00076_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」4_(4)何事も目的をはっきりさせるべし(ⅱ)_太平洋戦争という日本史上最大かつ空前の「公共事業」の無目的性といい加減さ_20180820

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前稿においては、
「人生」
という、
「この世のすべての方にとって最も重大で重要なプロジェクト」
についても、目的をはっきりさせるべき、という話をさせていただきました。

ここで、少し補足(というか、脱線)しておきたいと思います。

前稿では、
「太平洋戦争という日本史上最大かつ空前の『公共事業』が遂行され、シビれるくらい無残に失敗した」
という歴史上の事実をご紹介し、この大失敗の原因として、
当該「公共事業」の目的があいまいだったからではないか、
という見解を披瀝しました。

太平洋戦争という日本史上最大かつ空前の「公共事業」の目的については、
私は、調べても、何度聞いても、わからないのですが、これは、私(ちなみに、私は東京大学文科一類に現役合格しており、同試験に合格する程度において、相応の国語読解能力は具備しております)が相当アホなのか、
「語られている内容」か「語っている人間」のいずれかあるいは双方が混乱しているからなのか、
との推測を前提とし、私なりの愚見として、
「太平洋戦争という『公共事業』を遂行していた方々が、何のために、こんなリスキーなプロジェクトをしているのか、はっきりとした目的もわからず、相当混乱されていた状態で、事業を遂行していた可能性が高い」
との意見をご紹介しました。

ちなみに、私が敬愛する昭和天皇陛下は、どうやら、戦争が始まる前から、これと同じ見解に立ち、相当な危惧をお持ちであったようです。

記録には、開戦に先立つ1941年11月2日の御前会議で、東条英機氏との緊張あふれるやりとりが残されています。

東条英機氏とは、軍人で、太平洋戦争開戦当時の総理大臣、すなわち、
戦争という「公共事業」
をおっぱじめた実務の最高責任者。

ちなみに、お亡くなりになった、昭和のアイドル歌手の「西城秀樹」とは、まったく無関係です。

当時の御前会議(真珠湾攻撃の直前も直前。開戦前ギリギリの時期での会議です)において、

昭和天皇「(開戦の)大義名分ヲ如何ニ考フルヤ」
東条英機「目下研究中デアリマシテ、何レ奏上イタシマス」

という応答があったそうです。

これはひどい。

本当にひどい話です。

プロジェクトオーナーから
「近々開始する予定で、決裁を求めてる事業だけど、この事業の目的って、一体何? 何のためにこんな危険な大事業やるの?」
と聞かれて、プロジェクトの総責任者であるマネージャーが
「今、目的を研究しています。目的がわかれば、いずれ、報告します」
と平然とぬかしている状況。

こんなプロジェクト、始まる前から失敗すること、確定です。

おそらく、陛下も、
「お前ら、どうせ目的とかもはっきりしない、いい加減で、適当な考えで、ヤバい博打をするつもりだろ。目的をはっきり聞かせろ。答えられんだろうが」
という危惧感をもちながら、怒りと侮蔑をもって、あえて諮問されたのだと思います。

それを、ぬけぬけと
「目的は後から考えます。思いついたら、そのうち報告します」
という返答をするような舐め腐った態度自体、
太平洋戦争という「公共事業」
を遂行した実務責任者や幹部連中のいい加減さ、デタラメさを雄弁に物語っています。

私は、戦争犯罪や、これに伴う軍事裁判という茶番については、かなり疑問に思うところがありますが、
「戦争をおっぱじめた方々の、背信的なまでの愚かさ、いい加減さと、プロジェクトオーナーから指摘された本質的な疑義をはぐらかして恥じない、図々しさ、ふてぶてしさ」
は、もはや犯罪的なレベルです。

彼らの最期については、このような
「犯罪的な愚劣さと驕傲不遜さ」
について厳しい責任を負わされた、と考えれば、それはそれで止む得ない、と思うところです。

ちなみに、この東条英機氏(くどいようですが、昭和のアイドル歌手の西城秀樹さんとはまったく無関係の御仁です)の最期ですが、
「絶望的なまでに情けない小物」
にふさわしい結末でした。

東条英機氏は、1941年1月8日に陸軍大臣として、
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
という、誠に勇壮にしてご立派な訓令(陸訓一号)を示達されました。

戦国・江戸期には、元服(成人式)を迎えると武士の子は切腹の作法を教えられていたようでしたので、自決の方法は、昔であれば、兵士たるもの、10代の少年でもわきまえていたものです。

