不確実性を前提とするゲーム空間において、
「ゲームに負ける状態」
とは、往々にして結果が明らかになる前にすでにわかってしまうものです。
こうした指摘は、裁判や交渉、さらにはビジネスの意志決定に携わる方々にとって、非常に痛烈で示唆に富んでいるのではないでしょうか。
多くの人は、
「勝敗は最後の最後までわからない」
と信じているかもしれません。
しかし実際には、勝敗を確定させるような最終的な結論を待つまでもなく、
「自分がすでに介入機会や制御の契機を喪失している」
ことに気づいたとき、すでにその勝負に敗北しているといえるのです。
そして、それこそが
「ゲームに負ける状態」
なのだ、というわけです。
この
「ゲームに負ける状態」
とは、主に2つのケースに分かれます。
第1のケースは、ゲームのロジックや構造、ルールそのものを理解していない、あるいは誤解している、知ったかぶりしているだけといった状況です。
たとえば裁判であれば、法律や訴訟手続きについて根本的な理解を欠いている状態を指します。
交渉であれば、相手が何を求めているのか、どのような戦略で臨んでいるのかを十分に把握せず、ただ自己流の思い込みで話を進めてしまうケースなどが考えられます。
どのルールが重要か、どのタイミングで勝負が大きく動くかすらわからないままに振る舞うのですから、いくら当事者を名乗っていても、実質的には
「観客同然の置物」
と化しているのに近いかもしれません。
第2のケースは、ゲームのロジックや構造は一応わかっているものの、自分が何をしてもゲームが自分の意思とは無関係に動いてしまうという状況です。
これは、いわゆる力関係の問題が大きく作用しているケースといえるでしょう。
たとえばビジネスの交渉において、相手側が圧倒的なシェアや資本力を持ち、自社がそれに太刀打ちできず交渉の主導権を握られている場合が典型的です。
裁判であれば、相手が決定的な証拠を大量に握っている、一方的に有利な法的立場を確保している、といった具合です。
何をどう工夫してみても結果をコントロールできない状況に陥れば、そこには自分の自由な意思決定はもはや入り込めません。
仮に、そんな状態のまま
「突発的な幸運」
で勝利を拾ったとしても、それは自分の意思や選択がもたらした成果ではないので、素直に喜ぶべきことかどうかは疑わしいのです。
ここでよく耳にする言葉に
「結果オーライ」
があります。
確かに、運よく望外の勝利を手にすること自体は、人によっては
「ラッキーだった」
と感じるでしょう。
けれども、それが
「自分の主体的な働きかけがあったうえでの勝利」
ではないとしたら、果たしてその勝利を誇りに思えるでしょうか。
ドラッカーは
「『自由』とは『責任ある選択ができる状態』である」
と述べたように、私たちは本来、自らの行動とその結果に責任を伴わせることによって、初めて自由を実感できるのではないでしょうか。
「結果オーライ」
は、その責任を放棄したまま結果だけをつかみにいく姿勢だともいえます。
また、
「結果オーライ」
には再現性の問題があります。
もし一度、偶発的な要因によって運良く勝利したとしても、同じやり方を次回に適用したからといって必ずしも同じ成果が得られるわけではありません。
むしろ、一度のラッキーを過信して同じ手段に頼り続けると、長い目で見れば破滅に向かう危険性のほうが高いでしょう。
ギャンブル依存症のパターンをイメージしていただくとわかりやすいかもしれません。
低い確率の賭けに偶然勝ってしまったがゆえに、その勝利を
「自分の実力だ」
と勘違いして繰り返し賭けを行い、最終的にはすべてを失ってしまう。
これは
「偶然」
か
「実力」
かを見極めずに行動してしまう典型例です。
実は
「ゲームに負ける状態」
を甘く見ることは、人間としての尊厳や矜持を自ら捨ててしまう行為にもつながります。
なぜなら、そこには
「自分で選択する意義」
や
「世界に働きかける喜び」
がほとんど存在しないからです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
