00101_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」29_(15)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その1_20200820

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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(1)カッコつける人間を演じることのリスク

いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じると、ウソをつかなかればならず、精神衛生上よくありませんし、ストレスがたまり、疲れます。

(2)人間は、生きている限り、法を犯さずにはいられない

そもそも、人間は、生きている限り、法を犯さずにはいられません。

これは、歴史上証明された事実です。

「人間が生きている限りどうしても法を守れない」
「人間が生きている限りどうしても病気や怪我と無縁ではいられない」
こういう厳然たる事実があるからこそ、医者と弁護士という
「人の不幸を生業とするプロフェッション」
が、古代ローマ以来現在まで営々と存在し、今後も、未来永劫存続するのです。

普段暮らしていると、忘れてしまいがちな、重要な前提があります。

「人間は動物の一種である」
という命題です。

人間は、パソコンでもスマホでもAI(人工知能)でもなく、これらとは一線を画する、
「動物」
の一種です。

そして、
「パソコンでもスマホでもAI(人工知能)でもない、動物」
である人間は、生きて活動する限り、ルールやモラルと本能が衝突したときには、必ず本能を優先します。

だって、我々は
「動物」
の一種ですから。

もし、本能に反して、ルールやモラルを優先する人間がいるとしたら、もはや、その人は、
「動物」
ではなく、
「パソコン」

「スマホ」です。

PEPPERくんです。

SIRIちゃんです。

いつもいつも、そんな、清く正しく美しい選択をする人間がいるとすれば、社会心理学上稀有な事例として、研究対象となり、
「なんで、そんな異常なこと、理解に苦しむことをやらかすんだ?」
と考察と検証が行われます(社会心理学では、反態度的行動というそうです)。

(3)どんなに修行を積んだ聖職者でも、欲の前には無力

私が、コンプライアンスに関するセミナーを行う際にご紹介する興味深い事件があります。

高野山真言宗の八事山興正寺(名古屋市昭和区)の前住職らが約80億円を不正に流用したとして、現住職側が背任と業務上横領容疑で告訴状を名古屋地検に提出したことが16日、分かった。14日付。関係者によると、前住職は在任中の平成24年、寺の土地約6万6000平方メートルを学校法人に約138億円で売却。現住職側は、前住職がこのうち約25億円を外国法人に、約28億円を東京都内のコンサルタント会社に送金したと主張。いずれの送金先も前住職と関連のある会社だったとしている。前住職の代理人弁護士は取材に「告訴内容を把握しておらず、コメントは控えたい」と話した。高野山真言宗は無断で土地を売却したとして、前住職を26年に罷免しているが、前住職は「罷免は不当」として現在も興正寺にとどまっている。興正寺は名古屋国税局の税務調査を受け、27年3月期までの3年間に約6億5000万円の申告漏れを指摘された(産経WEST2016年9月16日12時57分配信)。

実に味わいがある、というか、深い、というか、考えさせられる事件です。

「どこの金の亡者の話か?」
と思えば、千日回峰行(空海が教えた密教の修行)を完遂した阿闍梨(仏陀の
「完全な人格」
にかぎりなく近づいている高僧)もいらっしゃる、立派で、高邁な組織で実際あった事件です。

この話以外にも、宮司姉弟間の殺人で話題になった富岡八幡宮事件や、カトリック教会の性的虐待事件など、
「我々、無知蒙昧で、欲まみれで、薄汚れた、迷えるダメ人間」
を導いてくださるはずの、
「難行苦行や修行や日々の祈りによって、欲を克服した、精神の高みに達したはずの聖職者の方々」
も、私のような小心者の想像を絶する、大胆で、えげつないことを、敢行します。

私も
「非日常」
を扱う弁護士という仕事をかれこれ四半世紀もやっていますから、そこそこヤンチャというか、えげつないというか、大胆な人間を知っていますが、このレベルのワイルドな人間は、弁護士からみても、かなりレアというか、オリンピック級です。

そして、特定の、という限定はつくにせよ、聖職者の方々が敢行された犯罪行為の凶悪さ、大胆さをみるにつけ、なんとも感慨深い気持ちになります。

すなわち、これらの事件やトラブルに接すると、
「どんなに立派な修行を積んでも、人間、決して、欲には勝てない」
という、シンプルだが鮮烈な事実を、我々に改めて再確認させてくれる、ということです。

この話が、何につながるか、といいますと、
「人間が欲に勝てない以上、法やモラルを守れといっても、本能と衝突した場面では、必ず、本能が法やモラルに打ち勝つ」
という社会科学上の絶対真実ともいうべき原理ないし法則につながります。

(4)普通に生きていると、1日1つは法を犯す

私の感覚ですが、どんな人間であれ、生きている限り、一日最低一つは法を犯します。

警察や裁判所や刑務所がパンクしないのは、すべての違法行為を取り締まらず、自らの取り締まり能力に見合った数の事件しか取り締まらず、あとは未立件で放置しているからです。

違法行為には、
「目くじら立てて、時間とエネルギーをかけて是非・善悪を明らかにして、公式記録に残されるもの」
以外に、
「発覚しないまま、不問に付され、その後時効にかかるもの」
「お目こぼしされるもの」
といった莫大な暗数のものがあるのです。

いずれにせよ、社会は、違法、違反、約束違反で満ちています。

人間は、誰しも、法を守らず、約束を反故にし、ウソをつき、他人を裏切り・陥れ、目先の利益を姑息においかけて、生きています。

法律も、このような人間の本質をよく理解した上で、
「隠れて、コソコソ、表沙汰にならず、ひっそりと生きていく」
ということを、人格的尊厳を守るための人権として、正面から認めていますというところで、紙幅の限界が来ましたので、この話は次回に続けたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.156、「ポリスマガジン」誌、2020年8月号(2020年7月20日発売)

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