こういう寓話があります。
ある国では奴隷制度を採用していました。奴隷階級の者は、土地に縛りつけられ、差別され、農作業や家事を手伝わされる毎日でした。もちろん、奴隷に自由はありません。
とはいえ、あまり過酷な労働を課すと、奴隷も死んでしまいます。
支配階級からすると、奴隷も機械も同じですから、オーバーヒートするまで使い続けた結果壊してしまっては、大事な資産を失うことになります。
特に、難しい作業をさせる奴隷は、ある程度教育や訓練が必要です。
奴隷への教育や訓練は投資と同じです。高額の投資をした奴隷は、チューンナップした高級車と同じようなものですから、支配階級も雑には扱わず、非常に丁寧に扱い、長く愛用します。
奴隷には自由はありませんでしたが、かといって、病気や怪我をさせられるわけではなく、「普通に暮らせる」といえば「普通に暮らせる」毎日でした。
あるとき、若い王子が父の後を継いで王位につきました。
新しい王は、若いころ奴隷制を廃止した国に留学した経験があり、留学先の進んだ社会の様子をみていたことから、この国の奴隷制度を非常に遅れた制度と考えていました。
新しい王は、自由が与えられない奴隷たちを不憫に思い、奴隷解放を宣言します。
しかし、奴隷解放に対して猛烈な反対の声が上がりました。
反対をしたのは、奴隷たちでした。
新しい王に対し、
「今までご主人様のところで仕事と生活が保障されていた。お前が余計なことをしてくれたおかげで、明日からの生活の展望がなくなり、路頭に迷ってしまうことになるじゃないか。早く奴隷制度を復活させろ」
と。
ブラックな笑いを誘う寓話ですが、私は奴隷制維持を望んだ奴隷達は非常に賢明であると思います。
「自由」というのは「自由」を使いこなせる人間にとっては非常に価値のあるものですが、今まで「自由」というものを知らず、「自由」を使いこなす自信のない人間にとっては、厳しく、凶暴な理念です。
「自由」を使いこなすには、
・創造的知性と圧倒的な情報量、
・タフでクレバーなメンタリティ、
・生き馬の目を抜く敏捷さと他人を出し抜く度胸
といった資質・能力が必要です。
こういうものを持ち合わせない一般人にとっては、「自由」がもらえるといっても、
・試行錯誤する自由や失敗する自由、
・失敗してもお節介を焼かれずほっといてもらえる自由、
・適切な情報が与えられない状態で放置される自由、
・騙される自由
といったもので、与えられても困るような代物ばかりです。
1990年代、
「日本には自由がない」
「規制ばかりで何にもできない」
「行政が何から何まで指導する」
といった不満の声が日本社会に渦巻いておりました。
このような声を受けて橋本政権から小泉政権にかけて、徹底した規制緩和が行われ、日本に待望の「自由」が訪れました。
・不要な従業員をリストラする自由、
・非正規社員を徹底的に安くこき使う自由、
・法の不備をついてこっそりと大量に株を買い集める自由、
・魅力的な企業をカネにあかせて買いたたく自由、
・富めるものが富を増やす自由、それに、
・貧しいものを放置する自由。
自由は格差を生み、格差を広げます。
自由と格差があふれる現代の日本社会は、かつての日本人が望んだ理想の社会のはずでした。
ところが、最近、格差社会の解消や、自由な取引の結果当事者間に不公正が生じる取引について規制を求める声が上がり始めています。
日本社会のこういうアホさをみるにつけ、
「自由などあっても能力のない自分たちには使いこなせない」
と冷静な判断が出来、
「自由なんか要らないから、とにかく奴隷制を維持し、今の安定した生活を保障してくれ」
と求めた前述の奴隷たちは、実は我々よりはるかに現実的で賢明であったと思います。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.016、「ポリスマガジン」誌、2008年12月号(2008年12月20日発売)