00057_「ご臨終間際の企業」とのつきあい方

生きていくための知恵はどこで身につけるか世の中で生きていくために、本当に大事なルールや段取りや考え方は、学校の教科書や文部科学省推薦図書に掲載されていませんし、学校の先生も教えてくれません。

というか、教師はこの種のことを知りません。

「人を信じるな。自分も信じるな。すべてを疑え」
「親や教師や目上の人間のいうことでも間違っていることがある」
「大手や役所と取引があるといって安心するな」
「どうやったら、効率的に金儲けができ、愉快に生きられるかを真剣に考えろ」
「どこに自分にとって快適な居場所があるかを真剣に考えろ。みつけたら、全てをなげうって、そこに最短経路でたどり着け」
「どういう人間と付き合うと出世し、どういう人間についていくと酷い目に遭うかをきちんと見極めろ」
「上品に失敗するより下品に成功する方がマシに決まっている。むしろ成功者や成金はたいてい下品に成功した後、上品に振る舞おうとするものだ。成功した後の上品な戯言は一切無視して、どうやって下品に成功したかをきっちりスタディしろ」
などといった、
「世の中をうまく生きていくための本質的なルール」
を身につけるためには、実地で学ぶことが必要なのです。

バカな会社やダメな会社に入っても何も得るものは全く皆無です。

ダメな会社やバカな会社に入っても、
「探せばどこかいいところがあるはずだ」
「ダメなところをそのまましないようにすれば自分としても成長の糧を得られる」
とポジティブな考え方をする人がいます。

その際、自分を納得させるために、
「反面教師」
という言葉が使われます。

曰く、
「反面教師という言葉があるじゃないか。この会社の経営のあり方を反面教師として、自分は成長するぞ」
と。

一般に、
「反面教師」
とは、
「悪い手本となってくれる事柄や人物」
のことを指すと考えられており、
「人のふり見て、我がふり直せ」
と同じ意味で使われることが多く、故事成語のように思われています。

由来について言えば、「反面教師」
という言葉は、古来の諺でも何でもなく、第二次世界大戦後、毛沢東によって開発された陰惨なリンチ手法を指すものです。

すなわち、毛沢東はある組織に、能力ないし思想に欠陥がある者がいた場合、あえて放逐せず、仕事や権限や尊厳を一切奪った状態で飼い殺しにし、その酷い状況で晒者にすることにより、制裁を加えるとともに、同様の人間の発生や増殖を防ぐという規律手段を用いたそうです。

そして、
「そのリンチの対象となった人物」
を指して
「反面教師」
と言ったそうです。

いずれにせよ、
「反面教師」
は、
「リンチのターゲット」「悪い手本」
ですが、ここから学ぶものは一つもなく、また、学んではいけないものです。

そして、学ぶが「真似ぶ」から転じたことから考えれば、近くにいて、絶対真似てはいけない悪例をどれだけ時間をかけて観察しても有害な意味しかありません。

むしろ、一刻も早く「反面教師」ないし「反面教師」が生息する環境から逃亡して距離を置き、「正面教師」「模範対象」「正しいお手本」の近くに行き(「謦咳に接する」という言葉がありますが、それこそ飛沫感染するくらい近づき)、真似び、学ぶことが正しい教育あるいはキャリア形成というべきです。

たとえば、ここに、東大を強く志望する、開成中学受験に合格した少年がいたとしましょう。

この少年を、あえて、
「教師も生徒もやる気のない、田舎のすさんだ公立中学」
に放り込んでしまいます。

この場合、少年は、周囲の人間や環境を
「反面教師」
として学んで、人として大きく成長して、無事東大に合格してくれるでしょうか。

逆ですね。

おそらく、そのまま開成に入って中高六年間を過ごせば、現役で東大に合格できたであろう少年は、一生東大に合格できないで終わることになるでしょう。

このように
「反面教師」
は、人間の健全な成長にとって有害無益なものなのです。

「目の前の残念な人間や環境を反面教師として成長するぞ」
などという文脈において語られる
「反面教師」
という言葉は、ダメな人間がダメな人間関係やダメな環境から抜け出す努力を放棄する際の自己正当化の弁解道具に過ぎません。

賢明な人間は、
「反面教師」
から全速力で逃げて遠ざかり、一刻も早く
「模範たる教師」
をみつけるための努力をするものです。

00056_本屋のない地方は衰退する_20090420

最近、地方が疲弊しているといわれますが、実際、旅行等で地方に行ってみると、このことはひしひしと感じます。

例えば、ある地方の駅に降り立つと、駅前にコンビニエンスストアと洋菓子販売のフランチャイズ店と、
「ビジネスホテルとも旅館ともつかないお化け屋敷のような宿泊施設」
があるだけで、あとのお店はことごとくシャッターが閉まっていて、ゴーストタウンと化している。

そして、疲弊している地方には本屋が全くなく、本を買うのに非常に苦労します。

本屋がない地方に行くと、
「こんな地方には、永遠に未来がないな」
と感じてしまいます。

本屋がつぶれるということは、本を読まなくても困らない人が多数派を占めるということであり、本物の知識に価値を認める人が存在しない、ということです。

本を読まない人間は、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて人生を過ごすわけであり、本屋がない地方にも、国道沿いには、飲食店や居酒屋、ゲームソフトの販売店やビデオ販売店が乱立しています。

飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間は、やがて親になり、子供を教育する立場につきます。

しかし、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じて過ごしてきた人間が子供たちに本の価値を伝えることはできるはずもなく、こうして、本屋のない地方では本や知識に価値を認めない人間が拡大再生産されていきます。

本を読まず、飲んで、食って、ゲームやビデオに興じてきた人間が文化的創造力を発揮することはあり得ず、かくして、本を読まない人間が多数となった地方には、発信に値する新しい文化が芽生えず、活力を喪失していきます。

東京に暮らしていると、東京には本屋が実に多く存在するということがわかります。

本屋が多い理由は、本を買って読む人がたくさんいるからです。

そして、多数の本を読む人の出会いが契機となって価値ある文化が生まれるのです。

ここで、京都と大阪を比較してみます。

日本書店商業組合連合会加盟書店数の比較(かなり前の統計ですが、トレンドとしては変わっていないと思います)ですが、書店数については、大阪は245店、京都は211店とほぼ同数です。

人口比で、大阪府(880万人)と京都府(260万人)では、約3倍の開きがあることを考えれば、総じて、大阪は
「人が多く、本屋が少ない」
ということがいえます。

活力に満ちた地方都市の代表格である京都の文化発信力がすぐれているのは、ただ単に、昔、都が置かれていたから、というわけではありません。

大阪にも、あるいは奈良にも、京都より古い時代から都が置かれましたが、奈良も大阪も、みるも無残に疲弊しています。

意味もなく人がウジャウジャいれば文化が生じるというわけではありません。

地方に活力が生まれるか否かは、文化発信の担い手となるべき本を読むインテリ層がどれだけ多いか、さらにいえば、インテリを作るインフラである本屋の数がどれだけ多いかに関わっているのです。

その昔、定額給付金制度があったころ、とある地方で、定額給付金が支給される様子が報道されました。

その際、紹介されたのは、定額給付金の支給を受けた男性が、スナックに直行して焼酎とつまみを楽しむ様子でした。

この報道をみて、私は、
「この地方に未来はないな」
と感じました。

もし、この地方に本屋が多数あり、この男性が定額給付金で本を買っている様子が報道されれば、ずいぶん違った印象をもったかもしれません。

しかしながら、実際、定額給付金をもらってスナックに直行して楽しそうに焼酎を飲む男性を通してみえたのは、未来も何もなく、ただただ疲弊していく地方の姿でした。

言葉はなんとか解っても、話がみえない、意図もみえない、という新種の文盲(機能的非識字)が増えている、という研究報告があります。

メールから、ツイッターへ、さらに、インスタグラムやティック・トックへ、と日本人はますます文字に触れなくなっています。

私個人としては、未来には、字が象形文字になり、
「本」
という文化がなくなるのでは、と考えてしまいます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.020、「ポリスマガジン」誌、2009年4月号(2009年4月20日発売)

00055_観る前から駄作と決めつけている映画:文部科学省推薦映画_20090320

映画の中に、文部省推薦(文部科学省推薦)というものがありますが、私はこういう推薦があると、観る前から駄作と決めつけることにしています。

そして、もちろん、物事には例外というものもあり、全てに当てはまるとはいいませんが、この決めつけは、たいてい正しく、実際、当該被推薦映画を間違って観てしまった友人等に感想を聞くと、「駄作。観て損した。時間とカネの無駄だった」という評価が多く、私の決めつけの正しさを裏付けます。

ちなみに、この「文部科学省推薦映画」、ウェッブサイトを観ると一定の規程に基づき選定されているようですが、その選定基準の内容は
「教育上価値が高く、学校教育又は社会教育に広く利用されることが適当と認められるもの」
とされています。

そもそも、映画というのは、勉強とか教育とか仕事とかいったツマンナイ日常から逃れるために観るものです。

学校とか教育とかがイヤで、非日常の空想に耽ろうと逃れたら
「教育上価値が高く、学校教育又は社会教育に広く利用されるような映画」
が待ち構えていたとなると、たまったものじゃありません。

エンタテイメントの世界では、
「死」や
「セックス」や
「暴力」
といった
「社会生活の中で抑圧されている、非日常で道徳に反する事象」
を取り扱った方がウケることはよく知られています。

すなわち、エンタテイメントというのは、道徳とか教育とかとは対極に位置するものです。

その昔、
「事実上独裁体制が維持されている、テロ国家との指定を受けている東アジアの某国」
が、当該国とイギリス諜報部とのスパイ合戦を描いた大ヒット映画
「007/ダイ・アナザー・デイ」
を、
「悪の帝国で変態と堕落、暴力と色情の末世的な退廃文化を広げる総本山」
と評したことがあります。

教条的で道徳を強調した独裁体制を有する国家から
「暴力と色情の末世的な退廃文化を広げ」た映画
と批判されたということは、裏を返せば、当該映画が優れたエンタテイメント性を有することが確認されたのと同義であり、当該国からの当該批判は、エンタテイメントの世界では勲章ものの話です。

