00045_格差社会は悪しきものか_20080120

最近、「日本において格差社会が広がりつつある」などといわれます。

そして、このような格差社会問題が報道される際、必ず、「格差社会は悪しきものであり、弱者は保護されるべし」という趣旨の論調が含まれます。

経済学者の森嶋通夫氏はかつて「私は弱い善人が、もっとも嫌いだ」といったそうです。

私としても、「格差社会をすべからく否定し、弱者を無制限に保護すべし」という議論には同調できません。

我が日本国は、人それぞれの個性を尊重し、自由競争を是とする社会体制を堅持してきました。

他方、ソヴィエト連邦その他の共産主義国家は、個人の尊厳よりも国家の管理を優先し、自由競争を徹底して否定した社会体制を構築しましたが、このような壮大な社会実験が無残な失敗に終わったことは、誰しも知っていることです。

「個性を尊重し、自由競争を是とする社会」は、当然ながら、結果の不均衡すなわち格差をもたらしますが、これは体制選択上予定された結果であって、むしろ好ましい状況です。

こういうことをいうと、「憲法14条は平等を保障している。格差社会はおかしい」などという異論が出てきます。

しかしながら、これはあまりにバカげた意見です。

憲法が保障しているのはあくまで「法の下の」平等です。

「法の下の平等を保障する」というのは、「経済的不平等を容認する」のと同義であり、憲法は格差社会を容認しているのです。

現実をみても、「弱者」といわれる方々の中で「幼少時から蛍雪を友とし、学生時代は寸暇を惜しんで勉学に励み、社会人になっても睡眠時間を惜しんで資格取得に努め、貧困から脱するためのありとあらゆる努力をしたにもかかわらず、なお赤貧にあえいでいる」という方はあまりみかけません。

むしろ、「弱者」といわれる方は、「勉学をはじめとしたさまざまな苦労を徹底して回避し、欲望や誘惑に弱く、迷えば楽な方を選び、人と同じようなことを、人並みあるいはそれ以下の程度にやってきた。かつてはそれでもそこそこ並みの生活ができたが、景気が悪くなって能力主義が横行した途端、生活水準が落ちた。こんな格差社会にしたのは俺ではなくて社会が悪い」という身勝手な考えをお持ちの方々がそれなりの数、いらっしゃるような気がします。

他方、格差社会の勝ち組といわれる方々に対しては「時勢に乗じて上手くやりやがって」というやっかみまじりの評価がよくなされますが、これはバイアスがかかったものです。

私は、経営トップ等の「強者」の方と身近に接する機会が多いのですが、「強者」の方々は、実によく働いておられます。

「弱者」の方がネットカフェ等で眠っておられる間も、「強者」は、不眠不休で、市場を予測し、企画を練り上げ、営業の前線に出て、組織内部を統制する方法を思案し、やる気のない人間やできない人間のクビを切る算段を整え、クレームや訴訟に対応し、自社の株価や自分の資産の価値を維持・向上する方法を模索しています。

無論、格差が世代承継され、貧困が再生産されるような社会が健全ではないことは承知しています。 しかし、自由競争の結果として生じた「健全な格差」までも否定し、これまでの身勝手な生きざまを検証することなく「弱者」といわれる方々を一切合切保護すべしだ、という論調にはどうしても賛同できないのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.005、「ポリスマガジン」誌、2008年1月号(2008年1月20日発売)

00044_「記号」としてのお金、「武器」としてのお金_20071220

もう一昔前、二昔前の話になってしまいましたが、大手放送局のグループ企業の買収騒動に関連し、著名ベンチャー企業の青年社長が証券取引法違反(当時の名称。現在は、金融商品取引法違反)に問われ、有罪判決を受けるというできごとがありました。

最初にお断りしておきますと、ここではいてこの事件の当否を議論するつもりはありません。

私が関心を持ったのは、この青年社長の人生を狂わせた「お金」の意味についてです。

「お金」というのは、その額によって、意味や内容が大きく変わってくるものです。

100万円なり1000万円の現金は、お金は「本来の働き」、すなわち決済手段ないし財産として機能し、持ち主に一定の自由を保障します。

1億円の現金があれば保障された自由の幅は更に拡大されます。保障された自由の大きさは10億円くらいまでは把握できるかもしれません。

しかし、100億円になると「一定の自由の保障」という実感は薄れていき、「記号」としてしか認識できなくなります。

弁護士をしていると、仕事上よく資産家という人種に出逢いますが、保有資産が50億円のお金持ちと、100億円のお金持ちと、150億円のお金持ちとを見比べてみても、資産額のゼロの数やカンマの位置に違いがある以外、それぞれのお金持ちの間に顕著な差異は見出せません。

ゼロの数がさらに増え、1000億円や1兆円の資産となりますと、「記号」という意味を超え、「使い方によっては、戦闘機やミサイルのような働きをする危険な道具」になっていきます。すなわち、この規模の「お金」になると、使う者の意志次第で、歴史ある企業組織を一挙に破壊したり、一国の経済に致命的打撃を与えたりすることが可能になります。

ある人が純粋に利殖目的で金融市場において1000万円程度を運用していても誰も文句をいいません。

10億円程度でも文句をいわれないでしょう。

しかしながら、同じ人が1000億円を運用するとなると、運用方法によっては、その人の真の意図とは別に、運用者の存在自体を脅威と感じる者が出てきます。

すなわち、運用者が単に財産を増やしたいだけであっても、額によっては「危険な武器を振り回している」と判断され、運用者を強制的に排除しようとする動きが生じるのです。

冒頭で有罪判決を受けた青年社長は、当初、保障される自由の幅を広げるためにビジネスというゲームに参加したのだと思います。

ゲームは成功し、保有しているお金は、どんどん成長を遂げ、一生かかっても謳歌しきれないほどの自由を保障する規模になりました。

その後、青年は「記号」と化したお金を使って、ゼロの数を増やすゲームを継続し、アグレッシブに勝ち続けました。青年は最後まで「記号」としてのお金を操り、これを増殖するゲームを続けるつもりだけだったのかもしれません。

しかし、運用資産のゼロの数がある臨界点に達したころから、彼が扱っているお金は「記号」から「危険な武器」に変質していました。

お金が「記号」から「危険な武器」に変わった時点から、このことに気づいて保守的で慎重な取扱いを行うべきであったのかもしれませんが、彼はこれに気づかず、「危険な武器」と化したお金をそれまでの常識を覆すような危険な方法で振り回し続けました。

やがて、このような行動を脅威と感じる勢力が彼に襲いかかり、彼はゲームの場から強制的に排除されました。

私が想像する冒頭の事件の背景はこのようなものです。

「お金」は、規模によってさまざまな力と意味を持ちますが、こういうことを理解している人間はごくわずかです。

この青年社長の次に日本に登場する若き野心家は、このような「お金」の本質を十分理解し、より賢く、巧みに使いこなし、大きな夢を実現してほしいものです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.004、「ポリスマガジン」誌、2007年12月号(2007年12月20日発売)

00043_勉強嫌いの経済学部生の子供に、退屈な経済学を学ばせるには?

経済学の話です。

きっかけは、ある経営者のご子息のご相談。

なんでも、某大学経済学部に入ったものの、全く勉強する気が起きない、とのこと。

そもそも、なんでこんなもの勉強するのか?
こんなこと勉強して何の役に立つのか?
何が面白くて、こんな無意味で、抽象的なことを議論しているのか?
こんな学問、なんでできたのか?

こんな疑問ばかりが頭にうずまき、また、特有の抽象性や無味乾燥さから、経済原論の段階で躓いてしまい、最後には、大学そのものにも嫌気がさし、どうにもこうにもならない、という相談です。

弁護士ないしビジネスコンサルタントとしてではなく、経済評論家として、何か、解決のヒントでもくれ、ということでした。

確かに、ご子息の疑問というか悩みというかツッコミはそのとおりです。

経済学に限らず、勉強というか、学問なんて、そもそも接点持つだけでも苦痛です。

何か、しびれるくらい得なことやメリットがあって、イヤイヤながら、なんとか付き合えるような代物。

私も、大学受験に関して言えば、好きな英語や社会はなんとかテンションが維持できましたが、数学や物理については、死ぬほど嫌いで、大学に合格するために仕方なくやっていました。

結果、合格して3時間後にはすべてキレイさっぱり忘れていました。

やってても、意味や目的や価値が感じられないと、ハイコスト・ノーパフォーマンスの無意味な苦役として、忌避する気持ちはよくわかります。

といいますか、そもそも、経済なんて、知ったり、学んだりする必要あるのでしょうか?

「日本経済新聞」
という新聞がありますが、そもそもあの新聞って、誰が、どんな目的で、何が楽しくて、飽きもせず、毎日一生懸命読んでいるのでしょうか?

