字が読めない人のことを文盲といいます。
文明社会においては、学校教育制度が普及し、この文盲は駆逐され、
「字が読めない知能水準の方々」
の存在は一定の文明をもつ社会においては完全に撲滅できた、と考えられてきました。
ところが、わが国を始めとした先進諸国で、新たなタイプの文盲が静かに増えている、という話があるようです。
機能的非識字(機能的文盲)とは、
文字自体を読むことはできても、文章の意味や内容が理解できない状態、
と定義されます。
「言葉はわかっても、話が通じない、特異な知能水準の方々」
という意味なんでしょうが、そんなに珍しいとは思いません。
経験上の認識として、
「言葉はなんとなく通じているが、話はまったく通じない(し、気持ちや感受性は全く共有できない)」方々
は、社会には相当はびこっていると思います。
実際、かなり年を取った方でも、知ったかぶり、知っているつもり、で、まったく誤解したまま改善もせず矯正もされず、死ぬまで治らない、という方、結構います。
上の世代のオジサマ方が、思いっきり誤解した内容を、ペラペラ喋っておられる状況に遭遇したりもします。
そんな時、私が丁寧に間違いを指摘し、矯正して差し上げると、たいてい逆ギレされてしまいます。
ですので、知ったかぶりや知ったつもりや機能的非識字の方で、ある程度ご高齢の方を、無理に矯正して差し上げようとすると、却って身に危険が生じかねません。
私も、少し前に、
「口は災いのもと」
「余計な一言は言わない」
という社会の不文律の意味するところがわかるようになりましたので、最近では、この種の矯正活動は控えるようにしてます。
ところで、この、 機能的非識字(機能的文盲)の増殖ですが、社会問題とされているようです。
すなわち、
「結果として、機能的非識字者は契約書の理解や、書籍・新聞記事の読解が完全にできておらず、社会や政治への参加に支障をきたしていたり、酷い場合には日常生活にも問題が生じている。さらに、周りの人間のみならず、当の本人すらも見かけの識字能力に問題がないがために、機能的非識字によって支障が出ているということが把握されない(自覚していない)という問題を抱え、識字率の高い先進国であっても一定以上の機能的非識字者が存在することが指摘されている」
という形で、改善すべき社会課題として語られているようです。
しかし、この改善の動きは、努力してどうにかなるものではなく、改善できず、無残なまでの失敗に終わるでしょう。
一般の方々は、新聞は読みません。
せいぜい見るのは見出しくらい。
テレビすら
「長すぎる」
と忌避し、3分くらいの動画をyoutubeで見るのが限界です。
ある程度の思想や概念を伝える長い文章は、機能的非識字の方々の平均的知能と平均的忍耐力を大幅に超えるているようで、ネットで一定の長さの文章を掲載しても、まず読まれることはなく、大多数の方々にとって、ツイッターに収まる程度の文章しか伝わりません。
文章が届けばまだいい方です。
文字や文章すら忌避するインスタグラムやティックトック利用層には、思想内容を文章で伝えることはできず、写真や動画しか受付ません。
ひょっとしたら、世界の文明レベルは、象形文字の時代に退嬰しはじめているのかもしれません。
新聞を読まず、テレビしか観ない子供や平均的日本人に、
「なぜ、新聞を読まない。新聞を読まずにバカになったことは嘆かわしいことだ。新聞を読まなくなったバカな連中が、再び新聞を読めるようになるよう、再教育をすべきだ」
ということを主張する人間がいたとしたら、当該主張者の方が、ホンモノのアホか狂人でしょう。
「どんな知的水準であれ、それなりに社会生活が営める」
「バカでも抹殺されず、普通に生かされる」
ということこそが、社会の進歩であり、文明化です。
昔は、社会が貧しかったので、字が読めない人間は、社会で生きていくことはできませんでした。
字が読めない、文書が読めない、文書が書けない人間が、そのまま社会に出たら、パワハラにあって、罵声を浴びせられ、矯正されました。
一昔前の日本は、そんな、余裕のない、遅れた、未開で野蛮な社会でした。
ところが、現代は、人手不足ということもありますが、社会が進んだおかげで、機能的非識字であれ、社会で普通に暮らせるよにうになりました。
会社で、新入社員が、
「文章が読めない」
「文章が書けない」
からといって、その程度のことでガミガミ怒り出す、狭量で人権感覚がない人間は、逆に、パワハラ上司として会社や社会から排除されます。
社会にバカがはびこったら、バカを減らすより、バカに併せて社会システムを変えるべきです。
ポリシーと現実がぶつかったらどうするか?
