00069_「民主」の時代を考える~民主主義再検証~(3)_20091220

民主主義再検証シリーズ連載三回目です。

今回は、地方自治における直接民主制についてです。

地方自治においては、憲法上、直接民主主義が採用されています。

憲法93条2項をみると、実際、「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」との定めがあります。

これを以て、「日本国憲法が、民主主義というシステムを、絶対的な統治原理として、異議なく、全面的に採用した」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは早計と言えます。

地方自治は上記のとおり直接民主主義が採用されていますが、中央の政治ではどうでしょうか。

憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあり、また、同43条に「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」、同51条には「両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。」とあります。

これらの条文は、憲法が間接民主制を原則的な統治原理として採用した根拠と言われるものです。

すなわち、前文では、「日本国民は直接政治行動するな。政治的意思決定は、代表を選んで代表を通してやれ」と規制し、また、43条では「全国民の代表だから、全国民のことを考えて行動すべきであり、島根県や岩手県から選出されたのであってもこれら地域の代表ではなく、地域の利害を超えて日本全体の代表として行動せよ」として、選んだ者と選ばれた者との間の直接の利害関係を分断しています。
さらには、憲法は、51条で「公約違反をしても法的責任は問わないので、代表者は、選挙民の約束など気にせず、自由に気ままに政治的意思決定をしてよい」とさえ言っているのです。

要するに、憲法は、原則として間接民主制を採用して民意を徹底して排除し、地方自治においてのみ例外的かつ限定的に直接民主主義を採用しているのです。

憲法がこのように定めた趣旨ですが、

「財政支出をどうする、国防政策をどうする、社会保障をどうする、といった難しい問題は一般国民が直接議論するなど到底無理であろう。地方自治というのは、村に病院を建てる、近くの川に橋をかける、公民館を改築する、図書館の本を増やす、といった、住民に身近なことを行うものだから、アホな国民でも、この程度であれば、まあ、マトモな判断ができるであろう。仮に、熱狂的な支持の下、地方にミニ・ヒトラーが登場して暴れ出しても、害があれば、中央政府がたたきつぶせばいいだけだし、中央政府さえアホな民意と遮断されていれば、さほど気に病む必要もあるまい。ゆえに、地方自治に限定して、直接民主主義を認めてやることにしよう。とはいえ、地方自治だけだぞ!わかったか、愚民ども!」
という価値判断によるものと思われます。

民主主義を信奉する方々から大きな反発が出てきそうですが、逆の言い方をすれば、そのくらい、憲法は、民意や単純な民主主義を毛嫌いしていると言えるのです。

例えば、大阪府知事や東京都知事が、「オレたちは府民や都民から数百万票単位という大量の支持を得て直接選ばれたもっとも民主的なリーダーであり、島根県や岩手県あたりのしみったれた国会議員とかとはワケが違う。大阪と東京は、中央とは違った観点から、圧倒的な民意を背景に、某国との国交を断絶し、府内・都内の某国民を収監する」なんてやりだしたら、国は大混乱に陥り、大変な事態になります。

直接民主主義という代物ですが、聞こえはいいものの、凶暴で制御できない独裁者を作る危険性がありますし、現在の両自治体の首長の言動をみると(注:2008年11月当時。当時の大阪府知事は橋下徹氏、東京都知事は石原慎太郎氏でした)、前記のようなことを平気でやりかねません。
彼らが、前記のような暴れ方をしないのは、別に彼らに良識があるからというわけではなく、規制装置である憲法が効果的に働いているからにほかなりません。

憲法が直接民主主義という代物を危険視し、その採用場面を徹底して限定したのは、現実的で成熟した価値判断によるものであり、私としても多いに評価すべきであると考えます。
民主主義再検証ですが、次回も続けたいと思います。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.028、「ポリスマガジン」誌、2009年12月号(2009年11月20日発売)

00068_「民主」の時代を考える~民主主義再検証~(2)_20091120

民主主義再検証シリーズ連載2回目です。

今回は、民主主義信奉者にとっての不倶戴天の敵、官僚についてです。

官僚は、民主主義を重視する方々にとっては、忌み嫌われています。

曰く、
「官僚は、選挙で選ばれたわけではなく、ちょっといい大学出て、小賢しく勉強して運も幸いして小難しい試験を合格しただけだってのに、政治家を愚弄し、自分たちが好き勝手国家運営をしていやがる」
「だいたい、官僚の国会答弁って何なんだ。人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべて、屁理屈ばかり並べ立てやがって。そのエラそうなしたり顔が気に入らねえんだよ」
「そもそも、官僚支配が悪なのだ。政治主導にしないとおかしい。というより、官僚制度をぶっつぶしてしまえ。そんなものなくても日本は安泰だ。官僚がいなくなれば日本はもっとよくなるぞ」
-などなど。

