略」

最後に。

ここまで紹介した判断は、ドライなビジネス論によって、プロフェッショナルとしての機能と尊厳を守るためのものです。

しかし、もしあなたが“知の探求者”であるなら、もう一段階、進化した対応があります。

それは――
不義理な相手の行動そのものを、最高の教材に昇華させる、というものです。

たとえば、私のかつての経験を、つぎのように切り取ることもできます。

「短期コスト思考が、組織の信頼インフラを破壊し、危機管理能力を損なった事例」
「会計的視点による判断が、法務的リスク対応体制に与えた構造的影響」

この顛末を匿名化し、構造化し、セミナーや研修・記事・コンテンツに落とし込む。

そうすれば、相手の不義理は、あなたの知的資産になります。

そしてそれこそが、人間的信用の損失を、知的信用で上書きする、最もエレガントかつ破壊力のある“カウンターリリース”になるのかもしれません。

もちろん、これをやるには、怒りを超越した精神的タフネスが求められる、ということですが。

著:畑中鐵丸

00242_「水の事故」ではなく「人と組織がつくった事故」_学校安全管理の盲点

「学校の安全管理に“盲点”がある限り、事故は必ず繰り返される。」

事故というのは、思いがけず突然起きるものだと思っている人が多いかもしれません。

ところが、実際にはそうではありません。

実は、
「起こるべくして起きる」
事故のほうが圧倒的に多いです。

今回の事例も、まさにその典型でした。

幼稚園行事の一環で、川遊びに来ていた一人の園児が流されました。

調査をしていくうちに判明したのは、
「いつか必ず起きるはずだったことが、ついに起きてしまっただけ」
ということでした。

現象面では、川の流れによって幼い子どもが流されてしまった。

しかし、本質は、そんなところにはありません。

「水の事故」
ではなく、
「安全管理欠如の事故」。

もっと言えば、
「組織運営の事故」
であり、さらに踏みこめば、
「リスク管理リテラシーの欠落」
という事故でした。

問題の本質は
「水」
ではなく、
「人の判断や組織の管理」
にあったのです。

要するに、この事故は、
「自然に起きた出来事」
ではなく、安全のルールが守られず、組織としての責任が果たされなかった結果としての
「人と組織が引き起こした出来事」
だったのです。

浮き具もなし、急な流れの川に幼児を入れたという危険

自然の中で遊ぶ体験は、子どもにとって大切です。

川遊びや外での活動そのものを否定するつもりはありません。

しかし、
・川の流れが急で
・対象は幼児で
・浮き輪やヘルメットのような安全装備がなく
・現場の職員も経験が乏しく
・事前の調査も不十分で(川の地形、流れ、深さ、過去の事故歴等についての調査なし、天候変化や水位急変に関するモニタリングなし)
・保護者からの不安の声も無視された
という条件が重なった中で、
「子どもたちを川に入れる」
という判断がされたのは、冷静に考えても、かなり無謀だったといえます。

事故が起きる可能性は高かった。

むしろ、
「よくここまで大きな事故にならずに来られていた」
というのが実情だったのかもしれません。

もしあなたの声が無視されたら?

今回の事故で、さらに深刻だったのは、
「保護者が事前に不安を伝えていた」
という点です。

園側はそれを無視して、
「これまで大丈夫だったから、今回も大丈夫」
と判断しました。

つまり、
「過去の経験に頼った判断」
であり、
「新しいリスクへの感度」
が欠けていたのです。

これは、事故ではなく、判断の失敗です。

そして、その判断を下したのは、人であり、組織です。

組織の運営とは、構成員の“感覚”の合成体です。

その事故の本質とは、
「組織の“感覚”が麻痺していた」
という、静かなる破綻だった、ともいえます。

行政はなぜ“水のせい”にしてしまうのか?

事故の後、行政はこの出来事を
「水の事故」
と表現しました。

これもまた、致命的な感覚のズレです。

これでは問題の本質が見えてきません。

なぜ、こうした見解が生まれるのか。

なぜ、事故の本質が、正確に言語化されないのか。

それには、大きく3つの原因があると考えられます。

(1)リスクに対する感覚そのものの欠如

川の事故といえば、
「増水したから危なかった」
という話にされがちです。

しかし、川の危険性は、水の量だけではありません。

・流速
・深さ
・川底の様子(石が滑る、深くなっている)
・川底の見えなさ
・岸の構造
・逃げ場の有無

など、複合的な要素が絡みあって、初めて
「危険」
になるのです。

ところが、事故後の検証では、それらの視点がすっぽり抜け落ちていました。

その視点を無視して、
「増水していたかどうか」
だけで判断してしまうのは、川という存在に対するリスクセンスそのものが欠如していた証拠です。

(2)外部視点、客観的視点の決定的欠如

この園では、
「学校安全計画」
そのものがなく、
・外部の専門家のチェック
・事故情報の定期収集
・第三者評価
など、外部の人の目でチェックされる仕組みもなかったようです。

つまり、自分たちの過去の慣行だけで、全てを決めていたのです。

「去年も無事だったから、今年も大丈夫」
そうした無根拠な安心感の中で、子どもが川へ送り出されたのです。

“慣れ”に頼っている組織には、
「今年は条件が違うかもしれない」
という疑いすら生まれません。

第三者の視点が入っていれば、防げたかもしれないのに、です。

(3)組織内に緊張感がない

最大の問題は、組織としての
「緊張感のなさ」
です。

ヒヤリハットを共有する仕組みもなく、事故に学び、未然に防ごうという構えもない。

職員間のチェック体制も、意思決定の検証プロセスもなかった。

そういう“ゆるい日常”の中で、子どもたちが危険な場に送り出されたのです。

今回の事故は、
「特別な日」
に起きたのではありません。

むしろ、
「普段どおりの中」
で、普通に起きた。

そこにこそ、深刻さがあります。

「再発防止策」の中身が、根本的に間違っている

行政は、事故のあとに
「再発防止策」
を打ち出しました。

ですが、そこに書かれているのは、
「雨が降ったら川に入らないように」
とか
「増水したら中止する」
などの“表面的な対策”(対症療法)ばかりです。

そんなことで防げるのなら、そもそも、最初から事故は起きていません。

こうした対策だけでは、また同じような事故が起きます。

本当に必要なのは、
・安全管理計画そのものの策定
・事故やトラブルの情報を日々集め共有する仕組み
・外部の専門家のチェック(第三者視点の導入)
・職員へのリスクセンス研修
・ヒヤリハットを記録・共有する体制
・保護者との意見交換や双方向のリスク対話の場
といった
「組織の文化としての安全管理」
への転換です。

