00110_「ベンチャー企業経営者が陥りがちなビジネス・マネー・人生全般における失敗」の傾向と対策_5_ゴールデザイン、課題定義、プロジェクトの進め方について

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本コンテンツシリーズは、アジア経営者連合会「ALA経営塾」主催にて、令和3(2021)年3月25日(木)17時30分開始にて行われました、弁護士畑中鐵丸の講演「組織と個人の用心棒、顧問弁護士の使い倒し方・ベンチャー企業経営者特有の失敗の傾向と対策~ベンチャー企業経営者なら皆さん身に覚えがあるビジネスやプライベイトの失敗事例と対策のための”あの手・この手・奥の手”を25年超のキャリアをもつベンチャー弁護士が直接伝授します~」の講演レジュメ及び講演録から編集したものです。なお、本講演内容は、筆者(講師)独自の見解であり、所属組織及びアジア経営者連合会ないしALA経営塾のものとは一切関係ありません。
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1、ゴールデザインの手法

夢と目標は違います。

夢は妄想であり現実性がありません。

目標は、「S・M・A・R・T」の要素が含まれたものであるべきです。

すなわち、
”S”pecific(具体的)で、
”M”easurable(測定可能)で、
”A”chievableで、
”R”elated(悩みや課題を解消するものに関連)したもので、
”T”ime-bound(時間的な制約)が設定されたもの
でなければなりません。

2、課題定義の手法

リスクと不安も違います。

不安に駆られて闇雲に行動しても空回りして資源を消耗するだけです。

リスクは発見され、具体化され、特定され、明確に定義されるべきものです。

索敵の重要性を説く軍事上の格言として「見えない敵は討てない」というものがありますが、「発見され、具体化され、特定され、明瞭に定義されたリスク」を所与として、初めて、制御(マネジ)という営みを観念することが可能となります。

このプロセスを経由せず、方法論をかき集めて、何かに没頭して、闇雲に動き回っても、空回りであり、資源の無駄です。

3、プロジェクト・ロードマップ

不安やストレスを抱えたことを契機としてこれをロジカルに解決・改善するのは、以下のような段階をたどります。

不安やストレス(明瞭な言語化がされない、漠然としたもの)の段階

悩み(言語化された具体的なもの)の段階

目的設定や課題の発見・定義(論理と法則と現実性が加わったプロジェクトのターゲットとなったもの)の段階

目的達成・課題対処設計(展開予測と動員資源計画と役割分担や責任体制が整備されたもの)の段階

目的達成・課題対処実施(プロジェクトキックオフ)の段階、
という形です。

1)単なる、漠然として、実体が曖昧な「不安やストレス」から言語化された明確な「悩み」へ

不安やストレスの段階は、「言語化」されて、はじめて、悩みの段階にアップグレードします。

すなわち、

不安やストレス(明瞭な言語化がされない、漠然としたもの)の段階

+「言語化」

悩み(言語化された具体的なもの)の段階

という形で公式化されます。

2)「悩み」の段階から、「目的設定や課題の発見・定義」の段階へ

「悩み」の段階は、「(愚劣な情緒ではなく)論理的・現実的(現実的=予算動員前提の意味)解決志向と、冷徹な原因分析や、不愉快な展開予測やトレードオフシナリオの受容 」があって、はじめて、「目的設定や課題発見・定義」の段階にアップグレードします。

すなわち、

「悩み」の段階

+「(愚劣な情緒ではなく)論理的・現実的(現実的=予算動員前提の意味)解決志向と、冷徹な原因分析や、不愉快な展開予測やトレードオフシナリオの受容 」

「目的や課題発見・定義」の段階

という形で公式化されます。

3)「目的設定や課題発見・定義」の段階から「目的達成や課題対処設計(プロジェクト企画)の段階」へ

「目的設定や課題発見・定義」の段階は、「知性と経験とスキルといった知的資源(当該資源がなければ予算資源)」を動員してはじめて、「目的達成や課題対処設計(プロジェクト企画)」の段階にアップグレードします。

「目的設定や課題発見・定義」の段階

+「知性と経験とスキルといった知的資源(当該資源がなければ予算資源)」の動員

「目的達成や課題対処設計(プロジェクト企画)」の段階

という形で公式化されます。

4)「目的達成や課題対処設計(プロジェクト企画)」の段階から「目的達成や課題対処実施(プロジェクトキックオフ)」の段階へ

「目的達成や課題対処設計(プロジェクト企画)」の段階は、「遂行のための人的資源の調達・体制化・動員環境(予算)」が整備されてはじめて、課題対処実施(プロジェクトキックオフ)の段階にアップグレードします。

「目的達成や課題対処設計(プロジェクト企画)」の段階

+「遂行のための人的資源の調達・体制化・動員環境(予算)」の整備

「目的達成や課題対処実施(プロジェクトキックオフ)」の段階

と公式化されます。

4、経営者失敗あるある

経営者から、何やらプロジェクトらしきものがあって、これが「どうのこうの」「滑った、転んだ」云々(要するにうまく行っていない)、とおっしゃられる場合があります。

ただ、このような場合、ほとんどが、状況や課題や目指すべき目標そのものが、まともな言葉になっていない、「不安やストレス」の段階であり、もう少し、言語化する必要がある、という場合がほとんどです。

「悩み」として言語化され、プロジェクトオーナーとして、  「(愚劣な情緒ではなく)論理的・現実的(現実的=予算動員前提の意味)解決志向と、冷徹な原因分析や、不愉快な展開予測やトレードオフシナリオの受容」という態度決定があって、はじめて、「目的」や「課題」として認識されることになります。

しかし、経営者によっては、
・ 現実的(現実的=予算動員前提の意味)解決志向
・ 不愉快な展開予測
・ トレードオフシナリオ(改善のための行動を取ると、波風が立ったり、返り血を浴びる。骨を断つために肉を斬らせるような筋書き)
を嫌悪して、そこからなかなか先に進まず、茹でガエル状態になって、際限なき状況悪化を自ら招くパターンに陥ることもあります。

上記のような負の連鎖を断ち切るような成熟さと思考の現実性、予算資源に関する考え方(何でもかんでもケチればいい、というものではなく、現実的な予算策定をして、従前な稼働環境を整えるべき)の適正化が課題だったりします。

著:畑中鐵丸

00109_「ベンチャー企業経営者が陥りがちなビジネス・マネー・人生全般における失敗」の傾向と対策_4_何かを改善しようとしたり、何らかの課題を対処しようとして、闇雲に突き進む前に、やるべき大事なこと

