よく、テレビのドラマ等で、デキの悪そうな教師がデキの悪そうな生徒に対して
「最後まで自分を信じるんだ!」
というセリフを言うシーンが出てきます。
私個人としてはこの言葉が大嫌いで、
「自分の能力を安易に信じる」
という思考こそが人間の知的成長の最大の妨げであると思っています。
大きなプロジェクトをきちんと仕上げようとしても、集中力・爆発力だけではうまく行かないのが世の常です。
大事をなす過程では、常に、試行錯誤につきまといます。
「自分のやり方がきちんとした方向性に沿っているのか」
「ひょっとしたらこの方法は間違っているのではないか」
「もっといい方法や効率的な方法がないか」
と自分のやり方を常に疑い、客観的視点から多面的に検証し、漏れや抜け、独善に陥る事を極力排除しないと、大事を成し得ません。
客観的情報の収集とこれらの多面的分析を軽視し、戦理を無視した杜撰な戦略と主観的精神力だけで乗り切ろうとして太平洋戦争において日本軍は無残に敗戦しましたが、「自分を強く信じるあまり大失敗した例」は歴史上枚挙に暇がありません。
私が知っている、東大や京大に現役合格したり、司法試験や国家公務員試験といった難関国家試験に若くして合格するようなタイプの人間は、「鼻持ちならない自信家」というタイプはみかけず、ほぼ例外なく、自分の能力を全く信じていない、臆病な連中ばかりです。
むしろ、「自分のやってきたことが完全とは言い難いのではないか」と疑問をもち続け、どんなに合格可能性が高くても試験当日まで努力を怠らない、心配性の小心者がほとんどです。
さらに言えば、試験の最中においても、目の前の問題に設問者の悪意のひっかけや罠があることを疑い、問題を甘くあるいは軽く解釈することはなく、また自分の作成した解答にケアレスミスがありうることを危惧し、時間の許す限り、検証や再計算を怠りません。
近代哲学の巨人ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり」(cogito, ergo sum.英語では “I think, therefore I am.”)と名言を残し、懐疑をするのが人間の本質である、と喝破しました。
この名言は「『一切の疑問をもたずひたすら信じること』が是とされた中世社会」から近代社会へ脱皮するスピリットを体現したものですが、
「考えることは疑うことであり、信じることは考えないこと」
なのです。
現在日本の産業界において蔓延する製品データ改ざん等の報道をみていると、事件の関係者は口を揃えて
「まさかそんなことがあるとは思っていなかった」
「現場を信じていたのに裏切られた」
等と言います。
しかし、「最後まで自分を信じないし、他人などもっと信じない」ことを信条として、受験戦争を勝ち抜き、疑うことを第二の天性としてきたタイプの人間からみると、「信じる」という言葉を多用する人間の知的レベルは無知蒙昧な中世の民と同じと言わざるを得ません。
むしろ、
「自分の能力など信じるな。他人はもっと信じるな。知性をフル活用して、最後まで疑え」
というのが、過酷な現代社会を生き抜かなければならない若い人たちへの正しいエールなのではないでしょうか。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.015、「ポリスマガジン」誌、2008年11月号(2008年11月20日発売)