私が、「貧乏人バイアス」と勝手に名付け、遠ざけている価値観・理念・哲学があります。
例えば、
「お金は汚いもの」
「お金に執着する心は邪悪で堕落している」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
といった、美辞麗句です。
1 「お金は汚いもの」?
お金って汚いものなのでしょうか?
私の知っている限り、お金持ちで、
「お金は汚い」
などといった罰当たりな考えをもつ人は皆無です。
皆、お金を大事にします。
中には、家族よりも、自分の命よりも大事にします。
それこそ、死ぬ直前までお金を握りしめます。
他方で、
「お金は汚い」
などと理解不能な戯言をのたまう方は、たいてい、それほどお金をもっておられません。
お金を腐るほどもった人が、
「お金が汚い」
と言うのは、サマになります。
お金をそれほどもったことのない人が、
「お金が汚い」
と言っても、
「お金をもちたくても、自分でお金をもてないもんだから、負け惜しみで言ってるだけじゃないの?」
とツッコミたくなります。
学歴の話になりますが、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉がありますが、これを使っていいのは、東大卒だけです。
東大卒の人間が、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉を使ったら、美しい謙遜として、サマになります。
ところが、東大に入ったことも卒業したこともない人間が、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉を使ったら、見苦しい負け惜しみにしか聞こえませんし、
「『たいしたことない』と言っている東大にすら入れなかったのに、くだらないことを言うんじゃねえよ。東大入ってから言え」
とツッコまれて、大恥をかく危険があります。
だから、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉は、この世の中で東大卒しか使えないのです。
ちなみに、私が東大を目指したのは、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉を、ナチュラルに言ってみたかったからです。
実際、私は、たいしたことない人間です。
これと同様に、
「お金は汚い」
などという言いざまは、お金に縁のない人間が、
「自分の能力や地位に見合わないものを得ようとして得られないとき、人はその物の価値を貶めて心の平安を図ろうとする」
という下劣な精神の有り様そのものです。
そして、
「お金は汚い」
などという、何とも罰当たりなことを口に出したりしている人間は、一生お金に縁がない生活を送ることになるのだろう、と思います。
2 「お金に執着する心は邪悪で堕落している」?
お金に執着する心の有り様は、邪悪で堕落したものなのでしょうか?
じゃあ、どうすればいいのでしょうか?
お金と距離を置き、お金が近づいたら遠ざけ、お金をもたず、お金がダラダラ流れ出ても、流出を止める努力をせず、なすがままにするのでしょうか?
お金に執着しない、というのは、私の理解では、お金にルーズ、と同義です。
自己破産する方の中には、お金にルーズな方が相当にいらっしゃいます。
なぜ、お金にルーズかというと、見栄っ張りで、カッコつけだからです。
「お金のことをうるさく、ぐちゃぐちゃ言ったり、ケチったり、お金に執着するような言動は、見苦しいし、かっこ悪い。かっこいい自分は、お金にこだわらない」
と言って、お金の管理がルーズになり、借金が返せない規模になり、借金のために借金をして、最後に、経済的にパンクする。
そういうパターンで自己破産する方が少なからずいらっしゃるのです。
私は、ケチと呼ばれようが、セコいと言われようが、お金には無茶苦茶執着しますし、管理は徹底します。
私からすると、
「お金に執着しない」
という精神の有り様の方が、最後に債権者に迷惑をかける、という意味で、邪悪で、堕落しており、犯罪的ですらあると思います。
3 「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」?
お金に興味や関心をもったり、お金儲けを考えたり、お金を増やすことを考えたりするのは、下劣で、志の低さを意味するのでしょうか?
貧しい生活や、地味な生活を送ることは、正しく、美しいことなのでしょうか?
中世ヨーロッパにおいて、カトリック教会は
「蓄財や利子取り立ては、『罪』である」
などと説いていました。
このような狂った価値観が蔓延していた中世ヨーロッパは、暗く、貧しく、不合理で、遅れた社会でした。
なお、カトリック教会の欺瞞的な集金手法は、詐欺師もひっくり返るほど大胆で、エゲツないものでした。
カトリック教会は、前述のように
「蓄財や利子取り立ては、『罪』である」
と説くと同時に、
「蓄財の罪は、教会への寄進によって免れることができる」
というアクロバティックな論理を展開し、無知蒙昧な民を恐喝し、金を巻き上げ、莫大な財産を築きました。
ヨーロッパが、暗く、貧しく、不合理で、遅れた中世を脱したのは、カトリックの脅迫的な集団マインドコントロールから脱し、宗教改革、さらには、
「資本主義」
という
新たな「宗教」
が普及したことで、
「利潤の追求や、その結果としての蓄財」
に正当性が与えられたことによるものです。
現在、我々が、中世ヨーロッパの地獄のような社会を脱し、豊かで健康的で楽園のような社会で生活できるのも、
「利潤の追求や、その結果としての蓄財」
を是とする、
「資本主義」
という
「宗教」
が普及したおかげです。
だいたい、ほとんどの方は、株式会社に雇用され、日々の生活の糧を稼いでいます。
株式会社というのは、営利社団法人としての本質を有しますが、要するに、
「金儲けを組織の根本目的とする組織集団」
であり、
「資本主義」
という
「宗教」
における、狂信的で先鋭的な十字軍のような存在です。
お金に縁のなさそうなサラリーマンやそのご家族の方が、
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
などとおっしゃることがあるようですが、どうして、それほどまでに、自己否定をするのか、私にはまったく理解できません。
貧乏から脱するための最初の一歩は、
「お金は汚いもの」
「お金に執着する心は邪悪で堕落している」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
といった、狂った価値観、病的なバイアスに罹患したメンタリティを脱し、お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装することからではないでしょうか。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.174、「ポリスマガジン」誌、2022年3月号(2022年2月20日発売)