実際、このことを裏付けるかのように、当該作品は大ヒットとなりました(全世界興行収入約4億ドル、007シリーズとしてはそれまでの最大のヒット作)。

私としては、国民一般の教育水準向上は、国家の機能・役割として非常に重要であり、その意味では、文部科学省の役割には多いに期待しております。

しかしながら、教育が機能しうるのは、せいぜい15才ころまでで、その後は、勉強とか自己研鑽とかは個々人の責任で行っていくものです。

実際、義務教育を終えた16、17才になると、勉強に価値を見いださない人間についてはどんな教育を施しても無意味であり、逆に、
「勉強をすることが将来の保障につながる」
という単純な社会事実を理解した人間については、放っておいても自主的に勉強をします。

文部科学省は、初等・中等教育については「ゆとり」など与えず、もっと充実させた方がいい、と思っていたら、やっぱり、「ゆとり」教育はなくなりました。

反面、大学・大学院については、教育・研究内容に介入せず、環境整備に留めておくべきだと思います。

ましてや、文部科学省が、
「反道徳・反教育的なものほど価値が高い」
とされるエンタテイメントの世界にまで首を突っ込み、エンタテイメントの本質を見誤った駄作を見つけ出して推薦する等といった純然たる愚行は即刻辞めた方がいいような気がします。

「ものを知らない子供に対してだけでなく、世の中のウソがある程度わかる大人に対してまで、国家主導で道徳的・教育的価値を普及する」
等という悪趣味な行政運営は、成熟した文明国としてはむしろ嫌忌すべきものですから。

私が映画制作者だったとして、もし、文部科学省から
「あなたの映画は、教育上価値が高く、学校教育又は社会教育に広く利用されるような映画ですので、この度、文部科学省推薦映画に内定しました 」
という連絡来たらどうするか。

1、そんなに駄作だったか、文部科学省から推薦を受けるとは、落ちぶれたものだ、と嘆息し、映画の世界から足を洗う

2、文部科学省に対して、「推薦とか、頼むからやめてください。どうしても、推薦なんて嫌がらせするなら、配給前にセックスシーンと暴力描写と殺人シーンを挿入しますよ。それでもいいんですか!とにかく、そっとしておいてください。それでも推薦を強行するなら、立派な営業妨害ですよ」と言って、推薦をやめてもらう

のどちらかでしょうね。

ちなみに、私のコラムやエッセイは、自分自身では
「教育上価値が高く、学校教育又は社会教育に広く利用されるようなコンテンツ」
だと思うのですが、まあ、文部科学省から「有害コンテンツ」 とされることはあっても、同省推薦とはならないでしょうね。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.019、「ポリスマガジン」誌、2009年3月号(2009年3月20日発売)

00054_罪を憎んで、人も憎む_20090120

「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますが、これは性善説で有名な孔子の教えに由来するものだそうです。

「罪を犯すにはそれなりの理由がある、故に、罪を犯した人間をいたずらに罰するのではなく、むしろ、生来善である人間が、何故に罪を犯すに至ったのか、その動機や背景を問え」
という意味であるといわれておりますが、私は、この言葉が大嫌いです。

人間は、自由な意志をもち、ゆえに自分の行動なり人格に対して責任を持ちます。そして、社会は、このような
「自己規律のできる人間」
を主要な構成員として成り立っております。

他方、未成年者や、認知能力・精神活動に問題を抱えた成人といった、自己規律が困難な方々は、適切な保護監督者の支配規律の下、家庭や学校や精神病院に隔離され、社会参加の全部または一部が否定されます。

このような言い方をすると、
「家庭や学校や精神病院と、刑務所が同じであるという意味か」
と各方面からお叱りを受けそうですが、これは
「意味や目的はさておき、機能面、結果面だけ捉えると、同じような働きをしてる」
と答えるほかありません。

「成人同様の体格・精力をもちながら、自己規律が不十分な思春期の15歳前後の若者が、仕事もせず、ブラブラした状態で町中にあふれ返っている状況」
や、
「認知症の老人や精神疾患を抱えた方々がそこらを気ままに徘徊する状況」
というのを想像してみてください。

本来適切な場所において、適切に収容されるべき方々を無秩序に社会参加させると、社会運営に少なからず影響を及ぼすことは明らかです。

子供の人権や認知症・精神病患者の人権を尊重する立場の方々も、まさか
「子供や認知症・精神病患者を無制限に社会に解き放て」
というご主張をされているわけではないはずです。

「社会を適切かつ健全に運営する」
という点からみれば、学校は教育機関であると同時に隔離施設であり、認知症患者をケアする施設や精神病院も治療施設であると同時に収容施設としての意義を有するとの現実を直視せざるを得ません。

話がややそれましたが、自由な意志と自己規律が可能な者として社会参加した成人が犯罪を行い、被害者の人権を否定し、あるいは社会に脅威を与えた場合、同害報復の観点からしかるべき応報刑が執行されるべきことは当然の理です。