ですが、翻って考えるに、「官僚による政治支配」はそんなに悪いことなのでしょうか。

そもそも、官僚が政治家をバカにするのは、政治家が圧倒的に勉強不足であるということが大きな原因です。政治家は選挙で選ばれますが、だからといって一般国民から投票を獲得したという事実自体、国家運営についての知識や経験や能力を保障するものではありません。

政治家の中には、元風俗ライターや元ヤンキーや漫才師やこれまで何をやっていたかよくわからないような雑多な人たちがいるわけですが、彼らや彼女たちが議員に当選したからといって、翌日から、突如、政治経済の知識が増えたり、政治意識が高まったりするわけではありません。

「人気だけが取り柄の、漢字すらまともに読めない者もいるような玉石混淆の素人集団」が、「官僚制度打破」のお題目だけでわめいたところで、「ほぼ全員東大卒で、圧倒的な情報と専門性を有している立法・行政のプロ集団」に歯向かって勝てるわけはありません。

「医者がエラそうだから気に食わない」といって医者を片っ端からなくしたところで医療業界がよくならないのと同様、自分たちが選んだ政治家の勉強不足・知識不足を棚に上げ「官僚がエラそうででしゃばってて、気に食わない」という理由だけで優秀な専門家集団をぶっつぶしてしまう、というのは余りに短絡的と言えます。

こういう愚行を実際にやってしまったのが、カンボジアのポルポト政権です。

クーデターによって成立したこの政権は、あまりよくわからない理由で(強いていえば、「自分のいうことにイチイチ反対しやがって、エラそうでウザい」という理由でしょうか)、高級官僚を皆殺しにして、既存の行政システムを破壊して回りました。

その結果国家機能は不可逆的に喪失し、カンボジアの経済社会は今も疲弊に喘いでいます。

そりゃそうでしょう。「一昨日まで田んぼを耕していて、昨日は銃をもたされた、まともに字も読めない連中」が、いきなり官僚の仕事を引き継ぐわけですからうまくいくわけはない。

実際、彼らがやったのは私財の没収、通貨の廃止、高等教育の廃止等であり、理念なき社会基盤の破壊です。

専門知識のない素人が政治を担う怖さがよくわかる話です。

私個人としては、現代の日本の政治・行政システムは非常に完成度が高いものであり、特に変えるべき必要を感じません。

無論、たまに官僚の中に心得違いをする連中が出てくるでしょうし、時代遅れで機能しない制度も出てくるでしょうが、言論の自由が保障されている限り、長期的には淘汰される話です。

「官僚=悪」と決めつけて、官僚システムという「高度なプログラム」全体を破壊するといった愚に走らず、官僚のもっている専門性・技術性を素直に評価した上で、「どうやったら、『バグ』がなくなるか」ということを考えた方が建設的だと思います。

そして、政治の役割は、世界的にみても優秀な官僚たちが行った政策の立案・実行にお墨付きを与えつつ、「ときどき不可避的に発生する、看過できないバグ」を例外管理として処理する、ということで必要かつ十分であると思うのです。 あまり評判の芳しくない民主主義再検証ですが、次回も続けたいと思います。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.027、「ポリスマガジン」誌、2009年11月号(2009年10月20日発売)

00067_「民主」の時代を考える~民主主義再検証~(1)_20091020

去る8月(注:本コンテンツは2009年8月時点で書かれています)の総選挙で民主党が圧勝しました。

いよいよ、「民主の時代」到来です。

わが国では、小学校以来「民主主義一神教」ともいうべき形で「組織運営上の絶対原理」として教授されることの多い民主主義ですが、民主主義を運用する上では「民主主義には暴力的側面がある」ということも同時に理解・認識しておくべき必要があり、今回から連載の形で民主主義を再検証してみたいと思います。

「民主主義を再検証する議論」と聞くと、何か目新しい議論をしているかのように思われがちですが、民主主義の限界論については、数千年前にすでに古代ギリシアで議論されていたようです。

以下、塩野七生著「サイレント・マイノリティ」(新潮社)に「古代ギリシアのアテナイに生きたらしい(なにしろ作者不明なので)ある反民主主義者が書き遺した」として書かれている文章を転載します。
(以下、転載)

