よく明確な意見をもつべき、主張をはっきりさせるべき、という言葉を聞きます。
しかし、日本人、特に、日本の知識人にとっては、この
「明確な意見をもつ」
ということはとても難しい事柄です。
事実がこうなっている、論理としてはこれが合理的だ、展開予測としてはこうなる蓋然性が高い、ということは、知性の働きによって、明確にできますし、そのことを表明することは、知識のある人にとってさして難しいことではありません。
他方で、意見をもつ、主張をはっきりさせる、というのは、別の次元の話です。
「資本主義が良いか、共産主義がよいか」
「天皇制は続けるべきか、廃止すべきか」
「女系天皇を認めるべきか、認めてはならないか」
「岸田総理は有能か、そうでないか」
「この島は、この国の領土であるか、そうでないか」
「米軍は沖縄から今すぐ出ていくべきか、時期尚早か」
こういう論点は、どちらも正解であり、どちらも不正解といえるものであり、正解が存在しません。
正解は存在せず、どちらも正解であり、どちらも不正解ということは、頭の良し悪しに関わらず、誰でも意見をもつことはできます。
それこそ、中学生だって、あるいは灘中や開成中を受験するような小学生であれば、それなりの理由をくっつけて、意見を述べることは、可能です。
「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
について、明確な意見をもつ、主張をはっきりさせる、ということは、言葉を変えれば、
「強い偏見をもつ」
「深く考えず勝手に決めつける」
「一方的な思い込みをもつ」
というのと大差ありません。
知性や教養ある人間は、リベラルでフェアなメンタリティをもっており、偏見や決めつけや思い込みというのは、非知的な精神作用である、と考えます。
特に、
「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
「正解のない課題」
について、
「強い偏見をもつ」
「深く考えず勝手に決めつける」
「一方的な思い込みをもつ」
のは、脳の活動を停止して、バカになれ、と言われるに等しく、知識人にとって、精神的な自殺を強いるのと同じことです。
どこぞの国では、
「意見をはっきり述べる」
「主張をはっきりさせる」
ということを賛美し、幼少期から、とくかく、意見や自己主張を強く述べることを推奨する教育を施す、ということを聞きます。
そして、このような
「どこぞの国」
の精神作用のあり方を是とする方々は、日本の教育や文化について批判し、
「日本人は意見をもたない」
「日本人は主張をしない」
ことを欠陥視し、もっと、意見や主張を明確に述べ、
「どこぞの国」
に近づこう、などと主張したりします。
私個人としては、
「どこぞの国」
は、単に、知性と教養がなく、リベラルでフェアなメンタリティがなく、無知で傲岸不遜で、成熟さに欠け、奥ゆかしさ・慎ましさがないだけであり、別に、そんな国の幼稚な文化水準を称賛して、同水準に向かって、日本人を退嬰化させる必要はないと考えます。
先の大戦において、我が国は、実に、多くの
「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
「正解のない課題」
に直面しました。
「満州での権益を拡大すべきか否か」
「さらに、暴支膺懲を唱えて中国に軍事侵攻をするべきか否か」
「英米の反感を所与として、あえてドイツと同盟を結ぶべきか否か」
「仏印に侵攻するべきか否か」
「アメリカに宣戦布告すべきか否か」
といった問題です。
当時の日本人は、このような
「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
「正解のない課題」
について、リベラルでフェアなメンタリティをもって、深く議論したでしょうか。
それとも、知性と教養もなく、リベラルでフェアなメンタリティももたず、無知で傲岸不遜で、成熟さに欠け、奥ゆかしさ・慎ましさも欠如した状態で、
「強い偏見をもつ」
「深く考えず勝手に決めつける」
「一方的な思い込みをもつ」
といった形で、明確な意見をもち、主張をはっきりさせ、異論や反論を抑え込み、ひたすら1つの方向に意見を収斂させ、視野狭窄に陥ったのでしょうか。
昔の日本人は、
「神州不滅」
「鬼畜米英」
「暴支膺懲」
「八紘一宇」
と、明確な意見をもっていましたし、主張もはっきりしていました。
しかし、同時に、政治家も、軍人も、メディアも、一般人も、知性と教養がなく、リベラルでフェアなメンタリティがなく、無知で傲岸不遜で、成熟さに欠け、奥ゆかしさ・慎ましさがなかったのではないでしょうか。
日本人が、
「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
「正解のない課題」
について明確な意見をもたず、主張もはっきりしないのは、ある意味、知性、教養ともに成熟したからであり、むしろ、誇るべきことです。
こういう言い方をすると、
「日本人は、意見が不明確で、主張がはっきりしないから、外交の場で、いいようにあしらわれ、割を食ってばかりいる」
と批判する向きがあります。
違います。
まったく違います。
外交の場は、正解を探求する場ではありません。
外交の場で唱えるのは、知性と教養の働きを前提とする
「意見」
「主張」
ではなく、エゴのぶつけ合いであり、ハッタリのカマし合いであり、知性や教養はゲームの邪魔であり、必要なのは、自国の国益へのこだわりと、相手国への配慮や遠慮をかなぐり捨て、ひたすら厚顔無恥に振る舞うことです。
外交ゲームにおいて、一定の知性や教養が必要かのように誤解するのは、主張や意見がエゲツないほどに自己中心的で卑怯で姑息で志が低い内容なため、これを糊塗隠蔽する必要から、実体と真逆の、ジェントルでエレガントな言葉遣いが必要となるからです。
ですので、次世代を担う子どもたちには、このような言い方が正しいのかもしれません。
「『どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題』『正解のない課題』については、意見や主張などもたなくていいし、そんな問題や課題に意見や主張を述べるような、非知的で無教養で幼稚人間になるな。ただし、交渉の場では、徹底して自己の利益にこだわり、相手への遠慮や配慮をかなぐり捨て、卑怯に姑息に厚顔無恥に振る舞え。そして、そのような志の低い主張をするときほど、徹底して、ジェントルに、エレガントな言葉遣いと態度を取れ」
と。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.173、「ポリスマガジン」誌、2022年2月号(2022年1月20日発売)