よほど楽しいことや、興味のあることや、自分にとって必要なことが書いてある、ということなのでしょうか?

その
「よほど楽しいこと」
「興味のあること」
「自分にとって必要なこと」
って何なのでしょうか?

話はガラリと変わります。

競馬の話です。

私は、競馬はやりません。

何十年も前に友人に連れられて京急だかモノレールだかに乗って競馬場に行って、馬券を買って、レースを観たことはあります。

ですが、何が楽しいのかまったくわからず、それ以来、まったく競馬とは接点がありません。

駅の売店や、コンビニに行くと、競馬新聞とか、競馬ブックといった競馬ファンのための新聞が置いてあるのを目にします。

これら特殊な新聞は、一見して読む気が失せるくらい小さい字で、暗号や記号や呪文のような難解で判読不能なデータがぎっしりつまっており、競馬に興味のない私にとっては、全く用のない新聞です。

ですが、競馬をやる人にとっては、大事な情報源のようで、
「(こう言っては失礼ですが、)普段、本とか新聞とかあまり読まなさそうなオジサンたち」

「徳川埋蔵金の在り処を示した地図」
「ナチスの隠れた財宝が隠された場所に導く暗号文」
を見るかのように、買って手にした瞬間、目を皿にして必死に読んでいる姿をみかけます。

もし、競馬に興味のない私に、
「競馬新聞とか競馬ファンとかを、きっちり読んで、理解しておけ」
と言われると、とんでもない苦役となります。

理解が困難ということもさることながら、競馬をやらない私にとって、無意味で無価値で無用なデータを目にすることそのものが、とんでもなく退屈で苦痛です。

他方、私は株や指数先物といった投資活動はやっています。

無論、暇つぶしのゲーム感覚で、お小遣い稼ぎの趣味程度ですが。

私にとって、日経新聞や日経ベリタスは、日々刻々と変化する投資に関する貴重な情報がぎっしりつまっており、新聞が届けられたらすぐに目を通します。

最近では、ネットで朝4時には紙面更新されますので、早く起きたときなどは、新聞取りに行かなくても、ベッドの中でスマホでブラウズできたりもしますし、非常に便利になっています。

市場の動向や、市場に影響を与える政治動向や事件や騒動、また、これらイベントがどのように関連し、影響を与えあって、どのようなインパクトをもたらすか、といった、事象解明に関する解説記事を含め、毎日、ほぼすべてに目を通します。

競馬ファンが競馬に興じる際に、予測の根拠となる最新のデータや解析結果を強い興味をもって追い求めるのと同様、私も、日経新聞から、強い興味と探究心をもって、情報を入手し、読解に努めます。

年配のサラリーマンの方が、若いサラリーマンに
「社会人になったら、日経新聞くらい読まなきゃ」
と諭す姿を見かけることがあります。

いや、普通、読まないでしょ。

大学出たばかりで、企業社会も経済も知らず、投資にも縁がない、社会人1年生にとって、日経新聞など、競馬をやらない私にとっての競馬新聞と同じです。

「社会人になったから」
という理由だけで、経済に縁のない人間にとっての無意味な暗号や記号や呪文な羅列のような
「日経新聞を読め」
というのはあまりにも無理があります。

私がもし
「あなたも、大人になったんだから、競馬新聞くらい読まないと」
と言われたら、感覚遮断して無視します。

私ならこう言います。

「社会人になったら、勉強と思って、FXでも指数CFDでもいいから、マーケット環境と紐づく投資をやってみたら? 最初は、勘で適当にやったらいいよ。そのうち、欲が出て、儲けたい、損を避けたい、と思ったら、自然と勉強したくなるから、そうなったら、日経新聞とか読んでみたら。より深く、投資を楽しめるよ」
と。

要するに、何のメリットも意味も価値も脈略も目的もなく、
「経済を勉強しろ」
「日経新聞を読め」
という指示は、
競馬に興味のない私に
「競馬新聞や競馬ファンをがんばって読め」
というのと同じ指示であり、プロジェクトの設定と構造において、本質的な無理があるのです。

構造上、本質上の無理がある、ということは、
「降りのエスカレーターを昇れ」
というのと同様、一過性の実現は可能であっても、持続可能性がなく、そのうち破綻します。

経済学とは、私なりの理解で言えば、
「一定の地域ないし社会集団において、限られた資源をうまく活用して、そこにいる連中全員を、食わせ、幸せにする、あるいは、当該地域ないし集団をリッチにする」
というゲームミッションを達成するための、ゲーム戦略の体系です。

「集団構成員が、おのおの欲の赴くまま、市場における交換を通じて、富を増殖する自由なゲームに興じさせれば、構成員が豊かになり、国全体もリッチになる」
という戦略の流派があったり、
「市場が失敗することもあるから、集団構成員に好き勝手にさせるのではなく、大きな破滅に至らないように、ちょいちょい政府がお節介をした方がいい」
という流派があったり、
「集団構成員に勝手なことをさせたら、絶対大きな破滅に至り、うまくいかない。政府が完璧な計画を策定し、構成員の自由を否定して、徹頭徹尾、政府の指示どおりさせた方が、皆が幸せになる」
という流派があったり、また、最近では、
「今まで、集団構成員は、皆、『頭がよくて、合理的な行動をする』と思っていたが、意外と、馬鹿ばっかだし、アホなことばかりやってる。『なんだかんだ言って、結局、皆、バカばっか』という前提で社会システムを設計した方が、最適な資源配分や国富増大が可能となる」
という流派が出てきたりしています。

しかし、こんな
「ゲーム戦略の体系」
をガチで学ぶ必要性があるのは、ゲームプレーヤー、すなわち、当該地域を支配するエスタブリッシュメントである、日銀関係者か政府関係者くらいです。

したがって、日銀に入ろうとか、国家公務員総合職試験に合格して、財務省や経済産業省等にでも入ろうというなら、経済学は必要であり重要ですが、それ以外の仕事につくなら、経済学、
「一定の地域ないし社会集団において、限られた資源をうまく活用して、そこにいる連中全員を、食わせ、幸せにする、あるいは、当該地域ないし集団をリッチにする」
というゲームミッションを達成するためのゲーム戦略の体系を、必死こいて学ぶ必要性は乏しいです。

もちろん、
「日銀行員や公務員を目指さないなら、経済学の勉強は不要」
とまでは断言しません。

すなわち、派生的・副産物的な使い方として、経済学の考え方を使ってビジネス課題を解決することは可能ですし、前述のとおり、投資家がマーケットの行く末を予測する際、政府や中央銀行の行動の意味や動機や背景を分析する際の説明原理としても有用性があるからです。

こう考えると、最初の
「悩める大学経済学部生」君
への悩みの処方箋はぼんやりと見えてきます。

「悩める大学経済学部生」君

「経済学をやることに意味や価値を感じられない」
という気持ちは、実に、素直であり、至極真っ当です。

この「悩める大学経済学部生」君、
お父さんの会社を継ぐわけであって、別に、日銀に行くわけでもなく、公務員を目指しているわけでもなく、経済学を使った課題解決をするようなプロジェクトをするかどうかもわからず、投資の「と」の字も知らない。

そんな彼に、経済原論を学べ、金融論を勉強しろ、財政学、公共経済学、国際経済学、国際貿易論、国際金融論を勉強しろ、日経新聞を読め、なんて言うのは、競馬をやらない私に競馬新聞を読め、というのと等しい、持続不能に陥ることが明らかな、無意味な苦行を強制しているのと同じです。

彼に必要なのは、気合や根性や精神論を説いて、
「経済学を勉強せねばならない」
という行動に追い込むことではありません。

気合なんて無意味で、無価値で、無用です。

学ぶことの意味や目的を与え、
「勉強して、知見を増やしたら、ますます、楽しくなる」
という自然な動機形成ができるような環境を与えることが必要です。

競馬が好きそうだけど、純文学や哲学書や学術書とか絶対読まなさそうなオジサンも、競馬新聞とか競馬ブックは真剣に読みます。

考えようによっては、競馬新聞も競馬ブックも、一見して読む気が失せるくらい小さい字で、暗号や記号や呪文のような難解で判読不能なデータがぎっしりつまっています。

競馬をやらない一般人にとって、この特殊な文字や記号の羅列が盛り込まれた新聞を読むのは、マルセル・プルーストやミシェル・フーコーを読んだり、IPS細胞に関する学術論文の読解に匹敵するくらいのリテラシーとエネルギーが必要となります。

「欲や興味というのは、すさまじいエネルギーを生み出す」
ということをしみじみ感じます。

「純文学や哲学書や学術書とか絶対読まなさそうなオジサン」
をして、
「これに匹敵する難解なデータが詰まった抽象的な文字が踊っている新聞」
に没頭させる情熱と探究心とリテラシーを身につけさせるわけですから。

