00057_「ご臨終間際の企業」とのつきあい方

生きていくための知恵はどこで身につけるか世の中で生きていくために、本当に大事なルールや段取りや考え方は、学校の教科書や文部科学省推薦図書に掲載されていませんし、学校の先生も教えてくれません。

というか、教師はこの種のことを知りません。

「人を信じるな。自分も信じるな。すべてを疑え」
「親や教師や目上の人間のいうことでも間違っていることがある」
「大手や役所と取引があるといって安心するな」
「どうやったら、効率的に金儲けができ、愉快に生きられるかを真剣に考えろ」
「どこに自分にとって快適な居場所があるかを真剣に考えろ。みつけたら、全てをなげうって、そこに最短経路でたどり着け」
「どういう人間と付き合うと出世し、どういう人間についていくと酷い目に遭うかをきちんと見極めろ」
「上品に失敗するより下品に成功する方がマシに決まっている。むしろ成功者や成金はたいてい下品に成功した後、上品に振る舞おうとするものだ。成功した後の上品な戯言は一切無視して、どうやって下品に成功したかをきっちりスタディしろ」
などといった、
「世の中をうまく生きていくための本質的なルール」
を身につけるためには、実地で学ぶことが必要なのです。

バカな会社やダメな会社に入っても何も得るものは全く皆無です。

ダメな会社やバカな会社に入っても、
「探せばどこかいいところがあるはずだ」
「ダメなところをそのまましないようにすれば自分としても成長の糧を得られる」
とポジティブな考え方をする人がいます。

その際、自分を納得させるために、
「反面教師」
という言葉が使われます。

曰く、
「反面教師という言葉があるじゃないか。この会社の経営のあり方を反面教師として、自分は成長するぞ」
と。

一般に、
「反面教師」
とは、
「悪い手本となってくれる事柄や人物」
のことを指すと考えられており、
「人のふり見て、我がふり直せ」
と同じ意味で使われることが多く、故事成語のように思われています。

由来について言えば、「反面教師」
という言葉は、古来の諺でも何でもなく、第二次世界大戦後、毛沢東によって開発された陰惨なリンチ手法を指すものです。

すなわち、毛沢東はある組織に、能力ないし思想に欠陥がある者がいた場合、あえて放逐せず、仕事や権限や尊厳を一切奪った状態で飼い殺しにし、その酷い状況で晒者にすることにより、制裁を加えるとともに、同様の人間の発生や増殖を防ぐという規律手段を用いたそうです。

そして、
「そのリンチの対象となった人物」
を指して
「反面教師」
と言ったそうです。

いずれにせよ、
「反面教師」
は、
「リンチのターゲット」「悪い手本」
ですが、ここから学ぶものは一つもなく、また、学んではいけないものです。

そして、学ぶが「真似ぶ」から転じたことから考えれば、近くにいて、絶対真似てはいけない悪例をどれだけ時間をかけて観察しても有害な意味しかありません。

むしろ、一刻も早く「反面教師」ないし「反面教師」が生息する環境から逃亡して距離を置き、「正面教師」「模範対象」「正しいお手本」の近くに行き(「謦咳に接する」という言葉がありますが、それこそ飛沫感染するくらい近づき)、真似び、学ぶことが正しい教育あるいはキャリア形成というべきです。

たとえば、ここに、東大を強く志望する、開成中学受験に合格した少年がいたとしましょう。

この少年を、あえて、
「教師も生徒もやる気のない、田舎のすさんだ公立中学」
に放り込んでしまいます。

この場合、少年は、周囲の人間や環境を
「反面教師」
として学んで、人として大きく成長して、無事東大に合格してくれるでしょうか。

逆ですね。

おそらく、そのまま開成に入って中高六年間を過ごせば、現役で東大に合格できたであろう少年は、一生東大に合格できないで終わることになるでしょう。

このように
「反面教師」
は、人間の健全な成長にとって有害無益なものなのです。

「目の前の残念な人間や環境を反面教師として成長するぞ」
などという文脈において語られる
「反面教師」
という言葉は、ダメな人間がダメな人間関係やダメな環境から抜け出す努力を放棄する際の自己正当化の弁解道具に過ぎません。

賢明な人間は、
「反面教師」
から全速力で逃げて遠ざかり、一刻も早く
「模範たる教師」
をみつけるための努力をするものです。

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