事故の直接原因を
「川」

「増水」
だとする見方は、原因を“自然”に責任転嫁しているにすぎません。

本当の原因は人の判断にあり、組織の姿勢にあります。

そしてそれは、今も変わっていないのです。

つまり、このままでは、またどこかで、同じような事故が起きます。

それがわが子だったとしたら・・・。

だからこそ、問うべきは、こうです。

「なぜ、浮き具をつけなかったのか」
「なぜ、客観的な調査をせずに活動を決めたのか」
「なぜ、保護者の不安の声を聞き入れなかったのか」
「なぜ、再発防止策が表面的なのか」

そして最後に――
これは、
「水の事故」
ではありません。
これは、
「人と組織による事故」
です。

だからこそ、私たち保護者や市民が声を上げなければなりません。

「危ない」
と感じたときに遠慮せず伝えること。

「形だけの再発防止策」
にごまかされず、本質を問い続けること。

それが、わが子の命を守ることにつながるのです。

著:畑中鐵丸

00241_「危急時遺言」という奥の手_意識が混濁しても“確実な未来”を遺す方法

私のところには、日々、実に様々なご相談が寄せられます。

その中でも、やはり多いのは
「相続」
に関するトラブルです。

「家族」
という密接な関係だからこそ、感情が複雑に絡み合い、泥沼化してしまうケースが後を絶ちません。

今回ご紹介するのは、ある男性から寄せられた、祖母の遺言に関する相談です。

このケースには、家族間の借金、複雑な人間関係、そして意識が混濁する中で
「確実な遺言」
をいかにして残すかという、切実な問題が詰まっています。

親から子への借金は「返さなくてもいい」のか

相談者は、祖母が危篤状態にあり、家族仲が悪いという家庭環境にありました。

祖母には息子が二人いて、長男にあたるのが相談者の父親です。

そして、その父親が、祖母から数千万円もの借金をしたまま、踏み倒している、というのです。

そのうえ、叔父(父親からみれば、弟)の名前を騙って借金を重ねたため、返済不能となった叔父は、結果的にブラックリスト入り。

それだけではありません。

父親は、自分の息子である相談者の名義を使い、借金をさらに重ね、相談者は、知らぬ間に学生ローンを背負わされ、就職後に保証協会から通知が届いた、という状況です。

親子間、兄弟間の借金。

「家族だから大丈夫だろう」
「いずれ返せばいい」
「いやいや、あれは借金じゃない。もらったのだ」
と、様々な言い訳が聞こえてきそうです。

なかには、貸した方が
「どうせ返ってこないだろう」
と半ば諦めていることもあるでしょう。

法的に言えば、たとえ親子であっても金銭の貸し借りは
「借金」
です。

借りた側には、当然、返済する義務があります。

ましてや、それを他の家族にまで負わせるなど、あってはならないことです。

このケースでは、祖母は、長年の出来事を目の当たりにして、次男に全財産を遺す内容の遺言書を自筆で作成しました。

しかし、その遺言は、手書きの、素人作成の一枚紙。

ちゃんと効力があるのか、孫である相談者は不安に思ったのです。

素人作成の遺言書はなぜ「禁じ手」なのか

このケースで、問題なのは、危篤状態に陥った祖母の遺言書が
「素人作成」
であるという点でした。

祖母は次男に全額を渡すという内容で遺言書を書いたそうですが、相談者としては、その内容が
「確実」
であるか不安を感じています。

この不安は、実に的を射ています。

そもそも
「遺言書」
は、死後の財産分与について、自身の意思を明確にするためのものです。

ところが、この遺言書は、法律が定めた厳格な
「方式」
に従って作成しなければ、その効力が認められません。

たとえば、自筆証書遺言の場合、作成した日付、署名、押印がすべて自筆でなければなりません。

これらが一つでも欠けていたり、あるいは代筆だったりすると、せっかく書いた遺言書が無効になってしまう可能性が高いのです。

法律の専門家ではない方が遺言書を作成する場合、ご自身の意図をいかに明文化し、法的に有効なものにするかという、非常に高いハードルが立ちはだかります。

たとえば、
「全財産を次男に渡す」
と書いたとしても、どの財産なのか、あいまいなままでは、解釈をめぐって争いが起きる可能性があります。

そうなれば、結局は法廷で争うことになり、遺言書を書いた意味がなくなってしまいます。

まさに、素人作成の遺言書は、家族の絆を守るための
「奥の手」
であるはずが、争いを招く
「禁じ手」
にもなりかねない、ということです。

意識が混濁した状態でも「確実な遺言」はつくれるのか

相談者がもっとも切実に感じていたのは、すでに手書きの遺言書はあるものの、その不備をどうやって
「補強」
し、法的に
「確実な遺言書」
として完成させるか、という問題でした。

祖母は一日の中で数分間だけ意識がはっきりすることがあるという、まさに一刻を争う状況です。

この状況下で、私たちが考えられる
「奥の手」
は何か。

まず、遺言は原則として自筆でなければなりません。

意識が混濁している祖母に、改めて自筆で遺言書を書かせるのは、現実的ではありません。

そこで、このような
「特別」
な状況に対応するために、法律には
「危急時遺言(ききゅうじゆいごん)」
という制度が用意されています。

危急時遺言とは、病気や災害など、死が迫っている状況で、通常の遺言書作成が困難な場合に、特別な方式で遺言書を残すことができる制度です。

危急時遺言の法的根拠と要件

危急時遺言にはいくつかの種類がありますが、今回のケースのように疾病で死亡の危機に迫っている状況で利用されるのは、民法976条に定められた
「一般危急時遺言」
です。

