00130_アフターコロナ・令和の時代を読み解く_その3_20210520

前回、前々回、
「アフターコロナ・令和の時代を読み解く」
と題して、スピリチャル的な話として、
「物理的所有」
の価値観に重きをおく
「土の時代」
から、
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される、
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったことや、昭和や平成時代に当たり前とされてきた古いものや古臭いものが一掃され、DXやAIの普及により企業におけるゲームのルールやプレースタイルが変わる、飲食ビジネスが激変する、などといったことを申し上げました。

まだまだ話したりない点がありましたので、今回も同じテーマで、さらなる補足をして
「アフターコロナ・令和の時代を読み解くヒント」
のようなものを述べていきたいと思います。

4、副業やフリーランスという働き方の一般化(承前)

大企業は、大規模なリストラを見越してか、自社従業員に対して、盛んに副業を勧めています。

副業をもっていると、リストラをされても、衝撃が和らぐので、
「君たち、今後何時リストラされてもいいように、今から、準備しておけよ」
ということだろう、と思います。

前向きなことをいえば、副業やフリーランスという働き方は、個々人が企業や組織に依存せず、経済的独立が精神的独立につながり、独立した気概を養い、経済や社会を活性化させる、ということになるのかもしれません。

ただ、
「組織に依存して、組織でしか通用しない価値を提供してきたサラリーマン」
がいきなり副業を始めたり、フリーランスになろうとしたりしても、無理があります。

まずは、足元をみて、
「組織でしか通用しない自分の価値」

「組織以外でも、社会でも通用する価値」
に変えていく必要があるのです。

そのためには、やみくもにスキルを磨くだけでなく、
「自分のスキルや価値の再定義・再構築」、
さらには、
「自分のスキルや価値」

「ミエル化・カタチ化・言語化・文書化・フォーマル化」
をして、外部に発信したり、表現したりすることが求められるようになると思います。

5、学校教育の変化

コロナによる社会変化・環境変化により、教育も変わるし、学校も変わるかもしれません。

学歴やキャリアということについても、ゲームのロジックやゲームのルールが激変するかもしれません。

コロナ禍によって、学校がしばらく閉鎖となり、そのため、これまで、頑なに
「インターネットによる情報通信」
という利便性の受け入れを拒否してきた学校ないし教育システムも、変化(というか、ネット時代になってもなお、石器時代のような古臭い価値観にしがみついてきたスタイルが、キャッチアップすることで、当たり前化・正常化する)を余儀なくされました。

予備校や資格試験準備においてはすでに一般化されていた通信教育・オンライン教育、というものが、学校教育にも入り込んできました。

当たり前ですが、
「学校で行われる、教師によってバラつきのある、サービス基準もなく、競争原理も働かない、効率的でもなく、時間や場所による制約が著しい、古典的教育サービス」
と、これと真逆の通信・オンライン教育サービスとでは、最初から、勝負はみえています。

おそらく、学校サイドでは強烈に抵抗するでしょうが、
「論理的正しさへ向かっていく変化」
に対して、政治的抵抗を試みても、降りのエスカレータを登攀するのと同様、持続可能性がなく、長期的・構造的には、変化に屈服することになります。

コロナ禍による社会の激変によって、
「不効率・不合理・非論理的・不経済性著しかった学校教育業界」
に変化の楔が打ち込まれ、大胆に変わらざるを得なくなると思います。

すべての学校が、放送大学や通信制高校のようになるかもしれません。

放送教育や通信教育だと、教える側のスキルが厳しく問われ、
「退屈な授業しかできない、トークの弱い、研究バカ」
が駆逐されるかもしれません。

「未来の学校」
はどんなものになるのでしょうか。

必要なリテラシーの実装は、すべてオンラインや通信で事足ります。

「話が下手くそで、退屈で、眠い授業」
に強制的に付き合わされることから開放され、それこそ、
「林修先生」のような、
「東大卒で、圧倒的に知識や教養が豊かで、話がうまくて、教えるのもうまい、スーパー先生」
から、退屈しない話を聞いて、メキメキ頭がよくなります。

知的好奇心旺盛で、勉強に興味がある生徒は、どんどんオンライン講座の勉強を進めていきます。

テキストも資料もすべてオンラインで提供されます。

死ぬほど重い、分厚い教科書をたくさん抱えて、つまんない教師から、眠たい話を聞くためだけに、無駄な通学時間を費消して、苦行のように学校に行くことから解放されます。

知的好奇心が旺盛で、勉強に興味がありながら、
「悪しき平等理念」
によって、これを抑え込まされ、飛び級等による健全な進歩と成長を禁じられるような愚行もなくなります。

とはいえ、学校は学校なりの意味が残ることもあるでしょう。

通信教育を補充するためのチュータリング施設として、保護者が忙しい家庭の子供を預かる収容施設として、同世代の友達と楽しく過ごすサロンとして、クラブ活動を行う際の活動拠点として、実力テストの試験会場と採点役として、であれば、オンラインや通信インフラが整った現代においても、
「学校」
という時代に適合しないカビ臭いインフラも廃物利用できそうです。

登校するのは、試験を受けるときか、通信教育を補充するためのチュータリングを受けるときか、友達と楽しく過ごすためのサロンに参加するときだけ。

担任の先生は、チューターであり、サロンの主人であり、クラブ活動の監督者であり、試験の際には、試験監督と採点担当をする。

私は、
「昭和や平成時代の、古臭くて、かび臭くて、退屈で、つまんないし、その割にエラそうで、権威主義的な学校や教師」
というものがあまり好きではなかったですが、以上のような
「未来の学校」
「未来の教育」
なら、
大歓迎です。

学級崩壊やイジメが生じるのは、無理してつまんない授業を聞かせようとしたりして、逃げ場のない密度の高い閉鎖空間にストレスが高い状態で知性未熟な(さらにいえば、動物的で暴力性をもつ)子供を長時間収容するからであって、
「未来の学校」
には、イジメも学級崩壊もなくなるかもしれません。

オンライン教育であれば、
「教育カリキュラムについていけない知性低劣で粗暴で自己抑制が困難な児童や生徒」
が、教師や教育インフラに八つ当たりしようとして、パソコンやタブレットを破壊しても、オンライン教育システムは破壊から免れます(自分のパソコンやタブレットが壊れるだけ)。

また、
「逃げ場のない密度の高い閉鎖空間にストレスが高い状態で収容される」状態
でなくなれば、イジメは劇的に少なくなりますし、仮にイジメが生じたら
「学校」
という
「不愉快であれば、別に行かなくてもいい、サロン」
を敬遠し、自宅でオンライン教育に没頭し、
「飛び級」
すればいいだけです。

学校という組織や、教師個人という、現代の教育サービスに利害や既得権をもつ連中にとっては、不愉快かもしれませんが、効率性、合理性、論理性、経済性にとっては、これが現代において本来あるべき学校や教育の理想の姿であり、社会にとっては輝かしい、美しい姿であるような気がします。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.164、「ポリスマガジン」誌、2021年5月号(2021年4月20日発売)

00129_アフターコロナ・令和の時代を読み解く_その2_20210420

前回、
「アフターコロナ・令和の時代を読み解く」
と題して、スピリチャル的な話として、
「物理的所有」の価値観
に重きをおく
「土の時代」
から、
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される、
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったことや、昭和や平成時代に当たり前とされてきた古いものや古臭いものが一掃され、DXやAIの普及により企業におけるゲームのルールやプレースタイルが変わる、などと申し上げました。

話したりない点がありましたので、今回も同じテーマで、少し補足して
「アフターコロナ・令和の時代を読み解くヒント」
のようなものを述べていきたいと思います。

3、飲食店の提供価値の再定義(承前)

コロナ禍で最も大きな影響を受けているのは飲食店です。

皆さんの周りでも、閉店したり休業したり、このコロナ禍で大変厳しい影響を受けている飲食店があるかと思います。

アフターコロナ・令和の時代に、飲食店は
「今まで通りの業態」
で生き残れるのでしょうか?

それとも、事業環境の劇的な変化に伴い、新たな形に転換することが求められるのでしょうか?

「飲食店」
ですが、昭和においても平成においても、その名称とは異なり、単に
「飲食だけが提供され、食えりゃあ、それで役割が全うされる施設」
ではなく、
「高い価値のある空間で、うまいものを食って、楽しく快適な時間を過ごす、一種のテーマパーク的設備」
という趣きがあったように思います。

もちろん、ファーストフードや牛丼屋やラーメン店のように、
「とっとと食事を済ませて、終わったらすぐに出る」
という合理性に徹した本来的な飲食提供施設もありますが、都心の一等地にある多くの飲食店は、店の外観や内装、座敷やテーブルのつくり、しつらえ、什器や調度品、サービススタッフの服装や立ち居振る舞い、行き届いたサービス等も含めて、食事代金プラス体験価値(テーマパークに行ったような体験価値)に対する費用が上乗せされた高額の費用を支払うことで成り立っている施設が大半でした。

そこでは、単に、
「食事ができれば、それで事足りる」
という話ではなく、テーマパークのように、当該場所に一定時間滞在することに意味の大半があり、夜遅くまで、ゆっくり時間をかけて、ぺちゃくちゃ喋り、食事の相手と親密さを増し、あるいは取引関係を含む人間関係を円滑にする、という目的がありました。

特に、お酒という、原価率が低く、貯蔵ができ、しかも経済性を逸脱した価格設定が可能な嗜好品が収益の柱になっており、お酒が提供される夜や深夜の営業が飲食店存立の基盤を形成していました。