したがって、戦国・江戸期においては、自決という作法は
「大人の兵士たるもの、切腹如き、プロの兵士としての初歩の初歩であり、きちんとできないと、死ぬほど、いや死ぬ以上に恥ずかしい」
とされていたものです。

しかしながら、
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
という、誠に勇壮にしてご立派な訓令を他人に堂々と示達された、東条英機元陸軍大将閣下、敗戦直後、ピストル自殺を図りましたが、むちゃくちゃ鈍臭かったのか、覚悟が足りなかったのか、生への執着があったのか、よくわかりませんが、何と、自決に失敗しちゃいました(吉本新喜劇なら、全員コケるところです)。

ちなみに、同時期(敗戦直後)、やんごとなきお公家様ご出身の近衛文麿閣下は、壮絶なピストル自殺をなされ、見事な最期を遂げられました。

お公家様で、非戦派で、最期まで日米開戦を止める努力をされた平和主義者の近衛文麿閣下が、見事な最期を遂げながら、前述のように目的も明らかにしないまま無定見に戦争をおっぱじめた開戦当時の実務の最高責任者であり、日本国民に
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
などと命じていた張本人である東条英機元陸軍大将閣下が無様にも自決に失敗する、というのは本当に悪い冗談のような話です。

結局、
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
とのたまった東条英機氏、
「生きて虜囚」
となって、東京裁判に引っ張り出され、犯罪者として、首をくくられて殺され、
「辱めを受ける」
という
「口先だけの小物」
にふさわしい呆れ果てた最期でした。

「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」
って、ったく、どの口が言う。

お前が言うなよ。

「昭和天皇陛下の、戦争や戦争を遂行している実務責任者に対する根源的な不信と懐疑、また、精一杯の皮肉と嫌味をもって、暴走する狂気の臣下を、知性でもって抑えようと努力なされた事実」
は、歴史上の記録が雄弁に物語っており、このエピソードから伺い知ることのできる陛下の知性とヒューマニズムに対しては、深い敬服の念を感じざるを得ません。

いずれにせよ、
「大きな事業、かけがえのない貴重な資源を投入して行う冒険的事業」
については、目的をはっきりさせることが重要である反面、
「事業に関わる人間の多くは愚劣であり、目的をはっきりさせないまま、ノリと勢いと直感とアツい気持ち、フワフワした高揚感だけで、プロジェクトをおっぱじめて、結果、無残に失敗する事例」
が今も昔も多く存在し、後を絶ちません。

ここまでの話を前提とすると、
「バッカだなあ。目的不明なまま、適当に何かをおっぱじめても失敗するに決まってんじゃん」
と思われるかもしれませんが、皆さんも、大丈夫ですか?

人生を送る、というプロジェクトは、
「『時間』という取り返しのつかない、かけがえのない貴重な資源」
を投入して行う、私たちにとって
「一世一代の大博打」
とも言える、しびれるくらい大事なプロジェクトです。

皆さん、人生の目的ははっきりしていますか?

目的から逆算した、無駄のない、意味のある、理にかなった、豊かで実りある人生を送っていますか?

「あなたの人生の目的は何? 何が楽しくて生きてるの? ちゃんと目的もって生きている? 意味や目的も推測できないようなこと、いろいろやってるようだけど、それって、全部、無駄で愚劣なことじゃない? なんで、そんな時間の浪費みたいなことやって、勝手に不安に陥って、落ち込んで、悩んじゃってんの? あなたの人生の目的を言ってごらん」
と問われて、
「目下研究中デアリマシテ、何レ奏上イタシマス」
なんて感じで、いい年こいて、いつまでも、痛々しく
「自分探し」
とかやっちゃっていませんか?

もしそうだったら、東条英機のこと、あまり批判できませんよね。

さて、かなり脱線してしまいましたが、人生の目的の設定、という課題対処に戻りましょう。

私個人としては、人生を送る上でも目的をはっきりさせるべきである、と考えており、自分なりに、しっかりとした目的を設定しています。

私の人生においては、
「人生を楽しむこと」
が生きる目的です。

では、もう少し具体的にお話をすすめましょう。

「人生を楽しむこと」
が生きる目的であるとして、次に、
「『楽しい人生』とはなんぞや? その定義はどうなっているんだ?」
という話に至ります。

無論、生きる目的は、人それぞれで、いろいろ異論はあるかもしれません。

そこで、次稿以降において、東大卒の知性と教養と思考力(無論、たいしたものではありませんが)をフル回転して、たどり着いた、普遍的でみなさんにも納得できるような形で、整理した、私なりの
「楽しい人生」
の定義をご紹介したいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.132、「ポリスマガジン」誌、2018年8月号(2018年7月20日発売)