で、相談に訪れた方にこのようにお答えしました。

これは現実的ではないかもしれませんが、
「ご子息が公務員を目指すように誘導してみること」
を選択肢としてお伝えしました。

「官僚はかっこいい」
「官僚は日本を動かす」
「官僚になれば、民間企業ではできない、大きな仕事ができる」
とかなんとか、陳腐なものも含めて、
「公務員になりたい!」
という意識づけ、動機づけに成功すれば、彼は、
「日本という国家運営に携わる者として、限られた資源をうまく活用して、日本人を、食わせ、幸せにする、あるいは日本をリッチにする」
というゲームミッションを達成するためのゲーム戦略の体系を学ぼう、という意欲や動機を持ってくれるかもしれません。

意欲や動機が芽生えればしめたもの。

国家公務員になろうとすると、公務員試験総合職(経済区分)として、国際経済学や経済政策、経済史、統計学・計量経済学といった試験科目が設定されており、志望する者が
「ゲームミッションを達成するためのゲーム戦略の体系」
を学ぶことを要求しています。

そして、こういう志を持つ人間のため、各種公務員試験予備校が、
「試験に合格する」
という目的に対して徹底した合理的な方法論や伝授ノウハウを確立しており、一定のお金があれば、合理的でわかりやすく、
「合格」
という現世利益に直結する教授環境が整ったところに通うことで、勉強そのものの苦痛を和らげることができます。

もう1つの選択肢としては、彼に、一定の運用資金を与え、
「株でもFXでも指数先物でもいいから、ゲーム感覚で、投資をやってみて、金を増やしてみろ」
と誘導することです。

投資活動を行えば、必然的に、ゲーム環境を構成する市場動向や経済の動き、これらの動向等を暗示する指標やその意味・解釈、さらにこれらの動向の背景原理やメカニズムといったものに関心持たざるをえません。

もちろん、この種のことを深く勉強せず、
「上がるか、下がるか」
「上がると思ったら買い、下がると思ったら売る」
という単純なバイナリーオプションゲームとして、場当たり的にやっても楽しいですし、最初はそれでもいいのですが、勝率を上げるには、市場や経済のことを知りたくなるはずです。

人間、年齢や立場に関係なく、生きている限り、欲はあるはずであり、金に興味のない人間はいません。

その意味では、
「投資で金を増やす」
という活動について、適切な誘導の下、きちんとエントリーさえできれば、その奥深さに魅了される可能性は高いと思います。

いぜれにせよ、
「気合でがんばれ」
「精神論で乗り切れ」
というのは、絶対うまく行きません。

動機やメリット・利害を適切に設計しないと、根源的な不愉快さを内在する勉強を建前や空疎な倫理観で強制しても、持続可能性がなく、そのうち頓挫します。

現代の
「経済社会のゲーム環境設計」
に関する考え方も同様です。

消滅したソビエト連邦をはじめとする社会主義国において、
「政府が生産計画を策定し、国民を統制下に起き、計画にしたがって生産活動に従事すれば、皆が幸せになる」
という理屈をもとに、欲や自由という人間のもつ根源的な動機を否定し、ひたすら政府の計画に盲従させる、という国家運営が壮大な社会実験として行われましたが、これが無残で悲惨な形で崩壊したのは、歴史上の事実としてよく知られているところです。

「国民を縛り付けず、むしろ『少しでも多く儲けたい』『もっとうまく、早く金を増やしたい』『今日よりも明日、明日よりも明後日には、より多くのお金を得て、楽しく幸せに暮らしたい』という欲望に忠実に行動させ、自由な市場で活発な競争をさせれば、国民も社会全体も、自己増殖的にリッチに、幸せになる」
という経済社会設計の優位性は、理論的にも実証的にも明らかになっています。

学問も、勉強も、仕事も、うまくいかないのは、
「気合や根性やよくわからない常識を振り回したり、意味不明なプレッシャーで、乗り切らせようとしたり、強制したりしようとするから」
という場合が多いです。

「計画通り仕事をしないと、極寒の僻地に送って、労働教化刑食らわせるぞ」
なんて脅されたら、一瞬仕事を頑張るかもしれません。

ですが、目を離せばすぐサボりだしますし、24時間監視するなど困難ですから、一過性の実現可能性はあっても、持続可能性がありません。

俗に、
「好きこそものの上手なれ」
などといいますが、先程の競馬ファンの行動をみていますと、
「欲こそものの上手なれ」
とも言えるのではないでしょうか。

ご子息が経済学に興味をもってくれるかどうかは定かではありませんが、とにもかくにも、ご相談者の社長さんは、
「官僚とかは無理だけど、投資ならやらせてみるか」
と納得して、帰られました。

皆さんも、うまくいかないことがあれば、欲の充足を目的においた、ゲーム設計をしてみられたらいかがでしょうか。

00042_世界最強リゾート都市、東京

リゾートライフについて語りますと、「”世界最強リゾート都市”、それは、実は、東京」というのが私の持論です。

もちろん、東京そのものがリゾートである、ということではありません。

「世界水準のリゾートライフ」
へのアクセスが、東京ほど完備されているところはない、という意味です。

アクセスの利便性、完成度、洗練性については、よく考えれば、世界中の都市生活者にとって垂涎の的となるレベルだと思います。

私が、パリやロンドンとかのヨーロッパの大都市、あるいは、ニューヨークやシカゴやロサンゼルスといったアメリカの大都市に住んでいたとします。

アメリカやヨーロッパの大都市住民である私が、
「休みになったし、スキーでも行くか」
「寒いから、南の島に行って昼寝でもするか」
「どこか温泉に行って、美味しい鍋でも食べてゆっくりするか」
と考えても、これを現実に実行するまで、かなりの時間とカネと労力がかかります。

アメリカやカナダやスイスにもスキー場はあるにはありますが、パリ、ロンドン、ニューヨークからスキー場に到達するまで、1日、下手すりゃ2日かかります。

アメリカだと、フロリダまでひとっ飛びでしょうが、パリやロンドンから南の島、となるとかなり大変そうです。

欧米で温泉のあるスパリゾートと言えば、ドイツのバーデンバーデンが有名ですが、パリやロンドンやニューヨークから行くにはかなり大変そうです。

手軽にリゾートライフが楽しめず、というか、リゾートライフを楽しもうとすると、途方もない、時間とカネと労力がかかるし、たどり着くまでの負荷が相当なものなので、一度リゾートライフが始まったらかなり長期間楽しまないと、元が取れないし、もったいない。

そんな前提があるから、欧米のバカンスって、あんなに、無駄に、アホみたいに長いんだろうな、と思います。

仕事好きの私からすると、何週間も仕事するな、と言われると、死にたくなるくらいの拷問ですが。

話を元に戻します。

そんな風に、世界の普通の都市住民にとってはリゾートライフはかなりの負荷を覚悟をしないと実現しないものですが、東京にいると、わずかな時間と費用と手間で、というか、世界の他の都市からすると、「ほぼ一瞬」といってもいいレベルで「世界水準のリゾート地」までたどり着け、また、その気になれば、東京まですぐに帰ってこれます。

今の季節ですと、例えば、上越新幹線に1時間強乗って越後湯沢まで行ってしまえば、積雪3メートル級で、最上級のコンディションのスキー場がそこらじゅうに出てきます。

しかも、温泉もあり、ご飯も旨いし、日本酒も旨い。

「トンネルを抜けると雪国であった」
というのは有名な川端康成さんの書いた小説の一節ですが、現在では、
「上越新幹線に乗って、ビール飲んで、スマホいじっていると、いつの間にか雪国だった」
くらいの展開速度です。

パリやロンドンやニューヨークに置き換えると、
「空港に行って手荷物検査している間に、スキー場に到着していた」といったような話であり、ドラえもんの「どこでもドア」
を使ったくらいの、衝撃的なスピードと利便性です。

また、国内に亜熱帯気候の沖縄を擁する我がニッポンは、真冬の時期は難しいにしても、
「パスポートなしで、南国リゾートまで、週末ひとっ飛びして、リフレッシュしたら帰ってくる」
という弾丸ツアーも、さほど無理せず実現できます。

長野新幹線や北陸新幹線を使えば、
「週末を利用して、3000メートル級の日本アルプスで本格登山」
といったことも可能です。

沖縄のダイビングスポットも、海外で知られるようになってきたようですが、透明度やサンゴ礁の美しさは、世界屈指レベルです。

私はしませんが、釣りをする方にとっては、海に囲まれ、山が多く川があちこちに流れている日本の「釣り環境」は、世界的にみてもかなりのレベルであろう、と思います。

ところで、冬になると、知り合いの社長さんの話を思い出します。

この社長さん、趣味がスキーで、週末になると、一人、日帰りで、スキーに行くそうです。

朝起きて、そのまま、ゴーグルとか手袋とかちょっとした荷物だけもって上越新幹線に乗り込み、駅についたらタクシー乗って5分でNASPAニューオータニへ。

スキー、ブーツ、ストック、ウェアをフルレンタルし、滑って、滑って、滑り倒す。
合間に、SATSUKIでお茶したり(NASPAには、なんと、東京と同様、SATSUKIがある!)し、疲れたら、適当に切り上げ、ホテル内の温泉へ。

