00172_人は正義によって裁かれるのではない。法によって裁かれるのでもない。神によって裁かれるのでもない。人は、人によって裁かれる。

人は正義によって裁かれるのではありません。

法によって裁かれるのでもありません。

神によって裁かれるのでもありません。

人は、
「人」
によって裁かれる。

人を裁く
「人」
は、
「誰の指揮も命令も受けることなく、上司も不在で、法を解釈する超絶的な権限を有する、専制君主あるいは独裁者」
とも言える者です。

そういう
「人」
によって裁かれるのです。

1.司法の独立

日本国憲法第76条第3項には、司法の独立性が謳われています。

これは、司法権が国家の他の権力から独立し、自由かつ公正に行使されるべきであるという原則です。

司法の独立性とは、裁判官が他の権力、つまり行政や立法からの干渉を受けずに、自らの良心と法のみに基づいて判断を下すことができる状態を指します。

この原則は、自由主義や人権保障という点において重要な役割を果たします。

なぜなら、司法が他の権力、特に民主的多数決を基盤とする政治権力、すなわち、立法府や行政府から独立していなければ、公正な裁判が行われず、市民の権利や自由が守られないからです。

司法の独立性は、法の支配の基本原則の1つです。

法の支配とは、法律がすべての人々に平等に適用され、権力者も法律に従うべきであるという考え方です。

司法が独立していることで、政府や権力者が自らの都合の良いように法律を解釈したり、適用したりすることが防がれます。

これにより、市民は政府の恣意的な行動から保護され、公正な裁判を受けることができます。

2.司法の独立のダークサイド

しかし、司法の独立性が完全であることが必ずしも良い結果をもたらすわけではありません。

裁判官が他の権力から完全に独立しているということは、逆に言えば、裁判官が自らの判断を無制限に行うことができる状態を意味します。

これは、裁判官が
「法を解釈する権限を有する、専制君主あるいは独裁者」
となる危険性を孕んでいます。

このような場合、司法の独立性は逆に市民の権利を侵害する結果となります。

憲法第76条第3項に謳われている司法の独立性は、民主主義社会において重要な原則です。

しかし、その独立性が過剰になることは、司法が独裁的な力を持つ結果を招く可能性があるのです。

著:畑中鐵丸