しかしながら、このような事業のあり方(特に、夜や深夜の営業)が、
「コロナの感染拡大防止」
という公共政策目的によって全否定されてしまい、事実上、事業が大幅に制限されてしまいました。

そして、このような事業環境の変化に併せるかのように
「上質な価値空間において、客に、お酒を含めた食事を楽しみつつ、長時間滞在してもらう」
を役務内容とする飲食店が、どこもかしこも、テイクアウト(弁当)やケータリング(仕出し)を開始しました。

私も、いわゆる高級店の高級テイクアウトやケータリングを試してみましたが、どれもこれも、まったく美味しくありません。

少なくとも、価格に見合ったものではなく、リピートするような代物とはまったく出合えませんでした。

経験による習性とは恐ろしいもので、飲食店に行かない期間が続くと、飲食店については、
「あってもなくてもいいし、なくても別に困らない」
「テイクアウトやケータリングではもちろん利用する可能性があるが、味がイマイチだったり、味がそれなりであってもバカ高いものであれば、その店を見限る」
という行動が当たり前になってきました。

こうなると、アフターコロナの時代には、
「上質な価値空間における長時間の滞在を提供役務内容とする飲食店ビジネス」
は、
「あってもなくてもいいし、なくても別に困らない」
という捉えられ方をされ、以前のようなバブリーな持て囃され方をされなくなるかもしれません。

このことは、不動産屋がバブル期以降、以前ほどには持て囃されなくなった事例が参考になるかもしれません。

その先にあるのは、飲食店の本来的な姿・形の、強烈な様変わりではないでしょうか。

「テイクアウトやケータリングをメインとするキッチンに、申し訳程度にイートインスペースが付いている施設」
がデフォルトになるかもしれません。

また、
「飲食業界におけるプロフェッショナルの階級序列」
に革命が起こるかもしれません。

「料理人」

「弁当屋さん」
とでは、
「料理人>弁当屋」
という序列・格付けがあったやに思います。

ですが、コロナ禍になって、
「実は、『弁当屋』の方が、『料理人』より、遥かに高い技術が要求される」
ということが判明したのではないでしょうか。

「高級フレンチや高級割烹が、今まで店で出していたものをそのまま折り詰めしてテイクアウト用に、店で提供する価格(弁当としてはあり得ないくらい高価)で提供しはじめましたが、前述のとおり、どれもこれも味がイマイチでしたし、それなりの味かなと思えるものでも弁当としては圧倒的にコスパが悪くて、リピートされずに、ビジネスに失敗」
という事例が結構あったように思います。

これは、飲食店が、弁当ビジネスをナメ切っていて、失敗したのではないでしょうか。

できたての料理は、イマイチでもそれなりでも、まあ食べられます。ところが、どんな高級の料理でも、時間がたったり、冷めてしまったら、食べられたものじゃありません。

その意味では、飲食店では、
「できたてを提供できる」
というアドバンテージがあり、別の言い方をすれば、
「店で出すと、皿や雰囲気でごまかせるし、温かいものを提供できるので、味がイマイチでも目立たない」
という意味で、ごまかしが利いていたのかもしれません。

他方で、弁当を作るには、
「時間が経って冷めても美味しい」
という過酷な条件をクリアすることが要求され、そのために、ゴマカシが利かない高度の調理技術が必要とされます。

加えて、弁当は、廉価でコスパが良くないと、見向きもされないか、見向かれてもリピートされず、すぐ潰れますので、一般飲食店には想像もつかない価格競争力が求められます。

アフターコロナ時代には、
「超一流の弁当職人」
「仕出し界のスター」
「テイクアウトの魔術師」
という人間が珍重されるようになり、飲食業界の序列としては、
「弁当屋>料理人」
になるかもしれません。

銀座や丸の内といった一等地においても、テイクアウト・ケータリングがメインで、イートインスペースが申し訳程度か、あるいはそもそも存在せず、どうしても外食したければ、昔の貸席型料亭(板前がおらず、板場もなく、酒以外の料理はすべて仕出しでまかなう)のように、飲食スペースは別に、お金(席料)を払って、場所だけ借りて、仕出しを手配してもらう、ということになるかもしれません。

今まで
「抱き合わせ」の形
で曖昧になっていた、
「料理代と飲み物代と席料(または部屋代)とサービス料(または奉仕料)」
が振り分けられ、提供価値に対する価値認識が明確に整理され、サービスがより進化・深化・高度化・発展することになるかもしれません。

整理できないものや明確化できないものは、改善も発展も望めませんから。

食べるものは食べるもの、場所は場所、什器は什器、サービス料はサービス料、と明確に分類整理され、様々な組み合わせが可能となり、飲食という営みの再定義・再構築ができるようになれば、新たな食文化が生まれるかもしれません。

そうなったら、私としては、一度、数寄屋作りの古風な日本家屋で、素晴らしい日本庭園や横山大観先生の襖絵を眺めながら、備前にマックのポテトのチーズソースかけ、古伊万里に吉野家の牛丼をそれぞれ盛り付けてもらって、デカンタージュしたシャトー・オー・ブリオンをバカラのグラスでいただき、食後はスタバのラテを天目茶碗で飲む、なんて究極の贅沢をやってみたい、と思っています。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.163、「ポリスマガジン」誌、2021年4月号(2021年3月20日発売)

00128_アフターコロナ・令和の時代を読み解く_20210320

一昨年から、元号が令和に変わりました(記事を書いた当時は2021年2月です)。

昨年(2020年)から新型コロナウィルスが感染拡大し、2021年の今に至ってもなお猛威を振るっています。

非科学的なこと、スピリチャルなことを申し上げますと、西洋占星術では、2020年12月22日を境に、産業革命から始まり200年続いた、大量生産・大量消費を前提として人々が物や形あるものを
「所有」すること
を求める
「土の時代」
から、情報や知識など形のないもの・伝達や教育などが重視され、人々は何より
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったなどといわれています。

いずれにせよ、ここ1、2年で、時代が激変したことは、諸事鈍感な私でも、ビンビン感じる今日このごろです。

本稿では、今後、
「アフターコロナ・令和」
の時代になって、社会がどのように変わるのか、について、私なりの、いつものように独断と偏見に基づく雑感を述べてみたいと思います。

1、古臭いものや不条理なものが消え去る時代

ちょっと前までは、昭和や平成初期のころまでにでき上がった古臭いものや、無駄なもの、陳腐なもの、意味や価値が不明な建前や虚構や不条理が惰性でまかり通っていました。

しかし、令和になり、新型コロナの感染拡大に伴って、古臭いものや、無駄なもの、陳腐なもの、意味や価値が不明な建前や虚構や不条理がたちまち消え去り、しかもその消え去るスピードが今までは考えられなかったほどの速さになったような気がします。

具体的には、男尊女卑といった価値観、銀座のクラブで遅くまでダラダラ時間を過ごすというナイトライフ、取引や会議は雁首揃えて対面でという非効率なコミュニケーションや意思決定方法等。

こういう古臭いスタイルや価値観は、リモートでその非効率っぷりが顕著となり、また、その不条理さや歪さはSNSで一挙に拡散し、世論となって、消え去る圧力が形成されるようになりました。

今後も、平成時代にまかり通っていた、このような古臭い、カビ臭い、不条理や非効率がどんどん消え去っていくものと考えられます。

2、ヒトに優しくないデジタル・情報通信

また、平成のころに持て囃された
「IT」
「ICT」
といった情報通信技術は、ヒトと共有し、ヒトをサポートし、ヒトに奉仕し、ヒトを豊かにするような、ヒトを邪魔しないし、ヒトを攻撃しないような、そんな方向性をもつコンピューティングや情報通信ないしその使い方でした。

令和の時代、
「IT」「ICT」
と呼ばれたものは、
「DX」や「AI」や「RPA」や「リモート」
といった装いを変えて取り沙汰されるようになりました。

これは、単に名前が変わっただけではありません。

ヒトに優しい、ヒトに奉仕する、ヒトを攻撃しない
「IT」「ICT」
から進化・発展した
「DX」や「AI」や「RPA」や「リモート」
は、使えないヒトや風習や慣行を排除し、使えないヒトや風習や慣行と競争し、張り合い、使えないヒトや風習や慣行を攻撃し、駆逐し、排除し、殲滅する、といった方向性をもつコンピューティングや情報通信ないしその使い方を示唆しています。

新しい環境や新しいゲームのロジックやゲームのルールを見据えて、自分の価値を再定義、再構築して、社会や環境に適合していかないと、知らない間に社会の隅に追いやられる、それが令和の時代ではないでしょうか。

令和の時代がすすむと、
ホワイトカラーその他「管理職」
という業務領域のほぼ全てが消滅するかもしれません。

特に、イノベーションとは無関係な、ルーティンオペレーションを担う管理職が、ことごとくいなくなるような気がします。

「昨日まで、30人、100人が出社して運営していた業務を、いきなり、AIやRPAにアウトソースする」
などという過激な業務改革をすると、ビジネスや管理オペレーションに重大な支障が出るかもしれませんし、リストラされる側も黙っちゃいないでしょうし、最悪赤旗を掲げて、かつての国鉄のような深刻な労使紛争になるかもしれません。

ところが、半年あるいは1年ほど、すでに
「リモート」状態
で、出社する人間が誰もいない状態で、
実質は「外注」しているような外観でオペレーションしている業務をAIやRPAにアウトソースする、
ということであれば、衝撃は少ないかもしれません。

また、企業での仕事が生活の糧のすべてであるホワイトカラーをいきなりリストラすると、抵抗も必死になり、大変な事件になるかもしれませんが、
「副業」
を持っているのであれば、リストラされる側の衝撃もやや緩和され、解雇騒動もソフトランディングできる期待が持てそうです。