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本コンテンツシリーズは、アジア経営者連合会「ALA経営塾」主催にて、令和3(2021)年3月25日(木)17時30分開始にて行われました、弁護士畑中鐵丸の講演「組織と個人の用心棒、顧問弁護士の使い倒し方・ベンチャー企業経営者特有の失敗の傾向と対策~ベンチャー企業経営者なら皆さん身に覚えがあるビジネスやプライベイトの失敗事例と対策のための”あの手・この手・奥の手”を25年超のキャリアをもつベンチャー弁護士が直接伝授します~」の講演レジュメ及び講演録から編集したものです。なお、本講演内容は、筆者(講師)独自の見解であり、所属組織及びアジア経営者連合会ないしALA経営塾のものとは一切関係ありません。
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「笑いが止まらないくらい、楽しい人生を送る」
「不安やストレスのない人生を送る」
という抽象的なことを思い描くだけでは、全く人生は変わりません。
闇雲に方法論を探し始めても、見つかりません。
努力をしたり、何かに没頭しても、同じです。

仕事に置き換えて考えてみれば簡単に理解できます。

何かを改善させたり、新しい何かを構築したりするプロジェクトマネジメントや、
リスクや課題に対処して問題を解決するプロジェクトマネジメント、
を任された、とします。
この種のプロジェクトの開始に際して、
「何から着手すべきか」、
と考えてみれば、わかります。

それは、あったりまえのことですが、
「成長発展のゴール(ゴールデザイン)」

「課題やリスクの発見・特定(課題の定義)」
です。

とはいえ、こんな簡単なこともおざなりにしておいて、やおら、無目的にプロジェクトに着手するような壮絶なアホもいるので、注意が必要です。

たとえば、ここに東大を強く志望する高校生がいたとします。

この高校生が、一生懸命、走り込みや、筋トレをやっています。

曰く、
「ボクは、小学校の先生からも、中学の先生からも、公務員をやっているお父さんからも、専業主婦としてパートで頑張っているお母さんからも、ボクが大好きで尊敬する、善良を絵に書いたようなみんなから、こういわれて育った。
『努力は尊い。努力はいつか報われる。失敗をおそれるな』と。だからこうやって、走り込みや筋トレをして、体を鍛え、誰にも負けない運動性能と体力を身に着け、東大に合格するんだ。こんなに、体力を鍛え、努力しているんだから、神様はきっと見放さない。いつか、ボクは東大に合格するはずだ」
と。

しかし、残念ながら、この高校生は、10年浪人しようが、50年浪人しようが、東大に合格することはないでしょう。

理由はかんたんです。

東大の受験科目には、体育がないからです。

だから、どんなに走り込みをしたり、筋トレをしたりして、体育の点数を向上改善させても、それが、どんなに苦労を伴い、負荷がかかり、尊い、立派な努力であっても、その努力は、東大合格、という点に限っては、全く意味がありません。

なぜか。

対処課題をはっきりさせないまま、闇雲に努力をしているからです。

努力が、目的に結びついていないからです。

努力が、目的から逆算された、合理的で有益なものではないからです。

もっといえば、そもそも、自分の適性や能力に見合った目的の設定がなされていなかったのかもしれません。

大事なことは、頑張ることではありません。

まず、行うべきは、ゴール・デザインや、課題の発見・特定・定義です。

これを行う前に、闇雲に資源動員しても、無駄になるだけです。

著:畑中鐵丸

00108_「ベンチャー企業経営者が陥りがちなビジネス・マネー・人生全般における失敗」の傾向と対策_3_人生における対処課題(改善目標やリスク)の因数分解的整理

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本コンテンツシリーズは、アジア経営者連合会「ALA経営塾」主催にて、令和3(2021)年3月25日(木)17時30分開始にて行われました、弁護士畑中鐵丸の講演「組織と個人の用心棒、顧問弁護士の使い倒し方・ベンチャー企業経営者特有の失敗の傾向と対策~ベンチャー企業経営者なら皆さん身に覚えがあるビジネスやプライベイトの失敗事例と対策のための”あの手・この手・奥の手”を25年超のキャリアをもつベンチャー弁護士が直接伝授します~」の講演レジュメ及び講演録から編集したものです。なお、本講演内容は、筆者(講師)独自の見解であり、所属組織及びアジア経営者連合会ないしALA経営塾のものとは一切関係ありません。
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皆さんは、違う考え方をされるかもしれませんが、私の人生の目的は、人生を楽しむことです。

すなわち、「笑いが止まらないくらい、楽しく、憂いなき人生を送る」ことが生きる目的です。

そして、日々、「どうやったら、『笑いが止まらないくらい、楽しく、憂いなき人生を送る』ことが出来るか」ということを、それこそ死物狂いで考えています。

実際、東大卒の矜持にかけて、自分の全知能を傾けて、かなり、論理的、合理的、分析的に考え抜いています。

「笑いが止まらないくらい、楽しく、憂いなき人生を送る」ためには、改善したり発展させたり修正したりすべきテーマ(目標)を設定した上で、これらの課題に対処して、また、悲しい思いをしないよう、辛い思いをしないようにしておかなければなりません。

そして、そのためには、まず、「改善したり発展させたり修正したりすべきテーマ(目標)を設定した上で、これらの課題」とは何ぞや、ということを明確に発見し、特定し、把握し、整理しておかないといけません。

ところで、お金持ち、小金持ち、これらを目指す野心家に限らず、たいていの方にとって人生のテーマや課題は、一見すると複雑怪奇なようですが、実はそれほどでもなく、ちょっと思考をめぐらせれば、実にシンプルかつスマートに整理されます。

すなわち、人生のテーマないし課題は、
1、ビジネス(商売、事業、仕事)、
2、財産(マネー)、
3、健康、
4、暮らし、
5、子供、
の5つに集約されます。

すなわち、たいていの方の生きる上での悩みは、
1、ビジネス(商売、事業、仕事)=仕事や商売をうまく伸ばしたい・仕事や商売がうまくいかない、
2、財産(マネー)=カネを増やしたい・減らしたくない・盗られたくない、
3、健康=美容と健康を維持したい・改善させたい、病気の悩みがあるので何とかしたい、
4、暮らし=生活する上での不安やストレス、夫婦や家族や知人や親族といった人間関係の問題、
5、子供=子供がいじめられている、子供がいじめている、子供が勉強しない、子供が希望の学校に合格するか不安だ、
のどれかに収斂します。