帰りは、駅構内の日本酒バーでいっぱいひっかけて、帰る。

そんな、弾丸ツアーのスキーをなさっているそうです。

弾丸ツアーというと大変そうですが、その社長さん、
「すごい楽で簡単だよ。ほんと、すぐだし。鎌倉か高尾山行くのと同じ時間だよ。多分、保土ヶ谷でゴルフするくらい簡単。こっちは渋滞ないし、温泉あるし、荷物いらないし。全然楽しいよ」
とおっしゃってました。

で、最近、私も、用事があって、越後湯沢方面に行ったのですが、高崎超えて、20分もたたないうちに、景色が一変して、大雪に埋もれる雪国。

本当、まるで、ワープ。

「欧米人がみたら、この景色の変化、腰抜かすだろうな」、
と思った次第。

それと、日本のリゾートの最も強力な利点は、食事のクオリティです。

日本は、国内どこにいっても、和食はもちろんのこと、中華も洋食も、世界最強水準です。

海外は、あちこち、そこそこ行きましたが、ローカルなお店も、高級ホテルの食事も、現地で一流と言われるレストランも、どこも例外なく、飯は、腹が立つくらいまずいです。

海外旅行に行く度に思うのは、「旅行中、最も美味しい食事は、羽田や成田のJALの空港ラウンジのビュッフェと、ビジネスあるいはファーストの機内食」ということです。

普段、あまりに当たり前になってしまい、気づかないことですが、「東京に住んでいる」ということは、
「リゾート地まで行ける、どこでもドア」
を持っている、そんな異次元レベルの利便性がある、ということと同じです。

「3週間とか、無駄に長いバカンスがないと、リゾートにたどり着けず、効果的なリフレッシュできない、世界の他の都市住民」

に比べると、安く、早く、手軽に、気軽に、リゾートライフを楽しめる、

「東京という都市の、隠されているものの、あまりに強力な魅力」

は、今後、オリンピック等を経て、世界にどんどん知られていくことになるものと予想されます。

00041_千葉の小学校4年生虐待死事件で、被害者が父親の暴力を訴えたアンケートのコピーを市教育委員会の担当者が容疑者父親に渡した問題について

千葉の小学校4年生虐待死事件で、被害者が父親の暴力を訴えたアンケートのコピーを市教育委員会の担当者が容疑者父親に渡した問題について、コメントいたします。

報道によると、
・被害者(Mさん)の一時保護が解除されたあとの去年1月12日、父親のK容疑者(41)が妻とともに小学校を訪れた際、「娘に暴力は振るっていない。一時保護といって子どもを引き離された者の気持ちがわかるか」などと抗議し、アンケートの回答を見せるよう強く迫った
・その3日後にK容疑者が市の教育委員会を訪れた際にも、威圧的な態度で要求した
・「恐怖感を覚え精神的にも追い詰められて影響を深く考えられなかった」ということで、教育委員会のY次長が、父親にアンケートを手渡した
・なお、Y次長、アンケートを手渡す際、小学校の担任の先生のプライバシーには非常に手厚く配慮して、担任の書き込み部分を消してからアンケートのコピーを渡した
ということです。

この父親、ものすごい勢い、というか、尋常じゃない圧で、迫ったんだと思います。

娘を殴り殺すくらいのバイオレントな人間からのねじ込みですから、かなり、怖い感じだったことは想像できます。

それより、この教育委員会のY次長、たしかに、駄目、というか、アカン、というか、とことん無責任で、情けない人です。

自己保身の塊で、わが身可愛さに、モラルを投げ捨て、小さい子を危険にさらす、という意味で、大人として、人として、どうか、と思います。

他方で、
「アンケートを手渡す際、小学校の担任の先生のプライバシーには非常に手厚く配慮して、担任の書き込み部分を消してからアンケートのコピーを渡」す
ということをしているようです。

「子供はいくらでも犠牲にするが、教育関係者のプライバシーや身の安全は徹底的に守る」
という、しびれるくらい下劣な態度も、印象的でした。

教育委員会次長Yは責められるべきだし、責められても仕方ないことをやらかしていますし、責めるのは簡単です。

他方で、
「怖かった」
「ヤバかった」
「あんな勢いで迫られると無理」
「どうしようもなかった」
「そりゃ批判するのは簡単だけど、対抗するなんてできませんよ」
「皆さんも同じ立場に立ったら、絶対無理だと思います」
など、納得できるかどうかは別にして、彼にも、いろいろ言い分があるのかもしれません。

このような悲劇や愚行や恥ずべき事態を根絶し、社会を少しでも良くするためには、今回の事態の原因を、もっと深掘りし、本質や根源に迫ってみる必要があります。

すなわち、
・彼(教育委員会次長Y)が、このような卑怯で姑息で劣悪な行為をやって、殺人を誘発してしまった原因ないし背景はどのようなもので、
・彼としては、どのように考え、どのように行動すればよかったのか、
という点まできっちり考えないと、彼を弁解の余地なく責め切ることは難しいですし、そうなると、今回のY氏の
「自分や組織や業界の保身のため、子供を危険にさらしても、目の前の凶悪で危険な人物の言いなりになるのも、不可避の事故だった」
という形で風化していき、今後も、同様の悲劇が起きる可能性が懸念されます。

今回は、
「自己保身のため、大人を信じて、助けを求めてきた少女を、あっさり、裏切り、凶悪な暴力性癖のある人間に引き渡す」
という事件でしたが、教育の世界では、いじめ問題の対応でも、
「教師や教育関係者が、無責任で無関心な姿勢で、加害行為を放置し、イジメを黙認し、間接的に助長する」
といった対応事例が頻繁に発生しています。

いじめが発生しても、担任も、他の先生も、見て見ぬふり。

犯罪に該当するエゲツないイジメが発生しており、生徒はおろか、先生も、皆、はっきり、くっきり、知っている。

だけど、誰も、指一本動かさない。

その結果、いじめられた子が自殺する。

事件後、先生も学校も、異口同音に
「わからなかった」
「見つけられなかった」
「イジメのサインを見逃した」
「もっと早く気づいていれば」
などといった弁解を、いけしゃあしゃあ、と述べたりする。

よくある事件です。

私としては、こういう学校や教育現場で発生する
「子供のほったからしの末の見殺し」
が生じる根本的な原因は、学校や教育委員会等の教育行政に関わる方々の、能力過信によるものだと思います。

言うまでもありませんが、学校や教育委員会等の教育のプロの方々は、教育問題については、専門的知見と対処スキルを持っておられます(と思います)。

ですが、これら教育のプロの方々といえども、
「教育問題を超えた、法律問題」
については、ずぶの素人であり、まったく無力です。

われわれ弁護士も、相当勉強しますし、職業経験により培った知識も加えると、結構、いろいろ物を知っています。

社会生活において発生する生理的な事態も、病理的な現象も含め、酸いも甘いも、清も濁も、かなり多くの知見があります。

とはいえ、そんな物知りの弁護士とはいえ、病気になったら、自分で判断しませんし、友人の医療問題を扱っている弁護士に聞いたりもしません。

だって、医療問題だから。

知らないから。

無理だから。

われわれは法律のプロであっても、医療については、素人だから。

素人が判断しても、解決できないから。

「素人判断で状況を悪化させる」
なんてアホなことはしないから。

今回、教育委員会次長の方に突きつけられた問題は、
「加害者の父親から、自分の暴力行為を被害者の娘が告白したアンケートを見せろ、と凄まれたが、どうしたらかいいか」
という課題です。

この課題は、完全に教育問題を超えており、明らかに法律問題です。

先程の例でいうと、弁護士である私が、腹が痛い、胸が苦しい、高熱を発した、足が動かない、という状況と同じです。

これは、法律問題ではなく、医療上の課題です。

明らかに自己判断が不可能であり、適切な専門家に一刻も早く相談しないと、まったく改善しないでしょうし、さらにいえば、却って悪化しかねない状況です。

この教育委員会次長も、
「教育問題ではないから、自分では無理」
と考え、とっととギブアップし、弁護士に相談すべきでした。

ところが、実際は、
「自分でなんとかすべきだし、なんとかできるし、なんとかしなきゃいけないし」
と愚かな考えに陥り、
「知識も経験も適性もスキルもない事柄に素人が自己判断でやってはいけない行動を敢行する」
という愚行に及び、
最悪の結果を招いた。