といった単純な価値観に流されてしまい、
「どうせルールもわからないし、相手には敵わないから、いい加減にやり過ごして最後の結論だけ見守ればいい」
という態度をとるようになってしまうと、その先にあるのは
「主体的な行動」
の崩壊です。
知的探究心や変革への意志を自ら放棄し、あらゆる局面で能動的に学ぶ機会を手放してしまうかもしれません。
では、どのようにすれば
「ゲームに負ける状態」
に陥らずに済むのでしょうか。
まず第1に
「自分が参加しているゲームのルールや構造を正確に理解すること」
が重要です。
裁判であれば、基礎的な法律知識や手続き、証拠の意味や論点整理の仕組みをきちんと押さえる必要があります。
ビジネス交渉であれば、相手の置かれた立場や利害、どのような意図で交渉に臨んでいるのかをリサーチし、こちらが取り得る選択肢を複数用意して交渉に臨みます。
さらに、自分がどのタイミングでどの程度発言し、どういった条件を引き出せる可能性があるかを見極めることも欠かせません。
自分の力が及ばないと判断したら、撤退を含めた他の選択肢も積極的に考えてみるなど、あくまで自発的・能動的に状況を動かそうとする姿勢が大切です。
このように言うのは簡単ですが、実行は決して楽ではありません。
現代社会は情報が氾濫しているようでいて、実際には偏りや玉石混交が激しく、確かな知識とフェイクを見分ける作業は骨が折れます。
とりあえず楽な方法で、
「最後はなんとかなるだろう」
と逃避してしまうほうが、ある意味では心の安定を得やすいという面もあるかもしれません。
しかし、そのまま安易な道を選び、
「ゲームのロジックもわからない、あるいは通用しない」
状態に甘んじてしまうと、結局は
「自由」
とは無縁のままです。
たとえ思わぬ幸運に恵まれて目的を達成できたとしても、それは自分の力で勝ち取ったものではないので、後ろめたさや不安ばかりが心に残るのではないでしょうか。
ドラッカーが言うように
「自由とは責任ある選択ができる状態」
だと考えますと、情報収集や状況分析、そしてそこから導かれる戦略の組み立てと実行が大きな意味を持ちます。
自分が置かれた環境やリソースを冷静に把握し、どこにチャンスがあるのかを見極め、そのチャンスを活かすために適切なリスクをとって責任を負う。
そうして得られた成果こそ、本当の意味での喜びや誇りにつながるはずです。
逆に、偶発的な幸運や不確かな情報に身を委ねて
「結果オーライ」
を期待するだけでは、いつかその付けが回ってくるでしょう。
「結果オーライ」
に魅力を感じる方は多いかもしれません。
特に不確実性の高いゲーム空間では、現実に打ち手がほとんどない状況もあるでしょう。
しかし、
「結果オーライ」
に甘えることと
「打ち手が見つからない中でも主体的に模索すること」
はまったく次元の異なる行為です。
前者は思考を放棄した上で流れに身を任せるだけですが、後者は考えに考え抜いたうえで可能性を探るプロセスを放棄しない姿勢といえます。
そこには、わずかであっても
「自由」
を確保したいという人間的な欲求が込められています。
さらに、
「ゲームに負ける状態」
に陥っているときに、突如として勝利を手にしてしまうのは、ある意味では
「甘い毒」
に近い現象です。
まるで努力も理解もないままにすべてが上手くいってしまったことで、自らの無知や対応策の欠如、主体性の欠如に気づく機会を失ってしまうからです。
こうした勝利に味を占め、
「自分は何もしなくても運が味方してくれる」
と思い込んでしまった場合、次の同じような局面でこそ痛烈な失敗を味わう可能性が非常に高まります。
いわば、一時のまぐれ当たりに慣れてしまうと、後々の負けが一層深刻になってしまうのです。
「自由と自律と自尊を旨として行動する人間」
であるならば、こうしたまぐれ勝ちには決して安易に浮かれるべきではないと思います。
仮に手にした報酬が偶然に左右されたものであるのなら、
「自分の意思と選択の結果ではない」
という後ろめたさや不安がつきまとうでしょうし、同じ方法で次もうまくいく保証もありません。