こういう見方を前提としますと、現在、大企業を中心にグイグイ推進されている
「リモート」「副業」
というトレンドが、将来のホワイトカラーの大リストラの布石を打っているのではないか、とも思われるところです(思い過ごしであればいいのですが)。

「丸の内(東京都千代田区丸の内)」
という街は、いってみれば、生産拠点でも販売拠点でもなく、管理拠点が集中している、ただそれだけの街です。

大企業が、管理をヒトから
「AI」や「RPA」に
「アウトソース(恒久的なリモート化)」
し始めて、管理機能が大幅に小さくなると、今までの管理拠点としての丸の内が街ごと消滅するかもしれません。

今から、10年後、丸の内には、企業の本社や拠点が一掃され、ホテルやマンションだけになっているかもしれません。

また、令和の時代がすすめば、メールが上手、リモート環境において短時間で要領よく用件を伝えられる、義理人情浪花節ではなくクリアにベネフィットを伝えられる、というスキルが必要になるわけですから、
「交渉力がある」
「威圧感がある」
「オーラが半端ない」
という人的価値要素が、ビジネスにおいてその価値を喪失するのかもしれません。

平成の時代に、大きな顔をして会社内を闊歩していた
「雰囲気やオーラのある、エラそうなおっさん」
が企業から駆逐される、そんな時代も予感させます。

以上、いろいろ、雑感を申し上げましたが、私の独断と偏見に基づく、適当なものですので、どこまで当たるかはわかりません。

信じるか、信じないかは、皆さん次第です。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.162、「ポリスマガジン」誌、2021年3月号(2021年2月20日発売)

00127_「退屈で、お上品で、説教臭く、ジジ臭い社訓」を作る会社はたいていブラックだし、未来がない_20210120-20210220

「社訓」
と呼ばれるものがあります。

会社としての訓(おしえ)を略したものと思われますが、会社の役職員すべてが順守すべき、行動規範・指針として定めた理念や心構えを示したものです。

ちなみに、
「ブラック企業が使いがちな社訓キーワード」
と、いうものがあるそうです。

「挑戦(チャレンジ)」「創造」「誇り」「感謝」「最高(最良、ベスト、No.1)」「思いやり」「チーム」「仲間」「誠実」「真心」「正直」「自主性」「働きがい」「愛」「夢」「幸せ」「信頼」「安全第一」「満足」「健康」「感動」「成長」「やりがい」「精神」「姿勢」「向上」「貢献」「社会(の発展、繁栄)」

こういう、抽象的で無内容ながら、耳に心地いい、響きの美しい、デオドランド(清潔)で、お上品な言葉であったり、高潔さ・高邁さが感じられる言葉、逆に言えば、教師や宗教家が使いそうな、説教臭い、ジジ臭い、退屈そうな言葉を社訓にするような会社は、労働者の人権を無視して、奴隷労働を強いるようなブラック企業にありがちだ、ということのようです。

これと似ているのがヤンキーの価値観とされる
「気合主義」

「反知性主義」
です。

斎藤環氏(精神科医だそうです)著「ヤンキー化する日本」(角川ONEテーマ21刊)
によれば、
「ヤンキーは、熟慮を嫌う、理屈を嫌うという反知性主義の傾向が強い」
「ヤンキーにとって無条件に『良いもの』とされている言葉は、『夢』、『直球』、『愛』、『熱』、『信頼』、『本気』、『真心』、『家族』、『仲間』、『覚悟』、『遊び』、『シンプル』、『リアル』、『正直』 … 」
「アツさと気合いで、やれるだけやってみろ、という行動主義」
「判断より決断が大事、考えるな、感じろという世界」
と書いてありますが、ヤンキーとブラック企業って、顕著な親和性があります。

ここで、2019年度に、栄えある(?)ブラック企業大賞に輝いた、M株式会社の社訓をみてみましょう。

Mグループは、技術、サービス、創造力向上を図り、活力とゆとりある社会の実現に貢献することを企業理念に掲げています。これは、創業時の『経営の要諦』に示した『社会の繁栄貢献する』『品質の向上』『顧客の満足』の考え方を引き継いだもので、社会やお客様に対するMの対応の基本精神となっています。この精神を具現化するため、『七つの行動指針』において、社会やお客様などとの高い『信頼』関係を構築すること、最良の製品・サービスや最高の『品質』の提供を目指すこと、研究開発・技術革新を推進し、新しいマーケットを開拓することにより『技術』でお客様のご期待にこたえること、などを姿勢として示しています。この考え方のもと、Mグループでは、高品質で使いやすい製品づくりから、ご購入後のサポート、不具合発生時の対応まで、すべての事業活動において常にお客様の満足向上に努め、社会の繁栄貢献していきます。

この社訓からは、ブラック企業の香りもそうですが、
「気合と勢いがあればなんとかなる」
「考えるな、感じろ」
「ややこしい理屈をこねるより、大それたことを実行した奴が偉い」
「ハートで熱く感じて考えずに行動に移してテッペン取ったれ」
みたいな反知性的なヤンキー臭がぷんぷんしてきます。

こういう前近代的な会社は、従業員の犠牲の下に一生懸命金儲けに勤しんでくれますので、株主にとっては実によい会社です。

その意味では、株を買って株主として資本参加はしたいですが、入社して従業員としては働くのはマジ勘弁です。

日本人や、日本の組織の上層部の方は、昔からこういう
「センスのない訓示」
を作るのが好きだったようです。

戦時中(といっても、第二次大戦中ですよ。京都人みたく「応仁の乱でっしゃろ」とか言わんといてくださいね)、
「教育勅語」
というものがありました。

教育勅語の効果のほどについて、
パオロ・マッツァリーノ著「反社会学講座」(イースト・プレス刊)
に面白いことが書かれています。

「昭和23年の(少年犯罪としての)強盗件数は『戦後最高』の3878件。これは戦後の混乱期だったことを示します。当時の17歳は、教育勅語による学校教育を受けています。近年、教育勅語の有用性を訴える老人がいらっしゃいますが、なんの効果もないことが証明されました。人間、食うのに困れば、盗みを働くのです。道徳教育を強化したところで、犯罪の抑止効果は期待できません」

このように、説教臭い社訓、ジジ臭い社訓、お上品な割に無内容で上っ滑りしているような社訓を作って悦に入っている経営者は、今どき、ちょっとセンスがありませんし、こんなセンスのない会社にロクな従業員は入ってこないですし、業績もイマイチでしょうし、少なくとも、未来はあまりなさそうです。

じゃあ、どんな社訓がいいのでしょうか?

社訓は、人間の本質に訴えて、人間がもつ根源的なエネルギーを解放あるいは活性化させ、これを単一目的に収斂し有機的に結合させ、組織としてのエネルギーに転換させ、組織が希求し、組織でしかなし得ない大きな目標を達成させることに、その本来的役割が存します。

ここで、
「組織が希求し、組織でしかなし得ない大きな目標」
とは何でしょうか? 

「弱者救済」や、
「差別なき社会の実現」や、
「社会秩序や倫理の発展」や、
「健全な道徳的価値観の確立」や、
「世界平和の実現」や、
「環境問題の解決」や、
「人類の調和的発展」や、
「持続可能な社会の創造」なのでしょうか?

また、
「企業活動やビジネス活動において」、
訴えるべき
「人間の本質」や、
活性化させるべき
「人間がもつ根源的なエネルギー」
とは何でしょうか?

「挑戦」や「創造」や「誇り」や「感謝」や「自主性」や「愛」や「思いやり」や「信頼」や「正直さ」や「真心」なのでしょうか?

まったく違いますね。

企業(株式会社)の目的(ミッション)は、会社法の教科書の冒頭に書いてあるとおり、
「営利追求」
であり、それ以上でもそれ以下でもありません。

無論、「非法律的な」目的を主観として勝手に思い込むのは自由です。

しかし、それは、非法律的なものであるがゆえ、他者とは共有出来ないものです。

上場企業が、社長の個人的思い入れで、「わが社は、営利を捨ててでも、従業員への愛や思いやりを優先します。したがって、銀行への返済を停止し、納税を忌避し、配当を無期限に行わず、余剰資金を全て賃金に回します」といった場合を想像してください。

このような「非法律的」な目的を、銀行や、税務当局や、目つきの鋭い投資家が、笑って許してくれるでしょうか?