そういう話です。

イジメ問題も同様です。

この点については、「いじめ問題解決の第一歩」で、書いた内容を引用します。
====================>引用開始
・・・・・・・・・・・
しかし、いじめの内容と質は、時代の変遷とともに、負の方向で驚異的な進歩を遂げています。

現代
「いじめ」
と称されるものは、未成年による毀棄隠匿行為、窃盗行為、名誉棄損行為、侮辱行為、暴行行為、傷害行為、脅迫行為、恐喝行為、強制猥褻行為、強盗行為、強姦行為、強盗強姦行為等です。

未成年者が関与するこれら犯罪行為については、加害者と被害者が同一教育機関に属する生徒である限り、すべて
「いじめ」
と呼称することがルール化されているようであり、状況を正確に表現しようとしても、犯罪用語の使用はよくわからない理由で御法度とされます。

いうまでもなく、
「いじめ」
といわれるものの実体である前記の各行為は、加害者と被害者が同一教育機関に属するか否かに関係なく、すべて悪質な犯罪です。

当然ながら、犯罪は教師の解決能力を超えた問題であり、本来、捜査機関による捜査と裁判所の判断を経て、法務省所轄の施設で矯正される等(保護という名の監視を含む)べきものです。

教育サービスの提供者に過ぎない教師が、犯罪行為を捜査し、解決し、犯罪者の矯正に責任を負うなどといったことは、できるはずもなく、また、してはいけないものです。
(以下、略)
<====================引用終了

教師や、教育関係者、弁護士、ジャーナリスト、作家等は、実際の知的水準はさておき、一応、
「インテリ」
とされます。

インテリ一般は、自信過剰で、プライドが高く、分際をわきまえず、自分は何でも知っているし、何でも自分でできる、と勘違いする輩が多いようです。

また、
「知らないことや、苦手なことや、できないことがある」
「自分が、バカなこと、駄目なこと」
を認めるのが非常に苦手な人種だと思います。

そのくせ、自己評価が高く、うまくいかないときには、逃げたり、弁解したり、ウソをついたり、知らないふりをしたり、煙に巻いたり、すっとぼけたりと、ありとあらゆる姑息で卑怯なマネを駆使して、自己保身を図ることがあります。

もちろん、インテリの一派である弁護士の1人である私も、
「このような、イヤな内面気質を持っているクズ人間の要素」
が皆無とは言い切れません。

件の教育委員会次長さんが、
「これは、教育問題ではなく、法律問題なので、私には無理。弁護士に相談しよう」
と正しい考えに至らず、
「自分でなんとかすべきだし、なんとかできるし、なんとかしなきゃいけないし」
と愚かな考えと愚かな行動によって、最悪の結果を招いたのは、彼が
「インテリ」
であることと無関係ではありません。

いや、今回の愚行は、悪しきインテリとしての要素が、思いっきり出てしまったことによると思います。

すなわち、
・自信過剰でプライドが高く、
・自分は何でも知っているし、何でも自分でできる、と勘違いし
・「知らないこと、できないこと、バカなこと、駄目なこと」を認めるのが非常に苦手、
というインテリのダメ気質が染み付いてしまっており、結果、
「専門外の法律問題ないし法律事件になってしまっている対処課題」
を、教育のプロとして、教育問題の延長として処理・対応しようとしたことによるものだと思います。

教師、学校関係者、教育関係者の皆様は、もっと、謙虚になって、自分たちの能力の限界を知り、分際をわきまえるべきです。

これ以上、今回のような被害者や、イジメの自殺被害者を増やさないために。

教育者としてのプロフェッショナルスキルは、
・法を尊重し、他者の尊厳を尊重し、
・文明人、文化人としての常識と作法を身につけ、
・知的好奇心があり、知識や学問の価値を認め、学びの意欲と姿勢がある、
そんな、まともな人間に対しては、非常に効果を発揮します。

しかしながら、
・法を尊重せず、他者に平然と危害を加え、
・常識や作法を知らない野蛮さをもち、
・知的好奇心もなく、知識や学問の価値を認めず、学びを拒否する
といった、特異な人間に対して必要なのは、教育ではなく、隔離と矯正です。

教育理論ではなく法律学や刑事政策の知見を活用すべきです。

無論、刑務所に入って、おとなしくなり、教育を受ける準備と前提が整えば、教育の力が発揮されることもあるでしょう。

しかし、校舎のガラスを叩き割り、盗んだバイクで走り出している真っ最中の少年に、
「ねえねえ、サイン・コサイン・タンジェントを教えてあげるよ」
と語りかけても、金属バットで殴られるだけです。

こういう言い方をすると、
「金八先生のように、不良学生を立ち直らせるのも、教師の役割と責任ではないか」
という物言いがつきそうです。

実に愚かな見解です。

・法を尊重せず、他者に平然と危害を加え、
・常識や作法を知らない野蛮さをもち、
・知的好奇心もなく、知識や学問の価値を認めず、学びを拒否する
というタイプの人間を収容し、更生させるために用いるべき本来的施設は、学校ではなく、別の矯正専門施設です。

また、この種のタイプの人間への対処は、本来的に、矯正のプロが担うべきです。

絶対、教師が矯正活動を兼業していけない、というわけではありません。

個人レベルで、教師が、
「学ぶ意欲のある者に教授する」能力
だけでなく、
「学ぶ意欲すらない、前述のような社会への脅威を振りまく特異な人間」を矯正することも得意
というケースも、属人的かつ稀にではあるものの、一切存在しない、というわけではありません。

ですが、たいていの教師の本源的スキルは、教育であり、矯正ではないですし、
「虞犯傾向が顕著な青少年を矯正することが大好き」
という方は、どちらかというと少数派です。

大学を出て、教員免許を取得して、教師になった先生一般は、そんな、
「言葉も通じないし、話も通じないし、気持ちも通じない、道徳や倫理と常識を共有できない、異世界の住人」
とは距離を置きたいと思うはずです。

だからこそ、教育委員会次長さんも距離を置こうとして被害者児童を生贄に差し出したのでしょう。

だからこそ、たいていの教師は、凶悪なイジメ(実際は刑法犯)を現認しても、見て見ぬふりをするのでしょう。

「金八先生」
はレアであり、例外であり、異常事例です。

「レアで、例外で、異常な事例」
を取り上げて、全体を語ったり、社会全体の課題を解決しようとしても、絶対に失敗します。

「金八先生」

「GTO」
のように、教育の傍ら、矯正も行う、なんて曲芸をできる異常事例は極々少数であり、たいていの教師は、矯正課題は放ったらかしであり、さらに言えば、厄介事として、見て見ぬふりをします。

私が教師でも、絶対そうします。

だって、専門外だし、わかんないし、できないし。

「机に座っている学びたい人間を教えるの」
は自分の仕事ですが、
「机に座れないし、学問の価値も認めない、野蛮で自己制御できない、俗悪で無作法な人間を、一定時間、黙って机に座らせるよう躾ける」
のは自分の本来的仕事ではありませんから。

というか、そういう仕事が好きだったら、動物園かサーカスの仕事を選んでいるはずだし。

動物とかそれに近いのが大嫌いだから、教師になったんだし。

教師になって、動物の調教に近いことやらせるなんて、冗談でしょ。

勘弁してよ。

そう考えるのが普通でしょう。

弁護士である私に対して、
「胸が苦しいのでなんとかして」
「頭が痛いのですが、これ、CTスキャンした方がいいですか」
「熱が下がらないのですが、インフルエンザの薬もらえませんか」
と相談されても、困ります。

無理です。

できません。

「医者に行った方がいい」というほかありません。

それと同じことです。

今後も、インテリ特有の自信過剰に陥り、学校や子供に関連して生じた事象すべてを
「教育問題」
の延長として捉えるような教育関係者が、自分は何でも知っているし、何でも自分でできる、と勘違いし、分際をわきまえず、
「教育問題の範疇を超えた、法律問題」
に直面しても、
「自分でなんとかすべきだし、なんとかできるし、なんとかしなきゃいけないし」
と考え、危険な素人判断で、愚劣な対応を続ける限り、今回のような悲劇や、イジメ問題を原因とする自殺事件等は、増えこそすれなくならない、と断言できます。

私としては、一刻も早く、教育関係者が、自らの程度や限界をわきまえ、目の前の問題が
「法律問題か教育問題か」
を早く正しく見極める判断力を備え、
「法律問題は、とっとと法律家か警察に持ち込む」
という、正しい
「ギブアップ習慣」
を身に着けていただくべきと考えます。

そうすることで、
法律問題が法律問題として適切に処理され、
犯罪者や犯罪者予備軍から攻撃を受ける弱者が、教育者により見殺しにされることなく、法律の力できっちりとした保護を受けられ、
少しずつ社会がよくなるのではないか、
と思います。

