00142_「貧乏」という病(その3・完)_20220520

「貧乏」という病、のその3です。

貧乏から脱するための最初の一歩は、
「お金は汚いもの」
「お金に執着する心は邪悪で堕落している」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
といった、狂った価値観、病的なバイアスに罹患したメンタリティを脱し、

「お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装すること」
から始めるべき、というお話をさせていただきました。

加えて、前回、
「ビジネス」
という
「日常から隔絶されたゲーム空間」
において、その空間を支配する原理やルールが、いかに常識とかけ離れたものか(当たり前ですね、「日常から隔絶されたゲーム空間」なわけですから)、を解説するとともに、貧乏という
「病」
から脱するのは、
「ビジネス世界の常識」
を健全で正しいものとみなし、これと真逆の
「サラリーマンのお父さんや、専業主婦のお母さんや、小学校の教員が教えていること」
を、愚かで劣悪で有害な価値観として徹底して排除することから始めなければいけない、ということもお伝えしました。

さらに、
「非情過酷なビジネス空間を支配する、日常生活とはかけ離れた空間秩序」
もお話しなければなりません。

ビジネス社会においては、ありとあらゆる口約束が、片っ端から反古にされる世界です。

また、ビジネス社会は、
「善悪」

「思いやり」
によって物事を判断することは
「経済的な敗北や死」
を意味し、
「自分が生きるために、相手を仕留め、殺し、栄養源にすることが許されている世界」
であり、そのことを生き残った人間全員が理解している世界です。

ビジネス社会という
「森」
においては、
「森の中に彷徨い込んだ、楽しそうに遊んでいる小動物」
は、森で生存しているプレーヤーからみれば、
「仲間」

「保護対象」

「愛玩対象」

「救済対象」
ではなく、捕食する対象です。

言い換えれば、そのような不用心な小動物は、
「生き物」
ですらなく、
「単なる獲物、栄養源」
とみなし、罠を仕掛け、欺き、引き金を引き、仕留め、捕食する。

そんな世界です。

実際、ネット等でも、ビジネスを始めようとして、各種商材に手を出して、大金を失う素人のことを、
「カモ」
とか
「養分」
とか呼称することがあります。

もちろん、世の中には、このような殺伐とした世界観を拒否する人間もいるでしょうが、そのような
「小学校で洗脳された常識を捨てきれず、陳腐な常識に囚われ、ビジネス社会での殺伐とした常識を上書きできない、硬直した感受性の持ち主」
は、ビジネス社会に迷い込んだ瞬間、仕留められる側になって、全員、ビジネス社会で生き残った者たちの
「養分(カモ)」
になってしまっていて、すでにビジネス社会から退場しているので、そういうおめでたい方はビジネス社会には残っていないのです。

契約(約束)と契約書(紙切れ)は違います。

通常の取引や契約でも同様です。

契約書とは、契約の有効要件ではなく、単なる記録やメモと同様の扱いです。

契約書がなくとも契約は成立します(口頭による契約で、諾成契約と呼ばれます)。

約束するのに紙切れは不要です。

紙切れがなくとも、約束ができる。

じゃあ、契約書って何なのか?

契約書とは、
「あってもなくてもいい、不安なら、作っといていいんじゃない?」
という類の記録、控え、メモ(モメなければただの紙切れですが、モメはじめて裁判になったら、証拠として機能します)に過ぎません。

ですから、契約書は
「作っても作らなくてもどっちでもいいけど、それほど作りたければ、あとから『言った言わないで揉めたくない』というなら、勝手に作ったらいいじゃない」
という程度のものです。