そもそも、企業(株式会社)は、
「『営利追求組織である企業に集う人間』誰もが本質的に有する、『カネが欲しい』、『地位や名誉や自己承認の欲を充足したい』という無限にほとばしる強烈なエネルギー」
を結集し、収斂させ、有機的に結合させ、これを効果的に発散させて、凄まじいまでの規模感とスピード感で
「営利追求」
目的を達成させようとするのです。

要するに、前記のブラック企業が好むエレガントでデオドランドなキーワードは、このような構造・本質と真逆のものであり、端的に言うと、
「ウソをついている」
といえるのです。

このような
「ミエミエ、スケスケなウソ」
を臆面もなく、かつ偉そうに語る、という下劣で愚劣なところに、ブラック企業やヤンキー集団の本質的いかがわしさが看取されるのです。

外資系の金融企業やIT企業等、しびれるくらい儲かっている会社は、「退屈で、お上品で、説教臭く、ジジ臭い社訓」や「道徳や倫理を説教くさく押し付ける社訓」など作りません。

会社のカルチャーを発信するだけです。

「『カネが大好き・楽しいことや快楽が大好きで、欲まみれで、カネや欲のためにはどんな努力も厭わない』という人間の本質に訴えかけ、人間のエネルギーを健全に爆発させるような、明快なカルチャー」
があり、 これをオープンにする。

ただ、それだけです。

「欲のエネルギーを封印させるような説教臭く、ジジ臭く、年寄り臭く、退屈な社訓」
は、人間の有する本来的な活動指向性と真逆のものであり、本質的・構造的に無理があります。

「本質的・構造的に無理がある」
ような指示・命令は、
「降りのエスカレーターを上れ」
というメッセージと同様であり、一過性はあっても持続可能性がありませんし、早晩、破綻します。

「経営者が自分に対する戒めとしてもつ」
のは結構ですが、教師や宗教家でもない、単なる
「金儲け組織の首魁」にすぎない方々
が、陳腐な戒めを下位の者に説くのは、お笑い草です。

「金儲け組織の首魁」
として下位の者に伝えるべきメッセージは、
「誰もが根源的にもつ欲や好奇心をどのようにして効果的に発散するか」
という点、すなわち、
「『ビジネス』という『ゲーム』」の「ロジック」や「ルール」や「プレーの楽しさ」や「結果の魅力」
であるべきです。

「お金、地位を目標に、わくわくと、刺激を感じ、楽しく努力して、ゲームに勝ち、勝負に勝とうぜ!」
という誰もがもつ欲の本質に根ざしたゲームロジック・ルールやプレースタイルを、ミエル化・カタチ化・言語化・数字化・定量化・フォーマル化し、さらに、イージー化・カジュアル化・面白化させて、健全な欲に溢れた人間の本質を解放させて、金儲けエネルギーに転換させる内容。

これが、
「社訓」
の本来あるべき内容ではないか、と考えるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.161、「ポリスマガジン」誌、2021年1月・2月合併号(2020年12月20日発売)

00126_「決断の技術」_8_まとめ

以上のとおり、まことに志の低い、卑怯で姑息で、
「ゲスの極み」
というリテラシーだったかもしれませんが、リアリストとしての知的スキルとしてはかなり重要なメッセージが入っていたと思います。

世間体とか、一般常識に囚われて、こんなことしたら格好悪いんじゃないかということで、大事な決断に、くっだらないバイアスを掛ける必要はないと思います。

私みたいな考えでいると、私みたいに嫌われちゃうっていうこともあるかも分かりませんが、やるやらないは別として、一つの考え方として知っておくことは有益かと思います。

もちろん、私も小さな事柄について毎度毎度こんな思考や発想で事態処理をしているわけじゃありませんよ。

10万円のパソコン買うのもこういう方法でやれ、なんて、そんなこと言ってるわけじゃないですよ。

あくまで、伸るか反るか、人生の切所で、重大な決断をするときの話です。

あれやこれやむかつく話をさせていただいたかもしれませんが、決断という知的営みをする際のスキルアップにつながれば幸いです。

著:畑中鐵丸

00125_「決断の技術」_7_「想定が狂ったとき」の想定をしておく

1、想定が狂ったらすぐに逃げれるよう準備をしておく

想定が狂ったときも、想定しておきましょう。

小さな想定狂いだったらいいんですよ。

小さな想定狂いっていうのは、想定の範囲内ですからね。

よくホリエモンが言ってましたね。

「想定の範囲内だ」って。

小さな想定が狂うっていうのは、想定の範囲内ってこともありますが、大きく想定が狂った場合どうするかってことが大事です。

「リスクに立ち向かうんだ」とか、
「こんな想定外ぐらいは、俺ははね除けていくんだ。この状況に立ち向かうんだ」とか
って言う方がいますが、立ち向かっちゃ絶対駄目です。

想定が大きく狂ったら、すぐに引き返して、決断前に戻るべきです。

そして、再度ストレステストであったり、あるいは選択しなかったB案の長所短所も含めて、立ち戻って考えてもいいわけです。

もちろん時間の経過がリスクだったり、不可逆的選択で、遡及不可能な状況っていう場合は別です。

そうでなければ、元の決断の起点に戻っちゃたって構いません。

2、失敗して、やり直す。後戻りする。そのまま放置し先延ばしする。全然アリっしょ。

そういうとき、
「なんか間違った決断をしちゃったから、俺ばかなんじゃないか」とか、
「俺はバカだと思われたくない」とか、
という愚にもつかないプライドを持ち出して、もう想定が大きく狂っているのに、最初の決断をそのまま維持して、
悲壮な覚悟で「狂ったことがすでに判明している決断と一緒に心中するんだ」って
いう方もいらっしゃいますけど、これ、ホンマモンのアホです。

人間、間違うこともあります。

かく言う私だって、失敗、間違いの連続です。

知らなかったこと、間違って理解していたこと、間抜けで身勝手な展開予測をしていたこと、その結果、やらかしたことなんて、死ぬほど、山ほどあります。

いえ、そういう失敗がいやで、情報も知性も、そこそこのものを実装しようとして、そこそこ勉強して、東大に行き、司法試験に合格し、留学して、アメリカの司法試験にも合格したわけですが、それでも、毎日、秒単位で、間違えます。

でも、そんなに悲観しません。

東大出てる私ですら、それなりに一生懸命考えても間違うわけですから、いわんや(中略)ということだったら、やっぱ間違うっしょ。

ですから、気に病むこたぁ、ござーやせん。

間違えたり、想定狂ったら、すぐに、元に戻ります。

戻ってみて、
「あれ、ちょっとやばい決断しちゃったかな?」
と思ったら、やり直したって、いいわけです。

やり直さず、
「もう散々、懲り懲り、や~んぺ」
といってそのままほったらかしでもいいわけです。

ちょっと違うなと思ったら、やめて、中途半端なまま、そのまま、先延ばしにして有耶無耶っていうようなこともあるでしょうから。

失敗して、やり直し、後戻り、ほったらかし。

上等ですよ。

格好悪くないですよ。

失敗も、やり直しも、後戻りも、ほったらかしも、堂々とやられると、皆、そんなもんかな、と思って納得しちゃいます。

そんなの、我がニッポンのエスタブリッシュメントもよくやっていますし、大日本帝国時代以来のエリート官僚のお家芸ですよ。

例えば、第2次世界大戦における歴史的事実に関しては、
「ボロ負けの末の撤退」を「転戦」
と言い換え、
「敗戦」を「終戦」
と言い換え、
「占領軍」を「進駐軍」
と言い換えるなどして、ぶざまな失敗を取り繕い、隠蔽しようとします。

昭和天皇が曰われた、
「終戦の詔勅」なんて、
妙に立派な格調高い美文で、聞いていると、負けた人間の謝罪ではなく、これから宣戦布告でもするかのような立派な心意気を感じてしまいます。

ボロ負けに負けても、すがすがしいくらい、堂々としていると、そのうち、勝ったか負けたかどうでもよくなって、有耶無耶になる。

世の中、そんなもんなんです。

3、朝令暮改どころか、朝令朝改、3分毎の方針変更でも問題なし。

こういう言い方をすると、
「なんか首尾一貫しないじゃないです」とか、
「それ、朝令暮改です」とか、
言われますが、別にいいんじゃないですか。

朝令暮改、上等ですよ。

朝令朝改、全然ありですよ。

状況変わってるわけでしょ。

状況変わったらポリシー変えたらいいんです。

すでに状況変わっているのに、ポリシー守って悲惨な目に遭ってもしょうがないじゃないですか。

ポリシーなんてどうでもいいっちゃどうでもいいです。本当大事なポリシーでない限り。

「ポリシーをもって状況を変える努力」
じゃなくて、
「状況に合わせてポリシーを変えちゃう」
ってのがクレバーです。

有名な経営者とか著名なリーダーっていうのは、みんな、そんな感じの、卑怯で姑息で首尾一貫しない、自分優先で周りの迷惑は知らんぷりの、徹底した自己中心的なリアリストです。

もう状況が変わったら、さっさとポリシー変えてますよ。

だから、有名なオーナー経営者さんとか、立派な創業者の方の下で働く人は大変なんですよ。
朝言ったことは 1時間後に変わってるのが普通ですから。

よく考えたら、そうですよね。

リーダーや責任者は、最後自分が結果の全責任を負うわけですから。

ですので、状況変わってんのに、ポリシー守って全滅させるってことはありえません。

状況に応じてポリシーをくるくる変えて組織を守るっていうのが実に自然な行動哲学なのです。

逆に言うと、状況変わってんのに、想定狂ってんのにポリシー守って全滅になっちゃった、なんていう愚劣な事例は、先の大戦等をみるまでもなく、歴史上山ほどあります。

先の大戦のアホな経過を見るだけでも、「ポリシー守って、状況の変化に関わらず、最初の決断を墨守することが、いかに悲惨な結果を招くか」っていうことは、理解いただけるかと思います。

4、逃げてちゃっていいんですか?いいんです!堂々と逃げちゃってください!