もちろん、地球環境が心配とか、差別なき社会が実現出来るか不安とか、SDGsが本当に達成出来るか悩んで夜も寝られない、という方もいます。

しかし、そういう方のメンタリティは、私は理解は出来るものの、ある程度共感出来るものの、悩むとか不安で寝れないとか言われるとそんな共感レベルではありません。

大体、地球環境や、他人の差別意識や偏見、持続可能な社会などという代物は、私が制御出来る次元を超えた話であり、制御出来ない課題に悩むのは生産的ではありません。

その意味では、自分ではおよそ制御出来ない課題に心を痛め、夜も寝れない、というメンタリティは、私の理解を超えています。

虫や動物や宇宙人が何かに悩んでいるとしても、その悩みは私ではどうすることも出来ませんし、どうかしてあげようという気も起きません。

したがって、そういう「高尚な人生の悩み」は、私の研究テーマから外れますので、一切無視します(無視しますが、重要ではないとか一言も言っていませんので、誤解なさらないようお願い申し上げます)

前述のとおり、人生のテーマないし課題は、
1、ビジネス(商売、事業、仕事)、
2、財産(マネー)、
3、健康、
4、暮らし、
5、子供、
の5つに集約される、という前提を言い換えますと、要するに、
【人生】=【ビジネス(仕事)】+【財産(マネー)】+【健康】+【暮らし】+【子供】
で成り立っている、と要素分解することが可能と考えます。

著:畑中鐵丸

00107_「ベンチャー企業経営者が陥りがちなビジネス・マネー・人生全般における失敗」の傾向と対策_2_「人生に失敗する原因」と思われるもの

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本コンテンツシリーズは、アジア経営者連合会「ALA経営塾」主催にて、令和3(2021)年3月25日(木)17時30分開始にて行われました、弁護士畑中鐵丸の講演「組織と個人の用心棒、顧問弁護士の使い倒し方・ベンチャー企業経営者特有の失敗の傾向と対策~ベンチャー企業経営者なら皆さん身に覚えがあるビジネスやプライベイトの失敗事例と対策のための”あの手・この手・奥の手”を25年超のキャリアをもつベンチャー弁護士が直接伝授します~」の講演レジュメ及び講演録から編集したものです。なお、本講演内容は、筆者(講師)独自の見解であり、所属組織及びアジア経営者連合会ないしALA経営塾のものとは一切関係ありません。
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1)世の中、大事なことほど、本に載っていないし、親や学校の先生は教えてくれない。というか、親や学校の先生は、知らないし、むしろ、逆のことを教える(人生、お金だけじゃない。友達を信じろ。最後は正義が勝つなど)。

2)学校で教わることは、理想論。すなわち、キレイゴト。すなわち、ウソ。人生の大事な場面では、ウソやキレイゴトは通用しない。現実に向き合い、現実的に思考し、現実的に対処しないと、失敗する。

3)人生の一大事や大きな仕事の重要局面という、非日常的場面で、常識を働かせて、非常識な状況に対応できず、失敗する。

4)そもそも、「良き人生」「憂いなき人生」が定義できていない。定義できていないので、現実とのギャップが意識できない。そもそも、どういう思考秩序で考えるべきか、すらわかっていない。ぼんやり過ごして時間という貴重な資源を失う。

「人生をうまいこと送るための、卑怯で、姑息で、依怙贔屓の塊で、立派で公正とは言い難い、(違法ではないもの)腹立たしいほど不公平とも言える、知見や方法論や手法」

は、本に載っていませんし、普通のご家庭や学校では教えてくれません。

さらに言えば、そもそも、普通のご家庭の親御さんや学校の先生は、この種のことを全くといっていいほど知りません。

いや、むしろ、普通のご家庭や学校では、真逆のことを教えています。

普通のご家庭の親御さんや学校の先生は、

「寝ても覚めても金儲けのことを一生懸命考えなさい」

「いっぱい金儲けして金持ちになりなさい」

「法律に明確に書いていないことはやっていいことだから、目ざとく、すばしっこく、法律の穴をみつけて、ずる賢く大儲けしなさい」

「株式投資をしなさい」

「オプションやデリバティブを勉強して、効率的に資産を増やしなさい」

などとは教えません。

といいますか、普通のご家庭の親御さんや学校の先生は、その種のことを知りもしませんし、これらと正反対のことを教えます。

そして、残念なことに、普通のご家庭の親御さんや学校の先生が教える「理想論」という名の「キレイゴト」ないし「ウソ」は、「お金持ちや小金持ちになったり、あるいはこれらを目指す」上では、有害な洗脳として作用してしまいます(もちろん、清く、正しく、貧しく、慎ましやかに生きる上では、正しく価値ある洗脳としてポジティブに作用します)。

しかし、お金持ちや小金持ちになったり、あるいはこれらを目指すなら、どこかで、この

「本に載っていないし、普通のご家庭や学校では教えてくれないし、そもそも、普通のご家庭の親御さんや学校の先生が知りもしないし、経験もしたことない知識や思考法や実現技術」

を学ばなければなりません。

https://www.tetsumaru.com/archives/%e6%9c%ac%e3%82%b5%e3%82%a4%e3%83%88%e3%81%ae%e3%81%94%e7%b4%b9%e4%bb%8b2/
より

著:畑中鐵丸

00106_「ベンチャー企業経営者が陥りがちなビジネス・マネー・人生全般における失敗」の傾向と対策_1_人生の失敗のパターン

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本コンテンツシリーズは、アジア経営者連合会「ALA経営塾」主催にて、令和3(2021)年3月25日(木)17時30分開始にて行われました、弁護士畑中鐵丸の講演「組織と個人の用心棒、顧問弁護士の使い倒し方・ベンチャー企業経営者特有の失敗の傾向と対策~ベンチャー企業経営者なら皆さん身に覚えがあるビジネスやプライベイトの失敗事例と対策のための”あの手・この手・奥の手”を25年超のキャリアをもつベンチャー弁護士が直接伝授します~」の講演レジュメ及び講演録から編集したものです。なお、本講演内容は、筆者(講師)独自の見解であり、所属組織及びアジア経営者連合会ないしALA経営塾のものとは一切関係ありません。
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1)不安と混乱の中、何をしていいかわからず、ただただ無為に人生を送り、時間という貴重というな資源を喪失して、人生を終わる。

2)目標が設定できない。目標を設定するのが遅すぎ、目標が判って設定出来たころには、対処資源(特に時機、すなわち時間やタイミング)を失っていて、時すでに遅し、で失敗する。

3)目標は設定出来たが、自分に適した、現実的で達成可能な目標ではなく、持続不能に陥り、失敗する。

4)目標が設定出来、当該目標を達成するための課題に気付くのが遅すぎて、対処資源(特に時機、すなわち時間やタイミング)を失って、時すでに遅し、で失敗する。

5)ゲームに参加したものの、ゲームの環境、ゲームのロジック、ゲームのルールをよくわからないまま、参加したことが災いして、敗北し、失敗する(敗北してから、ようやく、ゲームの環境、ロジック、ルールが帰納的に実感出来るが、あまり意味がない)

