今回は、文明社会と
「悪徳の栄え」
との関係について述べてみます。
社会の文明度合いが進めば進むほど、犯罪は減り、喧嘩が減り、より、安全・安心に暮らせる空間ができあがる、というのが一般的な常識かと思います。
まさに
「衣食足りて礼節を知る」
の諺をなぞるような理解であり、もちろん、私としてもこの常識には相応の真実が含まれているものと思います。
しかしながら、他方で、これだけ文明が進み、モラルが行き渡った、デオドラントな社会ができあがったにもかかわらず、犯罪や法令違反不祥事は根絶される気配はありません。
もちろん、殺人や強盗といった凶悪犯はめっきり減っています。
一方、企業の犯罪や法令違反は一向に減る傾向にありません。
企業法務の専門家としては、
「企業不祥事は永久に不滅です」
という単純な真実を断言できます。
ここ2、30年くらい、継続的に、途切れることなく、企業不祥事が多発しまくっています。
「これだけ企業不祥事が出たから、もう、不祥事がなくなり、法律的に一点の曇りもない、清く、正しく、美しい、すみれの華のような、清廉な産業社会が日本にやってくる!」
と思われる方も、いらっしゃるかもしれません。
しかし、残念ながら、今、まさにこの時点においても(私が執筆している時点であれ、皆さんがこの文書を読んでいる時点であれ、どの時点をとっても)、どこかで、上場企業の粉飾やチャレンジや不適切会計、反社会的勢力との不適切なお付き合い、製品の性能データの改ざん、などなど各種法令違反や不祥事や事件、あるいはこれらの萌芽であるミスやエラーや漏れや抜けやチョンボやうっかり、粗相や心得違いやズルやインチキが、雲霞のごとく発生しているはずです。間違いありません。
「企業不祥事」
はとどまるところを知らず、おそらく、今年も、来年も、再来年も、企業不祥事は、順調に、活発に増えまくることでしょうし、この傾向は未来永劫続く、と断言できます。
「文明社会がどれだけ進化や発展を遂げようが、このような『悪徳の栄え』の傾向が顕著となる」
と断言できるのは、それ相応の理由があります。
文明社会とそれ以前の社会を分かつ概念は、
「人権保障」
というものです。
そして、人権保障という原則は、必然的に、証拠裁判主義と適正手続の保障を要請します。
「あいつは怪しい」
「あいつは胡散臭い」
「あいつは気に食わない」
「あいつはいかがわしい」
という理由だけで、反キリストや魔女といった烙印を押し、火炙りにしていたのが、中世の遅れた社会でした。
こんな愚劣な社会体制の下では、社会の構成員は、四六時中ビクビク恐れながら生活をしなければなりませんし、変わったこと、新しいこと、他人が考えつかないようなぶっ飛んだアイデアは、出てきませんし、出てきたとしても、徹底的に排除され、抑圧されます。
それこそ、
「地球が太陽の周りを回っている」
などと
「愚劣な常識に反する、本当のこと」
を言おうものなら、串刺しにされ、火炙りにされかねません。
このような社会ではイノベーションは発生せず、社会は停滞し、暗黒の時代が続きます。
そこで、状況克服のため、
「他人に迷惑をかけない限り、新しいことや、変わったことを言おうが、実践しようが、自由」
という原則が打ち立てられ、さらにこの原則を現実的に保障するために、
「証拠がなければ火炙りにされない」
「串刺しにするなら、それ相応の手続きによって串刺し相当であることが証明されてから」
という社会運営上の原則も確立しました。
ただ、よく考えて下さい。
「証拠がなければ罪や責任に問われない」
ということは、裏を返せば、
「痕跡さえ残さなければ、悪いことはやりたい放題」
であり、
「適正手続きが保障される」
ということは、
「たとえ悪事の痕跡が存在しても、適正な手続きで発見・押収されない限り、やはり罪に問われない」
ことを意味します。
もちろん、
「公衆の面前で悪事を働いたり、あるいは痕跡を消し去るような配慮をしない、知能低劣な粗暴犯」
は、どんな社会体制でも、罪や責任に問われます。
しかしながら、
「『文明社会において法的責任を問われる場面』における『法的責任追求(あるいは追求からの逃避)ゲーム』の『ゲームの構造やロジックやルール』を知り尽くした、知的な挑戦者」
にとっては、文明社会ほど快適なものはありません。
かくして、文明社会においては、粗暴な悪事は消失していきますが、
「知的で、洗練された悪徳」
は多いに栄えることになるのです。
こういう言い方をすると、悪を礼賛しているように聞こえるかも知れませんが、イノベーションというのは、くだらない常識やシキタリや道徳を徹底的に否定し、
「こういうくだらないものを有難がる既得権益者」
を根こそぎ地獄に追い落とすところから始まります。
イノベーションは、既得権益者にとっては必然的に
「悪徳」
の香りをまといます。
「イノベーションが称賛され、年寄りやエスタブリッシュメントが滅ぼされる」
という状況は被害者からみれば、まさしく
「悪徳の栄え」
そのものなのです。
皆さんは、
「悪徳が完全に消滅する、静かなデオドラントな社会」
を望みますか?
それとも、
「悪徳が栄えるが、他方で、常に新しく、進化し、変わっていく、刺激的な社会」
を望みますか?
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.168、「ポリスマガジン」誌、2021年9月号(2021年8月20日発売)