契約交渉において、絶対にやってはいけないミスの1つが、
「修正履歴(変更履歴)」
が残ったままのドラフトを相手に送ってしまうことです。
それは単なる体裁の問題ではなく、こちらの
「譲歩の限界」
や
「戦略」
という“手の内”を全てさらけ出す行為に他なりません。
本記事では、営業担当者の勇み足によって起きた
「誤送信」
の事例をもとに、履歴情報の持つ意味と恐ろしさ、そして万が一送ってしまった場合のリカバリー思考について解説します。
<事例/質問>
先生、頭を抱えております。至急の火消しが必要な事案です。
当社(仮称:シリウス・テック)は、大手取引先(仮称:オリオン商事)との間で、新規の業務提携契約の交渉を進めていました。
私(経営管理部)と法務担当で、契約書のドラフトを揉んでいたところです。
社内検討用として、
「ここは譲歩可能」
「ここは絶対死守」
「相手が難色を示したら削除してもよい」
といったコメントや、修正の過程(削除線や追記)が残ったままのファイルを、営業担当の部長に共有していました。
ところが、功を焦った営業部長が、
「社内調整が終わったなら、早く先方にボールを投げたい」
と判断し、私たちが
「清書(クリーンコピー)」
にする前の、修正履歴とコメントがベッタリ残ったままのワードファイルを、そのままオリオン商事にメールで送ってしまったのです。
先ほど、先方から
「御社の社内での議論が大変よく分かりました(笑)」
という、皮肉たっぷりの返信が来て、顔面蒼白になっています。
こちらの
「手の内」
が全てバレてしまった状態です。
この絶望的な状況を、どうリカバリーすればよいでしょうか?
<弁護士畑中鐵丸の回答・アドバイス・指南>
それは、背筋が凍るようなお話ですね。
怪談話よりもよほど心臓に悪いです。
結論から申し上げますと、これは単なるミスではなく、交渉における
「自爆テロ」
に近い行為です。
修正履歴やコメントが残った契約書を送るというのは、
「ポーカーの最中に、自分の手札をテーブルの上に広げて見せながら、『さあ、賭けましょう』と言っている」
のと同じだからです。
あるいは、
「値札がついたままのプレゼントを恋人に渡して、『これ、実は半額セールで買ったんだ』というレシートまで同封してしまった」
ようなものです。
ムードもへったくれもありませんし、相手に対する敬意も戦略も、すべてが台無しです。
営業担当者の勇み足が招いたこの惨状について、その
「毒性」
と
「事後処理」
を解説しましょう。
1 「履歴」は「思考のプロセス」そのもの
まず、営業部の方々に理解していただきたいのは、契約書の
「修正履歴」
や
「コメント」
は、単なる文字の訂正ではないということです。
そこには、
「ここは強気に書いてみたけど、本当は自信がない」
「この条項は、相手にバレなければラッキー」
「最悪、ここは妥協してもいいボトムライン(譲歩の底値)」
といった、こちらの
「欲望」
と
「恐怖」
と
「下心」
が、生々しく記録されているのです。
これを相手に見せるということは、服を脱いで
「心のヌード」
をさらけ出すようなものです。
相手(オリオン商事)は、今ごろ御社のドラフトを見て、
「なるほど、シリウスさんは、ここの条項は『削除してもよい』と考えているのか。ならば、遠慮なく削除を要求しよう」
と、ニヤニヤしながら赤ワインでも飲んでいることでしょう。
交渉において、これほど不利な状況はありません。
2 「完成品」しか客に出してはいけない
営業の方は
「スピード」
を重視するあまり、
「素材」
と
「料理」
の区別がつかなくなることがあります。
法務や管理部門がドラフトを練っている段階は、まだ
「厨房で食材を切ったり、煮込んだりしている最中」
です。
修正履歴付きのファイルは、野菜の皮や魚の骨が散らばっている
「調理途中の鍋」
そのものです。
それをお客様(取引先)のテーブルに、
「はい、お待ち!」
と出すレストランがどこにありますか?
お客様に出すのは、きれいに盛り付けられ、不要なものが取り除かれた
「完成品(清書版)」
でなければなりません。
これは、ビジネスマナー以前の、
「プロとしての美学」
の問題です。
3 覆水盆に返らず、ならば「開き直り」の美学を
さて、やってしまったことは変えられません。
デジタルデータは、一度送れば回収不可能です。
「見なかったことにしてください」
と言っても、人間の脳は
「見てはいけないもの」
ほど鮮明に記憶するものです。
ここからのリカバリー策は2つです。
【手順1:即座に清書版を送り直す】
「先ほどのファイルは社内検討用のドラフトであり、誤送信でした。こちらの『確定版』に差し替えてご検討ください」
と、事務的に、かつ迅速に清書版(履歴を全て承諾し、コメントを削除したクリーンコピー)を送り直します。
これは、形式上の体裁を整えるためです。
【手順2:手の内がバレたことを前提に、腹を割る】
ここからが重要です。
小手先の言い訳は通用しません。
相手はこちらの
「譲歩ライン」
を知ってしまっているのですから、従来の駆け引きは不可能です。
ならば、いっそ、
「お恥ずかしいところをお見せしました。ご覧の通り、弊社としてはこの点が懸案事項であり、社内でもギリギリの議論をしております。ここまで腹を割ってしまった以上、御社とも本音ベースで、建設的な着地を探らせていただけませんか?」
と、
「あえて裸になったふりをして、相手の懐に飛び込む」
という、捨て身の戦法に切り替えるのです。
「災い転じて福となす」
とは言いませんが、
「恥をかいた分、相手の情に訴えて、実利を取る」
くらいの図太さがなければ、この局面は乗り切れません。
そして、今回の営業部長には、
「契約書は『手紙』ではなく『武器』です。安全装置(履歴の削除)を確認せずに発砲すると、自分たちが死にますよ」
と、厳重に釘を刺しておくことをお勧めします。
※本記事は、実際の法律相談や契約実務を参考にしつつ、プライバシー保護の観点から事実関係に大幅な加工・修正を加えたフィクション(架空の事例)です。
記事の内容は、一般的な法解釈や交渉・実務上のポイントを解説するものであり、個別の事案における具体的解決や法的効果を保証するものではありません。
ご自身の抱える法的トラブルについては、具体的な事情により法的判断が異なりますので、必ず弁護士等の専門家にご相談ください。
著:畑中鐵丸