その要件は以下のとおり、厳格に定められています。

・証人3人以上の立会いがあること
遺言者の配偶者、推定相続人、受遺者、その配偶者や直系血族など、利害関係のある人は証人になれません。

・遺言者が証人の1人に遺言の趣旨を口授すること
口頭で遺言内容を伝えることです。

・口授を受けた証人がその内容を筆記すること。

・筆記者が、遺言者および他の証人全員に、筆記内容を読み聞かせ、または閲覧させること。

・各証人が、筆記が正確であることを承認した後、署名・押印すること。

・遺言の日から20日以内に、家庭裁判所に確認の請求をすること。

この手続きを経て、家庭裁判所が遺言者の真意であることを認めなければ、遺言は効力を生じません。

もっとも、危急時遺言はあくまで“例外”の制度です。

要件が厳格に定められているため、その時点で意思能力があったのかどうかが、後日争点となることも少なくありません。

また、遺言者の口述能力が問われるため、意識が混濁している場合は、その有効性が争われる可能性があります。

このケースでは、まずすでに作成されている
「素人作成の遺言書」
が有効かどうかを検証することが第一歩です。

その上で、祖母の意識がはっきりしている数分間に、いかにして法的に有効な遺言書を作成するか、あるいは、すでに作成された遺言書の内容を補強するか、できる限りの対策を講じなければなりません。

ミエル化・カタチ化・言語化が示す「確実な未来」

法律の世界では、あらゆる出来事を
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
し、誰が見ても同じように理解できるよう
「フォーマル化」することが、何よりも大切です。

今回のケースも同じです。

まずは、家族間の金銭トラブルを
「ミエル化」
する。

借金の事実を
「カタチ化」
して文書にする。

そして、祖母の意思を
「言語化」
し、法的に有効な遺言書という
「文書」
に落とし込む。

こうした手続きを踏むことで、家族間の争いを未然に防ぎ、祖母の意思を尊重し、そして何よりも、相談者の
「確実な未来」
を築くことができるのです。

著:畑中鐵丸

00240_父親の声は無視? 「母性優先」が連れ去りを正当化する社会の盲点

<事例/質問>

妻には、過去、母親としてネグレクトを疑わせるような行動がありました。

妻が出て行くまでは、子どもの世話は、私の方がしていましたし、お恥ずかしい話ですが、妻とは、そのことで、言い争ったことはあります。

そんな妻が、ある日突然、子どもを連れて家を出ていきました。

連絡はつかず、居所もわかりません。

私は、立ち上げたばかりの仕事を放りだすわけにもいかないギリギリの状況のなかで、妻と子どもを探すのに奔走しました。

妻と子どもは、親せき宅に居ることはわかり安堵したものの、連絡が取れない日が続きました。

ほどなくして妻から
「DVがあった」
との申し立てがなされました。

私は子どもとの接触を禁じられました。

もちろん、私は、裁判所に申し立てました。

DVなんて、事実無根だからです。

すると、そのDV申立ては、取り下げられました。

にもかかわらず、子どもは今も母親側に囲い込まれたままです。

「母性優先」

「継続性の原則」
という言葉を盾に、現状のままが維持されています。

妻は、家を出て以降、婚外男性との交際を平然と続けており、昼夜かかわらず、たびたび外出しています。

子どもの面倒を見る人もはっきりしません。

それなのに、裁判所は
「現状を変えるのは好ましくない」
「継続性が大事」
「母子関係は重要だ」
といった理由で、母親を監護者として認めようとしています。

父親として、納得できるはずがない。

私は、自分が養育する方がはるかに安全だという自負があります。

しかも、私の両親が近くに住んでおり、健康で、サポート体制も整っています。

それでも、
「今、監護しているのが母親なのだから」
という一点だけで、すべてが押し切られそうな空気があります。

このままでは、違法に子どもを連れ去った妻の思うがまま、になってしまう・・・。

こんな状況、いったいどう考えればいいのでしょうか。

<弁護士 畑中鐵丸の回答・アドバイス・指南>

まず、これは典型的な
「連れ去り型監護紛争」
です。

先に子どもを囲い込んだ側が、あたかも
「すでに養育している正当な親」
であるかのように振る舞い、それを既成事実として認めさせようとするものです。

そのときに使われる言葉は、決まっています。

「継続性の原則」
「母性優先」
「子どもにとっての安定」

いずれも、耳ざわりは良いし、正義めいた響きさえ、あります。

これらの言葉は、もともと
「適正な監護環境の中で、子どもが成長してきた場合に限って」
尊重されるべきものです。

違法に連れ去られた状況にまで、自動適用されるべきではありません。

今回のケースで問題となっているのは、
“その継続”が、どのような経緯で作られたか――です。

虚偽のDV申立て。
突発的な連れ去り。

不法な手段によってつくられた
「現状」
を、まるで最初から安定していたかのように扱う。

それは、法の原理原則を真っ向からねじ曲げる判断と言わざるを得ません。

日本の法制度としては、民法第766条の改正審議が行われた衆議院法務委員会で、当時の法務大臣が、
「子を違法に連れ去った者が、そのことによって監護権の指定上有利に扱われることはない」
という趣旨の答弁をしています。