ということで、柔軟に考えてください。

逃げていいんですよ。

「一度決めたものは、私は男として守るんだ、初志貫徹だ」
とかって言う人いますが。

立派な美徳です。

その価値は認めますよ。

だけど、私はそんな考え方、ポイです。

「逃げるが勝ち」
「三十六計逃ぐるが上策なり」
って言いますよね。

異論はあるかと思いますが、例えば、投資やってていっぱい金を増やす人の戦略っていうのは、基本的に
「逃げる」
ですからね。

投資でうまくいくコツっていうのは、
「勝ち逃げ」と「損切り」
でしょ。

両方とも思いっきり
「逃げる」戦略
じゃないですか。

逆に投資やってて、
「相場が当初の想定と違う動き方をした。でも僕はこのリスクに対して立ち向かうんだ。最初の初志貫徹だ。一生もってるぞ」
っていう人は、みんな金無くしてますよね。

むしろ、
「状況変わったら、朝令暮改で、すぐに成り行きで清算しちゃえ」
という人のほうが、最後お金残しますからね。

調子乗って、相場が上げ相場であっても、ドーンと下がる前に先に清算して、地味に利益を確定しちゃう、ってこともやる。

そんな、地味で、つまんない、夢もロマンもないルーティンを、冷静かつ冷徹にやりきった人間が、一番最後に金を残すわけでしょ。

想定が狂ったら立ち戻ったり、想定が間違えたことを前提にして元の決断前の議論に戻ったりしても、全然構わないわけです。

5、少しでも不安が出てきたら、他人の迷惑一切顧みず、「やっぱ、や~んぺ」と言い出しちゃえ!

何度も言いますように、朝令暮改や、
「やっぱ、や~んぺ」
と言い出したりしていると、時間と機会という資源を失くしていきます。

だから、後戻りや先延ばしをすることで、時間や機会の喪失がリスクになる場合は別です。

時間や機会の喪失がリスクでなかったり、たいしたダメージにならない場合であれば、どんどん時間をかけて先延ばしをしたり、後戻りして元に戻ったりしてもいいわけです。

もちろん、後戻りや先延ばしをしたり、話をちゃぶ台返ししたりしていると、周りは迷惑します。

とはいえ、ですよ。周りとか、世間とか、知ったこっちゃないですよ。

少なくとも、成功者や金持ちは、みんな、そんな感じで、チョーわがままです。

友達にはしたくないですが、お客さんとして、警戒してお付き合いするのはアリです。

先延ばし、ちゃぶ台返し、後戻り、全然ありでしょ。

周囲とか世間とか、首尾一貫していないとか言われようが、関係ナッシングっしょ。

だって自分の人生にとって大事な決断なんでしょ。周囲とか世間とか、知ったこっちゃないですよ。

例えば不動産買おうと思ったんだけど、決済の前の日に、同じような状況の不動産くい打ちデータの改ざんが報道されましたっていうときに、
「いや、このマンションのくい打ちデータを検証したいので、日延したい」
とかいって、決済を先延ばしするのも全然ありですよ。

もちろん、不動産屋さんとか、司法書士さんとか、銀行さんとかは
「エーッ!(怒)」
って顔しますけど、知ったこっちゃないですよ。

「なんで、お前らに気ぃ使って、俺が損するようなリスクしょったりしなきゃいけないんだ?!」
っていう話ですよ。

どんなに他人の期待に背いたり、他人に迷惑掛けても、自分にとって大事な決断ですから、それはもう一度慎重にゆっくり、そもそもそのマンションとか不動産を買うか買わないかも含め、考えたらいいんです。

周りの人たちは、
「うまくいったらお金になる」
って意味で勝手に期待して、勝手に自分をダシにした利害関係をもってて、期待しているだけです。

なんで
「エーッ!(怒)」
って言ってるかっていうと、自分たちの利益が遠のくからであって、自分を心配しているからではないわけです。

そんな連中に、気を使う必要なんて、ビタ1グラム、ありませんよ。

著:畑中鐵丸

00124_「決断の技術」_6_機嫌を良くする

1、決断する時の情緒設定=機嫌のいいときに決断するべし
決断は機嫌のいいときに行う。あるいは、決断の際は、無理矢理にでも機嫌を良くする。

「ストレステストやって、ネガティブな展開予測をして、不愉快な気分になって、想定外を想定したり」という決断前には嫌な気分が盛り上がりますが、最後の最後に、いざ、「決断をします」というときは、機嫌を良くしておいて欲しいです。あるいは、機嫌が悪かったら、機嫌を直しておくべきです。

怒ったりして、慌てたりして、ネガティブな方向で、情緒豊かに、感情あらわに決断するべきではありません。

怒ったり慌てたりってとき、人間は一時的にバカになってます。

特に、「べき」がたくさんある人や、「自分がこうあるべきだ」ってことが覆されちゃったとき、人間は凄まじく怒ります。

そして、「怒ったとき」っていうのは、知的な能力が顕著に落ちてます。

もっというと、シビれるくらいバカになっちゃってます。

バカになったときって、決断しちゃいけないタイミングです。

逆に、機嫌がいいときは、バカが治ります。

だから、バカを直してから、機嫌を直してから、決断です。

2、決断するときの状況・環境設定
決断するとき、環境も大事です。

天気のいい朝に、バカ高いフレッシュジュース飲みながら、朝日を浴びて富士山とか眺めながら、高いビルの天辺で、窓際で、さらに言うと、シャンパンでも飲みながら、肩の力を抜いて、笑いながら決断をするべきです。

そういう環境・状況では、精神がフラットでソリッドになってます。

そういう環境・状況にあると、「やっぱ、先延ばししようかな」とか、「ヤメちゃおうかな」という気分になってくるかもしれませんが、そういう「先延ばし決断」「やめちゃう決断」も全くありです。

「あれこれ悩んだけど、よく考えたら、なんか、無理して、今やらなくてもいいかな」、みたいな雰囲気になって、
「いつやるの?後でいいっしょ」
「昨日の夜、徹夜で一生懸命考えたけど、よく考えたら、別に今やらなくってもいいかな」
っていうのをシャンパン飲みながら、ヘラヘラ笑って決断するとか、全くありです。

3、機嫌を良くすべきだが、調子に乗ってはいけない
機嫌を良くするべきだし、機嫌は直すべきですが、調子に乗ったら駄目です。

「機嫌を良くする」っていうのと「調子に乗る」ってのは似ているようで違います。

「調子に乗っちゃっている」ときも、人間は一時的にバカになってます。

だから、「調子に乗って決断する」ときは、失敗しちゃうフラグが立っちゃっています。

機嫌は良くする、機嫌は直す、感情はフラットにするんですけど、調子に乗っちゃいけない、ということです。

著:畑中鐵丸

00123_「決断の技術」_5_間違ったとき、しくじったときのイメトレ

1、決断するときに重要なのは、「うまくいったときの皮算用」ではなく、ストレステストとネガティブな展開予測
「いろいろ人の話を聞いて、迷って、計算して、考えて、さあ、決断だ」と決めるタイミングが来ました。

ですが、まだ、やることがあります。

決断をする前に、すごいネガティブなイメトレ、イメージトレーニング、もやってくださいねと。

要するに、「A案・B案あって、さんざん迷って、もういいや、B案でいこう」ってときに、決断して実行に移す前の最後の最後の段階で、「じゃ、B案でいった場合で、想定が狂いまくって、大失敗、大しくじりやらかしたときに、最悪、どうなっちゃんだろ」っていうことをイメージしてください、という話です。

人間が決断するときって、例えば、A案・B案のうちA案選ぶときには、うまくいったときのことだけを考えがちです。

「うまいこといって、大成功した」「危機を脱して、元の状態に戻った、直った」「シビレルくらい儲かった」って話については、イメージトレーニングというか、妄想たくましく、凄まじいまでに想像します。しかも、楽観バイアスが働くので、想像に偏見が加わり、その多幸感たるや、凄まじいものです。

しかし、決断の知的技術、という点からいうと、これと真逆のことをすべきです。

成功確率を高めたいのであれば、「A案でいった場合で、仮に、想定が全部崩れて、大失敗をして、お金も何から全部なくしてた場合」を考えた、最過酷想定もしておくべきなのです。

要するに「特定の決断をしたが、これが全く間違った決断であり、その結果、散々な目に遭ったときの状況」をリアルに具体的に想定しておくのです。

2、ネガティブなイメトレ=事前に「敗戦の弁」を考えてみる
具体的に言えば、「そのような最過酷の状況になったときに、自分はどういう敗戦の弁を言うか」ということも考えて、何だったら、原因分析を含む敗戦のスピーチまで起案しておいたらいい、と思います。

先の大戦で言えば、
日中戦争をおっぱじめたときに、うまくいかなかったり、最終的にボロ負けの末何も得られずに撤退したときのこと、
アメリカにケンカを売るときに、ボロ負けして本土まで攻め込まれて、戦争遂行責任者が片っ端から縛り首にされたときのこと、
を想定しておけば、もうちょっと、冷静に、確度の高い、合理的な外交戦略や事態収拾を展開出来たかもしれません。

スポーツ選手でいうと、金メダル取ったときのスピーチなんて、考える必要ありません。勝手に口から出てきますから。

むしろ、失敗して、メダル取れなかったときに、報道陣の前で、どういう敗戦の弁を語ってるかってときのことを、想定すべきなんです。

3、ストレステストやネガティブなイメトレは、成功確率を高めることにつながる
そういう不愉快な事態を想定しておいて、「いや、あんときにこういうことがあって、この想定が外れて、こんなアクシデントがあって」って言い訳をつらつら考えている、見えてこなかったリスクがくっきりはっきり見えてきて、もう一度、検証して、成功確率を高める準備が可能になりますので、より成功確率が高まります。

アクシデント、ハプニング含めて想定が崩れる場合のことも含めて、もう一回どのぐらいアクシデントも含めた対策ができてるかっていう、ストレステストを実施することで、準備を万全にするのです。