何より、自らの矜持を保ちたいのであれば、努力や戦略を通じて自分でつかみ取った勝利のほうが遥かに価値があるはずです。
たとえその過程で苦労が多くとも、自分の判断を積み重ねた結果としての勝利であれば、そこには再現性や学びが伴います。
少し辛辣な物言いをすれば、
「結果オーライ」
と唱えるだけで満足している人は、周囲からは主体性のない人物と見られ、軽んじられる可能性もあるでしょう。
厳しい社会の中で仕事をし、何らかの大きな意思決定を迫られる立場にあれば、
「結果オーライ」
ほど危うい考え方はありません。
そこには知識や分析、対話や交渉のプロセスがすっぽり抜け落ちていて、いわば
「運頼み」
の行動しか残らないのです。
それはただのギャンブルに近い行為といっても差し支えないでしょう。
繰り返しになりますが、真に
「ゲームに負ける状態」
に陥っているかどうかは、しばしば結果が出る前に判断できます。
自分の意思や選択がどれほど機能しているのかを冷静に見つめ直すことで、
「このままでは何をやってももう結果には影響を与えられない」
という敗北を感じ取る瞬間があるはずです。
そこからは、ただ待つだけではなく、新たな選択肢を模索したり、ルールや情報を改めて学んだり、もし不可能ならば撤退を含めた打開策を検討する――そうした行動が必要になります。
けれども、そこで安易に
「どうせ無理だから、結果だけ待とう」
「運が向いてくれたらラッキーだ」
と考えるようでは、
「自由と自律と自尊」
を大切にする人としては残念ながら失格といわざるを得ません。
自らの行動が結果を生むという因果の過程を蔑ろにし、責任を引き受ける姿勢を放棄しているのですから、もはやドラッカーのいう
「自由」
からはほど遠い立場に自分を追い込んでいることになります。
もし思わぬ形で勝てたとしても、それは自分の意志の勝利とは呼べず、ただの偶然でしかありません。
したがって、
「ゲームに負ける状態」
であったにもかかわらず、偶発的に報酬を得たときこそ、むしろ自戒すべきなのです。
その勝利を素直に喜んでしまうと、同じような曖昧な戦略や無為無策のまま次のゲームに突入する恐れがあるからです。
こうした事態を避けるには、やはり
「自分がどのゲームに参加しているのか」
「そのゲームのルールは何か」
「自分は何をどこまでコントロールできるのか」
を、丹念に調べて理解したうえで行動するしかありません。
そこにこそ、主体的な行動の醍醐味と、人間としての尊厳が宿るのだと考えます。
最後に、少々挑発的な言い方をお許しいただけるなら、
「結果オーライ」
という言葉に安住してしまう人に未来はありません。
運や偶然、外部からの思わぬアクシデントに任せる生き方では、いつまでたっても自分の力を高めることができず、意思決定における責任やリスクを正面から引き受ける経験も積めないからです。
むしろ今こそ、
「自分はどれだけゲームのロジックや構造を理解し、力関係を見極められているのか」
「自分の意思決定はどの程度、結果に反映されうるのか」
を点検する必要があります。
そうした点検や学習があってこそ、自らの自由を確立し、主体的に行動する醍醐味を味わうことができるのではないでしょうか。
ゲームにおける勝利とは、たとえ不確実性の高い環境でも、まったくの偶然ではなく、自分の意思と判断が確かに組み込まれていると感じられる瞬間のことだと思います。
そうでなければ、どんなに成果を得ても、そこに
「本当の意味での達成感」
は伴わないでしょう。
「ゲームに負ける状態」
を回避し、主体的な意思決定のもとで勝利を勝ち取る。
その積み重ねこそが、自らの矜持を育み、自由を体現するための道筋なのではないでしょうか。
毒を含んだ言い方をさせていただくならば、安易な
「結果オーライ」
に甘んじていては、いつか大きな代償を支払う日が来るかもしれません。
だからこそ今、私たちは
「自分はゲームを動かす主体なのだ」
という強い意識を持ち、自分にコントロールしうる要素を見極め、責任ある選択を積み重ねていくべきなのです。
著:畑中鐵丸