最近、地方が疲弊しているといわれますが、実際、旅行等で地方に行ってみると、このことはひしひしと感じます。
例えば、ある地方の駅に降り立つと、駅前にコンビニエンスストアと洋菓子販売のフランチャイズ店と、
「ビジネスホテルとも旅館ともつかないお化け屋敷のような宿泊施設」
があるだけで、あとのお店はことごとくシャッターが閉まっていて、ゴーストタウンと化している。
そして、疲弊している地方には本屋が全くなく、本を買うのに非常に苦労します。
本屋がない地方に行くと、
「こんな地方には、永遠に未来がないな」
と感じてしまいます。
本屋がつぶれるということは、本を読まなくても困らない人が多数派を占めるということであり、本物の知識に価値を認める人が存在しない、ということです。
本を読まない人間は、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて人生を過ごすわけであり、本屋がない地方にも、国道沿いには、飲食店や居酒屋、ゲームソフトの販売店やビデオ販売店が乱立しています。
飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間は、やがて親になり、子供を教育する立場につきます。
しかし、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間が子供たちに本の価値を伝えることはできるはずもなく、こうして、本屋のない地方では本や知識に価値を認めない人間が拡大再生産されていきます。
本を読まず、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じてきた人間が文化的創造力を発揮することはあり得ず、かくして、本を読まない人間が多数となった地方には、発信に値する新しい文化が芽生えず、活力を喪失していきます。
東京に暮らしていると、東京には本屋が実に多く存在するということがわかります。
本屋が多い理由は、本を買って読む人がたくさんいるからです。
そして、多数の本を読む人の出会いが契機となって価値ある文化が生まれるのです。
ここで、京都と大阪を比較してみます。
日本書店商業組合連合会加盟書店数の比較(かなり前の統計ですが、トレンドとしては変わっていないと思います)ですが、書店数については、大阪は245店、京都は211店とほぼ同数です。
人口比で、大阪府(880万人)と京都府(260万人)では、約3倍の開きがあることを考えれば、総じて、大阪は
「人が多く、本屋が少ない」
ということがいえます。
活力に満ちた地方都市の代表格である京都の文化発信力がすぐれているのは、ただ単に、昔、都が置かれていたから、というわけではありません。
大阪にも、あるいは奈良にも、京都より古い時代から都が置かれましたが、奈良も大阪も、みるも無残に疲弊しています。
意味もなく人がウジャウジャいれば文化が生じるというわけではありません。
地方に活力が生まれるか否かは、文化発信の担い手となるべき本を読むインテリ層がどれだけ多いか、さらにいえば、インテリを作るインフラである本屋の数がどれだけ多いかに関わっているのです。
その昔、定額給付金制度があったころ、とある地方で、定額給付金が支給される様子が報道されました。
その際、紹介されたのは、定額給付金の支給を受けた男性が、スナックに直行して焼酎とつまみを楽しむ様子でした。
この報道をみて、私は、
「この地方に未来はないな」
と感じました。
もし、この地方に本屋が多数あり、この男性が定額給付金で本を買っている様子が報道されれば、ずいぶん違った印象をもったかもしれません。
しかしながら、実際、定額給付金をもらってスナックに直行して楽しそうに焼酎を飲む男性を通してみえたのは、未来も何もなく、ただただ疲弊していく地方の姿でした。
言葉はなんとか解っても、話がみえない、意図もみえない、という新種の文盲(機能的非識字)が増えている、という研究報告があります。
メールから、ツイッターへ、さらに、インスタグラムやティック・トックへ、と日本人はますます文字に触れなくなっています。
私個人としては、未来には、字が象形文字になり、
「本」
という文化がなくなるのでは、と考えてしまいます。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.020、「ポリスマガジン」誌、2009年4月号(2009年4月20日発売)