過酷な展開予測や、過酷な想定や、ストレステストは極めて重要です。

原子力発電所おっ建てて、造って動かすときには、「全部うまくいったらこうなる」っていう想定なんて不要です。別に当たり前の話ですから。

むしろ、原発造ったはいいが、どえらい津波とか来ちゃったり、地震とか来ちゃったり、いろんなことがあったりして、全部の想定外れたときでも、これぐらいで済むとか、あるいは、これについての対策はある程度できてるとかっていうことを、よりリアルに想定すべきです。

4、人間は、常に間違う動物である
人間は、動物です。人工知能ではありません。動物である以上、必ず、失敗します。誤解します、想定が外れます、認識や評価を誤ります。人間は、失敗することが不可避の生き物です。

だから、絶対、失敗します。絶対。特に、大きな計画や、野心的な事業や、選択や決断に迷うな営みは、すべからく失敗する契機を孕んでいる、と考えるのが正しい見方です。

選択した後の展開予測を行う際、ヒューマンエラーも含めてどういう失敗があり得るかってことを、どんだけ考えられてるかってことが重要ですし、これを、決断する前に、何度も再確認をするということが必須です

「未来の敗戦の弁」に対する対策は、どこまでできているかをもう一度検証する最後のストレステストを、重大な決断の前にやってください、という話です。

5、「永遠に決断出来ない」「いつまでも決断出来ない」なんて言われても、別に決断しなくてもいいし、「決断しない」「決断をグズグズ先延ばしにする」というのも立派な決断
そうすると、「いや、そんなこと言ったらいつまでたっても決断できないじゃないですか!」という反対の声が上がってきそうです。

いいじゃないですか。別にやんなくたって。先延ばしをしたって。先延ばししたって、別に困るようなことないかもしれません。

そんなに慌てて不動産買わなくたって、賃貸で十分じゃないですか。
投資しなくて、現金残しておけばいいじゃないですか。デフレなんですから。現金持っているだけで補助金つくような経済状況なんですから。

そんなにあわてて満州を占拠する必要あります?暴支膺懲とかって、そんなに必要?アメリカにケンカ売る必要あります?返り討ちにあってボロ負けしたときのこと、考えています?何の目的で戦っています?国のため、って言ってますが、国のために戦って、外地を全て失い、主要都市を爆撃され、原爆まで落とされたら、それこそ国のためにマイナスじゃないですか。

ただ、適齢期の間に結婚したい、とか時間がリスクになる場合、じっくり考えると、「時間を失う」というリスクが積み重なりますので、不愉快な展開予測やストレステストに目をつぶる場合もあるかもしれません。

例えば、婚前契約にこだわっていると、「『離婚の条件が決まらないから結婚できない』状態のまま、独身で還暦迎えた」なんてことになりかねませんし。

著:畑中鐵丸

00122_「決断の技術」_4_迷い方、他人の意見の聞き方

1、他人の話をよく聞く

期限が来たりして、迷ってばかりいられなくなって、いよいよ、「もう、そろそろ決断しなきゃいけないな」って話になりました。

そのときにはいろいろ悩んで、情報を分析して、評価してから、決断するんですが、個々の人間の持っている認識とか情報とか分析力とかを含めた知的資源は限られています。

「奥ゆかしく、慎ましやかで、謙虚な畑中鐵丸」としては、言うのが相当憚られますが、自慢でも何でもなく(ウソです。ほんの少しだけ自慢がはいちゃったかもしれません)、一応、東大卒です。
もっと言えば、東大文Ⅰ(東京大学教養学部文科一類)現役合格です。

それが、どうした!
うっせえ、うっせえ、うっせえわ!
テメエなんか、たいしたことねえわ!
という声が聞こえてきそうですが、はい、そのとおり。
おっしゃるとおりです。
全く、たいしたことありません。

しかし、そこそこ勉強してきたことは事実ですし、その過程でそこそこ知識も情報も知性らしきものも教養みたいなものも、ほんの少しだけ獲得出来たような気がします。

控え目にいっても、「日本人成人の平均レベル」程度には、知識も情報も実装しているかな、くらいは言えると思います。

加えて、弁護士も20年やってますから、普通のサラリーマンや専業主婦の方くらいには、世の中の仕組みの本質や、裏の話も表の話についても、知っていますし、健全な懐疑能力も持っている(つもりです)。

そんな私でも、(って言ったら、「テメエ、バカなんだから、テーリメぇだよ」とか突っ込まれそうですが、勇気を振り絞って、あえていいますが、)そんな(日本人平均レベル程度の知的資源は有している、いい年こいたオッサンの)私でも、いまだに、「世の中って不思議だな」って思うこととか、「世の中に、こんなこともあったんだ!」って驚くことがあったりします。

要するに、そんな(日本人平均レベル程度の知的資源は有している、いい年こいたオッサンの)私でも、知らないことだっていっぱいあるわけです。

あるいは、知ってるつもりになっても、実は間違えて理解していたってこともあったりします。
50を超えても、ですよ。

じゃあ、私、バカなんでしょうか?

確かに、そんなに頭良くないですが、バカってほどバカじゃないと思います。

一応、それなりの大学出てますからね。
また、それなりに難しい司法試験に、それなりに合格率が低かった時代に(※どうでもいい話ですが、私が合格した平成3年当時の司法試験の合格率が、受験者合計22,596人で、最終合格者が605人だったので、対出願者合格率は2.94%でした)、まがりなりにも通ってますしね。
弁護士もやってますし、社会生活も営んでおり、いい年こいていますので、それなりに知識や情報はあるはずです。

「それでもなお、この世の中に、分かんないことが山程ある」ってことは、やっぱり「個々の人間の持ってる情報や知識といった知的資源には限界がある」という厳然たる事実を示唆しています。

しかも情報を誤解してる場合もあったり、あるいはバイアスが掛かってる場合もあったりしますから、人生、生きていると秒毎に、間違ったり、誤ったりしています。

「常識で考えたら、当たり前でしょ。これが正しい決断」って言われても、それが間違いということも結構あります。

かの、アインシュタインさんいわく、「常識とは、物心つくまでに身に付けた偏見のコレクション」ってことです。
三つ子の魂、百まで。
三つ子の偏見、百まで。
三歳児が獲得したバイアスは百歳まで続くんだ。
って話があるぐらいですからね。

ですから、自分の常識ってのは当てにならない場合があったりします。

自分の情報も知識、実は見間違い、聞き間違い、勘違い、誤解や偏見だったりすることも平気であります。

その意味では、「いろいろ悩んで、情報を分析して、評価してから、決断する」ってときには、いろんな人の話を聞いたほうがいいです。

いろんな人の話を聞いている間に迷っちゃうぞって話ありますけど、迷うのはいいんじゃないですか。
別に急ぐことないですから。

2、「アツく」ならず、冷静に他人の話を利く精神的余裕(冗長性)を持っておく
迷ってもいいし、他人の意見を聞いたほうがいいんですよね。

ただ、意見を聞くときにも、これスキルあるわけですよね。

「自分の感覚で決めろ」とか「考えるな、感じろ」「アツくなれ」みたいなこと言われますけど、そんなアツくなっちゃ駄目ですよ。

たいてい、アツくなるほど、冷静さを失わなければ間に合わないほどの決断ってことじゃないかもしれませんから。

建物が火事になって逃げるか逃げないかって話なら、これはもう決断もへったくれもありません。
逃げる、の一択です。

火事に巻き込まれて逃げるとき、他人の話を聞く余裕もないですから、それはもうしょうがないです。

ただ、そんな「考えるな、感じろ」みたいな「アツくなるほど、冷静さを失わなければ間に合わないほどの決断」を迫られる切羽詰まった状況っていうのは、本当に一生過ごしても来ないかも分からないぐらいですから、そんな急ぐことないわけです。

3、聞く相手を間違えない
他人の意見を聞いた方がいいのですが、ただし、聞く相手を間違えちゃ駄目ですよ。

特に、当該決断によって利益を得る人や、損害を被る人ですが、こういう当事者とか利害関係人からの話とか情報とかは、絶対に聞いちゃ駄目です。

耳汚しなどという生易しいものではなく、騙りに近い、ウソの危険性がある、有害なノイズです。

株を買う、不動産を買うときに、「当該株を売ってくれる人」、「当該不動産売ってくれる人」からの情報っていうのは、絶対、聞いちゃいけません。

ノイズです。
危険で、有害で、頭を狂わせる、致命的で破壊的なノイズです。

うまーいこと、持っていかれるように仕組まれたバイアスが必ず入っている可能性があるからです。

だって、その不動産や株について、買い手さんが買ってくれたら、「当該株を売ってくれる人」、「当該不動産売ってくれる人」にとって利益になるんでしょ。

そりゃ、あばたもえくぼに、美しい誤解を招くような言い方しますよね。向こうだって商売ですから。

また、そんな美しい誤解を撒き散らすような情報があるかないか、分かりませんし、検証しようがありません。

もちろん、不動産にしても株にしても、ちゃんと価格の根拠となる情報は存在します。

株だったら有価証券報告書ありますし、会社四季報もありますし、ヤフーファイナンスなどの情報サイトをみても、PBRやらPERやらROEやらの各種財務指標に加え、信用倍率やらチャートやら価格根拠情報が山のように掲載されています。

不動産についても、重要事項説明書という精密な書類でいろいろな価格根拠情報が作成され、手渡されます。

ところが、普通の人は、不動産の重要事項説明書とか、あるいは有価証券報告書とか、会社四季報の情報とか、ヤフーファイナンスのいろんな情報とか、読むのを面倒くさがります。というか、読んでも理解できません。というか、読めていません。下記のとおり、日本で静かに増殖している「機能的文盲」という方が多く、その方にとっては、理解できないか、理解以前に視界に入ってこない(脳内には、意味のあるテキスト情報ではなく、無意味な図柄の画像情報としてしか入ってこない)

すなわち、下記の「機能的文盲」状態にあるせいか、不動産の重要事項説明書とか、あるいは有価証券報告書とか、会社四季報情報とか、ヤフーファイナンスのいろんな情報を目にしても、そこに記載されている漢字や数字がびっしり書かれた細かな情報の塊が、象形文字で書かれた滅びた古代の民族の呪文か何かのようにしか認識出来ず、意味や内容はおろか、読み方すら不明な難解な文字が散りばめられたもののようにしか見えないのです。

自分が、機能的文盲で、文書をしっかり読めないもんだから、業界経験長くて、文書を理解していそうな、売主側の営業マンの話を、ほいほい聞いちゃうわけです。

ですが、営業マンの話にはバイアスが入っていたり、「大事な内容で、しかも買主にとって、重要で、売主にとって不利な事実」が巧妙に抜いてあったりしたら、どうするんでしょうか?

