民主主義再検証シリーズ連載三回目です。
今回は、地方自治における直接民主制についてです。
地方自治においては、憲法上、直接民主主義が採用されています。
憲法93条2項をみると、実際、「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」との定めがあります。
これを以て、「日本国憲法が、民主主義というシステムを、絶対的な統治原理として、異議なく、全面的に採用した」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは早計と言えます。
地方自治は上記のとおり直接民主主義が採用されていますが、中央の政治ではどうでしょうか。
憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあり、また、同43条に「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」、同51条には「両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。」とあります。
これらの条文は、憲法が間接民主制を原則的な統治原理として採用した根拠と言われるものです。
すなわち、前文では、「日本国民は直接政治行動するな。政治的意思決定は、代表を選んで代表を通してやれ」と規制し、また、43条では「全国民の代表だから、全国民のことを考えて行動すべきであり、島根県や岩手県から選出されたのであってもこれら地域の代表ではなく、地域の利害を超えて日本全体の代表として行動せよ」として、選んだ者と選ばれた者との間の直接の利害関係を分断しています。
さらには、憲法は、51条で「公約違反をしても法的責任は問わないので、代表者は、選挙民の約束など気にせず、自由に気ままに政治的意思決定をしてよい」とさえ言っているのです。
要するに、憲法は、原則として間接民主制を採用して民意を徹底して排除し、地方自治においてのみ例外的かつ限定的に直接民主主義を採用しているのです。
憲法がこのように定めた趣旨ですが、
「財政支出をどうする、国防政策をどうする、社会保障をどうする、といった難しい問題は一般国民が直接議論するなど到底無理であろう。地方自治というのは、村に病院を建てる、近くの川に橋をかける、公民館を改築する、図書館の本を増やす、といった、住民に身近なことを行うものだから、アホな国民でも、この程度であれば、まあ、マトモな判断ができるであろう。仮に、熱狂的な支持の下、地方にミニ・ヒトラーが登場して暴れ出しても、害があれば、中央政府がたたきつぶせばいいだけだし、中央政府さえアホな民意と遮断されていれば、さほど気に病む必要もあるまい。ゆえに、地方自治に限定して、直接民主主義を認めてやることにしよう。とはいえ、地方自治だけだぞ!わかったか、愚民ども!」
という価値判断によるものと思われます。
民主主義を信奉する方々から大きな反発が出てきそうですが、逆の言い方をすれば、そのくらい、憲法は、民意や単純な民主主義を毛嫌いしていると言えるのです。
例えば、大阪府知事や東京都知事が、「オレたちは府民や都民から数百万票単位という大量の支持を得て直接選ばれたもっとも民主的なリーダーであり、島根県や岩手県あたりのしみったれた国会議員とかとはワケが違う。大阪と東京は、中央とは違った観点から、圧倒的な民意を背景に、某国との国交を断絶し、府内・都内の某国民を収監する」なんてやりだしたら、国は大混乱に陥り、大変な事態になります。
直接民主主義という代物ですが、聞こえはいいものの、凶暴で制御できない独裁者を作る危険性がありますし、現在の両自治体の首長の言動をみると(注:2008年11月当時。当時の大阪府知事は橋下徹氏、東京都知事は石原慎太郎氏でした)、前記のようなことを平気でやりかねません。
彼らが、前記のような暴れ方をしないのは、別に彼らに良識があるからというわけではなく、規制装置である憲法が効果的に働いているからにほかなりません。
憲法が直接民主主義という代物を危険視し、その採用場面を徹底して限定したのは、現実的で成熟した価値判断によるものであり、私としても多いに評価すべきであると考えます。
民主主義再検証ですが、次回も続けたいと思います。
(つづく)
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.028、「ポリスマガジン」誌、2009年12月号(2009年11月20日発売)