6)誰かを信頼して失敗する。他人(友達、パートナー、取引先、役所、警察、裁判所。あと、親や小学校の先生が教えたキレイゴトを信じて失敗する場合における、無責任なキレイゴトを教示する親や先生といった「他人」)を信頼して失敗する。自分や自分の常識(という偏見)を信頼しすぎて(過大評価して)失敗する。

著:畑中鐵丸

00105_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」33・終_総括_20201220

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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これまで、苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」として、起業を考えたり、将来経営幹部を目指したり、すでに家業をついでオーナーとして企業経営をしておられる方の心構えに至るまで、
「過酷な経済社会を生き抜くための表層的なノウハウ、テクニック」
を超えた、
「本質的なリテラシーやマインドセットを含めた生き方、考え方」
をお伝えしてきました。

いずれも、
「好感度がイマイチで、マイノリティ志向の強い、毒舌家で、(本人にはさっぱり理由は不明ながら)とかく敵が多い、畑中鐵丸」
が語る、
「誰にでも適用されるべき普遍的理念」
とは真逆の、
「極めて適用範囲の狭い、独善的で偏見に満ちた代物」
といえなくもなかった代物であったかもしれません。

そんな、好感度が芳しくなく、とかく口の悪い畑中鐵丸ですが、
「これだけは、美徳として堅持している」
というものがあります。

それは、畑中鐵丸の気質として、
「ウソをつくのが下手くそ」
というか、
「ウソをつけない」
というか、
「思ったまま、考えたことを口に出してしまう」
という点です。

美点なのか欠点なのかは捉え方にもよりますが、私の語る内容は、だいたい、的のど真ん中を射ちゃっていると思います。

畑中鐵丸は、
「理想」
を語るのは、苦手というか、下手クソです。

だって、
「理想」
って、現実とは違う、いってみれば、キレイでデオドラントな
「ウソ」
ですから。

「仕事や人生の大事な局面」で、「常識や、学校の先生や親に教えられたことや、テレビや新聞で言っていること」にしたがうと、たいてい失敗します。

「常識や、学校の先生や親に教えられたことや、テレビや新聞で言っていること」は理想であり、キレイゴトであり、耳障りはいいものの、役には立たないのです。

「仕事や人生の大事な局面」は、「キレイゴトではどうにもならない、圧倒的な現実」が大きく立ちはだかり、これに対して、「あの手、この手、奥の手、禁じ手、寝技、小技、反則技」を繰り出す「ルール軽視の何でもあり」で死にものぐるいで生き残るような場面ですから。

いずれにせよ、人生、世渡り、身過ぎ世過ぎの上で、役に立つのは、キレイゴトではなくリアリティです。

弁護士として、企業の大事や切所に立ち会う専門家として、常に、リアリティを語ってきましたし、現実に立ち向かうためのリアリティを語ろうとすると、クライアントや関係者がキレイゴトを盾に邪魔をし、足を引っ張ります。

キレイゴトは、有害に作用し、キレイゴトに沿った処理をすると、たいてい首を締め、死期を早めますし、結局は利敵の論理に過ぎません。

その意味では、私は、常に、リアリティを語り、敵と同時に、キレイゴトを語って利敵に回る内部の世間知らずの大馬鹿者と対向する、という二正面作戦を強いられ続ける職業人生を歩んできました。

その意味で、私は、現実を、みたまま、とらえたまま、正確に伝えるのは、得意です。

ウソをついたり、美辞麗句でごまかしたり、といった面倒なことをしなくて済みますから。

他方、真実ほど、残酷に人を傷つけるものはありません。

あるとき、クライアントの高齢の社長に言われたことがあります。

「先生、何をいっても結構だ。タブーなき議論が大事だ、というのもわかる。けれどもね、本当のことだけは言っちゃいけない。先生から、反論できない事実や真実を言われると、本当につらくなるし、死にたくなるからさ」
と。

しかしながら、
「真実、事実、現実、本当のこと」
は、課題の発見・特定・処理に不可欠であり、
「真実、事実、現実、本当のこと」
を避けては、問題の改善はおよそ困難です。

もちろん、ここで今まで述べたことは、
「真実、事実、現実、本当のこと」
のほんの一部です。

まだまだ、きちんと把握し、再確認しておくべき
「真実、事実、現実、本当のこと」
は無限にあります。

では、どうやって、偏見や誤認や誤った評価・解釈を避けて、
「真実、事実、現実、本当のこと」
を正しく、客観的に、フェアに到達する知性や感性を身につけるべきか。

それは、実は簡単なことです。

子供のころから、耳にタコができるくらい、繰り返し言われてきた、親御さんや、小学校の先生や、テレビや、新聞がインプットしてきた
「常識」
「良識」
「社会のルール」
「道徳」
「倫理」
といったものを、すべて忘れ去ることです。

親御さんや、小学校の先生や、テレビや、新聞が、
「教育」
という名の
「洗脳」作用
を通じてインプットしてきた
「常識」
「良識」
「社会のルール」
「道徳」
「倫理」
なるものは、いってみれば、
「理想」
をキレイゴトとして美しく語っているに過ぎず、それは、
「真実や現実とは真逆のもの」
であって、いってみれば、耳に心地いい
「ウソ」
に過ぎません。

「ウソ」
をありがたく奉じて、真実や現実をないがしろにしては、問題解決はおろか、課題の発見・特定すら困難です。

20世紀最大の物理学の権威にして、歴史的な天才科学者であるアインシュタインは、
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
と喝破しました。

「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理にしたがって考え、行動していたら、どうもうまくいかない。何か違和感を感じる」
そんなときは、
「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理」
こそ疑ってみるべきです。

もちろん、
「『常識や良識や社会のルールや道徳や倫理』のすべては無価値で無意味である」
というような過激なことを言うつもりありません。

ですが、
「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理」
にも
「耐用年数」
というものが観念できます。

ひょっとしたら、
「常識や良識や社会のルールや道徳や倫理」
なるものが、制度疲労や本質劣化の限界に達していて、効用喪失を通り越して、有害になってしまっており、それが、
「違和感」
となって皆さんに警告音を発しているのかしれません。

私がよくクライアントや学生や弟子にお伝えする話として、こんな事例があります。

「それまで圧倒的通説であった天動説が、何時、どのようなプロセスを経て、地動説に、通説の座を譲ったのか、知っていますか」
「天動説の学者が、観測データや天文現象を目の前にして、その背景原理における自説の致命的な誤りに気づいて、非を認め、大いに恥じ入り、膝を屈して、『私が愚かでした。バカでした。間違っていました。地動説の正しさを認めます。今までアホな考えに固執してすいませんでした』とお詫びしつつ、説を変え、転向したのでしょうか」
と。