「社会が悪い」
とか
「法律をよく知らなかった」
とかいった戯言は、未成年者や認知・精神活動に問題を抱えた方々の弁解としては許されてしかるべきでしょうが、
「自由な意志と自己規律ができる大人として社会参加を許された者」
がなすべき弁解としては考慮すべきではありません。

何より、自ら進んで犯罪を行うという選択により他者の人権や法の尊厳を否定しておきながら、責任を取る場面において自分の人権や法の保護を声高に求めるという卑劣な態度は、
「いい大人」
の行動としてはあまりにも見苦しいですし、こんな無責任な大人が増えれば社会が機能停止に陥ります。

最近、
「自分のケツを自分で拭ける年齢の、いい大人」
が罪を犯しておきながら、処罰を受ける段階になって、
「世間が悪い、社会が悪い、育ちが悪い、あのときはテンパっていた」
等と見苦しい弁解をするケースが多くみられます。

そして、刑事裁判官も上記のような「程度の悪い弁解」を素直に受け容れ、処罰を甘くすることを平気で行います。

子供を甘やかすとロクな大人にならないのと同様、大人を甘えさせてもロクな社会は築けません。

罪も憎いですが、何よりまず憎むべきは、
「自由な意志の下、他者の人権や法の尊厳を否定し、社会に脅威を与えた犯罪者個人そのもの」
です。

自己責任・自己規律の精神に満ちた健全で力強い社会を創造するためにも、
「犯罪者の人権」
等といった空疎なイデオロギーに振り回されることなく、
「罪を憎み、それ以上に、犯罪者個人も憎悪する」
という当たり前のことが適切に行われるべきではないでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.017、「ポリスマガジン」誌、2009年1月号(2009年1月20日発売)

00053_「自由」なんて代物、ほんとに必要?要らないし、あっても困るし、あったら不幸になるかもよ_20081220

こういう寓話があります。

ある国では奴隷制度を採用していました。奴隷階級の者は、土地に縛りつけられ、差別され、農作業や家事を手伝わされる毎日でした。もちろん、奴隷に自由はありません。

とはいえ、あまり過酷な労働を課すと、奴隷も死んでしまいます。

支配階級からすると、奴隷も機械も同じですから、オーバーヒートするまで使い続けた結果壊してしまっては、大事な資産を失うことになります。

特に、難しい作業をさせる奴隷は、ある程度教育や訓練が必要です。

奴隷への教育や訓練は投資と同じです。高額の投資をした奴隷は、チューンナップした高級車と同じようなものですから、支配階級も雑には扱わず、非常に丁寧に扱い、長く愛用します。

奴隷には自由はありませんでしたが、かといって、病気や怪我をさせられるわけではなく、「普通に暮らせる」といえば「普通に暮らせる」毎日でした。

あるとき、若い王子が父の後を継いで王位につきました。

新しい王は、若いころ奴隷制を廃止した国に留学した経験があり、留学先の進んだ社会の様子をみていたことから、この国の奴隷制度を非常に遅れた制度と考えていました。

新しい王は、自由が与えられない奴隷たちを不憫に思い、奴隷解放を宣言します。

しかし、奴隷解放に対して猛烈な反対の声が上がりました。

反対をしたのは、奴隷たちでした。

新しい王に対し、
「今までご主人様のところで仕事と生活が保障されていた。お前が余計なことをしてくれたおかげで、明日からの生活の展望がなくなり、路頭に迷ってしまうことになるじゃないか。早く奴隷制度を復活させろ」
と。

ブラックな笑いを誘う寓話ですが、私は奴隷制維持を望んだ奴隷達は非常に賢明であると思います。

「自由」というのは「自由」を使いこなせる人間にとっては非常に価値のあるものですが、今まで「自由」というものを知らず、「自由」を使いこなす自信のない人間にとっては、厳しく、凶暴な理念です。

「自由」を使いこなすには、

・創造的知性と圧倒的な情報量、
・タフでクレバーなメンタリティ、
・生き馬の目を抜く敏捷さと他人を出し抜く度胸

といった資質・能力が必要です。

こういうものを持ち合わせない一般人にとっては、「自由」がもらえるといっても、

・試行錯誤する自由や失敗する自由、
・失敗してもお節介を焼かれずほっといてもらえる自由、
・適切な情報が与えられない状態で放置される自由、
・騙される自由

といったもので、与えられても困るような代物ばかりです。

1990年代、

「日本には自由がない」
「規制ばかりで何にもできない」
「行政が何から何まで指導する」

といった不満の声が日本社会に渦巻いておりました。

このような声を受けて橋本政権から小泉政権にかけて、徹底した規制緩和が行われ、日本に待望の「自由」が訪れました。

・不要な従業員をリストラする自由、
・非正規社員を徹底的に安くこき使う自由、
・法の不備をついてこっそりと大量に株を買い集める自由、
・魅力的な企業をカネにあかせて買いたたく自由、
・富めるものが富を増やす自由、それに、
・貧しいものを放置する自由。