世界中の思慮深き人はみな、民主主義の敵である。なぜなら、思慮深き人の特質が首尾一貫した思想にあり、不正を憎むことにあり、改善へのたゆまない努力にあるとすれば、大衆の特質は、無知にあり無秩序にあり優れた者への嫉妬にあるからである。貧困は不名誉な行いに走らせ、教育の欠陥は、俗悪と無作法をはびこらせる。そして、大衆は常に多数なのである。
(中略)
集会は、より低い知的水準にある者たちに自由に発言を許してこそ、理想的なものになるものだ。なぜなら、思慮浅き人々は、自分たちの利益になることしか提案しないからである。
(中略)
民主主義が、自由よりは暴力と近いという真実に気づいていない。
(中略)
民主主義の根本原理である多数決は、五十パーセントプラス一票を獲得した側が、思い信じることを強行するものだからだ。少数派の意見も尊重せよ、などということは、だから、民主主義の根本原理に反することなのである。
(中略)
自由と平等は絶対に両立しえない。
(中略)
民主主義者たちは、自由よりも平等のほうを好むものだからだ。
(中略)
平等の概念を急進化したプロレタリア独裁を思い出すだけで充分だ。
これが、個々人の自由の破壊にどれだけ貢献したかを考えるだけで、それ以上の説明の要もないだろう。
(中略)
思慮浅き人々は、人民自体が法である、という彼らの宣言にみられるように、法を尊重しない。

(転載終了)

「民主主義=絶対善」「人民の中に常に真実あり、世論こそ法なり」「エリートのイニシアチブによる寡頭制=不平等であり、絶対許せない」という考えは、戦後の一時期に、特定の思想傾向を有する団体やマスコミが、初等教育の場や統治システムやその形成過程に関する歴史を良く知らないマジョリティ向けに偏頗的に広めたものと思われますが、これも一つのイデオロギーに過ぎません。
にもかかわらず「民主主義一神教」に長期間毒され、民主主義以外の統治原理の存在を知らない信者たちは、民主主義が統治手段に過ぎないことや民主主義の負の側面があることをなかなか認めたがりません。

政権交代は多いに結構ですが、「民主主義一神教」が、弁証が不可能な絶対真実としてこの国を席巻し、他の議論が圧殺されるとすれば、それはそれで考えものです。

「反民主主義」が正しいというわけでもありませんが、私としては、民主主義という仕組は、他の統治原理とも相互補完させつつ、試行錯誤や止揚によって「よりよき統治システム」が模索され続けられるべきだと思うのです。

民主主義再検証は次回も続けたいと思います。

(つづく)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.026、「ポリスマガジン」誌、2009年10月号(2009年9月20日発売)

00066_成功者たちは割引券や会員証をもたない_20090820

社会的・経済的に成功した方たちと、そうでない方とのライフスタイルや行動哲学で気がついたことを少しお話ししたいと思います。

最近、いろんな小売り店で、お客さんを呼び込もうと割引券や会員証が発行されます。

しかし、社会的に成功した方たちが持っていそうで持っていないものの代表選手が、この手の割引券や会員証の類です。

確かに、さまざまな割引券や会員証を使いこなし、数々の特典をうまく利用している方々は多数いらっしゃいますし、雑誌でも「ポイントやマイルを使いこなせ」等といった特集が組まれることがあります。

割引券や会員証を巧みに使いこなしておられる方々は、一見すると、非常に目先が利いて知能が高いような印象を受けますが、この種の方々で社会的・経済的に成功されているという方はあまりお見かけしません。

成功されている方の財布は実にシンプルな中身で、メジャーなクレジットカードや必要なIDカードの類は別として、小売店の会員証や割引券などほとんどお見かけしません。

私の想像ですが、成功者と呼ばれる方々は、自分の思考や哲学がしっかりしていて、自分の思考や哲学や行動を縛るようなものを自然と忌避するのではないでしょうか。

会員証や割引券があると、知らず知らずのうちに、経済的意思決定が影響を受けます。「安いから」「得だから」という理由で不要なものを買ってしまったり、食事をするのに、割引券が使える店に行くために不要な時間を費消してわざわざ遠回りしてしまったり、実に無駄が生じてしまいます。
それ以上に、常に会員証や割引券に誘導されてしまうと、本当に自分が買いたいものや食べたいもの、行きたいところややりたいことがわからなくなってしまいます。

会員証や割引券などがなくて被る経済的不利益はわずかなものですが、発行企業の思惑にしたがってしまうことは、経済人としての意思決定がゆがめられてしまい、ついには、「意識すらしない形で発行企業の思い通りに動き、消費するだけの人間」に成り下がってしまい、経済人としての自我を喪失する危険があるといえます。

何らかの分野で成功し、一角の地位を築く人たちというのは、マジョリティの人間と比べて感覚が鋭敏であるため、自己の思考や尊厳を脅かすこの種の他律的支配を皮膚感覚で不愉快と感じ、忌避するのでしょう。

