00141_「貧乏」という病(続)_20220420

「貧乏」という病、の続編です。

前回、貧乏から脱するための最初の一歩は、
「お金は汚いもの」
「お金に執着する心は邪悪で堕落している」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
といった、狂った価値観、病的なバイアスに罹患したメンタリティを脱し、
「お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装すること」
から始めるべき、というお話をさせていただきました。

こういう言い方をすると、簡単に聞こえるかもしれません。

しかしながら、
「お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装すること」
は、殊の外、難しいのです。

この
「お金ファーストという価値観の実装」
は、
「わかっちゃいるけどやめられない」
の最たるもので、特に、健全で豊かな幼少期を過ごした人ほど、ほぼ不可能といってもいいほど、超絶な難易度のある試みとなるのです。

「健全で豊かな幼少期を過ごした人」
は、
「心優しい、尊敬できる、素晴らしいサラリーマンのお父さんや専業主婦のお母さん」
に育てられ、小学校では、
「心優しい、尊敬できる、素晴らしい教師」
に薫陶を受けた、と推測されます。

では、この
「心優しい、尊敬できる、素晴らしいサラリーマンのお父さんや専業主婦のお母さん」

「心優しい、尊敬できる、素晴らしい教師」
は、皆さんに、どのような洗脳、もとい、教育をしてきたのでしょうか。

「お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装」
してきたでしょうか。

まったく逆ですね。

「心優しい、尊敬できる、素晴らしいサラリーマンのお父さんや専業主婦のお母さん」

「心優しい、尊敬できる、素晴らしい教師」
が、
「形成途上で可塑性のある子ども時代の皆さんの未熟な脳」
に植え付けたのは、
「お金は汚いもの」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
「お金は額に汗して働いて得るもの」
「お金持ちは悪いことをしている人たち」
「悪いことをしているお金持ちに媚びへつらう行為は、下劣で、志の低い営み」
「お金は天下の周りもの」
「お金は結果。正しいこと、価値のあることをしていれば、真面目に努力すれば、お金は後からついてくる」
といった理念や価値観ではないでしょうか。

これらいずれも、前回ご紹介したもの同様、私が、
「貧乏人バイアス」
と呼び、蔑んでいる価値観・理念・哲学の一種です。

そして、このバイアスに罹患している限り、一生、お金と縁が持てません。

お金を創り出すビジネスという世界は、凄まじいまでの非常識な世界です。

「原価率3割の商品販売事業」
というビジネスモデルを考えてみましょう。

これは、言い方を変えれば、
「1万円を5000円で買ってきて、買ってきた1万円を2万円で売りつける」
という、極めて阿漕(アコギ)な営みです。

化粧品の原価率は10%とも20%とも言われています。

仮に原価率10%とすると、
「1万円札を2000円で買ってきて、これを2万円で売りつける商売」
という見方もできます。

こんな凄まじいまでにエゲツない営利活動を、眉一つ動かさず、平然と行う世界。

これがビジネスの世界です。

ビジネスとは、ストレートかつシンプルに表現すれば、
「合法的」詐欺
の別名です。

原価率が10%とか20%の商品を、
「価値あるものを正しい値段で売っているかのようなミスリード(意図的なごまかし。広告宣伝活動とも言われます)」
を行い、錯誤に陥った一般消費者から金をまきあげるのがビジネスです。

安く手に入れた千円札や5千円札を1万円で売るのですから、ビジネスの本質は詐欺です。

ただ、ビジネスと詐欺と異なるのは、ビジネスは、社会的に許容されている、ただそれだけです。

ビジネスというゲーム空間において確立された一定のロジックとルールがあり、それを知り、その空間秩序にしたがって、千円札や5千円札を1万円で売る場合、人は、その営みのことを、詐欺ではなく、
「ビジネス」
と呼称するのです。

素直に、シンプルに、
「正しいこと、価値のあること」
をしても、
「真面目に努力」
しても、お金は決して後から勝手についてきてはくれません。

それどころか、困った人やかわいそうな人に、1万円札を5千円でばらまくような狂ったことをしていると、すぐさま路頭に迷います。

ビジネスの世界での常識は、小学校で教えた価値観や理念から観察すれば、
「額に汗して働いて得る」
ようなものではなく、どちらかというと
「下劣で、志の低い営み」
と位置づけられるようなものかもしれません。

いや、実は、ビジネス世界の常識が健全で正しいのであって、サラリーマンのお父さんや、専業主婦のお母さんや、小学校の教員が教えていることこそが真っ赤なウソなのかもしれません。

貧乏という
「病」
から脱するのは、
「ビジネス世界の常識」
を健全で正しいものとみなし、これと真逆の
「サラリーマンのお父さんや、専業主婦のお母さんや、小学校の教員が教えていること」
を、愚かで劣悪で有害な価値観として徹底して排除することから始めなければいけないのかもしれません。

そして、重度の薬物依存症患者の治療が困難なように、長年洗脳を受けた人間の洗脳解除が困難なように、脳ができ上がっていない小学校時代に反復継続する形で強固に植え付けられた
「真実や現実に反する、誤ったリテラシー」
から脱却するのは、極めて困難なのです。

「信念」

「常識」
といった
「主観的に」
大事なもの(信念も常識も、バイアスの一種に過ぎません。

「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」
というのはアルベルト・アインシュタインの言葉です)を冒涜されると、人間は、ムキになって、いや、宗教戦争や宗教テロをみればわかるように、命を賭して戦ってまで、
「脳内でいったん確立してしまった思考上の偏向的習性」
を守ろうとするものです。

「三つ子の魂百まで」
といわれますが、小さいころに受けた洗脳を解くのは、100歳になっても無理、すなわち、身についた愚かさは死んでも治らない、というほど、強力かつ不可逆なもの、という言い方ができるのかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.175、「ポリスマガジン」誌、2022年4月号(2022年3月20日発売)