自由は格差を生み、格差を広げます。

自由と格差があふれる現代の日本社会は、かつての日本人が望んだ理想の社会のはずでした。

ところが、最近、格差社会の解消や、自由な取引の結果当事者間に不公正が生じる取引について規制を求める声が上がり始めています。

日本社会のこういうアホさをみるにつけ、
「自由などあっても能力のない自分たちには使いこなせない」
と冷静な判断が出来、
「自由なんか要らないから、とにかく奴隷制を維持し、今の安定した生活を保障してくれ」
と求めた前述の奴隷たちは、実は我々よりはるかに現実的で賢明であったと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.016、「ポリスマガジン」誌、2008年12月号(2008年12月20日発売)

00052_成功者たちは“現”のつくものを大事にする_20080220

ローマ帝国の礎を作ったユリウス・カエサルはかつてこのようにいったそうです。

「人は、自分の見たいと思う現実しか見ない」

人間心理の天才カエサルらしい言葉ですが、マジョリティの思考や行動をみていると、つくづく納得させられる一言です。

私は、友人や知人等含め
「『その他大勢』から抜きん出て、人の上に立つ成功者やリーダーといった方々」
の行動や哲学に直接触れる機会に恵まれています。

このような経験に基づく実感ですが、成功者やリーダーといわれる人たちは、例外なく徹底したリアリストで、自分の見たいと思う現実、すなわち自分の主観を排除して、物事を客観的に観察し、徹底して現実に即したジャッジをしているように思えます。

そして、そんな成功者たちが最も大事にするものは、「現」のつくものです。

現実、現場、現物、現金。

成功者たちはこれらを決しておろそかにしません。

逆に、失敗する人たちの特徴は、これとまったく逆です。

つまらない現実よりも、根拠のない、壮大な計画が大好きで、いつもこれに振り回されています。

また、遠くて汚くて細かい話ばかりの現場は大嫌いで、綺麗な机の上で遠大で抽象的な話をしたがります。

現物を直接手にして右から左に動かす取引は、たとえそれなりに儲かっていても、「手間がかかり、利益も少ない」といっては突然放棄してしまい、ソフトウェアやネットビジネスやM&Aのような、実感のないビジネスで大きく儲けることを夢みます。

さらに、現金と債権は常に同じと考えており、ろくに信用管理・債権管理をせず、商品やサービスを提供し、請求書を送っただけで、現金を手にしたのと同じと考えています。

いうまでもなく、「現」を大事にせず、地に足のつかない話を追いかけるような方々はすべからく失敗し、最後には、時間も労力も無駄にし、財産をなくします。

私もこの職業に付く前は、
「お金持ちやリーダーというのは、綺麗なオフィスの高価な机の上で、大所高所の議論をし、適当な指示を伝えるだけだ」
などと勝手な想像をしていました。

しかし、実際には、優秀なリーダーになればなるほど、常に正確な情報を大量に収集し、これらを緻密に整理し、自分の主観を交えず多方面からの意見を得て客観的に分析・検証し、現場に出向き、最前線に立ち、末端に至るまで事細かな指示を出し、経過や進捗を頻繁にチェックします。

また、何代も続く資産家ほど、暮らしぶりは質素で、資産の運用方法は保守的で、現実味の話には一切踊らされませんし、いざ投資をするときもリスクを入念に調べあげ十重二十重にリスクをヘッジします。

「子供にはゆとりの心や情操教育が必要」
などいわれることがありますが、成長期の脳の活動を休止させ、夢や幻想やファンタジーばかり教え込むと、現実と架空の区別ができず、現実を軽視するような人間しかできなくなります。

国際ビジネスや金融の世界で圧倒的なリーダーシップを誇るユダヤ民族は、子供に過酷な現実とこれに対する現実的な対処方法を、また、何より、現物や現金を大事にする生き方を教えるなどとも聞きます。

正面から現実を直視することは精神的には大変つらいときもありますが、私としても、優秀なリーダーたちを見習い、
「自分の見たいと思う現実」
を極力排し、
「現」のつくものを大切にして、地味ながら堅実に成長・成功していきたいと思っています。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.006、「ポリスマガジン」誌、2008年2月号(2008年2月20日発売)

00051_「バカ」にされない人生を送るために

私は、あまり頭がよくありませんし、モノを知りません。

一応、東大は出てますが、世の中の事象はあまりに多く、東大出ごときの頭脳や知見では、森羅万象全てを理解するなんて到底不可能です。

したがって、「自分はバカである」という自覚は持っています。

ただ、卑屈にはなっていません。

自分も結構なバカですが、経験上、世の中には、「私と同じレベルの、頭がよくなく、モノを知らない人たち」が結構な数いらっしゃる、ということを知っているからです。

簡単にいうと、「そりゃ、自分も相当バカだけど、他にもバカは多いし、自分だけってわけじゃないから、別に問題なくね?」ということです。

私は、「自分はバカである」という自覚はあるものの、不思議とあまりバカにされた経験はありません。

むしろ、他の方々からは、
「こいつはそれなりに頭がいい」
「意外とデキる」
「アホそうだけど、不思議とモノを知っている」
「話し方はバカっぽくて、残念だけど、本質をわかっているし、外していない」
と思われているようです。