私がよく行くある店では、店員の方から精算の度に「会員証をお作りしましょうか」と笑顔で聞かれます。

無論、その店の利用頻度は高く、会員証を作って提示すればささやかな経済的メリットが享受できることは明らかです。
しかし、私は当該会員証を作ることは長らくしませんでした。自己の尊厳とか哲学とかそういった高尚な理由ではなく、財布が分厚くなるのがイヤだったのと、何だか貧乏臭いと思ったからです。

その後、社会的成功者と呼ばれるクライアント企業のトップの方々が前記のように会員証とか割引券を携帯していないことに気づいてから、この種の会員証を作ることを控えるようになりました。

その結果、以前に比べて自分がすごく自由になったような気がしました。
会員証や割引券のように「普段何気なく使っているもので、自分の自由を狭めているようなもの」というのは探してみると結構あると思いますが、そういうものを捨て去ってみると世界が違って見えてくるかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.024、「ポリスマガジン」誌、2009年8月号(2009年7月20日発売)

00065_都市開発後進国ニッポン_20090720

私は、日本は世界で一番すみやすい国だと思っています。

水はおいしい、空気はキレイ。
官僚は公平で優秀。
夜中に酔っぱらって歩いていても襲われることなく、石を投げればミシュランの星がついたレストランに当たる。

しかしながら、日本の街づくりはまったく出鱈目で、こと都市開発に関していえば、日本は後進国の烙印を押されるのではないかと思います。

まず、日本の各都市にありそうでないのが、「近代的都市」とか「高層ビル建設ラッシュ」。

日本の各都市のど真ん中には、ペンシルビルや小さな二階建てがせせこましく存在しますし、駅前の商業地域も零細商店主が、意地になって路面一等地を死守し、高度化・集積化を峻拒します。
このように地方都市の中心部の土地の零細地主が、小さな土地に固執し、極度に排他的なため、地方の駅前再開発は遅々として進まず、現在は予算不足もあり、無残に頓挫してしまっています。

その結果、郊外の分譲住宅地の方が先に開発が進み、モール等の商業集積地帯が次々とでき、郊外の方がはるかにすみやすい開かれた街になっていきます。
実際、地方に行くと、「地方の駅前のシャッター街」も目につきますが、他方で「郊外にモダンで洗練された街並み」が以外に多く存在することに気づきます。

私には、「地方の駅前のシャッター街」は、商業地域の零細地主の土地への執着と排他性が仇になり、自分で自分のクビを締めた結果であり、自業自得としか思えません。
ある地方都市では、かつて強硬に大型スーパーの出店に反対していたにもかかわらず、今となっては、スーパーが撤退しようとすると「生活できない」と大反対する。「一体、どの口が言う」という感じです。

以上のとおり、主に土地収用がネックになり(さらに言えば、都市中心部の零細地主たちの意識の低さが仇となって)、経済大国と評される日本では、街の中心で高層ビルが建設されるのは非常に稀となってしまい、「建設中の建物」といえば、中途半端なショボいマンションか、僻地の無用な「箱モノ」ばかりという状態になってしまっています。

「街の中心部に近代的なビルができる。それだけで話題になり、ビルに人だかりができる」・・・・こういう後進国と同じ現象が普通にみられるくらい、日本は、都市の近代化とは無縁な国なのです。

日本がここまで都市の近代化が遅れてしまうのは、経済合理性を超越して土地に異常なまでに執着する国民性と関係しているのだと思います。
そして、個人的には、都市空間の有効利用のため、都心の土地については私権を大幅に制約し、「再開発のための土地収用」を柔軟に認めた方がよいのではないかと思っています。

「再開発のための土地収用」は、15年ほど前まで「地上げ」と呼ばれ、日本では随分外聞が悪い行為になってしまいましたが、「地上げ」そのものよりも「公共的意味合いをもつ都市空間を個人の都合で合理的利用を峻拒する零細土地所有者や利用権者の自己中心的な態度」の方がはるかに行動として問題があるのではないでしょうか。

ちなみに、お隣中国は土地が公有制なので、街づくりのし易さは日本の比ではないでしょう。

六本木ヒルズのように市街地再開発事業が成功するような稀な場合はさておき、「ネコの額ほどの土地にしがみついて、私利私欲で、限られた都市空間の利用を妨害する、セコくて排他的な、土地中心部の小地主」がいる限り、日本の都市は20年たっても今のように汚いままかもしれません。
アジアには開発独裁に成功している例が多く、バランス感覚に優れた偉大な指導者が出れば、中国はあっという間に、都市空間の創造において日本を追い抜いてしまうかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.023、「ポリスマガジン」誌、2009年7月号(2009年6月20日発売)

