平成に入ってから、「食の安全」「原子力発電の安全性」ということが叫ばれはじめ、また、「安全神話が崩壊した」などという報道を多くみかけるようになりました。
しかし、よく考えてみますと、日本において科学技術や安全に対する考え方は日々進歩しており、昭和の時代に比べて、社会は確実に安全で住みやすくなっているはずです。
にもかかわらず、日本社会が安全でなくなったような気がするのは、日本において「安全性そのもの」が失われたのではなくて、「安全性」を最終的に保証してくれるべき人間がいなくなったということなのだと思います。
「トップの顔がみえる組織」という言葉がありますが、かつて、国や企業などの大きな組織のトップは、誰もが強烈な個性を有していました。
ソニーやホンダの個性豊かな創業者は誰もがよく覚えていますが、現在のソニーやホンダの社長がどういう人で、どういう個性と哲学をもっており、会社をどのような方向にもっていこうとしているのか、よくわかりません。
かつての「顔」をもったリーダーたちは、危機が到来したときにこそ、その強い個性を堂々と発揮し、安全や信頼の崩壊を食い止めていたような気がします。
最近のトップは、不祥事が発生すると、記者会見はするものの、妙におどおどしたり、コソコソしたりして、個性を極力出さず、目立たずに済まそうとする傾向があります。
不祥事がなくてもコソコソぶりは変わりません。
株主総会は、トップが個性や哲学を最大限アピールできる格好の場であるにもかかわらず、ほとんどの企業のトップは、波風立てずに、事務的に済ませようとします。
無論、「組織の顔」として強烈な個性を発するからには、裏付けが必要です。
すなわち、絶対的な自負と責任感があってこその個性です。
危機に際して、トップが無個性な対応をするのは、おそらく、自負と責任感を喪失しているからなのでしょう。
しかし、そんな対応では、安全や信頼の回復の困難性が露骨にわかってしまい、無用に不安がかきたてられます。
その昔、よど号という飛行機がハイジャックされたとき、後に「男、山村新治朗」と呼ばれた当時の運輸政務次官は、飛行機に単身乗り込み、自分の身を差し出し、人質となっていた一般市民を解放しました。
安全や神話が崩壊したときに、これらを回復するのは、こういう露骨なまでに個性的な対応です。
中国産の食品の安全性や信頼性を回復するために食品輸入商社の社長とその家族が毎日自社輸入食品を食べている様子を克明にアピールするとか、原子力発電の安全性を理解してもらうために、電力会社の社長と家族ともども原子力発電所に隣接する地域に引っ越すとか、「男、山村新治朗」に負けない個性的な対応はしてくれないのでしょうか。
この世の中に絶対安全などということはありませんし、大なり小なり危険やリスクを受け入れないと社会は成り立ちません。
安全神話は、「神話」という言葉のとおり、どこまでいってもフィクション(虚構)にすぎませんが、そんなことは、我々市民は、皆わかっています。 我々市民が危機に際してトップに求めているのは、小難しい言葉で事故原因や今後の対応を、正確かつ控えめにボソボソ語で語るのではなく、強い個性を発揮し、大きな声で、ウソでもいいから、身体を張って安全であることを保証してくれることなのです。
著:畑中鐵丸
初出:『筆鋒鋭利』No.001、「ポリスマガジン」誌、2007年9月号(2007年9月20日発売)