実際は、バチカンの天動説の学者は、どんな観測データや天文現象を突きつけられても、コペルニクスが地動説を唱えてから400年近くも、頑として、自らの誤りを認めず、自説の正しさに固執し、
「下水管のネズミ」
のようにしぶとく生き残り続けました。

バチカンの天動説の学者が死ぬときも、死してなお、有害な毒でしかない愚昧な自説を譲らず、生き残った者にまで愚かさを感染させていきました。

すなわち、天動説の学者は、自らの死の間際に、弟子や後継者たちに、
「いいか、地動説は絶対間違いだからな。邪説だからな。どんな観測データや天文現象を示されても、悪魔の説だ。わかったな。オレが死んでも、天動説を信奉し、地動説などという異説・邪説に転向するなよ。もし転向・変節したら、化けて出てやるし、おまえら全員地獄に行き、煉獄の炎に焼かれるぞ」
と真顔で脅迫して、それこそ
「孫子の代」
まで、
「天動説」
という愚説を信奉するよう強制したのです。

こうして、天動説という愚説は、バチカン内部で、400年近くも
「冷蔵庫の裏のゴキブリ」
のようにしぶとく生き残り続けたというわけです。

バカチン、もといバチカンが、地動説に転向したのは、1993年になってからです。

ネコが粗相を隠すように、転向をさとられないよう配慮しつつ、地味に、ひっそり、姑息に、ひそひそ、しれっと、知らない間に、さっくり、転向しました。

実に、姑息で、卑怯で、卑劣なやり方で、
「異説を唱える反対者を火炙りにしてまで守り続けた、愚説としての自説」
をしめやかに放棄し、人目を憚り、こっそり、ひっそり転向したのです。

「バカは死ななきゃ治らない」
などといいますが、天動説を組織的に信奉したバカチンもとい、バチカンの頑迷固陋ぶりは、これを通り越しています。

「死んでも治らないバカ」
「死してなお、生き残ったものも縛り付ける有害ではた迷惑なバカ」
とでもいうべき、地獄に落ちてもいいくらいのバカさ、アホさ、愚劣さです。

また、転向の際の卑劣さや姑息さも際立っており、唾棄すべき品位低劣さです。

「ちゃんと、自己批判して、総括しろよ」
「ガリレオやコペルニクスといった天才たちに、三跪九叩頭の礼を以て、きちんと謝罪しろよ」
と言いたくなります。

何を言いたいか、といいますと、
「常識にとらわれるな」
「違和感が生じたら、違和感こそ大事にしろ」
「自分の違和感を疑わず、教育の名の下に行われた『洗脳』によって18歳に植え付けられた『常識』という『偏見のコレクション』をこそ疑え」
ということです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.161、「ポリスマガジン」誌、2020年12月号(2020年11月20日発売)

00104_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」32_(18)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その4_20201120

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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(10)いいカッコをする人間の「イタさ」と、その末路
これまでみてきたとおり、我々は、生きている限り、法を犯さずにいられませんし、また、そのような外聞の悪い人生を、プライバシー権を盾に、冷蔵庫の陰に隠れたゴキブリのように、こっそり、ひそひそと姑息に生きています。

ところが、なかには、イイカッコをしたり、いい人であろうとしたり、美辞麗句を述べたり正義のヒーローを演じる人間がおり、彼ら彼女らは、人間の本質に反する行為を行います。

いうなれば、
「タチの悪いウソつき」
です。

この種の人間は、
「私は法を犯したことはない」
などという
「悪質なウソ」
をつかないと自分を成り立たせることはできない、悲しくて、イタい人間なのです。

もちろん、
「一般人」
としてコソコソ生きている限り、プライバシー権は保障されます。

ですが、
「正義のヒーロー」
とか
「理念を実現するリーダー」
とか自称して自ら進んでマスコミや世間に出た瞬間、プライバシー権は放棄したものとみなされ、過去の行いも含め、徹底的な監視の目にさらされます。

そして、ウソはいずれ、必ず露見します。

良い格好をしようとする偽善者(関西弁で「エエカッコシー」)は、小さなウソを守ろうとするために、どんどんウソを重ね、最後は、事態を過激な方向で打開しようと図り、大きな破滅を招きます。

アメリカ合衆国第42代大統領であったビル・クリントン氏は、ホワイトハウス実習生と性的な関係を持ったとする疑惑が持ち上がった際、1998年1月26日の記者会見で、
「もう一度言います。私はあの女性、ルインスキーさんと性的関係を持っていません。私は誰にも嘘をついたことがありません。いまだかつて一度もありません。この申し立ては虚偽です」
という、明らかなウソをつきました。

追い込まれた挙げ句の強弁ですが、これはダメでしょう。

「私は誰にも嘘をついたことがありません。いまだかつて一度もありません」
というのは、本当にタチの悪い、バレバレで、ミエミエで、スケスケの、額縁に入れてもいいぐらいの、金ピカで、まごうことなき、最悪の、ホンモノの
「ウソ」
です。

こんな
「ウソの中でも最悪のウソ」
をつかざるを得ない事態に至ったのは、ビル・クリントン氏が、
「正義のヒーロー」
とか
「理念を実現するリーダー」
とか自称して自ら進んでマスコミや世間に出た瞬間、プライバシー権は放棄したものとみなされ、過去の行いも含め、徹底的な監視の目にさらされたからです。

このような破滅を防ぐためには、

ア 意味なく無理して表に出ない
イ 表に出たとしても無理して良い格好をしない
あるいは
ウ 良い格好をして、それと真逆の事実を指摘されても、糊塗するために嘘をついたりせず、堂々と認めて開き直るか、プライバシーを盾に弁明を拒否する

のいずれか、またはすべてが推奨されます。

(11)プライバシーを武器にセクハラ疑惑を振り切ったトーマス判事の弁明術

ちなみに、アメリカ最高裁判事のクラレンス・トーマスという御仁は、就任の際、かつての部下であったアニタ・ヒルという女性法学者(オクラホマ大学教授〔当時〕)からセクシャル・ハラスメントで訴えられました。

要するに、出世の機会を得て、世に出て、しかも、法と正義を代弁するという
「究極の良い格好をしなければならない良識あふれる善人」
という立場を演じることが要求される立場を務めることになったところ、過去のセクシャル・ハラスメントを訴え出られて、かなり手厳しい状況に追い込まれたのです。

その際、同判事は、
「良い格好をして、それと真逆の事実を指摘されても、糊塗するために嘘をつく」
という戦略ではなく、
「プライバシーを盾に弁明を拒否する」
という、ある意味、振り切った態度決定を貫く戦略を取り、見事に窮地を脱しました。