00064_休暇の過ごし方_20090620

この原稿は、ゴールデンウィーク明けに執筆しています。

本稿が世に出るころには、すでに旬の話題から外れてしまっていると思いますが、祝日の並びがよく大型連休と言われた今年のゴールデンウィークですが、ETCを設置した自動車の高速料金が1000円になるという割引システムのため日本全国の高速道路が史上空前の渋滞となるという事件(いわゆる「1000円渋滞」)と、豚インフルエンザ発症による空港検疫強化による海外旅行の混乱(「豚インフルエンザ問題」)で、トラブルと混乱に終始したものでした(注:2009年5月ころの話です)。

もともと人込みが大嫌いな性分な私は、例年どおり、ゴールデンウィークは都内で過ごしました。家族・親族と家で食事をしたり、読書をしたり、神社にお参りをしたり、資料や本の整理をしたり、その他普段できない雑事を片づけたり、という極めて地味な過ごし方です。

こういう私からすると、大渋滞の真っ只中に車で何時間もかけて阿鼻叫喚常態の観光地に出向いたり、感染の危険が飛躍的に高まる飛行機に搭乗してすでに感染症が発症している外国に旅行したりするのは、まったく理解できない行動です。

このような理解できない行動を取るのは、現在子連れ家族世代の中核を占めるである昭和40年代生まれに特有の現象だと思われます。
この年代の方々はバブル期に青春時代を迎えておりますが、バブル期は「休み=遊ばなければ損」という強迫観念が蔓延していた時代です。
すなわち、現在40代前後のオトーサン方、オカーサン方は、「連休」という言葉を聞くだけで、アタマの中で妙なスイッチが入ってしまい、「遊びに行かなければ損」「外出しなければ損」という意味不明な強迫観念にとらわれてしまい、混乱と疲労を承知で地獄のような強行軍を開始するのではないか、と推察されます。

休暇というのは、「自分を束縛する何か(仕事や義務)から解放されて、自由を味わう」ことに本来の趣旨があると思いますし、肉体的な解放感もさることながら、気持ちの面でも「休み=外出して遊ばなければならない」といった強迫観念から解放されないことには、休暇の意味がないような気がします。

最近あるニュース番組で特集があり、「最近の若い世代は、休みの日に外出せず、家でゆっくりしたり、家に友達を呼んで食事したりするといった、実に地味な過ごし方をしている。また、全般的に消費意欲に乏しく、お金を使いたがらない」といった趣旨の報道がされていました。

番組全体を通して、以上のような若い世代の地味なライフスタイルに対して奇異な視線で眺めるような番組作成者の意図ないし姿勢が窺えましたが、このような意図ないし姿勢に対しては、私は非常な違和感を覚えました。
また、若い世代の上記傾向について「不況や世代的な所得配分の歪みが消費を停滞させている」といった分析も披瀝されていましたが、私はこれも間違っていると思いました。

若い世代が休日に地味な過ごし方をするのは、貧乏だからではなく、また何かガマンしているわけでもないのだと思います。今の若い世代は、前記のようなバブル期世代特有の強迫観念から自由であり、自分が快適で自由と感じる休みの過ごし方を選択しているだけです。
たとえ空前の好景気が到来し、若い世代の所得状況が劇的に改善したとしても、今の若い世代は、自分のペースを崩すことなく、地味ながら快適で自由な休暇の過ごし方を選択するでしょう。
こんな特集をみた直後、別のニュースで、地獄のような混乱の様相を呈する駅やサービスエリアや空港の様子が中継され、子連れのオトーサン方の疲労困憊した顔が映し出されました。
バブル期世代のオトーサン方の、やつれて、不自由で不幸な表情をみるにつけ、地味な休暇を過ごす今の若い世代の方がはるかに自由で賢明でシアワセにみえてしまいました。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.022、「ポリスマガジン」誌、2009年6月号(2009年5月20日発売)

00063_夢も想像力もない受験生に日本の未来は託される_20090220

よく、学校教育の現場で、「子供たちには明るい未来を考えさせよう」「子供にスケールの大きな構想力を身につけさせよ」「豊かな想像力を子供たちに」ということが標語として掲げられたりするのをみかけます。

もちろん、こういう能力を身につけることが有害とまではいいませんが、子供たちには、不確実な未来のことを大雑把に考えることよりも、もっと卑近で大事なことがあります。

子供には、将来宇宙パイロットやプロ野球選手になったときのことを考えるより、明日、明後日の宿題を地味に、きっちり仕上げることに専念させるべきです。

乏しい情報と未熟な社会経験をもとに粗雑な社会構想をする暇があれば、目の前の課題克服にこそ注力すべきです。

もちろん、想像力は大事です。ただ、想像力といっても、根拠のない希望的観測を膨らませる「妄想力」を養っても、社会への不適応者を増やすだけで、却って有害です。子供は「問題文の行間に隠された出題者の真意を読み取る」ための想像力を養うべきですし、また、悲観的な想像力を目一杯働かせて試験当日の様々なリスキーな状況をシミュレーションし、適正な準備と危機対処の一助とするのであれば、想像力の駆使も有用です。

