「教育再考」
と題し、改めて
「教育」
というものを考えております。
前回は、教育とは洗脳と同義と捉えた上で、
「悪い教育(悪い洗脳)」
について述べました。
3 良い教育(良い洗脳)・承前
今回は、良い教育(良い洗脳)について考えてみたいと思います。
「正しい洗脳」、
もとい、
「正しい教育」
というのは、
「模範とする人物をベンチマーキングして、思考や言葉やビヘイビア、さらには仕草や呼吸の仕方に至るまで、徹底的にコピーすること」
がその本質的内容です。
「謦咳に接する」
という言葉がありますが、
「間近で咳払いを聞けるだけで幸せであるという意味から、尊敬する人と直接会ったり、話を聞く」
という
「教育の本来的手法」
を表現しています。
「自分が憧れ、目指すスーパースター」
を特定し、その近くにいて、
「咳やくしゃみがかかるところまで接近して、暗黙知や認知不能な挙動や思考や感受性のコピーを含めて、完コピするくらい真似び、学べ」
ということです。
もし、皆さんが、
「学校の教師」
「親」
「大学の教授」
を
「自分が憧れ、目指すスーパースター」
として捉えるなら、当該
「学校の教師」
「親」
「大学の教授」
の言いなりになり、その近くに侍り、
「暗黙知や認知不能な挙動や思考や感受性のコピーを含めて、完コピするくらい真似び、学ぶ」
というのは、実に正しい教育(洗脳)手法です。
他方で、もし、
「学校の教師」
「親」
「大学の教授」
をみて、
「なんだ、この退屈で陳腐で、どうしようもなくイケてない連中は。死んでも、こんな大人にはなりたくない。もっと、刺激的で、イケてる人生を歩みたい」
と考えるなら、当該
「学校の教師」
「親」
「大学の教授」
の言いなりになり、その近くに侍り、
「暗黙知や認知不能な挙動や思考や感受性のコピーを含めて、完コピするくらい真似び、学ぶ」
のは最悪の教育(洗脳)手法となります。
4 「退屈で陳腐で、どうしようもなくイケてない(と、子どもが主観的に評価し、将来の夢から除外した)教員」ではなく、「一流の経営者」を目指す人間に必要な教育(洗脳)とは?
では、一流の経営者を目指す方にとって、正しい洗脳、もとい、正しい教育を受ける環境が存在するでしょうか。
無論、洗脳をしてくださる方、もとい、教えてくださる方が、模倣の対象として憧憬し、敬愛する方であれば問題ありません。
例えば、ビジネスの世界で成功を目指す人にとっては、ビジネス界のトップスター、グーグルやアップルやアマゾンを立ち上げたような方であれば、いいでしょう。
ところが、実際はどうでしょう。
教育現場にいらっしゃる方々、あるいは、皆さんの親御さんとして、皆さんに
「常識」
という名の
「偏見のコレクション」
を
「洗脳」
いただける方々は、資産も収入もイマイチで、いってみれば、
「経済社会、資本主義社会における弱者、あるいは負け犬、負け組(※あくまで、「経済社会における」という意味です。教育の世界や、道徳の世界では、ものすごく立派である可能性は否定しません)」
ではありませんか?
そんな
「弱者、あるいは負け犬、負け組(※くどいようですが、あくまで、『経済社会、資本主義社会の』という意味です)」
に甘んじている方々から、
「教育」
という名の
「弱者の皆さまが有しておられる偏見のコレクションの洗脳」
を受けた瞬間、自分も
「弱者、あるいは負け犬、負け組(前記参照)」
クラス行き、ほぼ確定です。
5 成功者は陳腐な常識を無視する
成功してマイノリティを志向する人間が、人生の大事を陳腐な
「常識」
を働かせると失敗します。
「成功し、非常識なまでにリッチなマイノリティになって、笑いが止まらない人生」
を目指す人間が、
「常識
という
「マジョリティの有する、成功には有益とは言い難い『偏見』」
をOSとして移植したら、終わるに決まっています。
「常識」
はいろいろです。
「自分が憧れ、敬う、真似ぶべき存在の常識」
であれば意欲的に取り入れるべきです。
しかし、それと真逆の人間の雑音など、一切無視していいでしょう。
6 学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)に従うと却って地獄をみる
「常識」
については、アルベルト・アインシュタインが興味深い定義をしています。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことである(Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.)」
筆者(畑中鐵丸)は、別の定義をしています。
「常識とは、『常識という偏見の一種を植え付ける機関である学校』において、教師という、『常識のプロにして、常識で凝り固まっていて、非常識をノイズとして弾圧して取り締まる役目を持つ勤め人』から受けた、『常識を無視して、過酷な現実が冷酷に作動し、幅を利かせる実社会』ではまったく役に立たない、誤った洗脳の内容のことである」
まあ、ほぼ同じことです。
「常識」
というものは、
「常識的な状況」
においては役に立ちますが、
「常識が通用しない状況」
「非常識な状況」
には無力です。
というか、そういう異常な状況においては、常識は有害です。
邪魔です。
最悪です。
(1)「争族(相続人同士の遺産争い)」においては、常識ではなく、非常識な法律という「争族というゲーム空間のゲームロジック・ゲームルール」を最優先に考えないと、地獄を見る
「非常識なまでに多額のカネや権利や財産が関係する、非常識な状況」
において、
「常識」
を働かせて対処すると、たいてい地獄をみます。
都内で、普通に仲良く暮らしてきた兄弟がいます。
そんな中、親が死にました。
都内の一軒家と貯め込んでいたお金、時価にして2億円の財産の分け合いになりました。
「非常識な」
金額の財産を分け合う、という
「非常識な状況」
です。
こんな状況では、お互い非常識に、相手のことを考えず、なりふりかまわず、ただただ、1円でも多く、権利や財産を主張するべき、ということが推奨されるべき対処行動となります。
「常識を働かして」、
「ジェントルに」、
「エレガントに」、
「誠実に」、
「思いやりをもって」、
「仲良く」、
「平和に」、
「温和に」
なんてやっていると、たちまち分け前が減らされる。
うかうかして、ぼんやりして、相手のいいなりになっていると、
「100万円のハンコ代と中古のロレックスの形見分け」
だけ渡され、あとは全部もっていかれます。
血を分けた実の兄弟にその気がなくとも、横にいる配偶者が
「こっちがいただく」
「取られてたまるか」
と、そそのかす。
だから、こういう非常識な状況における有事状況・非常時には、
「仲の良い兄弟が裏切ったり、だましたり、アンフェアなことをするはずがない」
という
「常識」
は邪魔であり、無意味であり、有害なのです。
「非常識な額の財産を分け合う」
という
「非常識な状況」
においては、
「常識がどうこう」
ではなく、
「常識とはかけ離れた形で存在する『法律』や『裁判所での喧嘩というゲームのロジックやルール』からみてどうすべきか」、
ということを考え、行動に結びつけなければならないのです。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.178、「ポリスマガジン」誌、2022年7月号(2022年6月20日発売)