その弁明たるや見事の一言に尽きます。

「I will not provide the rope for my own lynching or for further humiliation. I am not going to engage in discussions nor will I submit to roving questions of what goes on in the most intimate parts of my private life or the sanctity of my bedroom. These are the most intimate parts of my privacy, and they will remain just that, private. (意訳:私は、自分が社会的リンチを受け、さらなる誹謗中傷をうけるために、自分から攻撃材料を提供するつもりはない。こんな馬鹿げた議論に参加するつもりもない。私生活の根幹や、神聖な場所である寝室での事柄について、くだらない質問に答えるつもりもない。議論の対象が、私のプライバシーの中で最も機微に触れる部分であり、プライバシーそのものだから、答えないのは当然なはずです)」

こういう類まれなる弁舌のスキルをもつ超天才は別として、我々凡人は、
「雉も鳴かずば撃たれまい」
といった諺をよく噛み締め、地味に暮らしたほうが賢明なのかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.159、「ポリスマガジン」誌、2020年11月号(2020年10月20日発売)

00103_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」31_(17)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その3_20201020

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前回、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
「どんな人間であれ、生きている限り、1日最低1つは法を犯す」
という、歴史上証明された絶対的かつ普遍的な法則を紹介しつつ、この例外として、
「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの方が、2種類存在する、と申し上げ、その1つとして、受刑者が
「生きていても、(受刑中は)絶対法を犯さない(というか、犯せない)」
のタイプの人間である、と申し上げ、受刑者の処遇の実体や、懲役刑という処罰の本質について、ご紹介しました。

(7)「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの人間その2―皇族の方々―

「絶対、法を犯さない」
という属性をもつ方々が、受刑者に加え、もう1タイプ存在します。

それは、皇族の方々です。

無論、皇族の方々は、性欲を制御できない神父さん(※ごく一部だと思います。多分ね)や、世俗の欲にまみれることもある神主さん(※ごく一部だと思います。わかんないけど)やお坊さん(※ごく一部だと思います。自信はないけどね)と違い、気品と、気高さと、生まれ持った高貴さがおわしますから、
「その品位と高潔さがある故に、絶対、法を犯さない」
ということもあるでしょう(ね、おそらく)。

(そんなもんをお持ちかどうか知らんけど)内面の気品や気高さもさることながら、それ以上に、日本の皇族の方々は、特殊な環境下におかれています。

すなわち、皇族の方々は、24時間監視され、自由が奪われ、社会との接点がありません。

なんと。

偶然にも、意図せず、発見した私自身びっくりしていますが、「皇族の方々の生活環境」は、「刑務所の受刑者の生活環境」と同じになっています(!)。

だから、どんなに罪を犯そうとしても、環境面、処遇面で、犯しようがない、ということもあり、(もちろん内面の気高さも大きなファクターもあるかもしれませんが)
「絶対、法を犯さない」
という特異な人生を送っておられるのです。

欧米の皇族には、監視もなくあるいはゆるく、自由を謳歌でき、社会との接点が多いせいか、
「普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着」
といったタイプの方もいらっしゃり、薬物中毒経験者であるノルウェー王室のメッテ・マリット王太子妃など、結構、ワイルドでファンキーな問題を起こしていらっしゃいます。

しかしながら、わが国ニッポンでは、
「象徴天皇制」
言い換えれば
「天皇終身アイドル制」
という、大きな大きなお役目を負わされた挙げ句、刑務所の受刑者同様、24時間監視されて、自由が奪われ、社会との接点もなく、我々一般ピーポーのように気軽に罪も犯せない、なんとも窮屈な生活を強いられている日本の皇族の方々は、本当においたわしい限りです。

臣民の1人としては、皇族の方々が、そんな窮屈な生活を送られながら、不満1つ言わず、しっかりとお役目を果たされていることについては、頭が下がる思いです。

(8)「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの2種類の人間―受刑者と皇族の方々―の共通性

「受刑者」

「皇族の方々」
という、一見真逆のタイプの二種類の属性の方が、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
「どんな人間であれ、生きている限り、一日最低一つは法を犯す」
の例外として、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
稀有な方々として、厳然と存在します。

(受刑者と皇族の方々を並列として議論するのは、大の「皇室ファン」の私としては、どうにも気が引けますが、純粋な社会科学の議論として続けますと、)これら例外的な方々が、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
のは、
「法を完璧に把握し、すべての法を尊重し、常にかつ完全に、高貴で品位を保ちエレガントな振る舞いをされているから」
というよりも、
「社会と隔絶された環境におかれ、24時間監視体制下にあるから、たとえ法を犯したくても物理的・環境的・方法論的に法を犯しようがないから」
というのが大きな理由と思われます。

(9)「法を守れない人間」を優しく保護する「プライバシー権」

以上のような、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
稀有な方々は別として、ごく普通に市民生活を送るカタギの我々は、生きている限り、気軽に1日に2つ3つ法を犯す自由を謳歌し、気ままに、楽しく生活しています。

除夜の鐘が108とかいわれ、煩悩は108程度ですが、普通に生活していたら、法令違反は1年間で軽く1000を超えます。

我々は、そのくらい、日々法を犯しながら、平気な顔で生きているのです。

そして、法律も、このような人間の本質をよく理解した上で、
「隠れて、コソコソ、表沙汰にならず、ひっそりと生きていく」
ということを、人格的尊厳を守るための人権として、正面から認めています。

この、
「誰しも、法を守らず、約束を反故にし、ウソをつき、他人を裏切り・陥れ、目先の利益を姑息においかけて、生きている」
という
「人間のど真ん中の本質」
をよく理解した上で、
「検挙・起訴に至らないようなライトな不正や非行も含めて、都合の悪いことや外聞の悪いことを表沙汰にせず、隠れて、コソコソ、ひっそりと生きていく自由ないし権利」
を、
「人格的尊厳を守るための人権」
として高らかに謳いあげ、保障した憲法上の権利。

これを称して、
「プライバシー権」
といいます。
 

「人間は、生まれながらにして疚しいことが満載なので、これを逐一追及されることなく、コソコソと生きていける状態こそが、『人間が人間らしく、人格的尊厳を保って生きていく』ためには絶対的に必要である」

これがプライバシー権を「基本的人権」として保障する背景論理です。

「社会で生活する全員が、24時間365日、衆人環視に耐えられるような、非の打ち所1つない清廉潔白な生活を、正々堂々と送っている」
というなら、こんな
「プライバシー権」
なんて、
「隠れてコソコソする生活を保障するような姑息にして卑怯な権利」
なんて不要なはずです。

しかしながら、プライバシー権は、皆ほしがりますし、これがないと、人格的尊厳を守って生活できない。それほど、重要にして貴重な人権なのです。

このプライバシー権のおかげで、我々は、衆人環視の状況で現行犯を犯すような明白で愚かなことをせず、あるいは、犯人性や行為を示す顕著な痕跡を残さない限り、何時でも、気軽に、自由に、イージーに、法を犯せます。