各種受験に成功することにより、格差固定社会において階級上昇のきっかけを掴もうとする野心的な子供たちは、前述のような無内容な教育標語を一切無視し、非現実的で意味のない妄想を排し、受験準備において、黙々と卑近で地味な勉強に終始します。

テレビなどで、11、12才の子供たちが中学受験に真摯に取り組む様子を奇異な目で眺め、「人生、受験勉強だけじゃない」「受験戦争に狂奔する子供たち」「受験勉強以外の幅広いことを学ばないとロクな大人にならない」などと批判的な意見を呈する輩がいます。

資本主義社会における熾烈な自由競争・能率競争の現場においては、「希望的観測と妄想力に満ち、非現実的な思考に陥って、地味な情報収集や緻密な分析を怠る」ような人間が生き残るような余地は一切なく、こういう低劣な人間は、たちまち倒産させられ、あるいは財産を亡くすことを余儀なくされます。

このような淘汰の結果、資本主義社会において上層集団を形成する人種は、「徹底した現実主義者で、モレやヌケが大嫌いな完全主義者で、細かい再確認を怠らないような方々」が多数派を占めることになります。

資本主義社会の淘汰の仕組は、中学受験と同様のシステムで機能しており、「卑近な現実を軽視し、何事も希望的・楽観的に考えることから他人の悪意を見抜けず、モレやヌケが多い人間」はことごとく排除されるようになっています。

現在世界で大活躍する華僑やユダヤ人は、子弟の幼少期において、厳しい現実を察知するための思考力、批判精神、情報戦や経済競争を勝ち抜くためのインテリジェンスや危機対処力を身につけさせると聞きます。

日本における過酷な受験戦争は、「資本主義社会における競争のシミュレーション」としては最適なものであり、この過程を通じて、受験戦争への参加者は知的競争への対処スキル全般を身につけることになります。

「前述のような無意味で無内容な教育標語など無視し、競争社会の過酷な現実を直視し、地道な作業を厭わず、モレやヌケを徹底して排除すべく、前をみず、ひたすら後を振り返る、ソツがない、可愛げのカケラもない子供たち」が増殖する未来は、決して悲観すべきものではありません。 むしろ、日本の産業界が世界的競争を勝ち抜くためには、「現実を直視し、熾烈な知的競争を経験し、危機管理能力に優れた、可愛げのない子供たち」にこそ、未来が託されるべきです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.018、「ポリスマガジン」誌、2009年2月号(2009年1月20日発売)

00062_「委ねる」ことの難しさ_20080320

今年(注:2008年当時)に入って、中国産冷凍食品に有毒性の農薬が混入していた、という問題が発生しました。

問題が発生してから現在まで、販売者もメーカーも日中両政府もマスコミも「製造からスーパーに出回るまでのどの段階で、どのような形で農薬が混入したのか」ということを、さまざまな角度から検証する動きに出ています。

しかし、私は、農薬の問題は非常に瑣末な問題であり、かりに混入の詳細な経緯が明らかになっても、中国産冷凍食品の買い控え傾向は続くのではないかと思います。

テレビ等で中国現地における加工ラインの様子が紹介されましたが、現代の日本人の衛生感覚からは、当該加工ラインの衛生状況は明らかに容認の限界を超えています。というよりも、そもそも、日本人の口に入るものを中国の工場で生産するということに相当な無理があったのではないかとさえ思うのです。

この問題の背景には、冷凍食品メーカーが、「委託」すなわち「委ねる」ことの難しさを深く考えずに、目先のもうけに踊らされて、漫然と中国での生産委託ないし加工委託した、という経営判断ミスがあるように思います。

そもそも、物事には、委託に馴染むものと馴染まないものとがあります。また、委託に馴染むものであっても、委託するにふさわしい相手先とそうでないところというのがあります。

実際、職業上遭遇する事件には、「委ねる」ことにまつわる失敗が原因となった事件が実に多く存在します。

たいていの方が、「ラクをするため」「面倒くさいことから解放されたいため」「もうかりそうだから」という理由で、ロクな検証もフォローもせず、見ず知らずの人間に、財産や権利や印鑑を委ねてしまい、その結果、委ねられた方が勝手な行動をして、大きなトラブルが発生します。トラブルが委ねた相手方との間に留まっている間はいいのですが、たいていのケースでは、第三者を巻き込んで取り返しのつかない状態に陥っており、権利も財産も失くすことがほとんどですし、身に覚えのない債務まで負わされるケースすらあります。