学校で発生しようが、子供同士で生じようが、親が騒ごうが、教育問題を超えたら、教師はとっととすっこみ、法律問題は法律問題として、法の視点で観察し、法の力で是非を論じ、きっちりカタをつけていく。

こういうシンプルで当たり前のことが行われれば、
イジメ被害による自殺事件が根絶し、
今回のような愚かで無能で無責任は大人の愚行で小さな子どもが犯罪被害に遭うといった悲劇が二度と起きない、
そんな、普通の社会になっていくのではないでしょうか。

00040_科学的ダイエットのための“逆洗脳”

私は、6~7年ほど前から、食生活や生活習慣を改め、ジムに通って筋肉と体幹を鍛え、体重を30キロ近く落としました。

体組成計上の肉体年齢は20代です(実年齢のはるか下の年齢です)。

ちなみに、
「結果にコミットするホニャララ」
には、行っておりません。

いろいろな情報を収集して、自分なりに研究し、肉体改善のための自己制御プログラムを作り上げ、実践する。

そんな
「我流ダイエット」
で、肉体改造をしました。

「ここ5年ほど、私と会っていない」
という方と久しぶりに会うと、激変ぶりに驚かれます。

また、久しぶりにお会いした取引先の社長にも驚かれてしまい、仕事の話そっちのけで、ダイエット論の話で盛り上がってしまい、結果、
「仕事の話は、また今度でいいや」
という流れになってしまうなど、私の界隈では地味に盛り上がっています。

ということで、肥満でお悩みの方向けにダイエットについてお話したいと思います。

まず、私のダイエットセオリーの根幹ですが、
「太る原因は、暴飲暴食にある」、
そして、
「暴飲暴食の原因は、脳の暴走により、制御不能に陥ることにある」、
という課題認識が前提となっており、
「いかに、脳を制御するか」
ということが主眼となっております。

そして、私が実践した方法は、紅茶キノコを飲むことでも、朝バナナでも、納豆やコンニャクや寒天どか食いでもなく、自己制御としての
「脳の正常化に向けた、正しい洗脳」
を自分に対して徹底して行う、というものです。

自己洗脳というか、自己啓発に近い内容を行い、これを起点として、食生活を含む生活習慣を改変したことで、大きな結果が生まれた、というものです。

脳の歪みを特定し、これを矯正する。

それだけです。

ところで、
「洗脳」
なんて持ち出すと、なんか、悪の犯罪組織や、ヤヴァい新興宗教がやる、おどろおどろしい、不気味なものと思われがちですが、
「洗脳」
は、そんなネガティブなものばかりでもありません。

身近なことでいえば、学校教育も、親の説教も、上司の説教も、新聞の社説も、テレビのコメンテーターのお話も、政府の記者会見も、広い意味での
「洗脳」
の一種です。

教育などは、洗脳の最たるものでしょう。

教育の本質は、
「頭脳が未発達で、知性が乏しい、知的水準が未熟な者へ、偏見を植え付けるための、洗脳」
を指すわけですから。

「学ぶ」

「真似ぶ」
から転じたといわれますが、教育の本質をよく表しています。

正しい洗脳、もとい、教育というのは、模範とする人物をベンチマークとして、思考や言葉やビヘイビア、さらには仕草や呼吸の仕方に至るまで、徹底的にコピーすることがその本質です。

・・・と、
「洗脳」
から、脱線しましたが、私がやったのは、
「糖質やめられない」
という脳内を巣食うバイアスを特定し、これを取り除くための
「正しい脳に改善するための、逆洗脳」
とも言うべき、手法です(共産主義国家風にいえば、「再教育プログラム」となるでしょうか)。

「ロカボ(low-carbohydrate)」

「低糖質」
という言葉がすでに浸透しているとおり、炭水化物をはじめとする糖質が肥満の原因であり、いかに食事において糖質摂取を抑制するか、ダイエットの鍵となる、ということは、すでに知られているところです。

もちろん、脂のとりすぎも肥満の原因、という考え方もあるのですが、脂は、意識的に摂取を抑制しなくても、ある程度控えることは可能です。

すなわち、
「お腹が空いたから、肉の脂身を食べて、バターやサラダオイルをごくごく飲みたい」
という方はまずいらっしゃらないと思います。

おそらく、肉が好きとか、揚げ物が好き、という方は、
「油や脂そのものが大好き」
というより、
・ヌルヌル、あるいはヌメヌメした舌触り
・塩加減や一緒に食するご飯やお酒などの糖分とのバランス
・歯ごたえや噛みごたえなどの食感
といった別の要素を嗜好している、と思われます。

例えば、
・肉と同じような歯ごたえや噛みごたえがあるタンパク質の食材を使い、
・塩分で味を整えて、現在の調味技術で、本物に近い味加減を再現し、
・見た目をハンバーグやステーキのようにするため絵の具(着色料)を使って
・スチーム調理器を使って、油を使わない加熱調理を行う
という方法で、豆腐やささ身や魚肉を使った、ステーキやハンバーグや唐揚げが普及すれば、
「健康のための代替料理」
として問題なく受け入れる方もそれなりにいらっしゃるであろう、と思われます。

結局、油は、しょっぱさ(塩)と甘さ(糖)その他をまろやかにして、食感をよくするためのもので、油そのものを嗜好する、ということはなく、今流行りのスチーム調理器を使えば、相当程度、摂取を回避できると思います。

また、最近では、豆腐ハンバーグや、ビーガン向け食品等、食べごたえのある、豆腐や植物性蛋白を使った食品等も出回っています。

太る、という点での大きな課題となるのは、糖質摂取の抑制です。

「油や脂そのものが大好き」

「お腹が空いたから、肉の脂身を食べて、バターやサラダオイルをごくごく飲みたい」
なんて人は滅多にいませんが、
「できたてのご飯なら何杯でもいける」
「お餅が大好き」
「甘いものがやめられない」
という方は相当いらっしゃるはずです。

この点、ロカボや低糖質を謳ったダイエット法が多数出版されていますが、私からみると、どれもイマイチな感じが否めません。

というのは、
「糖質の取り過ぎが良くない」
「痩せるには糖質を抑制した方がいい」
ということは、別に本を買わなくても、皆、十二分にわかっているのです。

問題の根本は、
「糖質が良くないのは頭でわかっているが、体や心が好きなので、どうにもこうにも手が出てしまう」
すなわち、
「わかっちゃいるけど、やめられない」
という状況の改善ないし抑制にあるにもかかわらず、この点をしっかり捉えて、制御する方法を説いている本があまりない、ということなのです。

糖の摂取に関して、こんな科学的説明があります。

糖質も甘味も薬物依存と同じ作用をすることが動物実験などで明らかになっており、快感を求めて甘味や糖質の摂取を求め、次第に摂取量が増え、摂取しないとイライラなどの禁断症状が出てくる。

この点、コカインよりも甘味の方がより脳内報酬系を刺激し、甘味はコカインよりも中毒症状や依存性になりやすいという実験結果するという結果が報告されているそうです。

重度のコカイン中毒者に対して、
「コカインが身体に良くないのはわかっているんだろ。だったら、なぜやめられない!」
と、正論を振りかざして説教を何回繰り返しても、無駄です。

また、覚せい剤を切らすと居ても立ってもいられないほどの重度の依存症の者に、
「コカインの代わりに、ビールや酎ハイで我慢してみたら?」
と提案しても、聞いてくれるわけがありません。

そこで、私は気づきました。

ダイエットに必要なのは、
「薬物中毒の症状を治す」
のと同様のアプローチが必要、であろう。

すなわち、脳のバイアスの根源を探り当て、その歪みを明確にし、これを制御するための逆バイアスを自己脳内に構築して、逆洗脳をして、自己制御を完成させる、そんな、アプローチがダイエットには必要ではないか、と気づいたのです。

紅茶キノコやプーアール茶を何杯飲んでも、
リンゴを納豆をアホみたいに食べても、
喉詰まらせるくらいコンニャクやコンニャクゼリーを爆食いしても、
まっずい酢大豆をいっぱい食べても、
寒天やサバ缶をたらふく食っても、
鼻をつまんで黒酢やもろみ酢を何杯飲んでも、
朝にバナナ、夜にトマトを食べても、
「脳が甘味依存症、糖質依存症」
である限り、人間は、糖摂取をやめられず、際限なく糖を取り続け、結果、太り続けていくと思います。

そこからは、結構早かったです。

「甘味依存症」
「糖質依存症」
を脳内に形成する根源を探り当て、その歪みを取り除くための考え方を明確に認識し、自己制御としての糖質制御をして、これと並行して、筋トレその他代謝を上げる活動を取り入れていきました。

