今回も、前回に続き
「パワー」
というものについてお話したいと思います。
パワー、一般に力といわれますが、お話したいのは動力や馬力の話ではなく、そこはインテリっぽく、権力や暴力や政治力や国家権力など、人や社会を動かす支配の源泉についてです。
前回、パワーとプレゼンスの関係について、裁判所という司法権力を振りかざす国家機関の事例をもとに、裁判なり交渉なりトラブル処理というゲームをうまく進めるためには、ゲームを動かす決定的パワーを察知し、その所在を把握し、うまく働きかけて、ゲームを制御していく観察力と想像力が必要である、というお話をさせていただきました。
3、ハードパワーとソフトパワー
ところで、一般に
「パワー」
というと、ハードパワーとソフトパワーがある、などといわれます。
相手に何も言わせず、黙らせ、従わせるのが、ハードパワーです。
暴力、軍事力、法律や行政上の不利益措置を与える国家権力。
前回お話した裁判所が発揮する司法権力も大きな権力です。
あと、経済力。
札束で頬を引っ叩いたり、取引の廃止を匂わせたりして、相手を黙らせ、屈服させる、という力、これがハードパワーです。
他方で、ソフトパワーというものもあります。
相手を押し黙らせるのではなく、むしろ、自由に言いたい放題語らせ、意見を表明させ、自分をさらけ出させつつ、しかし、こちらが圧倒的に上位にあり、相手はこちらに従うしかないような状況を可能にするパワーです。
例えば、こちらがデジュールスタンダード(公的標準、公的基準)を策定する権限を有しており(あるいは、公的標準が存在しない分野の場合でも、デファクト基準を設定する事実上の権限を握っていて)、基準上、当該基準を策定する当方が圧倒的上位にある場合です。
こういう場合、こちらが常に先に進んでいるため、競争相手はどんなに頑張っても追いつけない状態にあることが多いので、無理に相手にあからさまな圧力や暴力を行使するまでもなく、相手に状況をわからせるだけで、状況を正しく理解し認知する能力さえあれば、相手が自発的に恥じ入り、沈黙する。
こちらが暴力や権力をあからさまに誇示しなくても、あるいは、大きな声を出したり、プレッシャーをかけたりしなくても、相手が言いたい放題語ろうとしても、やがて状況を理解したら、自然に押し黙らせることができる力。
これがソフトパワーです。
軍事力(暴力)や経済力(カネの力)とは異質の力であり、具体的には、文化の力や、芸術の力や、科学の力や、学術の力です。
もっと卑近な例でいうと、リアルの世界やネットでの情報発信力、フォロワー数などSNSにおける影響力の指標もこれに該当します。
4、ソフトパワー優位の時代
では、ハードパワーとソフトパワーの優劣でいえば、どのような評価が可能でしょうか。
どんなに大きな政治権力をもっていても、ネットで影響力あるブロガー等が、SNSで批判的意見を表明したり、つぶやいたりすると、途端に、大きな力となって政治権力側を謝罪させたり、退場させたりする。
大きな経済力をもつ企業が社運をかけ、大きな宣伝広告費をかけた新商品を世に出しても、多くのフォロワーをもつ発言者がTwitterで
「このテレビ広告は女性を蔑視している」
という見解をつぶやいただけで、たちまち、その商品と企業が窮地に陥る。
現代は、ソフトパワー優位の時代ではないでしょうか。
そして、ソフトパワーが決定力をもつ時代は、平和で、知的で、進化した時代ともいえるのだと思います。
ハードパワーを競う世界というのは、軍拡競争をイメージすればわかりやすいですが、お互いが疑心暗鬼となって絶えず緊張して警戒して競争を続ける世界です。
ハードパワー競争の時代は、競争の限界がイメージできず、際限ない消耗戦を強いられ、最後は、競争者全員が疲弊し、共倒れします。
しかし、ソフトパワーを競う世界は、新たな基準や新たな世界や新たな秩序を創造して参加を呼びかけるものです。
ソフトパワーの世界は、観念の世界であり、多元的世界であり、いろいろな競争空間が共存する世界です。
ファッションではこの国、美術ではこの国、建築ではこの国、クラッシックではこの国、ポップスはこの国、料理はこの国、アニメはこの国、医療ではこの国、文学ではこの国、といった形で、いろいろな競争空間を創出でき、ソフトパワーの競争の激化は、そのまま人類がより豊かにより多様に進化していくことを意味します。
私個人としては、ハードパワー競争がどんどん劣位となり、あらゆる国、コミュニティ、企業、個人が、ソフトパワーで競争する空間を創出し、激しく攻防する平和で豊かで進歩を感じる世界が続いてほしいと願うばかりです。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.167、「ポリスマガジン」誌、2021年8月号(2021年7月20日発売)