00081_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」9_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅶ)_畑中鐵丸流「楽しい人生」の定義・その3:財産があること_(C)「お金の本質的意義と価値と効用」2つ目:「お金があると、自分も救えるほか、他人も救えるし、突き詰めると、神になった気分さえ味わえる」_20181020

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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企業や国家運営は言うに及ばず仕事の上でも、私生活においても、処世全般においても、物事の目的を明確にすることは重要です

そして、
「人生」
という、この世のすべての方にとって
「もっとも、重大で重要なプロジェクト」
についても、当然、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

私個人としても、人生を送る上での目的というものをはっきり、くっきり、明確に堅持しています。

いえ、そんなに、気色ばんで、眦決して吠えるほど、志の高いものではありません。

私の人生において、究極の目的は、
「人生を楽しむこと」
です。

では
「楽しい人生」
とはなんぞや、その定義はどうなっているんだ、という具体論をお話ししております。

無論、生きる目的は、ひとそれぞれで、いろいろ異論はあるでしょうが、知性と教養と思考力をフル回転してたどり着いた、普遍的で、みなさんにも納得できるような形で整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義を紹介しております。

私の定義する
「楽しい人生」
については、自由であること(その1)美容と健康を保てること(その2)、に加え、その3として、
「財産があること」
も内包すべき要素として必須です。

私の定義する
「楽しい人生」
の内包要素として、その3、「財産があること」を挙げました。

ところで、
「財産形成」
というミッションデザインについては、
「楽しい人生のための他の構成要素である、自由や、美容・健康」
と衝突しやすい、あるいは時に人生そのものを狂わしかねない危険がある
ため、前提として弁えておくべき、
「お金の本質的意義と価値と効用」
について、お話ししております。

自分が自由を享受しても、それはそれでハッピーですが、更に有り余るお金があると、お金の本質的効用の2つ目を享受できます。

有り余るお金があると、他者を救えます。

すなわち、お金があると、他者が抱えているたいていの課題が解決できてしまうんです。

例えば、ここに、平均的所得の夫と専業主婦の夫婦がいたとします。

夫婦仲がものすごく悪く、お互い、相手のことを
「こんなヤツ、とっとと消えていなくちまったらいいのに」
と思って、何年も罵り合っている夫婦だとします。

この夫婦を、一瞬で仲良くさせるのはさほど難しいことではありません。

「君たちにそれぞれ3億円ずつやるから、今すぐ喧嘩をやめて仲良く暮らせ。今後喧嘩したり、言い合いしたら、理由の如何を問わず、1回につきそれぞれから5000万円ずつ取り上げる」
といって3億円ずつプレゼントするのです。

無論、
「そんなはした金で喧嘩を止めてたまるか」
という稀有な夫婦が絶対いないとは言いませんが、たいていのご夫婦は、にっこりえびす顔でお金を受け取って、その後は円満に暮らしてくれると思います。

要するに、お金があると、他人の悩みのほとんど(全部とはいいません)を解決して、救ってあげることができます。

他人の悩みを解決できるって、当該他人にとっては、
「神様」
と同じです。

(自分自身がままならぬような状況の方は別として)自分が自由になったあとは、人間誰しも神に憧れ、神を目指すようになると思います。

無論、
「そんなの目指さない」
という方もいるでしょうが、まあ、少数派でしょう。

実際、マイクロソフトをはじめとした巨額の富を築いたベンチャー企業の創業者は、自分が死ぬほどハッピーになって、贅沢も一通り味わったあとは、たいてい財団を作って、
「神様業」
に乗り出します。

「カネがあれば、自分を救えるし、さらにもっとカネがあれば、困っている他人を救え、さらにさらに有り余るカネがあれば、神様の気分すら味わえる」
これが、お金の本質的効用の2つ目です。

無論、前述のマイクロソフト創業者等のような大金持ちを除き、見ず知らずの赤の他人に適当にお金をばらまくような人はいませんが、普通の家庭であれば、子や孫(「他人」といえば「他人」です)のために、一生懸命お金を使わず置いておく、というお年寄りはたくさんいます。

将来、子供や孫が困ったとき、自分ががんばっても大した助けにならないが、お金を渡して悩みをなくしたり、少なくしたりして、救ってあげることができるかもしれない。

そして、将来はわからないし、子や孫が将来どんな苦境に立つか、知ることはできない。

だったら、渡せるお金は、多ければ多い方がいい。

このようなお金の本質的効用が前提認識としてあるからこそ、お年寄りは、どんなに
「そんなにお金を貯め込んでもお墓までもっていけないよ」
と嫌味を言われても、お金を極力使わず、できるだけ、多くのお金を貯めて、子孫に遺そうとするのです。

この
「清らかで無私のメンタリティ」
は、もはや、
「神レベル」
です。

それをもらった子や孫が、感謝の念をもって神のように崇拝してくれるかどうかは別ですが。

ともあれ、自分が自由になり、
「救うべき義理があり、救うに値する人間」
を神のように救ってあげられる、ということができれば、人生、楽しいに決まっています。

贅沢したいとか、無駄使いしたいとか、そんな動物的で即物的な欲求もさることながら、
「自由に生き、助けたい人を助けることで、精神的に充足感を味わう」
ということを通じて楽しい人生を送るために、お金は必須の前提になるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.134-3、「ポリスマガジン」誌、2018年10月号(2018年9月20日発売)

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