これはどういうことなんでしょうか。

私は、バカですが、自覚あるバカです。また、バカであることに卑屈になったり悩んだりしないバカであり、「卑屈さをもたず自分に自信もありますが、傲慢さとは無縁の、謙虚なバカ」です。

ですので、間違ったりして、バカを指摘されたら、すぐバカを認め、バカの原因を教えてもらい、バカを都度都度直します。

そうやって、東大も合格しました。

東大に合格するまで、模試や練習問題で、ものすごい数間違えました。ただ、その度、間違ったことを認め、間違いを知り、その原因を理解し(その原因すらわからない場合、自分より賢い人に頭を下げて教えてもらい)、矯正しました。

この、単純なことを繰り返せば、東大に合格しちゃいました。

東大なんて、そんなものです。バカな私でも合格できちゃいます。

そういう意味では、伸びしろのある、進歩するバカです。

自分の自覚(「私はバカである」という認識)とは別に、他者からバカにされない、いやむしろ、平均以上に知能が高いとみなされる人生を歩めている。

そういう意味では、幸いなことに、バカではあるものの、バカにされずに人生を送れているようです。

「バカ」にされない人生を送りたい、と考える人は結構多いようです。皆、どうやったら、「バカ」にされない人生を送れるか、ということをかなり真剣に考えているようです。

そこで、「バカ」な私なりに考えた、「バカ」にされない人生を送る方法をご教示申し上げたいと存じます(とはいえ、所詮、バカであることを自覚している私が考えたことです。多分に間違いや勘違いがあるかもしれませんので、その点は、割り引くなり、皆さんなりに修正するなり、つまみ食いして聞いてください)。

「バカ」にされない人生を送ることなんで、実に簡単です。

「バカ」を直せばいいんです。

じゃあ、「バカ」を直すのはどうすればいいのか?

「バカ」なんて簡単に直せます。

「バカ」を認めればいいんです。

自分が無知で、愚かで、間抜けで、非論理的で、情緒的で、不合理で、説明できない思考や行動をとっていることを、正面から認めればいいんです。

「バカ」を認めて、その原因を探り、原因を修正ないし矯正すればいいんですから。

すなわち、「バカ」にされないためには、「バカ」を直せばよく、そのためには、「バカ」を認めればいいんです。

「自分がバカであること」を素直に認めれば、原因にたどり着けますし、バカのグラウンド・ゼロ(爆心地)さえ見つかれば、修正さえすればバカを簡単に直せます。

バカを直せれば、バカにされずに生きていけます。

ところが、この
「自分がバカであることを素直に認めること」
が、結構難しいようです。

「自分がバカであること」をなかなか認めることができない。

そんな単純なことができないのが原因で、多くの人がバカを直せず、バカが直らないまま、バカにされて生き続ける苦痛を味わいます。

「自分がバカであることを素直に認めること」
なんて、簡単なんですけどね。

何がそんなに難しいんでしょう。私には全くわかりません。

私に関して言えば、ですが、「自分がバカであることを素直に認めること」は簡単であり、苦痛でもなんでもなく、本当に大したことではありません。

「自分がバカであることを素直に認めること」は、別に自分の尊厳の破壊することを意味しません。

前述のとおり、「自分はバカである」という自覚は持っています。だからといって、「自分には尊厳がない」ということと同義ではありません。

一応東大出てますし、自分と同じくらい、あるいは自分より、モノを知らないし、自分より知能や計算が働かない人はたくさんいますし、自分がバカだからといって、別に卑下する必要がない。

だいたい、 世の中の事象はあまりに多く、私の如き「東大卒風情」の頭脳や知見では、森羅万象全てを理解できませんから。

知らないことの一つや二つ、百や千、万や億あっても、全く不思議ではありません。

だから、自分がモノを知らず、論理や仕組みを理解できず、頭が働かないことを、何の抵抗もなく認めることができます。そして、バカであることを認めたからといって、自分の尊厳が破壊されるわけでもありません。

いずれにせよ、自分に自信をもつことです。

ただ、自信を持つからといって、傲慢になる必要はありません。

自分には自信をもちます。堂々と、自分がバカであることを認めます。

それと同時に、謙虚に、知らないこと、わからないこと、理解できないことの存在を認めることです。

そうすることによって、自分が「バカ」であることを素直に認められますし、バカを素直に認められれば、妙な情緒や精神的抵抗もなく、原因にたどり着けます。

原因さえわかれば、修正すればいいだけです。

バカなんて、そうやって簡単に直すことができます。

自分がバカであっても、バカを都度都度直せば、バカはどんどん直りますし、バカが直れば、バカにされずに生きていけます。

どうです?

