当初連載を想定していませんでしたが、思わぬ形で連載となってしまった
「アフターコロナ・令和の時代を読み解く」
と題する記事の続きです。
スピリチャル的な話として、
「物理的所有」の価値観
に重きをおく
「土の時代」
から、
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される、
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったことや、昭和や平成時代に当たり前とされてきた古いものや古臭いものが一掃され、DXやAIの普及により企業におけるゲームのルールやプレースタイルが変わる、飲食ビジネスが激変する、副業、フリーランスという働き方の普及、学校教育の変化などといったことを申し上げました。
今回も同じテーマで、さらなる補足をして
「アフターコロナ・令和の時代を読み解くヒント」
のようなものを述べていきたいと思います。
6、経済活動の基本構造を一変させる歴史的転換局面の到来
これは、やや大胆な予想というより、思考実験に近いものかもしれませんが、凄まじいインフレとなり、
「お金」
が根源的意味と価値を低下ないし喪失し、あるいは姿・形が様変わりし、まったく新しい経済システムが登場するかもしれません。
コロナ対策として、世界各国で壮大な社会実験が行われています。
史上空前のお金のジャブジャブ化とバラマキです。
二十世紀の大恐慌のときには、
「財政赤字になっても関係ねえ!」
とばかりに、金利を下げて輪転機を回してどんどんお金を増やして(金融政策)、公共工事を増やして(財政支出)、景気回復を試みました。
一般に
「大恐慌からの景気回復策として、アメリカを初めとする各国で、ケインズ理論に基づく金融政策・財政政策が実施された」
といわれているようですが、嚆矢となったのは、1932年に開始された我がニッポンの大蔵大臣高橋是清考案にかかる
「時局匡救事業」
という積極的財政策です。
その後、高橋の政策に続く形で、1933年にアメリカのニューディール政策が開始されました。
ケインズ理論が著された
「雇用、利子および貨幣の一般理論」
の出版はかなりあとの1936年です。
「ケインズ理論に基づき、ニューディール政策や高橋是清の政策が実施された」
などと誤解されているかもしれませんが、順序でいうと、
「高橋是清→ニューディール→ケインズ」
であり、その意味で、高橋是清の先見性と才能は再評価されるべきだと思います。
是清の政策は成功し、日本は欧米諸国に先駆けてデフレを脱却しましたが、彼は二・二六事件で暗殺されます。
その後は、戦争という
「究極の公共事業」
を続行する軍事や財閥やマスコミや世論に抗しきれず、日本は、社会全体で戦争拡大に邁進していきます。
なお、アメリカのニューディール政策ですが、経済の仕組みを理解しない最高裁が同政策に違憲判決を出してケチをつけたり、財政正常化に服するのが早すぎたこともあり、失業率が再上昇してしまい失敗に終わりました。結局、
「第二次世界大戦参戦と太平洋戦争開始」
という別の
「巨大な公共事業」
が開始されたことによって、アメリカは不況を脱することになります。
さて、令和のコロナ禍の時代においては、もはや
「公共事業」
なども前提とせず、
「ヘリマネ」
すなわち、
そのままお金をヘリコプターでばらまく、
という大胆な景気刺激策が登場しました。
「ヘリコプターから紙幣をばらまけば、いずれ物価は上がる」
というのは、経済学者ミルトン・フリードマンがその論文で書いた話が嚆矢となっています。
これを敷衍する形で、米国の経済学者で第14代連邦準備制度理事会(FRB)議長のベン・バーナンキは、「デフレを解消するには、ヘリコプターから紙幣をばらまくような大胆な金融緩和策が有効」との見解を示しました(そこから、伝統的な経済学者等からは、揶揄を込めて、「ヘリコプター・ベン」「ヘリコプター印刷機」などと評されたことは有名です)
金利を下げたり、通貨供給量を増やしたり、公共事業をしたり、といったことであれば取引や交換秩序という文脈で理解できますが、