1年目で18キロほど、2年目で30キロ減量し、そこからかれこれ5年ほどは、ほぼ体重、体脂肪率をキープしています。

自己制御プログラムの具体的中身ですが、さすがの私も、メールで配信するには憚られる内容なので(違法とか、半倫理的なこととか、そういったことではないのですが、なんとなく、障りがある、というか、ちょっとアレな内容、という意味です)、ここでは、詳細は控えます。

また、
「糖質の取りすぎがよくない」
ということはすでに知られた内容であり、
「わかっちゃいるけど、やめられない」
ことをやめるのは、自己制御課題であり、自己制御の取り組み方は人それぞれですし、自分なりにやって自分が納得して自分を制御できればいいだけの話。

たいしたことではありません。

それに、自己制御という、パーソナルな領域に踏み込むのは一定の信頼関係が必要ですし。

いずれにせよ、ポイントは、
・ダイエットが出来ないのは、脳が暴走していること
・脳の制御をするためには、覚醒剤依存症の克服プログラムと同様、「脳の間違った働き」の根本を探り出し、直接働きかけ、これを改善する、逆洗脳が必要
・脳を正常化して制御しない限り、「甘い物がやめられない」「糖質がないと気が狂う」という暴走現象が収まらず、結果、紅茶キノコ、サバ缶、黒酢、朝バナナ等々、何をやっても、ダイエットは永遠に失敗し、太り続けていく
ということです。

00039_マネーの正体_20181120

お金というのは、ただの、紙切れであり、記号であり、取り決めであり、幻想です。

例えば、千円札や五千円札や一万円札というものは、JASDAQに上場している某株式会社(日本銀行は、証券コード8301で、東証一部でも二部でもなく、新興市場であるJASDAQに株券上場している一民間会社です)が発行している手形の如き紙片であり、
「日本及び世界中の人が、この『JASDAQに上場している某株式会社が発行している手形の如き紙片』に一定の価値(90ドルなり77ユーロなり65ポンドなり)があるはずだ」
という共同幻想を抱くことで成立している価値空間における、価値表章道具に過ぎません。

最近では、ビットコインという名の下に、新たな価値空間や、当該価値空間における価値表章道具が突如創造され、瞬く間に浸透して一般化していますが、マネーの世界というものが、かなりイージーに作り上げられる幻想空間である、ということが改めて確認できる事象です。無論、崩壊したり無くなったりするのも割とすばやく、あっけなく起こったりするかもしれませんが。

こういう事例は、
「マネーないしマネーに関わる営みの本質が、情報産業でありバーチャル空間創造事業の一種である」
という一面を如実に表わしております。

なお、千円札や五千円札や一万円札が、東証一部でも二部でもなく、新興市場であるJASDAQに株券上場している一民間会社の発行している紙切れ、などというと、
「この弁護士はバカで、モノを知らんな。通貨を発行しているのは、日本国政府であって、そんな、JASDAQに上場しているショボイ企業とちゃうぞ!」
という声が聞こえてきそうです。

しかし、お持ちの紙幣を、目クソをしっかりかっぽじりあそばして、よくご高覧ください。

偽札でない限り、お持ちの紙幣の発行体は、株式会社日本銀行(JASDAQ:8301)という民間企業であることが明記されていることをご確認いただけるかと存じます。

そういうと、
「んなもん、何の違いがあるねん! 日銀も日本国政府も一緒やんけ!」
とか、おぬかしあそばされそうです。

ここまで無知だと、さすがに矯正のしようがありません。小学校か中学校の社会の教科書から勉強し直してください。

日本国政府と日銀は別の組織であり、ミッションもガバナンスも別のものです。

(日銀とは全く別組織の)日本国政府が発行できるのは、500円玉を筆頭にしたコインだけです。コインとは、補助通貨と言われますが、
「取引決済1回につき20枚までしか提供できない」
という制限が付された、決済道具としては相当ポンコツなものです。

国の借金(正確には、国債及び借入金並びに政府保証債務現在高)が1000兆円超えたとか超えないとかで、ギャーギャー騒がれているようですが、法律を改正して、
「取引決済1回につき20枚までしか提供できない」
という制限を取っ払ってしまって、1000兆円分の500円玉を製造して、これを、某JASDAQ上場企業の日本橋の本店に持っていけば、国の借金なんて一挙に返済できちゃいます。

ちなみに、政府の債務といっても、反対側の債権を保有しているのは、日本の企業(たいていは一般の銀行ですが、JASDAQ8301の特殊銀行業を営む某企業が自分で買う場合を含む)や個人です。

日本国を一つの家族として考えると、お父さん(日本国政府)が1000万円の借金を負っているといっても、「借りた先は、サラ金でも闇金でも銀行でもなく、いや、家庭の外にいる親類縁者ですらなく、一緒に暮らすお母さんのへそくりから借りてます」、というのと同じです。

確かに、お父さんは、お母さんに頭が上がらず、いじけていますが、
「家庭全体が危機にひんしているとか、借金取りに追われて夜逃げしなきゃいけないとか、破産して全員クビつる」
とかそんな話ではありません。

なお、この「日本」というご家庭全体では、貯金が328万円あります(対外純資産は2017年末で328兆円です)。

「お父さんがお母さんから1000万円超借金しているが、家族全体で貯金が328万円ある」
なんて話だと、カネがあるのかないのかわからない、なんともビミョーな貯金額ですが、なんと、この貯金額、世界一なんです(日本の対外純資産額は、2位のドイツを70兆円以上引き離し、ダントツの世界一)。

話は脱線しましたが、お金を貯めることは多いに価値と意味がありますが、お金の本質は、紙切れなり金属の塊によって表章される「幻想価値空間」の道具に過ぎません。

賭博場のポーカーチップや、パチンコホールのパチンコ玉と同じであり、大事に貯め込むというのは本来の効用のあり方ではなく、使ってこそのものです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.135、「ポリスマガジン」誌、2018年11月号(2018年11月20日発売)

00038_「金持ちと結婚して絶対幸せになってやる!」と意気込む婚活女子が知っておくべき、「金持ちの分類・特徴・生態・習性・偏向」~まとめ~

その1:「お金持ち」の種別

その2:資産家

その3:オーナー系企業の創業者

その4: オーナー企業の後継者(二代目以降)

その5:投資家

その6:財産形成に成功したプロフェッショナル(士業の成功者やオーナーシェフや開業医や芸能人や出世したサラリーマン重役等)・完

00037_「金持ちと結婚して絶対幸せになってやる!」と意気込む婚活女子が知っておくべき、「金持ちの分類・特徴・生態・習性・偏向」その6:財産形成に成功したプロフェッショナル(士業の成功者やオーナーシェフや開業医や芸能人や出世したサラリーマン重役等)・完_20190520

今まで、いろいろ
「金持ち」
と呼ばれる人種の生態観察を披瀝してきましたが、どれもこれも、ケチ呼ばわりしてきましたので(私も節約と倹約が大好きな稀代のケチですので、ケチというのは、私としては褒め言葉です)、
「また、今回も、ケチが出てくる」
と思われる方も多いのではないか、と思います。

しかしながら、今回の、
財産形成に成功したプロフェッショナル(士業の成功者やオーナーシェフや開業医等)
はケチではなく、むしろ、使い方が上手かどうかは別にして、
お金をよく使うタイプである、
といえます。

弁護士をはじめとする士業や医師、さらに、シェフや各種職人といったプロフェッショナルで、経済的成功を収めた方々は、働けるあいだは、どんどんお金が入ってきます。

他方で、所得が上がると、社会保険料を含めて
「六公四民」
になる高額の税金を負担しなければなりません。

税金を払いたくないばかりに、売上を誤魔化したり、架空給与を支払ったりといった乱暴なことをすると、仮装隠蔽による脱税として犯罪者として処断されるリスクが高くなりますし、最悪、告発・起訴・有罪判決を受けて、社会的信用を失い、仕事が続けられなくなるので、そういう過激な節税(というか犯則事件になりうる悪質な脱税行為)に手を染める方は少数派です。

このように、
「稼ぎはいいが、稼ぎの6割近くは、日本最大の暴力団である国税当局等に、所得税等という名のみかじめ料としてもっていかれる」
という状況で、少しでも課税負担を減らそうとすると、経費をふんだんに使うほかありません。

もちろん、事業と関係のない経費を使うと、後日、税務調査で指摘され修正申告を余儀なくされたり更正決定を食らったりしますが、事業と関係性が維持できる経費については、ちまちま考えず、値段を確認せず、大胆に、イージーに使うと、税額が圧縮されることに繋がります。

こういうこともあり、弁護士をはじめとする士業や医師、シェフや各種職人といったプロフェッショナルや人気のある芸能人、さらには出世に成功したサラリーマン社長・サラリーマン重役等、自身のスキルを使って経済的成功を収めた方々は、
「宵越しの銭はもたない」
感覚で、お金を派手に使う方が多いです。