そして、そのような環境を享受する自由ないし権利を、法律の王様である憲法が基本的人権として保障しています。

これが、プライバシーという権利の根源的本質です。

正義も品もない、むちゃくちゃな言い方ですが、ある意味、現実的で、人間臭い話です。

憲法というのは、
「すべての人間が、何時何時でも、どのような状況にあっても、すべての法を守って、誰に対しても説明つく行動をして生きるべき」
という非現実的なまでに堅苦しい教条主義的前提に立っていません。

むしろ、憲法は、
「人間が生きている限り、法を犯さずにいられないが、皇族の方々や囚人でもない限り、それを逐一目くじら立てて、全てを監視下において、窮屈で息がつまるような生活を強制せず、自由気ままに、ときに、ちょっとした悪事や非行や法令違反を含め、やましいことや、後ろ暗いことや、説明できないことや、表沙汰にしてほしくないようなこともやらかしながら、生きていける。そういう姑息な生き方が保障された環境こそが、人間らしく生きることであり、これを基本的人権として保障するべき」
という、
「実に、成熟した考えに基づく、粋(いき)で鯔背(いなせ)で世情に通じ、俗気にあふれる法理」
を内包しているのです。

そして、プライバシー権という
「犯罪や犯罪に至らないようなライトな非違行為も含めて、都合の悪いことや外聞の悪いことを表沙汰にせず、隠れて、コソコソ、ひっそりと生きていく」
ための人権のおかげで、皇族でも受刑者でもない、市井の我々は、現行犯として逮捕されたり、顕著な痕跡をおおっぴらに残すような真似をしない限り、1日2つや3つの法を犯しながら、自由に、気ままに生活ができるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.158、「ポリスマガジン」誌、2020年10月号(2020年9月20日発売)

00102_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」30_(16)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その2_20200920

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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前回、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
「人間がどんなに修行を積んで、立派になっても、欲には決して勝てない。法やモラルを守れといっても、人間が動物である限り、本能と衝突した場面では、必ず、本能が法やモラルに打ち勝つ」
「どんな人間であれ、生きている限り、1日最低1つは法を犯す」
という社会科学上の絶対真実ともいうべき原理ないし法則をお伝えしました。

しかし、物事には必ず例外があります。

すなわち、
「人は生きている限り、法を犯さずにはいられない」
という絶対的かつ普遍的な法則にも例外があり、
「生きていても、絶対法を犯さない」
というタイプの方が、私の知る限り、少なくとも2種類存在する、と述べました。

では、この
「生きていても、絶対法を犯さない」
というタイプの人種、どんな属性の方なのでしょうか。

いえ、カトリックの神父さんとか大きな神社の神主さんや名刹のお坊さんとかではありません。

カトリックの神父さんの児童の性的虐待や、
「姉弟の間で、文字通り『血で血を争う抗争』」
となった神社の内部抗争等をみれば、むしろ、
「どんなに立派(そう)な人間でも、決して欲には勝てない」
というシンプルながら、強烈な現実を再確認することができるくらいですから。

(5)「生きていても、絶対法を犯さない」というタイプの人間その1―受刑者―

「生きていても、絶対法を犯さない」
というタイプの人種の1つ目は、懲役刑を食らって刑務所に収監された受刑者の方々です。

これらの方々は、別に、法令遵守意識が高いとか、精神が高邁・高潔というわけではありません(私の勝手な推測ですが、おそらく真実に近いと思います)。

普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着で、さらに言うと、大胆に法を犯したか、はっきりとした痕跡を残したか、あるいはその双方をやらかし、普通の人より大きなしくじりを犯した方々です。

ですが、受刑者の方々は、どんなに法を犯したくても犯すことは不可能です。24時間監視されて、自由が奪われ、社会との接点がないからです。

(6)「懲役」というペナルティの本質的過酷さ

深夜の高速道路の自動車のスピード状況や、かつての大阪市内の路駐の状況をみれば、
「ごく普通の市民であっても、生きている限り、個人単位で、1日に2つ3つ法を犯しながら、生活している」
という事実はご理解いただけると思います。

除夜の鐘が108とかいわれ、煩悩は108程度ですが、普通に生活していたら、法令違反の数は1年間で軽く1000を超えます。

我々は、そのくらい、日々法を犯しながら、平気な顔で生きているのです。

ところが、犯罪者の方々、すなわち、

・「法を無視ないし軽視するような性格・気質」を生まれ持っている
あるいは
・「欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向」を有している
ような特定属性の方々が、
「どんなに法を犯したくても、24時間監視体制下にあって、社会との接点もないため、決して法を犯せない」
という環境で長期間過ごさなければならない。

そこに、懲役刑というペナルティの本質があると考えられます。

すなわち、懲役刑というペナルティの本質的な意味は、
「どこかに閉じ込めておくこと」
「どこかに隔離しておくこと」
ではありません。

もし、懲役刑がそういう趣旨をもつのであれば、犯罪者をまるごと、脱出手段をなくした絶海の孤島に放り出せば、済むはずです。

刑務所設備もそのメンテナンス費用も刑務官その他の人件費も大幅に削減され、
「犯罪者のために多額の血税を投入する」
という無駄もなくせます。

多額の建築費・設備運営費・人件費をかけて、24時間監視体制で自由を奪うインフラを作って運営するのは、犯罪者に対して、単純な隔離以上に、受刑者により積極的に働きかける意義と必要性が存在するはずです。

要するに、
「犯罪者、すなわち、『法を無視ないし軽視するような性格・気質』を生まれ持っている、あるいは『欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向』を有しているような特定属性の方々」
に対して、
「一定期間、24時間監視体制の下、社会との接点を失くさせ、『法を犯したくても、決して法を犯せない』という状況ないし環境」
に追い込み、強烈な精神的な負荷をかけさせる。

このように、
「『法を無視ないし軽視するような性格・気質』を生まれ持っている、あるいは『欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向』を有しているような特定属性の方々にとって、悪夢というべき、最悪な環境」
を作って、そこに犯罪者を送り込むことを以て懲らしめとする、という点にこそ、懲役刑というペナルティの根源的負荷性があるものと思われます。

要するに、
「普通の人なら、普通に生きて、普通に1日2つや3つの法を犯しつつ、娑婆で気ままに生きれる」
という自由があるところ、懲役刑を食らうと、
「普通の人のように、気軽に、自由に、カジュアルに法を犯そうとしても、24時間監視され、社会との接点がなく、自由が奪われた状態で、気ままに法を犯せない」
という窮屈な生活を強いられる。

しかも、
「普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着」
というリベラルでファンキーな方に、普通の人より窮屈な生活を強いる、という苦痛を味わわせる。