「取引や交換という前提もなく、お金をばらまく」
というのは、かなり大胆というか、理解を超えた対策です。おそらく、人類史上初の試みではないでしょうか。
コロナ禍以前においても、
「解決不能なデフレ(FRB議長だったイエレンさんも「puzzle」(謎)と評したしつこいデフレ)解消方法」
として、
「ヘリマネ」
が取り沙汰されはじめた際、私は、
「んなアホな」
「なんぼなんでも、そんな無茶苦茶なもん、デキるわけないやろ」
と思っていました。
しかしながら、コロナ禍の時代に入り、
「特別定額給付金」
やら
「go to ホニャララ」
といった
「ヘリマネ」
が現実的政策として実行されるようになり、
「長生きすると、いろいろな事態に巡り会えるもんだ」
と驚き、感慨を深くした記憶があります。
「ヘリマネ」については、「なにやら、変わった、壮大な社会実験がおっ始められたなぁ」「そのうち、終わるだろ」と冷ややかに眺めていましたが、なんと、「デフレを解消するには、ヘリコプターから紙幣をばらまくような大胆な金融緩和策が有効」とのたまっていた「ヘリコプター・ベン」ことベン・バーナンキ氏に2022年度のノーベル経済学賞が授与され、人類史上画期的な経済学的知見を示したものと認められてしまいました(?!)。
この「人類史上画期的な経済学的知見を示したものと認められてしまいました(?!)」の「(?!)」にはそれなりの含みがあります。
「ノーベル経済学賞」は、ノーベル財団が取り仕切る年次イベントのノーベル賞ではなく、「スウェーデン国立銀行経済学賞(正式には、『アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン国立銀行賞』という長たらっしい名前)」という、ノーベル賞にあやかった、便乗というか乗っかりイベントです。
2001年に朝日新聞科学部記者(当時)の杉本潔氏が、賞を運営するノーベル財団の実務責任者であるミハエル・ソールマン専務理事(当時)にインタビューに対して、「経済学賞はノーベル賞ではありません。ノーベルの遺言にはない、記念の賞です」と答えていますし、杉本氏によれば1997年には文学賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーが経済学賞の廃止を要請しているそうです。
また、杉本氏によれば、2001年にはノーベルの兄弟のひ孫「ノーベルは事業や経済が好きではなかった。経済学賞はノーベルの遺言にはなく、全人類に多大な貢献をした人物に贈るという遺言の趣旨にもそぐわない」などと新聞(地元紙)で批判したこともあったそうです。
要するに、ノーベル経済学賞は、船橋市非公認マスコットキャラクターの「梨の妖精、ふなっしー」同様、ノーベル財団非公認、ノーベル賞を勝手に自称している、ちゃっかり、乗っかりイベントのようです。
極めつけは、1997年にブラック-ショールズ方程式を理論面から完成させて、「ノーベル財団非公認、ノーベル経済学賞」である「スウェーデン国立銀行経済学賞」を授与された、マイロン・ショールズとロバート・マートンが加わったヘッジファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメント(Long Term Capital Management)が空前の損失を出して倒産してしまいました。
やっぱり、本物のノーベル賞とは違い、ノーベル財団非公認イベント特有の、パチもんっぽいというか、インチキさというか、えも言われる胡散臭さが漂っています。
ですので、「デフレを解消するには、ヘリコプターから紙幣をばらまくような大胆な金融緩和策が有効」という「ヘリコプター・ベン」の説が、「ノーベル賞により評価された学術成果同様、人類史上画期的な経済学的知見を示したものと認められた」と考えるのはやや早計かもしれません。
話をもとに戻します。
これを推し進めていき、平均年収分くらいの給付金を国民全員にあげる、とか、ベーシック・インカムは保障する、とかやりはじめると、論理的・原理的には、1万円札がどんどん価値を喪失していき、紙くず化していきます。
