「バカ」「アホ」「低能」
他者の知的水準の低さを貶す言葉はたくさんあります。
ただ、この
「バカ」「アホ」「低能」
といった抽象的な評価概念を一方的も押し付けられても、言われた方は非常に困ります。
「バカ」「アホ」「低能」
というのは、最終評価であり、三段論法においては、いくつかの前提を経由してはじめて導かれるものです。
すなわち、
誰かを「バカ」と評価するためには、
「本来、こう考えるべき、こう答えるべき」という大前提があり、
「にもかかわらず、こいつは、こう考えた、こう答えた」という小前提があり、
「だから、こいつはバカだ」という結論としての評価が下される、
という論理構造が、前置・先行されるているはずです。
こういう評価の前提たる論理を経由せず、いきなり誰かを
「バカ」
と呼称するのは、暴力的で非知的な差別ないし侮辱であり、逆に
「理由もなく他社を『バカ』と呼称した人間」
の方が、その教養や品位が問われることになります。
「バカ」
という結論や評価帰結自体には、あまりさしたる意味はありません。
むしろ、
「本来、どうすべきであった」という大前提や、
「にもかかわらず、こんなことをやらかした、こうすべきことをしなかった」という小前提
の方がはるかに大事です。
すなわち、算数の問題を解けずに0点取った人間をバカと評価し結論づけ、バカ呼ばわりすることよりも、バカという結論・評価を導いたいくつかの前提事情、
「三角形の内角の和は180度と考えるべきところ、あなたは、三角形の内角の和が360度と考えていた」
ということを確認することの方が、バカを治し、世の中からバカを減らすことに貢献しますし、社会的にも尊い意義があります。
子供や後輩や部下をバカ呼ばわりする前に、
「本来、どうすべきであった」という大前提や、
「にもかかわらず、すべきことをしなかった」という小前提、
をお互い確認していきましょう。
そうすると、
「心あるバカ」
は、素直に愚かさを認め、バカを治しますし、こういう社会的意義ある運動が広がれば、この世からどんどんバカが減っていき、いずれ、
「バカというバカが完全に駆逐された、素晴らしい社会」
が訪れるようになるでしょう。
ただ、世にも恐ろしい存在を忘れてはいけません。
「バカなことを考えたり、バカなことをしたが、その根源的原因を指摘されてもなお、愚かさを認めず、自らの愚かさを矯正しない、筋金入りの、ハードコア・バカ」
の存在です。
こういう方々は、バカを認めないし、すっとぼけますし、バカを指摘されたら逆ギレして反抗し、
「自分のせいではない、親が悪い、教師が悪い、社会が悪い」
と外罰的非難をして自己保存を試みます。
過剰なプライドのため、負けを素直に認められず、最後まで自分が正しかった、と頑強に主張し続ける、年齢に関係なく存在する(ご高齢の方のほうが多いかもしれません)、正真正銘のバカのことです。
ただ、ありがたいことに、こういう
「本物の、筋金入りの、ハードコア・バカ」
は、どこかで問題を起こし、社会が勝手に駆逐・排除してくれます。
そもそも、現代経済社会の本質的構造である
「市場における自由な競争経済を前提とした資本主義社会」
においては、
「売れないのは客が悪い、市場が悪い」
と逆ギレするような人間は、自然に淘汰され、社会の底辺に叩き落とされるような仕組を内在しております。
したがって、このハードコア・バカは、無理に駆逐しなくても、社会の仕組によって自然に淘汰されるのを待てばいいだけです。
むしろ、 バカを認めないし、すっとぼけ、バカを指摘されても逆ギレして反抗する、
「自分のせいではない、親が悪い、教師が悪い、社会が悪い」
と外罰的非難をして自己保存を試みる、そういった行動属性を有する、
「バカなことを考えたり、バカなことをし、その根源的原因を指摘されてもなお、愚かさを認めず、自らの愚かさを矯正しない、筋金入りの、ハードコア・バカ」
に遭遇した場合の、安全保障上の関係構築が重要です。
そういう方々に遭遇したら、
1 全速力で逃げて距離を置くこと
それと、
2 目が合ったり、触れ合ったりしてしまう場合でも、決して「バカ」にしないこと
です。
このことは、人生の安全保障上、絶対的に必要だと考えます。