この答弁は、単なる一つの見解にとどまりません。

「違法な連れ去りによって作られた既成事実は、法的に保護されない」
という、日本の司法における重要な原則を確立したものです。

クリーンハンドの原則(後述)の根幹にある考え方を、日本の法制度の中で明確に示しているのです。

しかし、残念ながら、現実の家庭裁判所の中には、この明確な立法趣旨が軽視され、形式的な
「現状維持」
が優先されてしまうケースが少なくありません。

裁判所が見落としているもの

米国法には
「クリーンハンドの原則」
という考え方があります。

「自ら法を尊重し、義務を履行する者だけが、他人に対しても、法の履行を要求できる」

要するに、
「法を守らない者には、他人に法を守れとは言えない」

虚偽のDV申立て。
裁判所の信頼を悪用した偽装の主張。
子どものネグレクト。
婚外の交際。
育児環境の不透明性。

こうした“汚れた手”で、監護権や養育費を求めること自体が、すでに法の冒涜なのです。

それなのに、裁判所がその手を“見なかったことにする”。

これはもはや、裁く側の“クリーンハンドの不在”です。

家庭裁判所が、事実認定や判断を“楽な方に流している”実態を映し出していると言わざるを得ません。

感情ではなく事実で立ち向かえ

では、どうすればよいのか。

感情的な主張や、単なる妻の悪口では、裁判官の心は動きません。

必要なのは、あなたの主張の正当性を客観的に示し、
相手の悪意を「ミエル化」し、
その不当性を徹底的に「文書化」することです。

これが、
「法のお作法」
であり、あなたの戦い方です。

(1)相手の「不法性」を言語化せよ

まず、相手が行った一連の行為を、客観的事実として整理し、その不法性を明確に指摘する必要があります。

相手は、あなたに
「DVがあった」
と訴えました。

しかし、すぐに取り下げた。

なぜか。

証拠がなかったからです。

そして、なかった理由は、DVなど存在しなかったからです。

この流れを論理的に
「言語化」
してください。

虚偽のDV申立ては、明白な不法行為です。

それによって得られた“現状”が、いかに不当か――その成り立ちの不法性を背景事情とともに、書面で、明確に、裁判官に突きつけるのです。

(2)あなたの「優位性」をカタチにせよ

あなたは、妻(母親)がたびたび外出し、子どもの世話を誰がしているか不明だと把握しています。

これは、母親が主張する
「健全な監護環境」
が、実体をともなわない空疎なものだという証拠です。

この事実を、
「カタチ」
として示す必要があります。

たとえば、
・外出記録のログ
・子の放置状況を示す客観的証拠
・監護実態のない生活時間表

日時、場所、滞在時間、交際相手の存在――こうした情報を、細かく
「文書化」
してください。

それが、母親側の主張を事実レベルで突き崩す“爆薬”になります。

また、あなた自身の養育環境の優位性も
「ミエル化」
しましょう。

たとえば、
・健康な両親が近くに住んでいる
・日常の家事や送迎、食事の提供体制が明確である
・育児時間を確保できる就業状況である

こうした事実を1つずつ丁寧に
「文書化」
し、
主観ではなく“数値と構造”で優位性を示す。

「一人で育てる環境」

「支援体制のある育児環境」
を対比させ、定量的な違いを裁判官に理解させるのです。

(3)相手の「制度悪用」を暴け

もっと言えば、これは制度を逆手に取った“囲い込みビジネス”です。

子どもを確保すれば、養育費が発生する。

実際に育児しているかどうかは関係ない。

養育費を得るために子を囲い込む――その手口を、制度悪用のモデルとして暴いてください。

「母性」

「継続性」
は、本来、子どもを守るための言葉です。

それを、親の支配欲や損得勘定の道具にするなど、あってはなりません。

この一連の行為は、まさにクリーンハンドの原則に反しています。

汚れた手で、法の救済を求めることはできない。

「このままでは、違法に子どもを連れ去った妻の思うがまま」

その危機感は、決して誇張ではありません。

しかし、あなたには法という正当な手段があります。

その手段をどう整え、どう示すか。

それが、あなたの子どもの未来を守ることにつながります。

著:畑中鐵丸

00239_“無料奉仕”の戦場に立たされたときの線の引き方_「恩義」と「タダ働き」を混同してはいけない

「タダ働き」
は善意ではなく、慢性的な搾取です。

プロが生き残るためには、どこで線を引くか──ここに尽きます。

「ちょっとだけだから」
「お願いだから」
「君しかいないんだ」

この3つの呪文が揃ったとき、あなたはすでに“無料奉仕”の戦場に立たされています。

法務の現場でも、こうした
「暗黙のタダ働き」
は少なくありません。

報酬の話を切り出す前に、次のタスクが当然のように降ってくる。

「善意」
の名のもとに、時間と労力が静かに溶かされていくのです。

もちろん、著者も義理人情が嫌いではありません。

「報酬よりも信頼」
だと思う場面だって、現実にはあります。

ただし、その線を引くのは“こちら”なのです。

実際、こういう場面があります。

「緊急だから」
と頼まれ、休日返上で徹夜してリリース文案を作成した。

ところが翌日には、
「もうその問題は片付いた」
と言わんばかりの顔。

支払いの話は立ち消え、感謝どころか存在すらなかったことにされる。

これが現場のリアルです。

「知り合いだから、タダでやってくれると思っていた」
「君と僕のなかじゃないか。いつも助けてくれるじゃないか」
「今回も頼むよ」

こうした言葉を“当然の権利”として口にする相手に、無償で助力を続けるのは、自殺行為にほかなりません。

報酬をめぐる話は、信頼関係の問題ではなく、線の引き方の問題です。

すなわち、約束をどうするか、筋をどう通すか、その一線の話です。

たとえば、無償対応を一度でも受け入れれば──
次の相談もタダになる。

他の案件にも波及する。

さらには、その人の周囲でも
「無料対応が前提」
になる。

そうした“雪だるま式の負担”が、音もなく膨らんでいくのです。

では、どうすればいいか。

あえてはっきりと言うことです。

「お力にはなりますが、まず条件を整えましょう」
「無償では動けません。必要なら別の専門家をご紹介します」
「これまでの無償対応は例外であり、今後は契約ベースです」