昨今話題となっている
「不況下での株式市場の熱狂」
も、
「コロナ禍回復後の経済の先取り」
というより、貨幣価値の激減への対抗措置とも取れます。
ところで、
「go to ホニャララ」
を推し進める過程で、飲食店等にキャッシュレス決済機能実装が求められ、このため、キャッシュレスが一挙に進みました。
個人的にも、現金(お札や硬貨)を触る機会が圧倒的に減少した感があります。
たった1、2年で、お金の意味と価値と姿・形が一気に様変わりしました。
あまり実感が沸かないかもしれませんが、経済や金融という世界においては、我々は衝撃的な歴史の転換局面に出くわしている、とも捉えられるような気がします。
俗に、経済的な資源を称して
「ヒト・モノ・カネ・チエ」
などといいます。
「ヒト」
の価値は、AIやRPAによって消失していく傾向にあります。
社会や市場が
「モノ」
への欲望そのものを喪失して
「モノ」
も価値を消失しました。
コロナ以前から、すでに
「モノ」離れ
の傾向は顕著で、どんなに景気を刺激しようとしてもインフレは鈍化しデフレに回帰してしまう状況で、
「モノ」
の生産による利潤創出には限界が見え始めていました。
大規模な金融緩和やヘリマネやキャッシュレスの動きも相俟って
「カネ」
が意味と価値と姿・形を変え、希薄化希釈化された存在になりつつあります。
さらに、インターネットによって瞬時の情報共有・拡散・希薄化・希釈化・陳腐化が可能となった現代においては
「チエ」
の価値もどんどん無価値化しています。
近代以降、人類は、
「カネ」を調達し、
「ヒト」を動員して、
「モノ」を作って、
「チエ」により磨き上げ、
利潤を創造して、
「カネ」を媒介した循環により、
自己増殖的に成長する方法で、企業を中核とする経済社会を拡大・発展させてきました。
しかし、このような
「経済の自己増殖ゲームのアーキテクチャそのもの」
がコロナ以前から疲弊し始め、コロナ禍による経済社会の変革によって息の根を止められ、新たな経済システムに向けて大きく変わっていくことになるのではないでしょうか。
アフターコロナにおいて、王政復古のように、昭和・平成の時代に逆戻りすることはまずあり得ないでしょう。
新しい時代にふさわしい、新しいゲームのアーキテクチャ・ゲームのロジック・ゲームのルールが創出され、新たな経済活動のプレースタイルが登場し普及すると思います。
「それがどのようなものであるか、具体的なものは今現在、世界の誰もが測りかねる。ただ、今のままでは機能せず、何か別の新しいものに変化し、置き換わることだけは確実である」
我々は、そんな時代の転換局面に立たされています。
変化の時代においては、変化に適応しなければなりません。
変化の時代に、変化に適応するためには、変化を察知し、正しく理解し、抵抗なく受け入れ、正しく評価できなければなりません。
対処行動の基本を簡単にいうと、
「若さ」を保て、
ということです。
「若さ」
は、
「バカさ」「愚かさ」
ではありません。
「戸籍年齢は若いが、頑迷固陋で、夜郎自大の、愚劣な小物」
は世に蔓延っていますが、この連中は
「若い」
のではなく、
「幼いだけのバカ」
です。
「若さ」
とは、進化し、変化し、自己を環境に適応させることのできる根源的能力を指します。
その能力を、整理分解すると、
(1)新しい環境を知り、理解する力(新規開放性、新規探索性及び思考の柔軟性)
(2)自己を健全に否定する力(健全で明るく前向きな自己否定を可能とする謙虚なメンタリティ)
(3)否定した自己を環境に合わせて変化させる力(カッコ悪さや恥をかくことや頭を下げることを恐れない勇気と柔軟性)
ということになるでしょうか。
もちろん、巨視・俯瞰視を可能とする知的情報基盤、すなわち
「良質の本」
と
「良質の師」
と
「良質の友」
の存在が前提となりますね。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.165、「ポリスマガジン」誌、2021年6月号(2021年5月20日発売)