前回、前々回、
「アフターコロナ・令和の時代を読み解く」
と題して、スピリチャル的な話として、
「物理的所有」
の価値観に重きをおく
「土の時代」
から、
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される、
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったことや、昭和や平成時代に当たり前とされてきた古いものや古臭いものが一掃され、DXやAIの普及により企業におけるゲームのルールやプレースタイルが変わる、飲食ビジネスが激変する、などといったことを申し上げました。
まだまだ話したりない点がありましたので、今回も同じテーマで、さらなる補足をして
「アフターコロナ・令和の時代を読み解くヒント」
のようなものを述べていきたいと思います。
4、副業やフリーランスという働き方の一般化(承前)
大企業は、大規模なリストラを見越してか、自社従業員に対して、盛んに副業を勧めています。
副業をもっていると、リストラをされても、衝撃が和らぐので、
「君たち、今後何時リストラされてもいいように、今から、準備しておけよ」
ということだろう、と思います。
前向きなことをいえば、副業やフリーランスという働き方は、個々人が企業や組織に依存せず、経済的独立が精神的独立につながり、独立した気概を養い、経済や社会を活性化させる、ということになるのかもしれません。
ただ、
「組織に依存して、組織でしか通用しない価値を提供してきたサラリーマン」
がいきなり副業を始めたり、フリーランスになろうとしたりしても、無理があります。
まずは、足元をみて、
「組織でしか通用しない自分の価値」
を
「組織以外でも、社会でも通用する価値」
に変えていく必要があるのです。
そのためには、やみくもにスキルを磨くだけでなく、
「自分のスキルや価値の再定義・再構築」、
さらには、
「自分のスキルや価値」
の
「ミエル化・カタチ化・言語化・文書化・フォーマル化」
をして、外部に発信したり、表現したりすることが求められるようになると思います。
5、学校教育の変化
コロナによる社会変化・環境変化により、教育も変わるし、学校も変わるかもしれません。
学歴やキャリアということについても、ゲームのロジックやゲームのルールが激変するかもしれません。
コロナ禍によって、学校がしばらく閉鎖となり、そのため、これまで、頑なに
「インターネットによる情報通信」
という利便性の受け入れを拒否してきた学校ないし教育システムも、変化(というか、ネット時代になってもなお、石器時代のような古臭い価値観にしがみついてきたスタイルが、キャッチアップすることで、当たり前化・正常化する)を余儀なくされました。
予備校や資格試験準備においてはすでに一般化されていた通信教育・オンライン教育、というものが、学校教育にも入り込んできました。
当たり前ですが、
「学校で行われる、教師によってバラつきのある、サービス基準もなく、競争原理も働かない、効率的でもなく、時間や場所による制約が著しい、古典的教育サービス」
と、これと真逆の通信・オンライン教育サービスとでは、最初から、勝負はみえています。
おそらく、学校サイドでは強烈に抵抗するでしょうが、
「論理的正しさへ向かっていく変化」
に対して、政治的抵抗を試みても、降りのエスカレータを登攀するのと同様、持続可能性がなく、長期的・構造的には、変化に屈服することになります。
コロナ禍による社会の激変によって、
「不効率・不合理・非論理的・不経済性著しかった学校教育業界」
に変化の楔が打ち込まれ、大胆に変わらざるを得なくなると思います。
すべての学校が、放送大学や通信制高校のようになるかもしれません。
放送教育や通信教育だと、教える側のスキルが厳しく問われ、
「退屈な授業しかできない、トークの弱い、研究バカ」
が駆逐されるかもしれません。
「未来の学校」
はどんなものになるのでしょうか。
必要なリテラシーの実装は、すべてオンラインや通信で事足ります。
「話が下手くそで、退屈で、眠い授業」
に強制的に付き合わされることから開放され、それこそ、
「林修先生」のような、
「東大卒で、圧倒的に知識や教養が豊かで、話がうまくて、教えるのもうまい、スーパー先生」
から、退屈しない話を聞いて、メキメキ頭がよくなります。
知的好奇心旺盛で、勉強に興味がある生徒は、どんどんオンライン講座の勉強を進めていきます。
テキストも資料もすべてオンラインで提供されます。
死ぬほど重い、分厚い教科書をたくさん抱えて、つまんない教師から、眠たい話を聞くためだけに、無駄な通学時間を費消して、苦行のように学校に行くことから解放されます。
知的好奇心が旺盛で、勉強に興味がありながら、
「悪しき平等理念」
によって、これを抑え込まされ、飛び級等による健全な進歩と成長を禁じられるような愚行もなくなります。
とはいえ、学校は学校なりの意味が残ることもあるでしょう。
通信教育を補充するためのチュータリング施設として、保護者が忙しい家庭の子供を預かる収容施設として、同世代の友達と楽しく過ごすサロンとして、クラブ活動を行う際の活動拠点として、実力テストの試験会場と採点役として、であれば、オンラインや通信インフラが整った現代においても、
「学校」
という時代に適合しないカビ臭いインフラも廃物利用できそうです。
登校するのは、試験を受けるときか、通信教育を補充するためのチュータリングを受けるときか、友達と楽しく過ごすためのサロンに参加するときだけ。
担任の先生は、チューターであり、サロンの主人であり、クラブ活動の監督者であり、試験の際には、試験監督と採点担当をする。
私は、
「昭和や平成時代の、古臭くて、かび臭くて、退屈で、つまんないし、その割にエラそうで、権威主義的な学校や教師」
というものがあまり好きではなかったですが、以上のような
「未来の学校」
「未来の教育」
なら、
大歓迎です。
学級崩壊やイジメが生じるのは、無理してつまんない授業を聞かせようとしたりして、逃げ場のない密度の高い閉鎖空間にストレスが高い状態で知性未熟な(さらにいえば、動物的で暴力性をもつ)子供を長時間収容するからであって、
「未来の学校」
には、イジメも学級崩壊もなくなるかもしれません。
オンライン教育であれば、
「教育カリキュラムについていけない知性低劣で粗暴で自己抑制が困難な児童や生徒」
が、教師や教育インフラに八つ当たりしようとして、パソコンやタブレットを破壊しても、オンライン教育システムは破壊から免れます(自分のパソコンやタブレットが壊れるだけ)。
また、
「逃げ場のない密度の高い閉鎖空間にストレスが高い状態で収容される」状態
でなくなれば、イジメは劇的に少なくなりますし、仮にイジメが生じたら
「学校」
という
「不愉快であれば、別に行かなくてもいい、サロン」
を敬遠し、自宅でオンライン教育に没頭し、
「飛び級」
すればいいだけです。
学校という組織や、教師個人という、現代の教育サービスに利害や既得権をもつ連中にとっては、不愉快かもしれませんが、効率性、合理性、論理性、経済性にとっては、これが現代において本来あるべき学校や教育の理想の姿であり、社会にとっては輝かしい、美しい姿であるような気がします。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.164、「ポリスマガジン」誌、2021年5月号(2021年4月20日発売)