最近、いじめ問題の報道が目につきます。
また、テレビなどで、「いじめ問題をどう解決するか」など討論される場面も多く見受けられます。
報道や議論は多いに結構なのですが、「いじめ」という便利なようで実体の希薄な概念を振り回している限り、問題は永遠に解決しないと思います。
「いじめ」という語感からは、「先生が気づいて注意すればすぐに解決するような、生徒間のちょっとしたいざこざ」という印象を受けます。
しかし、いじめの内容と質は、時代の変遷とともに、負の方向で驚異的な進歩を遂げています。
現代「いじめ」と称されるものは、未成年による毀棄隠匿行為、窃盗行為、名誉棄損行為、侮辱行為、暴行行為、傷害行為、脅迫行為、恐喝行為、強制猥褻行為、強盗行為、強姦行為、強盗強姦行為等です。
未成年者が関与するこれら犯罪行為については、加害者と被害者が同一教育機関に属する生徒である限り、すべて「いじめ」と呼称することがルール化されているようであり、状況を正確に表現しようとしても、犯罪用語の使用はよくわからない理由で御法度とされます。
いうまでもなく、「いじめ」といわれるものの実体である前記の各行為は、加害者と被害者が同一教育機関に属するか否かに関係なく、すべて悪質な犯罪です。
当然ながら、犯罪は教師の解決能力を超えた問題であり、本来、捜査機関による捜査と裁判所の判断を経て、法務省所轄の施設で矯正される等(保護という名の監視を含む)べきものです。
教育サービスの提供者に過ぎない教師が、犯罪行為を捜査し、解決し、犯罪者の矯正に責任を負うなどといったことは、できるはずもなく、また、してはいけないものです。
「できないこと」を「できない」と正直にいうのが恥と考えた教師達は、いつからか、「当校にいじめなど存在しない」等と驚くべき強弁をしはじめ、加害者と事後共犯的立場に立ち、被害者による告発を妨害し、犯行隠滅に加担するようになってきています。
マスコミも、「隠蔽された事実や隠蔽されようとしている事実を正しく伝える」という本来の役割を放棄し、いじめ問題に関しては、加害者に配慮した印象操作に進んで協力するようになっています。
例えば、ある中学校で恐喝事件が発生しても、マスコミは、事実報道の役割を放棄し、自主的に「○○中学で金銭要求のイジメが発生した」等と言い換え、事態の糊塗隠蔽に加担するようになっています。
子供は、我々大人が想像する以上にクレバーであり、「罪を犯しても、責任を追及されないし、教師とマスコミが隠蔽工作に積極的に協力してくれる」という状況を正確に理解しています。
こういう状況であれば、誰もが加害者の立場にたつ選択を行うのは自然かつ合理的であり、子供達も、状況に適応した賢い選択と行動をしているにすぎません。
ところで、物事の解決は、状況の客観的評価が必須の前提となります。
いじめ問題を解決するためには、まず、
「いじめと呼ばれるものは犯罪行為である」
「犯罪行為は、生徒間において生じたものであるか否かを問わず、教育問題ではなく、法律問題である」
という事実を冷静に受け止めなければなりません。 このような観点に立ち、「いじめ」問題の解決の第一歩として、教師は、自らの能力の限界を認識して犯罪解決から手を引いて事件を速やかに司直に委ね、マスコミも、「いじめ」等という曖昧な表現の安易な使用をやめ、「犯罪」は「犯罪」として正確な事実報道に努め、正しい議論のための正しい情報の提供に努めることを始めるべきだと思います。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.003、「ポリスマガジン」誌、2007年11月号(2007年11月20日発売)
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