一見、冷たく聞こえるかもしれません。

しかし、こうした線引きこそが“プロフェッショナル”の信頼を守るのです。

これは、弁護士だけの話ではありません。

士業だけでもありません。

経営者、サラリーマン、コンサルタント──誰もが日常で直面する話です。

「ちょっとだけだから」
「お願いだから」
「君しかいないんだ」
という圧力を受け流すことができるか。

ここに、あなたの職業人生の質がかかっているのです。

著:畑中鐵丸

00238_裁判は「罵り合い」でも「正義のヒーローの舞台」でもない。冷静に制する者が勝つ“プレゼン合戦”

裁判は、ドラマや映画で見るような、ヒーローが正義を叫び、相手を論破して喝采を浴びる、感情むき出しの
「罵り合いの場」
ではありません。

現実の裁判は、そんな熱い舞台ではないのです。

むしろ、事実をいかに自分に有利に
「ねじ曲げ」、
それを
「ミエル化」
して提示できるかどうか――
地味で、淡々とした
「プレゼン合戦」
なのです。

裁判の場で怒ったり、感情的になってしまえば、そこでゲームオーバーだと言っても過言ではありません。

言うなれば、悲劇の主人公を演じきり、徹底的に
「被害者ヅラ」
を貫き通せた者にこそ、勝利の女神――ならぬ、裁判官は微笑むのです。

客観的事実と「解釈」という名の自由

裁判では、客観的に検証できない事実について、どれだけ自己に都合のよい
「ウソ」
を語ったとしても、自由だ、という側面があります。

これは法廷で公然と
「ウソ」
をつけ、という意味ではありません。

しかし、客観的な証拠で裏付けられない事柄については、いくらでも自己に都合の良いように
「物語」
を紡ぐことができてしまう、ということです。

一方で、客観的な証拠が存在する事実についても、その
「解釈」
はいくらでも自由自在に広げられます。

1つの事実から、複数の異なる
「解釈」
が導き出されることは、珍しくありません。

そこで、いかに自分の主張に有利な
「解釈」を、
「言語化」し、
「カタチ化」し、
「フォーマル化」
して示すかが勝負の分かれ目となります。

まさに、
「理屈と膏薬は、どこにつけてもいい」
という言葉のとおりです。

さらに言えば、自分にとって都合の悪い重要な事実があったとしても、それを“黙っておく”こともまた、自由なのです。

もちろん、虚偽の事実を述べたり、証拠を隠したりすることは許されません。

けれども、戦略として、選択的な沈黙
――相手に不利な事実だけを強調し、自分に不利な事実をあえて語らないという判断は、裁判の現場では“常識”です。

ロマンチストでは勝ち残れない
「リアリスト」
の世界だと言えるでしょう。

ルールとゲーム環境を知り、「クール&ドライ」に現実と向き合う

アメリカンコミックのように、ヒーローが登場して正義が勝つ――
そんな筋書きは、日本の裁判には存在しません。

現実の裁判では、正義が必ずしも勝利するとは限らないのです。

戦いを有利に進めるためには、まずこの
「ルール」

「ゲーム環境」
を徹底的に知ることが第一歩です。

そして最後に、訴訟を有利に展開できるのは、
「ロマンチスト」
ではありません。

徹頭徹尾、
「リアリスト」
であること。

それを忘れてはなりません。

どんなに辛く、感情を揺さぶられるような状況に置かれても、
「クール&ドライ」
に現実と向き合い、冷静に状況を
「俯瞰」
し、
「分析」
できた者のみが、このゲームを
「支配」
することができるのです。

これは、何度も繰り返しお伝えしておきたい、裁判に臨むすべての人にとっての、最重要の心構えです。

著:畑中鐵丸

00237_富裕層の思考は、情報選別とSNSとの距離感に表れる

情報は「誰から」「どこで」もらうかで、すべてが決まる

世の中には、貧乏人が飛びつくメディアと、そうではないメディアがあるのはご存じでしょうか。

私は、これらを明確に線引きしています。

「どのメディアを使うか」――これは、ただの好みの問題ではありません。

情報をどこから得るか。
誰とつながるか。
何を信じるか。

それは、あなたの判断を決め、決断を左右し、運命を分けます。

その選び方ひとつで、金持ちになる人と、貧乏の沼から抜け出せない人との分かれ道ができる。

これは、私の長年の経験から得た、揺るぎない確信です。

SNSという“貧乏人専用メディア”

LINE、Instagram、X(旧Twitter)、TikTok、YouTube、Facebook、Pinterest、LinkedIn、WhatsApp、Snapchat。

巷にあふれるこれらの
「なんちゃって情報インフラ」
は、私に言わせれば、すべてB2Cの貧乏人専用メディアです。

私が言う
「貧乏人」
とは、カネがないだけではありません。

情報弱者であり、思考停止に陥りやすい人々のことを指します。

彼らは、無料のSNSに群がり、そこで得られる情報を
「真実」
だと信じて疑いません。

発言が軽く、すぐに感情的になり、簡単に
「いいね」
を押したり、安っぽい
「共感」
を求めたりする。

それこそが、貧乏人の思考様式であり、行動様式だと私は考えます。

無料のSNSで流れる情報は、玉石混交です。

ごくまれに有用な情報もありますが、その大半は個人の感情や偏見に基づいた意見、あるいは裏付けのない噂話ばかりです。

それらを真に受けることで、誤った判断を下したり、無駄な時間を使ったりすることになる。

それどころか、根も葉もないデマに踊らされ、見えない敵の罠にはまることさえあるかもしれません。

これは、成功を志す者にとって、致命的です。

つまり、貧乏人専用メディアは、庶民を相手にするためのメディアであって(B2C、つまり企業が一般消費者向けに使うもの)、資産を守り、増やし、未来を動かす側の人間が情報収集や発信に使うべきものではないのです。