こういう場合は、がんばって自分で読み、読んで納得しない限り、買っちゃ駄目です。「自分が機能的文盲でよく読めない、よく理解できない」なら、買う前に、「絵本を読んでもらうために母親にせがむ、字の読めない幼児」のように、識字能力があるインテリに頭を下げて、内容を読んで聞かせてもらわなければなりません。

ところが、機能的文盲者に限って、バカな上にケチ、という手合が多いのです。

手近なところで、無料(タダ)で済まそうとして(自分のために働いてくれるインテリに対する支援費用をケチって)、安直に、利害が対立する売り主側の営業マンの話を聞いてしまうんです。

だから、地獄に転げ落ちるのです。

「自分が機能的文盲でよく読めない、よく理解できないとき」に、取引相手の話を聞いたらダメに決まっています。

聞くべきなのは、利害関係がなく、むしろ、自分の利害のために、「知的資源を活用し、時間とエネルギーを費やしてくれる、第三者」であるべきです。

「当該取引に利害関係を持たず、自分のために頭を使ってくれる人の話を聞く」と言われても、そんな人がいなかったり、そんな人がいても、そいつの手数料をケチりたいなら、それはそれで結構です。

だったら、弱い頭をフル回転して、無い知恵しぼって、頑張って勉強して、不動産の重要事項説明書とか、あるいは有価証券報告書とか、会社四季報の情報とか、ヤフーファイナンスのいろんな情報を読み込んで、理解するべきなのです。

それでも理解できなければ、買い物をやめるべきなのです。

大事な買い物なんでしょ。高いんでしょ。

だったら、手を抜いたらいけません。

古代ローマ時代以来、格言として残っています。

「買い手は注意せよ」「買い手は勉強せよ」「買い手は情報を集めろ」です。

勉強は大事ですね。教養は大事ですね。

バカはこういう教養がないから、こういうことの価値を知らないし、認めないし、バカみたいにテレビばっかりみて口開けて笑っているから、失敗するんです。

え、うるせえよって?

いえいえ、私もバカの一人です。

だから、日々、読書をし、教養のありそうな人との接点を保ち、バカが治るように努力しているのです。

4、情報と解釈は別物
情報を集めるのは結構ですし、情報を解読するのも結構です。

しかし、事実と解釈っていうのは違います。

インフォメーションと、それからそのインフォメーションに解釈や分析や解釈や評価が加わったものとは、完全な別物です。

俗に、ポジショントークといわれますが、解釈には必ず、バイアスが入ります。

故意なのか過失なのか他意なきことかもしれませんが、利害関係から、主観が混じってしまいます。

事実なのか解釈なのか。

仮に、解釈だとすると、誰がどういう目的で解釈してるんだ、どの立場からのポジショントークなのかをちゃんと分けて考えるべきです。

5、ホニャララ士(し)や、「先生」や、「専門家」という人種には気をつける
注意・警戒すべきは、「何とか士(し)」とか「先生」とか「専門家」と呼ばれる人たちも同様です。

憚りながら、私、弁護士である畑中鐵丸もその一人です。

弁護士しかり、税理士さん、会計士さん、何とか士、大学の先生含め、また、お医者さんも含め、ナリや格好や肩書きが立派だったり、使う言葉が高尚で高級だったり、メガネをかけていたり、七三分けだったり、シブい感じだったり、高いネクタイをクビからぶら下げているからといって、それだけで、そういう手合の話を鵜呑みにすることはリスクがあります。

ナリや言葉や肩書きが立派でも、見かけほど頭良くなかったり、情報を知らなかったりとか、情報を誤解していたり、仕事欲しさに適当なことを言っていたり、ということも無いとは言えません。

もちろん、邪悪な詐欺師とまでは言いません。

あと、出来もしないことや、成就しない可能性があることでも、仕事欲しさに「私に任せれば何とかなる」という雰囲気を漂わせながら、自信たっぷりに、「お任せください」と胸を叩いて、フィーをもらう。

そんな、「専門家としての仕事の営業」は、見方を変えたら「善意に満ちた詐欺」とも言えます。

例えば、「医学的に絶対治らないガンに罹患したことを宣告され、焦って、パニックになって、財布の紐が緩んでいる患者」を前にして、「私に任せれば何とかなるかも知れません」などと無責任なことを言って、仕事をもらうのは、「専門家としての仕事の営業」ではなく、「仕事の対価をもらうための詐欺」になる可能性があります。

別に、騙そうとして騙すわけではなく、「自分にとって不利になる重要な情報を、聞かれなかったので、あえて言わなかった、隠していた」ため、美しい誤解が生じたが、そのままにしておいて、結果、買主さんが損したっていうことは、よくあります。

「いい加減な専門家が語る、真実とは程遠い無責任な話に踊らされ、不幸な誤解に基づき大損コいて地獄に叩き落された事例」っていうのが仮にあっても、新聞では大々的に報道されません。

ひょっとしたら報道されているかもしれませんが、どこかの中小企業の社長や地味な政治家が死んだときの訃報のように、新聞の隅っこに、ひっそり、わかりにくくにしか載っていません。

全ての詐欺が刑事事件になるか、というと、うやむやになったりだとか、証拠が不十分で、不起訴ってことも結構ありますので、報道されない裏話ってのも、世の中、結構あります。

脱線しましたが、専門とか肩書きとかそういったものに漫然と信用を置かないということでが大事です。

6、いろいろ他人の話を聞いて迷うのは、もちろん、重大な決断・選択に限っての話
他人の話を聞いたり、あれこれ迷ったりしろって言ってますが、いつもいつもそうしろといった話じゃありません。
いつもそうしてたら、もう社会生活できませんからね。
例えばコンビニエンスストアでおにぎり買うのに、専門家の意見聞きます。これはちょっと知性を疑われます。

あくまで、重大な決断のときについては、ちゃんとそれなりにいろんな人の話を聞いて、専門家の話も鵜呑みにしないという形で、慎重に、という話です。

お医者さんの世界でも、セカンドオピニオンというのもありますが、私の所属する弁護士法人にもセカンドオピニオンの依頼が来ます。

「先生、これって大丈夫でしょうか?」みたいな感じで聞かれます。

私のほうで、違和感があったら、ストレートに違和感を伝えます。

この収益不動産って、むっちゃ儲かるんですよね?だから、買おうとしているんですよね?でも、そんなに、笑いが止まらないくらい、シビれるくらい儲かりまくる収益不動産だったら、何で手放すんですかね?私だったら、その話が本当なら、絶対売らずに持っておきますが。収益シナリオとか、仮説とか仮定とか入っていませんか?ほらほら、満室前提とか書いてあんじゃないですか。物件見ました?え?見ていない?知らない方と結婚するのに、お見合いなしで、いきなり式挙げる、みたいな話じゃないですか。意味わかりません。

この投資商品、あなたの複雑怪奇なお話を前提にすると、凄まじい利益が出るんですよね?すいません。私、こんな話、聞いたことがありませんし、理解も出来ません。あ、言っておきますが、私、一応、東大出てます。東大文一現役合格です。どうでもいいかもしれませんが。そこそこの国語読解力とそこそこの知性と教養と情報があります。その私が、いくら聞いても、何のこっちゃわかりませんし、そんな儲かり話、耳に入ってきたこともありません。むしろ、逆に、この種の『意味不明だが儲かる話』に安直に乗っかって大損こいて地獄に直行した事件については、いっぱい聞きます。私が知らなかったり、理解できなかったりするのは、私がバカで世間知らずか、売り込もうとしているあなたが混乱しているか、どっちかだと思っています。試みに問いますが、大変ご無礼なことかもしれませんが、学歴や経歴をお伺いしてよろしいでしょうか?いえ、大きな買い物であり、大事な決断なので、売り込もうとしている方の情報の信頼性を確認したいだけなんです。ついでに、前科や前歴や、所属していた会社の行政処分の情報もいただけるとありがたいです。いえ、強制はしません。任意です。ご随意です。あれ?黙っちゃった。黙秘します?黙秘権ですか。洒落た言葉知っていますね。警察とか検察とか裁判とかで使ったことあるとか。黙秘、結構でしょう。言いたくないんですね。はい、結構です。言わなくて結構です。ですって、社長。で、どうされます?この投資、やります?あ、やらない?あ、そ。聞いた?ですって。買わないって。え、ちょ、何。何、そんなに怒ってんですか?やだなあ、もう。そんなに顔を真っ赤にして怒んなくたっていいじゃない。まあまあ、落ち着いて。お詫びに、いいこと教えます。あなたのおすすめするその商品、あなた自身がお買いになったらどうですか?そうしたら、あなたがおっしゃるとおり、シビレルくらい儲かりますよ。儲かること間違いなら、多少お金がなくとも、消費者金融で借りたって、バカ高い金利を遥かに上回るエグいくらいの儲けが出ることでしょうから、あなた、たちまち大金持ちですよ。え?何?俺は買わないって?そんなの私のクライアントに勧めないでよ。ったく