このように、そもそも「委ねる」ということは大変難しく、チェックやフォローをせずに、ラクして丸投げしようとすると、必ず大きなツケを払わされます。

自動車部品や衣服やスニーカーや工作機械については、工場内の衛生状況や工員の衛生感覚はあまり考慮せず、一定の品質のものが安い工賃で作ることのみを考えて、中国その他の国に加工を委託することは実に合理的であり、市場にとって有益な選択といえます。

しかしながら、食品の生産や加工委託となると、自動車部品や衣服やスニーカーや工作機械と同じに考えるわけにはいきません。

レクサスにちょっとした傷がついていたり、アルマーニやゼニアのスーツにちょっとしたほころびがあっても、安く購入する人が存在し、その限りで市場性を有しますが、「少し腐って、食べたら腹痛がするかもしれない大トロ」や「ちょっと寄生虫がついたシャトーブリアン」などというのは、市場性がないどころか、有害な廃棄物にすぎません。

その意味で、食品には、一定の品質、それも衛生状況における絶対的な基準というものが存在しますし、これをクリアしない限り、どんなに廉価に生産・加工できても意味をなしません。 今後、日本向け食品を中国で生産・加工するというトレンドに大きな歯止めがかかることになるのでしょうが、私個人としては、この問題を教訓として、食品メーカーの経営陣が「委ねる」ことの難しさを再認識し、よりよき生産形態を構築していただきたい、と思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.007、「ポリスマガジン」誌、2008年3月号(2008年2月20日発売)

00061_「楽しく、ゴキゲンな人生を送る」上で役に立つ、「本には書かれていない、いくつかの知恵」

「楽しく、ゴキゲンな人生を送る」上で役に立つ、「本には書かれていない、いくつかの知恵」をご紹介したいと思います。

とはいえ、一般のビジネス書に載っているような、陳腐で退屈なキレイゴトの類ではなく、「欲望渦巻く資本主義社会の最前線で四半世紀余り、『企業参謀』とも言うべきビジネス弁護士を経験して機能的に獲得した知見の一端」ですので、それなりにお役に立つものであると思います。

1、「常識」とは「偏見のコレクション」(ゴキゲンな人生のために、非常識な想像力を働かせる)
世の中、大切なことほど、教科書には載っていませんし、親も学校の先生も先輩も、世の中のことをよくわかっていません。
また、そういう「ホンモノの知恵」は、一握りの人間によって独占されていますし、独占している階層の人間は、この知恵を、よほどの理由がない限り、明かしません。

成功とは、非常識な方法によって得られた稀有な結果です。
常識や良識にしたがったところで、得られるものは陳腐な結果です。
さらに言えば、「常識」とは、「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」を指します。

「大きなプロジェクトの成功」は、例外事象であり異常現象です。

それなりに大きなビジネスや新規のプロジェクトは、フツーのことをフツーにやっていては成功などしません。
トラブルや想定外の事柄が次々生じます。
大きな事業・新規の事業を、公務員やフツーのサラリーマンや小学校の教師に常識的に取り扱わせたら、どうなるか、想像してください。
これらの事柄の対処には、常識や良識は通用しません。

「世間で評価される仕事というのは、あらゆる形式やモラルを排して遂行されているものだ」

これは、私が、若い方や後輩に常に言っている言葉です。
常識を疑い、常識の裏側や対極にあるものを想定し、非常識のアングルに立って物事を観察するクセをつけてみる。

そうすると、世の中には、イノベーションや改善の可能性、すなわち成功の機会がゴマンとあることに気づくはずです。

では、どうやって、「成功するための、正しい非常識」を身につけるか? 

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じてしか、この種の「非常識だが、理にかなった、資本主義経済社会をうまく泳ぎ切るための知恵」は手に入れることはできません。

2、ラックマネジメント(付き合う人間、接点をもつ人間を選ぶ)
以上のようなことから推奨されるのは、運のいい人間、強い人間、勢いのある人間、知恵を持っている人間と付き合うことです。

これは、ラックマネジメントの一種です。

負け犬同士つるむのは時間の無駄です。
そこから何も生まれません。

本に載っていない知恵を学び、運をもらい、時流を学ぶのは、外界や異界に通じ、「常識には反するが、経済的には理にかなった方法」をしびれるくらいのスピードで実現する、そんな、ミュータントのような人種です。
「あんなのは非常識だ」と強者を腐すことしかできない負け犬の集団から、その負け犬を反面教師として、突然変異的に、「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」が出て来る、ということはありえません。