なぜなら、それらは情報が表面的であり、信頼性に乏しいからです。

これが、私のメディアポリシーです。

そう言うと、
「失礼だ」
「極端だ」
と反発されるかもしれません。

実際には、私の観察範囲では、これらを真剣に使っている“リーダー格の人間”に、いまだ出会ったことがありません。

たとえ炎上マーケティングでのし上がったように見える者でも、舞台裏をのぞけば
「本当の情報源」
はそこではない。

世の中の重要なことは、本や新聞には絶対に載っていません。

真実や、ビジネスの核心を突くような情報は、活字にはならないのです。

活字になった時点で、それはすでに過去の情報であり、誰もが知り得る
「公共の情報」
にすぎません。

それでは、競争優位性は築けません。

むしろ、そういう“薄っぺらい場所”で勝負している人間は、たいてい、何かを誤魔化しながら生きているのです。

貧乏人と金持ちの決定的な違い

情報の入り口を軽く見る人は、たいてい、お金も軽く扱います。

たとえば、
「どうでもいいことに時間を使う人」
「誰からでも情報をもらってしまう人」
は、結局、自分の判断基準がなくなる。

結果として、
「誰かの判断に振り回される人生」
になってしまうのです。

一方で、
「誰とだけつながるか」
を決めている人は、情報の精度が圧倒的に高くなる。

だからこそ、判断に迷わない。
迷わないから、動きが速い。
そして、速く動いた人間が、資産を押さえる。

この循環を回せるかどうかが、貧乏と金持ちの分かれ道なのです。

情報を選別する「嗅覚」を磨く

富裕層は、自らが動いて情報を掴みにいきます。

足で稼ぎ、耳で聞き、目で見て、五感で感じ取る。

そして、その情報を自らのフィルターにかけて、真贋を見極める
「嗅覚」
を磨いているのです。

彼らは、表面的な情報に惑わされず、奥にある本質を見抜く目を養っています。

一方で、貧乏人は、流れてくる情報をただ受け取るだけです。

自分で情報を探しに行こうとせず、与えられたものだけを消費する。

そこに、情報の質に対する意識はありません。

まさに、情報弱者です。

それは、やがて思考の停止へとつながり、自らの人生を他人に委ねるような生き方を招いてしまうでしょう。

重要な話は「外」でされている

では、資産家や経営者、権限を持った者たちは、どこで重要な判断を下すために必要な情報を取っているのか。

何を信じて動いているのか。

それは、スマホの画面の中ではなく、直接の
「人」
の中にあります。

正直に言いましょう。

重要な情報は、本にも新聞にも載りません。

いや、
「載せられない」
のです。

なぜか。

本当に大事な情報というのは、名前も出せず、証拠も残さず、空気のように流通するものだからです。

裁判所の証拠にも残らず、警察も動かず、記者も追わない。

そのかわり、知っている者と知らない者とで、まったく違う行動がとれる。

そうした情報は、
「会食の席」
で、あるいは
「現場の空気感」
で伝わります。

もっと言えば、
「この人がこう言った」
という、信頼に裏打ちされた“人伝(ひとづて)”でしか手に入らない。

電話と会食こそが“王道”