節税スキームのご提案ですか。なるほど。この資料の一番最後に、ミジンコみたいに小さく書いてある字、ちょっと、読んでみていいですか。え~と、なになに。つか、小せえな、この文字、なんだよ。ったく。『本資料に掲載されている情報を、専門的な会計、税務、法務、その他の権限あるアドバイスの代用として用いるべきではありません。本資料の情報に基づき具体的な決定や行為を起こす前に、専門家に相談することをおすすめします。本資料では、信頼できる情報源から得た情報を、確実に掲載するよう適正な努力を尽くしておりますが、本資料作成者は、間違い、情報の欠落、あるいは、掲載されている情報の使用に起因して生じる結果に対して一切の責任を負わないものとします。本資料に掲載されている全ての情報は、その時点の情報が掲載されており、完全性、正確性、時間の経過、あるいは、情報の使用に起因して生じる結果について一切の責任を負わないものとします。また、あらゆる種類の保証、それが明示されているか示唆されているかにかかわらず、また業務遂行、商品性、あるいは特定の目的への適合性への保証、また、これらに限定されない保証も含め、いかなることも保証するものではありません。 いかなる場合にも、本資料作成者ないしその関係者は、本資料に掲載されている情報によって決定を下したり、あるいは行為を起こしたことにより、結果的に損害を受け、特別なあるいは同類の損害を蒙ったとしても、またその損害の可能性について言及していたとしても、一切の責任を負いません。』なるほど。何だ、自信ねえじゃん。売ったものについて自信ないから、トラブル起きても、知らねえよってことね。つか、トラブルなるじゃん。こんな過激な節税効果出るのに、税務当局が黙って、笑って許してくれるわけ、ねえじゃん。デカい暴力団にみかじめ料約束させられていて、これをエグいくらいちょろまかすようなアイデアというかトンチを実行する、って話でしょ。暴力団が、『ははは、こりゃ一本取られたわ!』と笑って、許してくれる・・・・なわけねえじゃん。一休さんと新之丞さんの掛け合い漫才じゃないんだから。というか、あんた達、売り込んでるの、それって、国税当局とのケンカの種、ってことでしょ。で、ケンカが生じたら、知らんぷり。え?税務に詳しい弁護士を紹介しますって?でも、それって費用こっちもちでしょ。また、カネかかんじゃん。それに、税務争訟って9割近く負けんでしょ。二次被害じゃない。ですって。社長。どうします?

といった具合に、割とむかつくようなセカンドオピニオン出してですね、相談してきたクライアントが、結局やめるとか考えるとかっていうようなこともあったりします。

どんなにエラそうで、立派そうな専門家の話であっても、重大な重大な決断で、違和感を感じれば、ちゃんと裏付けを取ってください、ということです。

またむかつくような話をしますけど、特に、自分の学歴とか経歴とかそういったものにコンプレックス持ってる人は要注意です。

そういう人ほど何かにすがりたくなっちゃったりだとか、立派な学歴見せつけられちゃうと、精神的にひれ伏しちゃう可能性ありますから、要注意ですよ。

たかが、学歴、経歴ですよ。アクセサリー程度の話であって、話の本筋が大事ですよ。

東大ごとき、私のような、いい加減な人間だって入れるくらいですから、そんなに大したことありません。

どんな人の話を聞くべきか、というと、「利害関係がないにもかかわらず、耳の痛いことを、口悪く言ってくれる人」です。

そうです、畑中鐵丸です。と、さりげなくセカンド・オピニオン営業入れちゃいました。

あと、聞くべき人といえば、お父さん、お母さんの話です。
昔から言います。親父の説教と、特上の冷酒(ひやざけ)。どっちも「後からよく利く」って。

お父さん、お母さんって、それなりに社会経験あったりしますし、利害関係ないというよりもむしろ、子どものためには本当に一肌二肌脱ぎますというか、自分の命に代えても子どもを守るっていう心意気で、子供の幸せを願いますので、そういう方々の小言や説教は、よく聞くべきです。

ただ、その当該お父さんやお母さんが、情報を持っていなかったり、本当のことを知らなかったり、誤解していたりすることもあります。

世の中、「カネを儲けたり、危機を避けたりするような、人生の切所で役に立つ、本当に大事なこと」ほど、本に載っていませんし、学校でも教えられませんし、学校の先生も親もほとんど知りません。

加えて、「老いては子に従え」なんて言葉のあったりするぐらいですから、お父さん、お母さんも年をとって、ヤキが回っているかもしれない。

いずれにせよ、「耳の痛いこと」を言ってくれる人の話のほうが、かえって自分の決断にとって重要なサポートになっている可能性があります。

とにかく耳の心地良いことばっかり聞いたり、自分にとって都合のいい話ばっかり聞くってことは、その人がバカになるってことです。

バカばかになっちゃいけませんよ。

耳の痛いことや厳しい見立ても聞いた上で批判的に考えるべきです。

「我、疑う故に、我あり」です。

疑う、あるいは批判的に考えるってことこそが、知性ある人間の思考ですから。

重大な決断に際しては、以上のようなことを考えながら、いろんな人の話を聞いて、たくさん迷ってください、ということになります。

著:畑中鐵丸

00121_「決断の技術」_3_「ズルくて、格好悪く、世間体の芳しくない選択肢」も検討する

全ての選択肢が抽出・整理され、決断の前提は整いました。A案・B案、整いました。

いよいよ、決断するフェーズ(局面)に来ました・・・・・が、もう一つ、「ずるくて格好悪い、世間体の芳しくない選択肢」もあるので、これを積極的に検討すべきです。

「やる」と「やらない」という最低二択という選択肢があるとお話しましたが、これ以外に、
「先延ばし」
「決断しない」
「決断から逃げる」
「ぐずぐずする」
という選択肢も存在します。

「何時やるの?今でしょ」
ではなく、
「何時やるの?後でしょ」
「今、決めなくてもいいでしょ」
ということです。

先延ばしやってる間に状況変わってくる場合だってありますし、「状況が好転するまで、往生際悪く、ジタバタして、ぐずぐずして待つ」っていうこともあります。

「即断・即決・即実行」といったことを推奨する処世の指南書も多いですが、世の中、そんな立派なキレイゴトですべてうまくいくわけではありません。

特に、「高い買い物」をするとか、重大な決断をする場合です。
「家を買うか買わないか決める」「買うとしてどの家を買うか決める」
「結婚するかしないか決める」「結婚相手を決める」
「従業員を増やすか、増やさすのを見合わせるか決める」「採用するとしてどの人間を採用するか決める」
という決断です。

そういう決断は、別に慌ててやる必要ないかもしれません。

「結婚」「家を買う」とかっていう決断って、これ一生もんの決断ですからね。
どんなに、いい異性でも、短所や欠点はあるはずです。

結婚なんかでいうと、結婚するのは自由ですし、簡単です。
他方、結婚は自由だけど、離婚は自由ではありませんし、結婚した関係はいつまでも続きます。

「いつまで続けるべきか」っと言われると、それはずっと続きます、死ぬまで続きます、という答えになります。

そして、別れるのにものすごいエネルギー要りますからね。

芸能人が、ビビッとインスピレーションで、いきなり「結婚しちゃいました」とかよく報道されますが、たいてい、その後が大変です。

家族や先輩や友人や恩師の話を聞いてからでもいいはずです。

とはいえ、女性からすると、「ぐずぐずしてると私も年取っちゃうし、先延ばしは困る」という話があり、焦っちゃうかもしれませんし、これは立場に依存します。

少なくとも、女性でも焦っていない方や、男性側としても劣化の心配がない方については、「別に、そこまで焦んなくても良いのに、何でそんなに慌てて決断するの?」という状況があったりします。

決断する、決断しない、という二択のほか、
「先延ばしをする」
「決断しない」
「決断から逃げる」
という、
「ずるくて格好悪くて世間体の芳しくない選択肢」
も必ずありますので、そういう「第三の選択肢」も必ず織り込むべきです。

もちろん、取引相手や決断に関わる関係者等の周囲からは、
「格好悪い」
「優柔不断」
「卑怯」
「男らしくない」
と言われるかも知れませんが、重大な決断であれば、いくら悩んだって、差し支えありません。

世の中、あまり考えず、インスピレーションに突き動かされて、慌てて、雑に「エイ、ヤ!」でやって、「あの果断な決断で、万事、うまくいった」という例は、実はあんまりなかったりします。

後から考えたら、「もうちょっと考えてからでも、良かったかな」という事例が多かったりします。

例えば、「不動産を買う」「結婚」「従業員を採用」といった事柄です。

従業員採用は、特にそうです。

どんなにいい若者や中途採用希望者が来たからといって、インスピレーションだけで速攻採用するのは危険です。

採用するのは自由ですが、解雇すんのは大変ですから。
「採用したら、関係はいつまで続きます?」
って、定年までです。
最長40年とかです。
本当に定年までずっと居続けちゃう可能性もあったりします。

「結婚は自由だが、離婚は不自由」「採用は自由だけども、解雇は不自由」
という畑中鐵丸の言葉もあります。

非常に重大な決断は、あんまり早く決めなくていいのかもしれません。

何でもかんでも、そんなに急ぐことはありません。人生長いですから。

著:畑中鐵丸