その意味では、この種のお金持ち、小金持ちで、ケチ臭い方はあまりいらっしゃらず、下手すると、そこらの資産家や経営者より、よっぽど羽振りが良かったりします。

弁護士とクライアントの会社の社長が、たまたま国際線で居合わせて、商用の社長さんがプレミアムエコノミーの席にもかかわらず、半分休暇の学会出張の弁護士がファーストクラスの席で、何ともバツが悪かった、なんて話もよく聞きます。

「突然売上が激増して、いい気になって、派手に使いすぎ、翌年の予定納税や住民税でヒーヒーいう」
などという、後先考えず、刹那的な金銭感覚のプロフェッショナルもいたりします。

こんな、お気楽で、刹那的で、景気のいいカネの使い方をする、成功したプロフェッショナルたちですが、弱点もあります。

それは、いつまで働けるかという将来の健康上のリスクや不安と、自分の仕事をどうやって後継者に承継するか、という点です。

普通のサラリーマン以上に、リアルに
「体が資本」
のプロフェッショナルたちは、健康に無茶苦茶気を使います。

もちろん、暴飲暴食をして健康を損ねるタイプもいますが、弁護士や医師は、同世代の平均と比べても、かなり健康で、70歳、80歳になっても、バリバリ働いている方が多いです。

しかも、定年はなく、頭や体やスキルを使って仕事をすると、精神的にも若さを保てるせいか、高齢で現役のプロフェッショナルの皆さん、どなたも楽しそうです。

100歳で現役のお医者さん、という方がいましたが、私はこの事例を聞いてもあまり驚きませんでした。

人間ドックや高額医療、さらには、健康増進につながるゴルフや登山や乗馬など、成功したプロフェッショナルたちは、健康につながることには特にふんだんにお金を使うようです。

そんな楽しそうな人生を送るプロフェッショナルたちの唯一の悩みは、世代承継です。

経営者や資産家は、特段、試験や資格なしでなれますが、プロフェッショナルになるためには、たいてい、試験や資格がつきまといます。

他方で、頭脳やスキルは、遺伝によって確実に子孫に承継されるとは限らず、
「開業医の子供のデキが悪く、なかなか医学部に合格できない」
なんて事例が出てきます。

医学部入試不正問題で実態が一部露見しましたが、デキの悪い子供を医学部にねじ込むために、試験の公正・公平を大胆に歪めることが堂々と行われる背景には、開業医の切実なまでの世代承継の願いがあるようにうかがえます。

以上、金持ちカテゴリーの中でも、
「成功したプロフェッショナル」
というのは、仕事には尋常ではないコダワリをもつものの、それ以外では鷹揚で単純で気前よく、世代承継の悩みをもちつつも、健康維持管理を含め、わりと刹那的に、景気よくカネを使う、付き合っていて愉快な、ある意味、もっとも
「金持ちらしい金持ち」
といえる、と思います。

なお、私は、プロフェッショナルですが、それほど成功しておらず、投資家や経営者としての気質が強いこともあり、かなりケチな部類です。

と、オチがついたところで、連載形式で解説してきました、
「お金持ち」
という生き物の種別に対応した、特徴・生態・習性・偏向といった生態観察結果のお話を終わりたいと思います。

(完)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.141、「ポリスマガジン」誌、2019年5月号(2019年5月20日発売)

00036_「金持ちと結婚して絶対幸せになってやる!」と意気込む婚活女子が知っておくべき、「金持ちの分類・特徴・生態・習性・偏向」その5:投資家_20190420

投資家もケチといえばケチですが、投資家のケチっぷりは、これまでみてきたほかのタイプのケチとはやや毛色が異なります。

これは、投資家にとって、
「お金」
というものの捉え方が、他の金持ちと異なることに由来します。

そもそもの話になってしまいますが、
「お金」
という道具は、いろいろな顔をもっています。

われわれ一般人にとっての
「お金」
とは、価値を貯蔵したり、価値あるものと交換(決済)したりする機能をもつ、究極的に便利な道具であり、それ以外の何物でもありません。

ところが、投資家は、
「お金は、もう1つ重要な機能がある」
ということを明確に認識しており、この機能を最大限にかつ効率的に使うことに命をかけて取り組んでいる、というところに生態の特徴があります。

「価値を貯蔵したり、価値あるものと交換(決済)したりする機能以外のお金の機能」
とは、一体何でしょうか?

それは、お金のもつ、
「お金を運用することによって、それ自体が、価値を創造し、自己増殖させることができる」
という機能です。

製造業を経営する企業の社長にとっては、工場が生産手段として日々価値を創造してくれます。

投資家にとっては、お金が
「メーカーにおける工場」
と同じ意味と価値を担います。

一定の方向付けを与えれば、自己増殖的に価値を生産してくれ、大切な商売道具として認識されます。

ポケットに1万円入っていて、食事をするために入店したレストランのディナーコースが、Aコース7,000円、Bコース5,000円、Cコース3,000円の3種類があったとします。

この場合、投資家が意識するのは、食べたあとに残った3,000 円なり、5,000円なり、7,000円が、そのまま
「価値創造手段」
として使うことができる、という事実です。

7,000円のコースを食べれば一過性の満足をそれなりに得られるかもしれません。

しかしながら、7,000円のコースを食べれば、3,000円のコースを食べた場合に比べ、手許に残る金銭差分(7,000円ー3,000円=4,000円)については、投資に回せる可能性を不可逆的に喪失してしまい、その結果儲けるための道具が相対的に貧弱になり、投資収益増殖のスピードが犠牲となってしまいます。

要するに、投資家が、お金を価値交換道具として消費に使う場合、
「お金のもう1つの大事な機能である、『投資という貴重な営みに使う必殺道具』を部分的に犠牲にしてまで、その贅沢をする価値があるか」
といった思考を巡らす習性を有する、ということです。

もっと簡単にいえば、種籾(たねもみ)は、ご飯に炊いて食べてしまえばそれで終わりだが、田んぼに撒いて収穫することによって、もっと増やすことができる。

お金も、使えば終わりだが、うまく使って増やすことができる。投資家は、お金に対して常にそんなイメージを抱いている、ということです。

また、投資家にとっては、情報や情報の運用は、命とお金の次に大事なものです。

ですから、正確で良質な情報をスピーディーに入手するためや、取引を瞬時に決済するための情報環境投資については、まったくお金を惜しみません。

他方で、陳腐な情報、コモディティとなった情報設備・機器については、瞬時に無価値と判断し、まるで興味を示しません。

したがって、投資家は、情報の入手・整理・分析に資するものや、これらの作業時間の効率化に貢献するものには、惜しみなくお金をつぎ込みます。

とはいえ、昨今の革命的な情報技術の進歩によって、少ない投資で、以前では到底考えられなかったような巨大なデータを、パソコンやスマホで扱えるようになりました。

ICT技術の発展で、笑いが止まらないくらい恩恵に浴しているのは、投資家という人種であることは間違いありません。

最後に、ほとんどすべての投資家は、税金という
「日本最大の暴力団が強制的に徴求するみかじめ料」
に対して、根源的な憎悪を抱いています。

設備も人員も不要のICTが発展した現代社会においては、パソコンとネット環境さえあれば、投資活動はどの国や地域でも行えます。

投資家としては、特定の国家から特定の行政サービスを受けている意識も感謝も希薄であり、
「国なんてあってもなくてもいいし、むしろ、無駄に税を徴求し、移動を制限し、無意味な規制を振り回す、有害な寄生虫」
くらいにしか思えません。

ですから、節税や租税回避のためであれば、相当大掛かりなものや冒険的なものも含めて、費用を投じて各種スキームを策定したり実践したりします。

成功した投資家が、日本の課税を忌避して、税率の低い海外に移住する、なんて話をよく聞きます。

私などは、投資こそするものの、本業が日本の弁護士業であり、さらに
「安全で清潔な環境と、世界一のメシの旨さと、ホスピタリティの充実さと、製品・サービスの洗練度合い」
から考えて、永遠に日本で住み続けたいですし、
「僅かな税を忌避して、別に悪いこともしていないのに、こんな素晴らしい国を、自主的な国外追放・亡命のような状況に身を置くなんて、あり得ない」
と考えてしまいますし、
「海外移住することにまつわる、コストや面倒や不愉快さや不都合さを考えると、却ってカネとエネルギーの無駄につながるんじゃないか」
とも思ってしまいます。

こんな
「日本大好き」
な私にとっては、
「世界の難民にとって、トップクラスの逃亡先であるニッポンから、自主亡命・自主難民化する」
という投資家の行動はまったく理解し難いのですが、
「筋金入りの投資家の冷徹な判断」
からすると、私の考えの方がアホで不合理でヌルい、と映るのかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.140、「ポリスマガジン」誌、2019年4月号(2019年4月20日発売)