「ポリシーをもって現実を変える」
のは、知能未熟なバカのやることです。
知的な大人は、
「現実に併せて、ポリシーの方を変える」
ということで課題解決します。
一度増えたバカは減りません。それどころか、ドブネズミやウィルスのように増殖していきます。
バカの増殖過程をみていきたいと思います。
子供は親をみて、これをロールモデルとして成長していきます。
バカな親が生んだ子供は、バカな親をみて、これをロールモデルとして成長していきます。
ここに、「本を一切読まない人間」がいたとします。
「本を一切読まない人間」は、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて人生を過ごします。
実際、本屋がない、あるいは少ない地域であっても、国道沿いには、飲食店や居酒屋、ゲームソフトの販売店やビデオ販売店が乱立していますので、まともに本を読まなくても、普通に生きていくことは可能です。
飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間は、やがて親になり、子供を教育する立場につきます。
しかし、「飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間」が子供たちに本の価値を伝えることはできるはずもなく、こうして、「本を一切読まない人間」は拡大再生産されていきます。
こうして世代更新すると、バカはマジョリティになります。
マジョリティになったバカはパワーを持っています。
「一人の馬鹿は、一人の馬鹿である。二人の馬鹿は、二人の馬鹿である。一万人の馬鹿は、“歴史的な 力”である」
これは、日本一の毒舌女性インテリ、塩野七生が『サイレント・マイノリティ』(新潮社、1993年 、163頁)で引用していた一文ですが、
「馬鹿を馬鹿にする恐ろしさ」
と
「増殖してしまった馬鹿に対する、安全保障上の対処哲学」
が凝縮されています。
「小賢しい正しさ」
は、
「数の結束とパワーをもち、増殖を続けるバカ」
の大きな声には、決して敵いません。
「社会において増殖し、一定の数にいたり、もはやパワーをもった機能的文盲」
を改善や矯正しようとしたり、駆逐しようとする努力は、無駄に終わるでしょう。
バカチョンカメラ、漫画やアニメ、交通標識、ピクトグラム。
日本では、
「増殖し、マジョリティとなったバカ」
と向き合ったり、矯正したりしようとせず、
「知能水準は期待できないし、我慢もしない」
ことを前提として、そんな方々でも、容易に理解し、簡単に扱える様々なツールやシステムを開発してきました。
現段階では、機能的文盲が増えつつある、という程度の話ですが、
「新聞からテレビへ、テレビからyoutubeへ」
「ネット記事からツイッターへ、ツイッターからインスタグラムやティックトックへ」
という
「文字によるコミュニケーション文化の後退」
のトレンドをみる限り、機能的文盲どころか、そのうち、ホンモノの文盲も増殖しはじめ、文盲がマジョリティとなり、存在感とパワーを持ち始める日が来るかもしれません。
機能的文盲が増えたなら、機能的文盲を改善・駆逐するより、
「機能的文盲のレベルに合わせた、咀嚼に咀嚼を重ね、字が嫌いで、我慢も嫌いなマジョリティでも、一瞬で判るような話の仕方」
をすべきであり、そのような咀嚼が困難な難しい話を機能的文盲の方にすること自体、控えるべきです。
機能的文盲のみならず、さらにホンモノの文盲が増えたなら、字を使わず、写真や動画や象形文字を使って、思想内容を伝えるべきです。
それが、正しい社会のあり方です。
でも、私個人としては、自分や自分の周りの人間には、
「機能的文盲にならないようしっかりと知的鍛錬を怠るな」
という教育や指導を続けるつもりです。
バカが嫌い、とか、バカになりたくない、とか、そんな無礼な理由ではありません。
単なるマイノリティー指向の天の邪鬼ゆえです。
え?
話が長いし、マジョリティをバカにしているって?
大丈夫です。
私がするような、こんな長ったらしい話、機能的非識字の方は、どうせ、わかりませんし、読みもしませんし、興味すら持たないでしょうから。
自分もその「機能的識字障害」に該当するのだろうかと心配になり、この記事を見つけて一気に読み終え、ホッとしました。
ひょっとしたら、世界の文明レベルは、象形文字の時代に退嬰しはじめているのかもしれません。
本当にそうでしょうか?
フリン効果はご存じでしょうか。
流動性知能と結晶化知能(英語版)の両方のテストスコアの大幅かつ長期にわたる上昇傾向のことを指す現象の事です。
つまり、どの時代も若い世代の方が知能指数が高いという統計結果になります。
これは、かなり信憑性の高い仮説になります。少なくとも今まで完全に否定する反証はありません。
ここで一つ仮説をたててみます。上記知能指数検査には文章読解も含まれています。しかし、そのスコアも年々増加している。矛盾しますね。
もしかしたら、機能的非識字という概念が新しく登場したので、機能的非識字に該当していると判断される人が増えているのかもしれませんね。