平均的日本人は、裁判官という人種に接したことがないためか、裁判官という公務員に一種畏敬ともいうべき評価を抱いており、「裁判官は誰もが、白馬の騎士が如く、か弱き者の味方として、自分の困難を救済してくれる」等と身勝手な妄想を抱いているようです。
しかし、残念ながら、このような裁判官のイメージは現実のものとは全く異なるものです。
裁判官は、特定の試験に合格することを前提として、特定の採用手続を経て、公務員としての身分を取得しただけであり、別に人格や見識の素晴らしさをもとに選ばれているわけではありません。
無論、高い受験偏差値をもつ試験秀才が集まっていますので、一般のサラリーマンや専業主婦の方々より頭がいいことは間違いありませんが、裁判官の常識や良識に関しては疑うべき場合が多いです。
例えば、ある学校のあるクラスにおいて投票で学級委員を選ぶ際、「○○君は足立区に住んでいるから1票だけ。○○さんは、港区に住んでいるから2票あげましょう。○○さんは、千代田区に住んでいるから5票ですね」なんてことを先生が言い出したら、「そんなの民主主義じゃない」と生徒からツッコミ入れられることは明らかです。
ところが、裁判所の頂点に立つ最高裁裁判所は、国会議員の選挙において「島根県民に5票、東京都民に1票という取扱でもOK。民主主義的にこれで問題なし」などという驚くべき見解を、長年にわたって固持していました。
これは一例ですが、「社会一般の常識や価値観は裁判所も当然のように共有している」と考えるのは早計です。
あと、裁判所は、揉めごとの解決は、すべて証拠の有無で決すべしと考えています。特に、「夫が暴力を振るった」「夫が浮気した」「夫がかまってくれない」「夫が優しくない」等といった犬も食わないトラブルに関して、証拠もなくワーワーキーキー騒ぎ立てるだけの妻側に対して基本的に冷淡です。
そして、裁判所は、「証拠をもたない弱者の主張を無視し、救済を拒否する」ことにあまり抵抗がありません。
むしろ、「弱者といえども、裁判所で救済を求めるなら、テメエの主張する事実について証拠はテメエで準備してもってこい。それもできずに負けるのは、自己責任の観点から当たり前だ!」というのが裁判所の基本的スタンスです。
逆にいえば、「出るところ出てやる」と息巻いたところで、証拠をそろえないことには話になりません。
たまに「神の如く、何から何までお見通しで、人格も見識も立派な裁判官様が、証拠とか文書とかそんな堅いこといわず、粋な計らいで、弱者である自分を救済してくれるはず」などと甘い考えで裁判をはじめる方がいらっしゃいますが、こんなことをしても完璧な敗訴を食らうだけで、惨めな気持ちになるだけです。
離婚にまつわるトラブルを裁判という手続きで打開することを願うのであれば、「裁判官の常識・良識」等という得体の知れないものに期待することなく、専門家の指導の下、丹念に証拠を収集するなど合理的な準備をすべきです。
さらにいえば、裁判などせず、お互い冷静になって話し合いにより解決した方が賢明といえますし、「出るとこ出てやる」などと無意味なハッタリをぶつけて話し合いの環境を悪化させるのは愚の骨頂といえます。
以上、合計6回の連載形式で、離婚にまつわる様々な迷信・都市伝説の類を検証して参りました。
一ついえることは、離婚というイベントには、勝者も敗者もなく、お互い時間とエネルギーとコストを費やすだけの、壮大な無駄であるということです。
このように本質的に無駄の固まりである離婚というイベントに、誤解や妄想や迷信が介在すると、話が余計にややこしくなり、互いに疲弊が増すだけです。
離婚というのは、お互い客観的な情報をもち、妄想や迷信を排して、冷静に話し合い、無駄や非効率を極力抑えて、短期間にキレイに処理するのが一番です。
というよりも、無駄を省いてトクな生き方をしたいのであれば、そもそも離婚などしないのが一番です。
それに、神の前か仏の前か知りませんが、結婚する際には神妙な気持ちで永遠の愛を誓ったのでしょうし、約束とか誓約を守るのは大人としての最低限のモラルですから。
(「離婚にまつわる迷信・都市伝説」・完)
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.013、「ポリスマガジン」誌、2008年9月号(2008年9月20日発売)