私にとって、信用できる情報インフラとは何か。

たった2つしかありません。

それは、携帯電話を介した直接の会話、そして面談や会食です。

これら
「直接的なコミュニケーション」
こそが、真の情報を得るための手段であり、信頼関係を築くための基盤になります。

相手の表情、声のトーン、話し方、そして言葉の裏に隠された意図。

これらはすべて、画面越しでは読み取れない、生きた情報です。

机上の空論ではなく、現実の事象に即した生きた情報に触れることこそが、思考の深さを生み、未来を洞察する力を育むのです。

あとのメディアは全部“オモチャ”です。

どれだけネットが発展しようが、AIが進化しようが、最後の最後に
「決める」
「動く」
「任せる」
場面では、絶対にこの2つしか使いません。

たとえば、ある案件のキーマンが
「直接話したい」
と言ってきたら、私は全予定を飛ばしてでも会いに行きます。

逆に、メッセージアプリやチャットツールでしか話せないような相手とは、基本、何もしません。

たとえ時代遅れと言われようが、
「人と人の間に漂う情報」
の強さに勝るものはない。

それが、私の信念であり、戦ってきた実務家としての結論です。

情報戦を勝ち抜くために

もし、あなたがこれから起業しようとしているなら、あるいは経営者として決断の重みと戦っているなら、

いちばん先にやるべきことは、
「どのメディアと距離を取るか」
を決めることです。

どこで情報を得て、どこで判断材料を受け取り、どこに“本当の答え”を探すのか。

その入り口を間違えた瞬間、すべてがズレはじめます。

情報は、命です。

情報は、資産です。

情報の選び方で、あなたの未来は決まります。

あなたは、どちらの側に立ちたいですか。

著:畑中鐵丸

00236_でっちあげDVと「住民票ブロック制度」の闇

日本には、
「先に泣いた者が勝つ」
という、まことに奇妙な世界が存在します。

これは比喩に過ぎないのでしょうか。

いいえ、断じてフィクションではありません。

むしろ、完全なリアリティを伴います。

家庭内の対立や、泥沼化した離婚紛争の現場では、先に
「DVを受けた」
と声高に訴えた側が、行政制度を、一方的に動かせる、そんな構造が存在するのです。

たとえば、
「DV支援措置」
というものがあります。

正式名称は
「住民基本台帳事務における支援措置」。

これは、巷で
「住民票ブロック」
とも呼ばれる制度です。

被害を申し出るだけで、相手の住民票取得をブロックできるという、仕組みです。

本人不在の「加害者」認定と行政の鉄壁

具体的に、どのようなことが起きるのか。

支援センターなどに
「DVを受けた」
と申し出れば、本人確認や事情聴取を経て、
「支援が必要」
と、判断されます。

すると、相手は、問答無用で
「DV加害者」
として扱われることになります。

自治体は、その加害者とされた人に対し、住民票や戸籍附票を渡さないよう、まるで門番のようにブロックをかけるのです。

驚くべきは、この時点で、加害者とされた側には、一切の確認も、通告もありません。

つまり、本人不在のまま、
「加害者」
としてのレッテルが貼られ、その恐るべき扱いがスタートするのです。

もちろん、そのこと自体は、制度の目的からして当然である、という理屈もあるでしょう。

被害が疑われるときには、何よりもまず、保護が最優先になされるべき、ということなのです。

それは、命と安全を守るために、社会が用意した緊急避難の枠組みです。

ところが、一度この措置が実行されると、加害者とされた側は、相手の住民票や戸籍附票を、永久に、いや、半永久的に取得できなくなります。

役所に出向いても、窓口で冷たく言い放たれるだけです。
「住民票はお出しできません」
「DV支援措置が取られております」

なぜならば、
「加害者による不当な目的の請求」
と自治体が見なし、その開示を、有無を言わさず拒絶するからです。

司法の判断すら覆せない「無敵カード」の現実

多くの場合、加害者とされた側がどれだけ説明を尽くしても、訂正や
「ブロック」
の解除はできません。

その解除には、原則として
「被害を訴えた側の同意」
が必要とされているからです。

しかし、もしそれが誤解や嘘だったらどうなるのか?
裁判で虚偽が認定され勝訴したら、ブロックは解除されるのか?

答えはNOです。

いったんブロックされてしまうと、仮にDVが存在しなかったとしても、申請の内容は嘘だと証明しても、裁判で勝訴したとしても、行政手続の中では、永遠に
「加害者」
のままです。

行政はオウム返しのように
「措置は措置です」
と言って、その処分を引っ込めることはありません。

その状態が、長く長く続くのです。

要するに、支援措置は、あくまでも保護を目的とした行政手続であり、司法判断の有無とは関係なく、どこまでも継続されます。

そして、その解除には、申請者本人の同意が、条件として必要とされているのです。

「加害者ラベル」がもたらす悲劇と逃げ切り

この制度によって、実際に起きている事態を挙げましょう。

・相手が住民票をブロックしたまま所在を隠す
・子どもを連れて引っ越し、住所を、徹底的に、知らせない
・面会交流や監護者指定の申立てが、事実上、不可能になる
・損害賠償請求の書類が送れず、手も足も出ない
・気づけば、法的主張のタイミングを逃している

加害者とされた側は、対話も交渉も封じられ、子に会えないまま、ただ時間だけを失っていくのです。

そして、記録も記憶も証拠も風化し、誰が真実を語っていたのかすら、検証不可能になるのです。

相手が意図的に連絡を絶っていた場合、そのまま“逃げ切り”が成立してしまうケースも、少なくありません。

まるで
「制度を使って逃げ切る」
ための、巧妙な戦術であるかのようにさえ、見えてしまうこともあります。

まさに、
「逃げ切り勝ちの構図」
としか言いようがありません。

司法の「無罪」も行政には届かない

行政は、自らその判断を修正する義務を負いません。

「制度上、対応できません」
「一度決定されたので変更できません」
これが現実です。

司法の結果は、行政の支援措置に、これっぽっちも反映されないのです。

今の制度は、裁判よりも早く、裁判よりも強く、
「加害者の烙印」
を貼ることができます。

しかも、その烙印には、
「消し方」
が、存在しないのです。

たとえるならば、こう言えるでしょう。

裁判所が
「無罪」
と判断を下しても、刑務所は
「うちはうち、そちらはそちら」
と嘯いて、鍵を、決して開けないような話である、と。

制度本来の理念と「私物化」の闇

制度の出発点は、まっとうです。

支援措置は、本来、被害を受けた方の安全を最優先に守る仕組みです。

それは、揺るぎない大前提であり、疑う余地はありません。

しかし、その一方で、制度が継続されることにより、もう一方の当事者にとっては“声を上げることすらできなくなる”状況が、厳として生まれることもあります。

「虚偽申告」
の余地があると、相手が逃げ切り勝ちする構図が、完全に、そして巧妙に、出来上がってしまうのです。

「確認なき申告」
「訂正なき継続」
「異議申立の手段の欠如」
が重なると、加害者とされた者は、ただただ泣き寝入りするしかありません。

支援措置は、使いようによっては、嘘をついた人が逃げ切るためのインフラになっている一面もあるのです。

行政と制度を味方につけて、子どもを囲い込み、相手を社会的に抹消し、親としての役割まで奪って、最後に
「あなたとは会わせません」
と、にべもなく終わらせることができるのです。

「制度の私物化」をミエル化せよ

実際、制度上は、加害者とされる側が
「支援措置を解除せよ」
と、直接求める明確な手段は、存在しません。

支援措置の解除は、原則として
「申請者の同意」
が必要であり、あくまで申出人の意思に委ねられています。

加害者とされる側が、どれだけ裁判に勝とうが、真実がどうであろうが、申請者が
「解除しません」
と言えば、それで終わりなのです。

いったん貼られた
「加害者ラベル」
は、司法の洗剤では、決して落ちません。

漂白もできません。

どこまでも肌に染みこむ、制度という名のタトゥーなのです。

実務上、打てる手は限られているが…

では、実務上、この理不尽な状況にどう対応するのか。

残念ながら、取れる手段は、そう多くはなく、冷静に、淡々と、粛々と、動くしかありません。

あの手この手、奥の手、禁じ手、寝技、小技、反則技、全てを駆使する覚悟が必要です。

どれも“魔法の杖”にはなりません。

ただ、唯一できるとすれば、
「逃げた側が、制度を“私物化”している構図は、きちんとミエル化する」
ということです。

これを言語化し、文書化し、フォーマル化することです。

1 家庭裁判所経由で送達ルートを探る

たとえば、監護者指定の審判や、面会交流の調停を通じて、裁判所が送達を肩代わりする仕組みがあります。
裁判所を経由すれば、相手の住所を直接知らずとも、訴訟が進むケースもあるのです。
これは、まさに突破口となり得るでしょう。

2 損害賠償請求の準備

虚偽申告によって社会的信用を傷つけられた場合、不法行為に基づく損害賠償請求も視野に入ります。
ただし、「知ったときから2年」という時効の「2年ルール」には、細心の注意が必要です。
油断は禁物なのです。