簡単でしょ。

簡単なはずです。

私のような「バカ」にも簡単にできるくらいですから。

00050_「バカ」を「バカ」呼ばわりする前に

「バカ」「アホ」「低能」
他者の知的水準の低さを貶す言葉はたくさんあります。

ただ、この
「バカ」「アホ」「低能」
といった抽象的な評価概念を一方的も押し付けられても、言われた方は非常に困ります。

「バカ」「アホ」「低能」
というのは、最終評価であり、三段論法においては、いくつかの前提を経由してはじめて導かれるものです。

すなわち、
誰かを「バカ」と評価するためには、
「本来、こう考えるべき、こう答えるべき」という大前提があり、
「にもかかわらず、こいつは、こう考えた、こう答えた」という小前提があり、
「だから、こいつはバカだ」という結論としての評価が下される、
という論理構造が、前置・先行されるているはずです。

こういう評価の前提たる論理を経由せず、いきなり誰かを
「バカ」
と呼称するのは、暴力的で非知的な差別ないし侮辱であり、逆に
「理由もなく他社を『バカ』と呼称した人間」
の方が、その教養や品位が問われることになります。

「バカ」
という結論や評価帰結自体には、あまりさしたる意味はありません。

むしろ、
「本来、どうすべきであった」という大前提や、
「にもかかわらず、こんなことをやらかした、こうすべきことをしなかった」という小前提
の方がはるかに大事です。

すなわち、算数の問題を解けずに0点取った人間をバカと評価し結論づけ、バカ呼ばわりすることよりも、バカという結論・評価を導いたいくつかの前提事情、
「三角形の内角の和は180度と考えるべきところ、あなたは、三角形の内角の和が360度と考えていた」
ということを確認することの方が、バカを治し、世の中からバカを減らすことに貢献しますし、社会的にも尊い意義があります。

子供や後輩や部下をバカ呼ばわりする前に、
「本来、どうすべきであった」という大前提や、
「にもかかわらず、すべきことをしなかった」という小前提、
をお互い確認していきましょう。

そうすると、
「心あるバカ」
は、素直に愚かさを認め、バカを治しますし、こういう社会的意義ある運動が広がれば、この世からどんどんバカが減っていき、いずれ、
「バカというバカが完全に駆逐された、素晴らしい社会」
が訪れるようになるでしょう。

ただ、世にも恐ろしい存在を忘れてはいけません。

「バカなことを考えたり、バカなことをしたが、その根源的原因を指摘されてもなお、愚かさを認めず、自らの愚かさを矯正しない、筋金入りの、ハードコア・バカ」
の存在です。

こういう方々は、バカを認めないし、すっとぼけますし、バカを指摘されたら逆ギレして反抗し、
「自分のせいではない、親が悪い、教師が悪い、社会が悪い」
と外罰的非難をして自己保存を試みます。

過剰なプライドのため、負けを素直に認められず、最後まで自分が正しかった、と頑強に主張し続ける、年齢に関係なく存在する(ご高齢の方のほうが多いかもしれません)、正真正銘のバカのことです。

ただ、ありがたいことに、こういう
「本物の、筋金入りの、ハードコア・バカ」
は、どこかで問題を起こし、社会が勝手に駆逐・排除してくれます。

そもそも、現代経済社会の本質的構造である
「市場における自由な競争経済を前提とした資本主義社会」
においては、
「売れないのは客が悪い、市場が悪い」
と逆ギレするような人間は、自然に淘汰され、社会の底辺に叩き落とされるような仕組を内在しております。

したがって、このハードコア・バカは、無理に駆逐しなくても、社会の仕組によって自然に淘汰されるのを待てばいいだけです。

むしろ、 バカを認めないし、すっとぼけ、バカを指摘されても逆ギレして反抗する、
「自分のせいではない、親が悪い、教師が悪い、社会が悪い」
と外罰的非難をして自己保存を試みる、そういった行動属性を有する、
「バカなことを考えたり、バカなことをし、その根源的原因を指摘されてもなお、愚かさを認めず、自らの愚かさを矯正しない、筋金入りの、ハードコア・バカ」
に遭遇した場合の、安全保障上の関係構築が重要です。

そういう方々に遭遇したら、

1 全速力で逃げて距離を置くこと

それと、

2 目が合ったり、触れ合ったりしてしまう場合でも、決して「バカ」にしないこと

です。

このことは、人生の安全保障上、絶対的に必要だと考えます。

00049_自分を信じるな!_20081120

よく、テレビのドラマ等で、デキの悪そうな教師がデキの悪そうな生徒に対して
「最後まで自分を信じるんだ!」
というセリフを言うシーンが出てきます。

私個人としてはこの言葉が大嫌いで、
「自分の能力を安易に信じる」
という思考こそが人間の知的成長の最大の妨げであると思っています。

大きなプロジェクトをきちんと仕上げようとしても、集中力・爆発力だけではうまく行かないのが世の常です。

大事をなす過程では、常に、試行錯誤につきまといます。

「自分のやり方がきちんとした方向性に沿っているのか」

「ひょっとしたらこの方法は間違っているのではないか」

「もっといい方法や効率的な方法がないか」

と自分のやり方を常に疑い、客観的視点から多面的に検証し、漏れや抜け、独善に陥る事を極力排除しないと、大事を成し得ません。

客観的情報の収集とこれらの多面的分析を軽視し、戦理を無視した杜撰な戦略と主観的精神力だけで乗り切ろうとして太平洋戦争において日本軍は無残に敗戦しましたが、「自分を強く信じるあまり大失敗した例」は歴史上枚挙に暇がありません。