学ぶとは、「真似ぶ」、すなわち、「真似る」から転じた言葉、と言われます。

その種の「業界を革新し、自らも笑いが止まらないくらいの大成功を治めるスター」は、常に、すでに成功した人間の近くにいて、非認知情報を含めてじっくり観察し、たんなるビヘイビアだけでなく、思考や哲学や価値観や生き方や美学に至るまで、徹底して模倣することによって、誕生するものです。

3、足を引っ張られないようにする(安全保障)
「強者や幸運な者と交わるべし」とはいうものの、負け犬を馬鹿にしたり、見くびったりするのは危険です。

「一人の馬鹿は、一人の馬鹿である。二人の馬鹿は、二人の馬鹿である。一万人の馬鹿は、〝歴史的な力〟である。」

これは、日本一の毒舌女性インテリ、塩野七生が『サイレント・マイノリティ』(新潮社、1993年、163頁)で書いていた一文です。

足を引っ張られないように、最低限の付き合いをして、人間関係が悪化しないように処置をしておいてください。これは、「安全保障」として重要な意味があります。


「中途半端に、優秀な人間」はアホの真似ができません。
「本当に、優秀な人間」は、アホになれます。
「アホ」以上に「アホ」ができます。
「本当にデキる人間」とは、「本当のアホよりも、頭悪そうに、平然と、ナチュラルに、アホの真似ができ、笑顔でアホと戯れることができる人間」のことを言います。

4、 時間を大切にしましょう
時間を大事にしてください。カネより、命より、健康より、大事なのは時間です。

ガンになったとき、医者がやっていることのほとんどは時間稼ぎです。
死ぬまでの時間を、1年を2年に、2年を4年にしているだけです。
一定程度進行したガンのほとんどは治りません。
絶対死にます。
カネとエネルギーと高度な医療技術をかけてガン専門医がやっていることは、死ぬまでの時間を先延ばしするための努力です。

逆に言えば、そのくらい、時間は貴重なのです。

カネがあっても時間は買えませんが、時間さえあれば、なんでもできます。
くだらないこと、無駄なことに費やす時間をなくしましょう。

「千里の道はジェット機で(制作/著作:井藤公量弁護士)」行くのが最も正しい。
千里の道を一歩一歩歩くような馬鹿げたこと、やっていませんか?

5、最後に(気軽に、ゴキゲンに、リラックスして行こう)

以上、かなり難易度の高い、一般的ではない、マインドセットやリテラシーをお伝えしました。

しかし、この程度のことを、肩に力を入れ、眦(まなじり)を決して、鼻息荒くして我武者羅にやる、なんて、品のないことはおやめください。

力を入れず、スマートかつエレガントに、周囲とうまく折り合いをつけながら、しれっとやってください。

ゴルフも、商売も、恋愛も、人間関係も、人生も、肩に力を入れて、いいことは一つもありませんから。

著:畑中鐵丸

初出:『治療家のための法律入門』第36回(終)、「ひーりんぐマガジン」第54号、特定非営利活動法人日本手技療法協会刊、

運営管理コード:HLMGZ35

00060_「倒産しそうな、ヤヴァい会社」との縁の切り方

自分の会社に将来性がなく、かつ新しいキャリア形成に向けた具体的かつ現実的な可能性を見つけることができ、自分のより大きな成長のために現在の勤め先を辞める場合の具体的方法について述べます。

会社側が従業員を解雇する場合には、法律上、大きな制約が課せられています。

私が、企業側の顧問弁護士として、クライアントである企業に解雇事件において助言をする際、
「『結婚は自由だが、離婚は不自由』と同じで、法律上『採用は自由だが、解雇は不自由』です。これを前提に事件の処理を考えましょう」
と必ず前置きをします。

しかしながら、これは、企業側が従業員を無理やり辞めさせる場合の話であって、従業員側が企業を見限るには、法律上何の制約もありません。

無論、社会人として、
「上司に早めに相談する、引き継ぎをきっちりやる、その他迷惑がかからないように配慮する」
といったことは推奨されます。

ですが、これらも所詮、礼儀・道徳のレベルの話です。

法律上は、「従業員は辞めたいときに辞められる」というのが大原則です。

企業や上司が、
「人手不足だから困るので辞めないでほしい」、
「育成責任を問われるから、私が異動になるまで辞めるな」
と退職に反対することがあります。

酷い場合、陰湿なイジメや有形無形の暴力を使って「辞めるな」と脅す場合もあるようです。

しかしながら、従業員がこのような横暴な要求に従う義務は一切ありません。

余りに酷い場合は、労働基準監督署(労働基準法第5条違反に基づく是正申告等)や弁護士に相談すべきですが、いずれにせよ、こういう専門家あるいは専門機関の手にかかれば、会社の妨害もすぐに止まります。