3 証拠と経過を記録に残す

裁判での主張は、「過去の積み重ね」で成立します。
どのような対応をしてきたか、相手の対応がどうであったか。
支援措置の長期化が不合理であることを証明するには、経緯の記録と、誠実な交渉履歴が、何よりも強力な武器となります。
全てを記録にミエル化し、カタチ化しておくのです。

制度の盲点と、問われるべき正義

本稿は、制度そのものを否定するものではありません。

真の被害者を守るため、支援措置が必要なのは間違いありません。

しかし、どんな制度も、
「運用の盲点」
があれば、そこを突かれて悪用されるのが、この世の常です。

「DV支援措置」
という、誰もが正義だと思いがちな制度。

そこに“嘘”と“時間”が混ざると、真面目に生きてきた側が、じわじわと、しかし確実に、詰んでいく。

制度設計上の“片方向性”が、時に、取り返しのつかない不均衡を生み出してしまうことは、残念ながら否めない、というのが現実なのです。

著:畑中鐵丸

00235_知ってるだけでは足りない_「知ってる人」がリスクになる

「……いや、それ、もう知ってるから」
そんな顔をした人が、会議の中にひとりは必ずいます。
すべてをわかっているつもりの表情です。

新しい提案にも、
「うーん、できますかねえ」
「まぁ、だいたい予想はつきますよね」
と、どこか冷ややかに反応します。

何かを指摘されても、先回りして反論するような態度を見せます。

こうした“わかってる人”が、じつは一番やっかいなのです。

なぜでしょうか。

一見すると、非常に優秀に見えます。

しかし、動きません。

伝えませんし、巻き込みません。

もちろん、仕掛けもしません。

要するに、組織の中で、変化を嫌悪し、“何も変えない存在”なのです。

それどころか、結果として、組織の風通しを悪くし、連携を妨げ、やる気を失わせ、周囲を萎縮させてしまいます。

気がつけば、“足を引っぱる存在”になっていて、いつのまにか
「邪魔な存在」
として扱われてしまう。

それは、皮肉な現実です。

何も言わない人が、最大の“変化阻害要因” 

知っている人は、知らず知らずのうちに心のどこかで、
「こんなこと、いまさら説明しなくてもいいだろう」
「誰かがやってくれるだろう」
「言わなくても、伝わるだろう」
「誰かが気づいて軌道修正してくれるだろう」
と考えているのかもしれません。

しかし、知識というのは、
「共有」され、
「伝達」され、
「仕組み」に落とし込まれて、
はじめて組織の中で意味を持ちます。

自分の中にだけある知識は、ただの独りよがりの宝箱にすぎません。

さらに悪いことに、こうした“わかってる人”ほど、
「失敗しないこと」
を最優先します。

だからこそ、リスクを避けようとして沈黙するのです。

黙っているだけの人は、中立でも安全でもありません。

むしろ、何も言わないことで、組織のリズムを壊し、変化の芽を摘んでしまいます。

結局のところ、組織にとっては、
「動かないブレーキ」
となってしまうのです。 

「知識はエンジン。動かすのに必要な燃料とドライバーとは」 

知識は、それ自体は力ではありません。

知識を「伝え」、
他者に「わかる」ように説明し、
動かす人を「巻き込む」ことで、
ようやく“力”として機能します。

いわば、知識は
「エンジン」
でしかなく、それを動かすためには
「燃料」

「ドライバー」
が必要なのです。

この
「燃料」
にあたるのが、発信力と巻き込み力です。

そして
「ドライバー」
にあたるのは、相手の動きを読む力や、必要なタイミングで仕掛ける感覚です。

たとえば、法務部門に優秀な専門家がいたとしても、その人が
「これはリスクです」
と繰り返すだけでは、現場には届きません。

なぜなら、現場の人が知りたいのは
「どうすればリスクを避けられるのか」
であり、
「どのタイミングで」
「どんなステップを踏めば安全か」
という、具体的な設計図だからです。

つまり、
「正しさ」
よりも、
「翻訳と設計」
の力が問われるのです。

知識を使って、現場にとって意味のある形にミエル化し、現実的な行動のカタチに落とし込む。

動かせる人は、“伝えるだけ”では終わりません。

現場に合わせて翻訳し、
「動けるカタチ」
に仕立て直します。

人は正しさでは動かない。人を動かすには仕掛けがいる 

「正しいこと」
は、ときとして、反感を買います。

特に、相手がその“正しさ”にまだ気づいていないときは、なおさらです。

だからこそ、動かせる人は、正しさを押しつけたりしません。

相手に「気づかせ」、
自然と「動きたくなる」ように
仕掛けていくのです。

たとえば、次のような手法があります。

・あえて自分の意見を一歩引いた表現で語る
・数字や具体例を見せて、相手に納得してもらう
・他部署の“声”を先に紹介し、自分の意見に権威性を持たせる
・最初は小さな変化を提案し、相手の抵抗感をやわらげる

つまり、あの手、この手、奥の手を総動員して、相手の頭と心を動かしていくのです。

この
「一歩引いた仕掛け」
ができる人こそ、本当に組織を変える人です。

知ってる人”から“動かせる人”へ

これからのビジネスパーソンに求められるのは、
「知っている人」
ではなく、
「動かせる人」
です。

知っていることを、言語化し、翻訳し、伝え、巻き込み、仕掛け、動かす。

そのプロセスを経てはじめて、知識は価値になります。

そして、その
「動かす力」こそが、
「影響力」となり、
「信用力」となり、
最終的にキャリアを押し上げていくのです。

「知っている」
だけでは、通用しません。

その一歩は、自分の知識を
「どう伝えるか」、
そして、誰を巻き込み、誰と連携すれば現場が動くのかを考えるところから始まります。

知識と発信力。
知識と連携力。
知識と仕掛け力。

この掛け算ができる人こそ、これからの組織を変え、未来を動かしていくのです。

著:畑中鐵丸