私が知っている、東大や京大に現役合格したり、司法試験や国家公務員試験といった難関国家試験に若くして合格するようなタイプの人間は、「鼻持ちならない自信家」というタイプはみかけず、ほぼ例外なく、自分の能力を全く信じていない、臆病な連中ばかりです。

むしろ、「自分のやってきたことが完全とは言い難いのではないか」と疑問をもち続け、どんなに合格可能性が高くても試験当日まで努力を怠らない、心配性の小心者がほとんどです。

さらに言えば、試験の最中においても、目の前の問題に設問者の悪意のひっかけや罠があることを疑い、問題を甘くあるいは軽く解釈することはなく、また自分の作成した解答にケアレスミスがありうることを危惧し、時間の許す限り、検証や再計算を怠りません。

近代哲学の巨人ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり」(cogito, ergo sum.英語では “I think, therefore I am.”)と名言を残し、懐疑をするのが人間の本質である、と喝破しました。

この名言は「『一切の疑問をもたずひたすら信じること』が是とされた中世社会」から近代社会へ脱皮するスピリットを体現したものですが、

「考えることは疑うことであり、信じることは考えないこと」

なのです。

現在日本の産業界において蔓延する製品データ改ざん等の報道をみていると、事件の関係者は口を揃えて
「まさかそんなことがあるとは思っていなかった」
「現場を信じていたのに裏切られた」
等と言います。

しかし、「最後まで自分を信じないし、他人などもっと信じない」ことを信条として、受験戦争を勝ち抜き、疑うことを第二の天性としてきたタイプの人間からみると、「信じる」という言葉を多用する人間の知的レベルは無知蒙昧な中世の民と同じと言わざるを得ません。

むしろ、

「自分の能力など信じるな。他人はもっと信じるな。知性をフル活用して、最後まで疑え」

というのが、過酷な現代社会を生き抜かなければならない若い人たちへの正しいエールなのではないでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.015、「ポリスマガジン」誌、2008年11月号(2008年11月20日発売)

00048_リゾートライフってそんなに楽しいですか?_20081020

リゾートに関して、前から思っていることを述べてみたいと思います。

夏になると、都会に住む多くの日本人が、高いお金を使って、混雑した飛行機に搭乗し、こぞって人里離れた田舎に行き、刺激のない時間を過ごされますが、あれって、本当に楽しいのでしょうか。

私は、基本的に、田舎で過ごすより、都会で過ごす方が好きです。

ゴルフをするなら、長時間かけて沖縄やオーストラリアとかまで行って閑散としたゴルフ場でやるより、東京近辺のゴルフ場でプレーし、終わったらすぐに都心の家に帰れる方を選びます。

泳ぐにしても、「わざわざ遠くに行って、ギラギラ照りつける太陽の下、不愉快な砂を気にしながら、まずくて不衛生な海の家の食事に辟易しながら、ヌルヌルして塩っぱい海水で泳ぐ」のよりも、「ニューオータニやオークラのプールで、美味しい肴とカクテルを片手に、快適に過ごし、飽きたら、すぐに都心で遊ぶ」方がはるかにいいと思っています。

無論、スキーやゴルフやサーフィンやウィンドサーフィンやスキューバダイビングといった、特定のロケーションでしか味わえない特異な体験を楽しむためには、遠方のリゾート地まで出向く、ということも理解できます。

雪質の悪い人工雪のゲレンデでスキーをしたり、波がないあるいは風がない海でサーフィンやウィンドサーフィンをしたり、濁って何にも見えない海でダイビングをしてもつまんないですから。

とはいえ、この種のレジャーを楽しむにしても、せいぜい3日で十分です。

それ以降は、都会が恋しくなります。

定年退職した後、今までやりたくてもなかなかできなかった「ゴルフ三昧」の日々を楽しむべく、東南アジア等に移住するシニアの方がいらっしゃるようですが、一月くらいで飽きて、望郷の日々を過ごす、なんてケースもよくあるようです。

どんなに好きなレジャーを、どんなに素晴らしい環境で頼んしでも、最初の3日こそ楽しかったですが、それ以降は限りなく苦痛なんじゃないでしょうか。

例えば、セントアンドリュース・オールドコースや、オーガスタナショナル等で、「何日でもゴルフを楽しんでいい」というオファーがあっても、これらの場所は、ゴルフ以外は、ほぼ何もいないド田舎です。

私は、せいぜい5日くらいで、完全に飽きてしまう自信があります。

おそらく、私と同じように、「リゾートでのバカンスも3日超えたら苦痛」と考える日本人の方は、実は多いのではないかと思います。

鬼界ヶ島に流された俊寛や、隠岐島に流された後醍醐天皇等歴史の例をひもとくまでもなく、日本では、「人里離れた田舎に行き、刺激のない時間を過ごす、リゾートライフ」
という代物は、
「島流し」
と呼ばれていました。

都会に住んであくせく働く現代の日本人にとっては憧れの
「海のきれいなビーチリゾートで、好きなだけのんびり過ごせ」
という
「休暇命令」
ですが、かつては死罪の次に重い刑罰。

俊寛などは、
「青い海に浮かