00145_改めて「教育」というものを考える(3)_20220820

「教育再考」
と題し、改めて
「教育」
というものを考えております。

前回は、
「6 学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)に従うと却って地獄を見る」
ということを申し上げ、その一例として、
「(1)『争族(相続人同士の遺産争い)』においては、常識ではなく、非常識な法律という『争族というゲーム空間のゲームロジック・ゲームルール』を最優先に考えないと、地獄を見る」
という話をさせていただきました。 

6 学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)に従うと却って地獄を見る(続)

(1)『争族(相続人同士の遺産争い)』においては、常識ではなく、非常識な法律という『争族というゲーム空間のゲームロジック・ゲームルール』を最優先に考えないと、地獄を見る(承前)

なお、前回のお話を敷衍させていただきます。

「争族(相続人同士の遺産争い)」
というと、ちょっとした兄弟の諍い、姉妹のケンカ、というニュアンスがあるかもしれませんが、それは完全な誤解です。

兄弟喧嘩といっても、小学生時代のおもちゃの取り合いや、ケーキの分け方の話じゃないんです。

数千万円、数億、数十億といった財産の争いや、さらには、誰が
「跡目」
として親が率いていた組織のトップになるか、という跡目争いの話ですから、
「ケンカしても、翌日になったら、仲直り」
という生易しいものになるわけがありません。

実際、一生口を聞かない、墓参りは別、回忌法要は兄弟それぞれが主催して2回執り行う、さらには、刃物を持ち出して殺し合いをする、なんてことも起こります。

「深川の八幡様」
として知られる富岡八幡宮において、相続を契機とする亡宮司の姉弟間の跡目争いが殺人事件に発展しました。

2017年12月7日、第21代宮司(姉)とその運転手が、第20代宮司(弟)とその妻に日本刀で切られました。

第21代宮司(姉)は死亡し、運転手は重傷、第20代宮司(弟)は妻を殺害した後に自殺した、という壮絶な
「争族」
問題となりました。

こういう命をかけた争いをする段階で、何の覚悟も防衛意識もなく、
「人類みな兄弟、兄弟同士は一生仲良し、和気あいあい」
などと
「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)」
に従うと本物の地獄を見ることになるのです。

(2)数億円、数十億円単位の「常識を越えた金額」の取引の場面では、関係者の常識は吹っ飛び、たとえ明々白々な事実であっても、「言った言わない」という愚劣な争いが普通に起こり、備えをしておかない側は、当たり前のように地獄を見る

「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)に従うと却って地獄を見る」
のは、ビジネスや取引の場面にも当てはまります。

当たり前ですが、契約(約束)と契約書(紙切れ)は違います。

この理屈は、どんな取引や契約でも同じように適用されます。

契約書とは、契約の有効要件ではありません。

単なる記録やメモと同様の扱いです。

契約書がなくとも契約は成立します(契約書のない口約束による契約、すなわち、口頭による契約のことを、法律的には「諾成契約」と呼びます)。

約束するのに紙切れは不要です。

紙切れがなくとも、約束はできます。

じゃあ、
契約「書」
って一体、何なのか?

契約書とは、
「あってもなくてもいい、不安なら、作っといていいんじゃない?」
という類の記録、控え、メモ(モメなければただの紙切れですが、モメはじめて裁判になったら、証拠として機能します)に過ぎません。

ですから、契約書は
「作っても作らなくてもどっちでもいいけど、それほど作りたければ、あとから『言った言わないで揉めたくない』というなら、勝手に作ったらいいじゃない」
という程度のものです。

「言った言わない」
ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない、と言われそうです。

確かに、
「1000円貸した・貸さない」
とか、
「『その本、もう読んじゃって、メルカリで売ろうと思っていたから、500円で譲ってあげる』と言っていたのに、気が変わったのでヤメた」
みたいな話であれば、
「言った言わない、話が違う」
という形で目を吊り上げて大喧嘩する、なんてことは生じ得ません。

お互い譲り合えばいいだけですから。たかが1000円、500円の話ですから。

その程度の話で、
「言った言わない」
といって目くじら立てるなんて、時間と労力の無駄です。

しかし、億単位、あるいは数十億円単位となれば、話は別です。

億単位、あるいは数十億円単位の話は、常識を超えた話です。

そんな常識を超えた話にトラブルが発生したとき、
「ここはひとつ常識的に」
「ここは、常識人として、お互い譲り合って穏便に」
「相手のことも考えて、愛と平和と調和の精神で、思いやりをもって接しましょう」
「まあまあ、相身互いで、円満にいきましょう」
と言っても、納得するはずがありません。

だって、常識を超えた額の話ですから。

常識が通用しないスケールの話ですから。

「ちょっとした勘違い、食い違い、想定外、思惑違いがあったので、ちょっとタンマ、ちょいノーカン、そこは許して、譲って」
という話を許容すると、数億円、数十億円のロスやダメージの容認となります。

そんなことをにっこり笑って許容するような、シビれるくらいのアホは、ビジネス社会では生きていけません。

たとえ、しっかり認知していて、はっきり記憶していて、ただ、契約書がなかった、あるいは契約書の記載があいまいだった、という事情があって、相手の言っている内容が事実としても記憶としても間違いなく常識的で正当な内容であっても、
「証拠を見せてみろ。契約書を作ってないだろ。ほら、どこに証拠があるんだ。ほら、ほら、ほら! 証拠がなければ、認めることはできない」
「どこにそんなことが書いてある?! 契約書を見てもそんなことは書いていない。書いていない以上、認めるわけにはいかない」
と突っ張る(平然と嘘をつき、居直りをカマす)のが、
「責任ある企業経営者」
「立派な組織のリーダー(ボス)」
として求められる態度です。

すなわち、
「言った言わない、話が違う」
ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない、というのは、1000円、1万円の話であればそのとおりでしょう。

しかし、ビジネスや企業間のやりとりにおいては、些細な勘違い、食い違い、想定外、思惑違いであっても、契約書や確認した文書がなければ、すぐさま、
「言った言わない、話が違う」
のケンカに発展し、常識も情緒もへったくれも通用しないトラブルに発展することは日常茶飯事なのです。

だからこそ、弁護士という生業が成立して、大きなビジネスに介在する余地が生まれるのです。

大きなカネや大きな権利・財産がからむときには、関係者の理性や思惑など、欲望の前に簡単に吹き飛ぶのです。

そんなときに、
「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)」
に従うと、必ず地獄を見ることになります。

というより、ビジネスの世界においては、相手のことをトコトン信じず、相手は
「自分の言葉は命をかけて守る」
どころか、しっかり証拠がないと、いくらでも、すっとぼけるし、居直りをカマすし、忘れたふりをする、
「あれは冗談、ノーカン」
とごまかす、という殺伐とした世界観で、相手を見据え、世間を認知する必要があります。

これが、
「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)」
とは真逆のものであることは、火を見るよりも明らかです。

その意味では、
「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)」
は、ビジネスの世界では役に立たない、いや、それどころか、有害この上ない危険な妄想、と言わなければならないのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.179、「ポリスマガジン」誌、2022年8月号(2022年7月20日発売)