00028_日本の食文化のレベルが世界最高水準である件について_20100420

ずいぶん前になりましたが、ミシュラン(正式にはミシュランガイド)が日本版を出版することとなった際、日本のレストランや料理屋が、フランス人により採点されるようになりました。

ただ、出版されたものを見てみると、ミシュランに掲載されていたり、高い評価を得ている店には目新しいところはまったくなく、
「誰でも知っているところ」
「高いからおいしいのは当たり前」
といったところばかりで、ミシュランの提供情報にまったく価値が感じられませんでした。

ところで、採点は、「情報や知識の面で優位にあり、評価する能力を有する者」が、劣位な者に対して行うものです。

私個人としては、ミシュランが日本の食事情あるいは世界の食文化一般にどれほどの情報や知識を有しているか不明であり、評価者に評価能力が備わっているかどうか、大いに疑問を感じます。

出張や旅行で海外に行っていつも感じるのは、「どこの国に行こうが、日本より食事が美味いところはない」という世界の現実です。

アメリカなどは論外ですが、中国やフランスなどそこそこ食文化の歴史がある国についても、「日本(というか、東京)の中華料理店やフランス料理店の方が細やかで気が利いた味で、全体としての美味しさとしては確実に優れている」
という事実に気付かされます。

昔、インドに行ったとき、日本のものとは似ても似つかぬカレーの不味さに閉口しましたが、その後、実家の近くに住んでいたパキスタンからの留学生が帰国する際、
「こんな美味しいものはない」
と言って日本製のカレールーを大量に買い込んでいったという話を聞きました。

小さいころからある
「インド人もびっくり」
というカレールーのキャッチコピーは明らかな誇大広告と思っていましたが、
「本場インド人もビックリするくらい美味しい」
というのはどうやら、誇張のない、極めて客観性ある事実のようです。

また、私の知人の体験談ですが、彼が中国に長期間出張することになったとき、日本の中華料理とは比べようもない不味い料理に閉口する日々を送っていました。

ところがあるとき、北京で、地味ながら非常に美味しい料理店を見つけたそうです。

特に餃子は絶品で、近隣のレベルをはるかに超えた美味しさだったそうです。

店のオーナー兼料理長の女性が日本語を少ししゃべれるとのことで、餃子の味を褒めたところ、オーナーは

「ウチの餃子は北京で一番だよ!美味しいのは当たり前だよ!わざわざ、餃子の本場、宇都宮に行って5年も修行したんだから!」

と胸を張って答えたそうです。

このように、日本の食文化が世界の他の国を圧するほど優位を保っており、オリジナルものを取り入れ、これをはるかに凌駕するものを創造していく力があることは、ほぼ間違いないと思います。

その意味では、日本の食文化はフランスのそれをすでに上回っており、フランスに評価なりご指導をすることはあっても、評価されるような立場にはないのではないか、とさえ思うのです。

最後に、塩野七生著「サイレント・マイノリティ」の中の一節をご紹介します。

ミシュランの評価に、日本の料理評論家や石原慎太郎が一斉に反発し、ミシュランの評価自体を酷評したそうですが、彼らが言いたかったのはこの種のことのような気がします。

——–モラヴィア(筆者注・ファシズム体制下で検閲を受けたイタリアの小説家)はいう。自分の作品が、芸術的に下手である、といわれるのならわかる。それも、検閲する人々に、そういう方面をわかる感覚の持主がいて、その人たちによって自分の作品が反対されるのならば、まだ我慢ができる。ところがそうではない。委員たちのほとんどは、文学的才能もないくせに文学をこころざしたことのある人であり、しかも、その世界では成功できなくて、現在は中学の教師でもしている人々なのだ。彼らが自分の作品にケチをつけてくる。彼らの月並な頭で判断して、ケチをつけてくる。これにはなんとしても我慢がならなかったのだそうだ。——–

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.032、「ポリスマガジン」誌、2010年4月号(2010年4月20日発売)

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