ここに、懲役刑のペナルティとしての厳しさがあるものと思われます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.157、「ポリスマガジン」誌、2020年9月号(2020年8月20日発売)

00101_苛酷な社会を生き抜くための「正しい非常識」29_(15)いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じようとすると、必ず身を滅ぼします_その1_20200820

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本コンテンツシリーズにおいては、個人で商売する方や、資産家や投資家や企業のオーナー経営者の方、出世して成功しようという意欲に燃える若い方、言い換えれば、「お金持ちや小金持ち、あるいはこれを目指す野心家の方々」へのリテラシー啓蒙として、「ビジネス弁護士として、無駄に四半世紀ほど、カネや欲にまつわるエゴの衝突の最前線を歩んできた、認知度も好感度もイマイチの、畑中鐵丸」の矮小にして独善的な知識と経験に基づく、処世のための「正しい非常識」をいくつか記しておたいと思います。
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(1)カッコつける人間を演じることのリスク

いいカッコをしたり、いい人であろうとしたり、正義のヒーローを演じると、ウソをつかなかればならず、精神衛生上よくありませんし、ストレスがたまり、疲れます。

(2)人間は、生きている限り、法を犯さずにはいられない

そもそも、人間は、生きている限り、法を犯さずにはいられません。

これは、歴史上証明された事実です。

「人間が生きている限りどうしても法を守れない」
「人間が生きている限りどうしても病気や怪我と無縁ではいられない」
こういう厳然たる事実があるからこそ、医者と弁護士という
「人の不幸を生業とするプロフェッション」
が、古代ローマ以来現在まで営々と存在し、今後も、未来永劫存続するのです。

普段暮らしていると、忘れてしまいがちな、重要な前提があります。

「人間は動物の一種である」
という命題です。

人間は、パソコンでもスマホでもAI(人工知能)でもなく、これらとは一線を画する、
「動物」
の一種です。

そして、
「パソコンでもスマホでもAI(人工知能)でもない、動物」
である人間は、生きて活動する限り、ルールやモラルと本能が衝突したときには、必ず本能を優先します。

だって、我々は
「動物」
の一種ですから。

もし、本能に反して、ルールやモラルを優先する人間がいるとしたら、もはや、その人は、
「動物」
ではなく、
「パソコン」

「スマホ」です。

PEPPERくんです。

SIRIちゃんです。

いつもいつも、そんな、清く正しく美しい選択をする人間がいるとすれば、社会心理学上稀有な事例として、研究対象となり、
「なんで、そんな異常なこと、理解に苦しむことをやらかすんだ?」
と考察と検証が行われます(社会心理学では、反態度的行動というそうです)。

(3)どんなに修行を積んだ聖職者でも、欲の前には無力

私が、コンプライアンスに関するセミナーを行う際にご紹介する興味深い事件があります。

高野山真言宗の八事山興正寺(名古屋市昭和区)の前住職らが約80億円を不正に流用したとして、現住職側が背任と業務上横領容疑で告訴状を名古屋地検に提出したことが16日、分かった。14日付。関係者によると、前住職は在任中の平成24年、寺の土地約6万6000平方メートルを学校法人に約138億円で売却。現住職側は、前住職がこのうち約25億円を外国法人に、約28億円を東京都内のコンサルタント会社に送金したと主張。いずれの送金先も前住職と関連のある会社だったとしている。前住職の代理人弁護士は取材に「告訴内容を把握しておらず、コメントは控えたい」と話した。高野山真言宗は無断で土地を売却したとして、前住職を26年に罷免しているが、前住職は「罷免は不当」として現在も興正寺にとどまっている。興正寺は名古屋国税局の税務調査を受け、27年3月期までの3年間に約6億5000万円の申告漏れを指摘された(産経WEST2016年9月16日12時57分配信)。

実に味わいがある、というか、深い、というか、考えさせられる事件です。

「どこの金の亡者の話か?」
と思えば、千日回峰行(空海が教えた密教の修行)を完遂した阿闍梨(仏陀の
「完全な人格」
にかぎりなく近づいている高僧)もいらっしゃる、立派で、高邁な組織で実際あった事件です。

この話以外にも、宮司姉弟間の殺人で話題になった富岡八幡宮事件や、カトリック教会の性的虐待事件など、
「我々、無知蒙昧で、欲まみれで、薄汚れた、迷えるダメ人間」
を導いてくださるはずの、
「難行苦行や修行や日々の祈りによって、欲を克服した、精神の高みに達したはずの聖職者の方々」
も、私のような小心者の想像を絶する、大胆で、えげつないことを、敢行します。

私も
「非日常」
を扱う弁護士という仕事をかれこれ四半世紀もやっていますから、そこそこヤンチャというか、えげつないというか、大胆な人間を知っていますが、このレベルのワイルドな人間は、弁護士からみても、かなりレアというか、オリンピック級です。

そして、特定の、という限定はつくにせよ、聖職者の方々が敢行された犯罪行為の凶悪さ、大胆さをみるにつけ、なんとも感慨深い気持ちになります。

すなわち、これらの事件やトラブルに接すると、
「どんなに立派な修行を積んでも、人間、決して、欲には勝てない」
という、シンプルだが鮮烈な事実を、我々に改めて再確認させてくれる、ということです。

この話が、何につながるか、といいますと、
「人間が欲に勝てない以上、法やモラルを守れといっても、本能と衝突した場面では、必ず、本能が法やモラルに打ち勝つ」
という社会科学上の絶対真実ともいうべき原理ないし法則につながります。

(4)普通に生きていると、1日1つは法を犯す

私の感覚ですが、どんな人間であれ、生きている限り、一日最低一つは法を犯します。

警察や裁判所や刑務所がパンクしないのは、すべての違法行為を取り締まらず、自らの取り締まり能力に見合った数の事件しか取り締まらず、あとは未立件で放置しているからです。

違法行為には、
「目くじら立てて、時間とエネルギーをかけて是非・善悪を明らかにして、公式記録に残されるもの」
以外に、
「発覚しないまま、不問に付され、その後時効にかかるもの」
「お目こぼしされるもの」
といった莫大な暗数のものがあるのです。

いずれにせよ、社会は、違法、違反、約束違反で満ちています。

人間は、誰しも、法を守らず、約束を反故にし、ウソをつき、他人を裏切り・陥れ、目先の利益を姑息においかけて、生きています。

法律も、このような人間の本質をよく理解した上で、
「隠れて、コソコソ、表沙汰にならず、ひっそりと生きていく」
ということを、人格的尊厳を守るための人権として、正面から認めていますというところで、紙幅の限界が来ましたので、この話は次回に続けたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.156、「ポリスマガジン」誌、2020年8月号(2020年7月20日発売)