「言った言わない」
ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない、と言われそうです。

確かに、1000円貸した・貸さない、みたいな話であれば、
「言った言わない、話が違う」
という形で目を吊り上げて大喧嘩する、なんてことは生じ得ません。

お互い譲り合えばいいだけですから。

たかが、1000円でしょ。

その程度の話で、言った言わない、といって目くじら立てるなんて、時間と労力の無駄です。

しかし、億単位、あるいは数十億円単位の話となれば、別です。

億単位、あるいは数十億円単位の話は、常識を超えた話です。

そんな常識を超えた話にトラブルが発生したとき、
「ここは一つ常識的に」
「ここは、常識人として、お互い譲り合って穏便に」
「まあまあ、相身互いで、円満に行きましょう」
と言っても、納得するはずがありません。

だって、常識を超えた額の話ですから。

常識が通用しないスケールの話ですから。

「ちょっとした勘違い、食い違い、想定外、思惑違いがあったので、ちょっとタンマ、ちょいノーカン、そこは許して、譲って」
という話を許容すると、その瞬間、数億円、数十億円のロスやダメージが確定してしまいます。

そんなことをにっこり笑って許容するようなシビれるくらいのアホは、ビジネス社会では生きていけません。

たとえ、しっかり認知していて、はっきり記憶していて、ただ、契約書がなかった、あるいは契約書の記載があいまいだった、という事情があって、相手の言っている内容が事実としても記憶としても間違いなく常識的で正当な内容であっても、

「証拠をみせてみろ。契約書を作ってないだろ。ほら、どこに証拠があるんだ! ほら、ほら、証拠は! 証拠は! 証拠がなければ、認めることはできない」
「どこにそんなことが書いてある?! 契約書みてもそんなことは書いていない。書いていない以上、認めるわけにはいかない」
と突っ撥ねるのが、責任ある企業の経営者としての態度です。

すなわち、
「『言った言わない、話が違う』ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない」というのは、1000円、1万円の話であればそのとおりですが、
「企業間の取引というビジネス空間の出来事」
においては、些細な勘違い、食い違い、想定外、思惑違いであっても、契約書や確認した文書がなければ、すぐさま、
「言った言わない、話が違う」
の大ケンカに発展し、常識も譲り合いもへったくれも通用しないトラブルに発展することは、日常茶飯事なのです。

だからこそ、弁護士という生業が成立して、大きなビジネスに介在する余地が生まれるのです。

大きなカネや大きな権利・財産がからむときには、関係者の理性や思惑など、生存本能の前に簡単に吹き飛びます。常識が通用しない世界で、常識にしたがった行動をしたら0.5秒で死にます。

そこでカモにされないために、生き残るために、まず、敵視するべきは、残忍で冷酷な相手ではなく、自分の脳にこびり付いた
「(ビジネス社会の常識については)必ずしもよく知り、理解されているとは言い難い小学校の先生の皆様が、パラダイム未生成の小学生に植え付けてきた『一般常識』という、偏った、一つの偏見ないし先入観(※『常識とは、物心つくまでに身に着けた偏見のコレクション』とのたまったのは、しがない市井の事務屋風情の小職ではなく、アインシュタイン大博士です)」
なのです。

こういう常識を、土足で踏みにじり、横へ蹴飛ばし、ゴミと一緒に捨てることから、
「貧乏から脱出する冒険」
が始まります。

他方で、人は常識を否定されると、大事なものを冒涜されたような感情をもちます。

新しい常識や新規の価値観や論理やルールに対して、反発し、拒否します。そして、自分の常識を否定した人間を殺したいほど憎みます。

さらに、どんなに間違っていて危険だと理性や知性が示唆しても、常識にしたがった行動を、断固としてとります。

ところが、常識が通用しない世界においては、これが命取りになりますし、貧乏から抜け出させない大きな原因となるのです。

もちろん、
「小学校の教員の方々が洗脳、もとい教育してきた(リアルなビジネス社会から観察すると)偏った(というべき)先入観」
を後生大事にかかえて、貧乏のまま生き続けるのも、一つの価値ある選択であり、それは、皆さんのご自由です。

まあ、全員が全員、ビジネス社会の常識を実装して、カモや養分がいなくなったら、ビジネス社会の人間は困りますから。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.176、「ポリスマガジン」誌、2022年5月号(2022年4月20日発売)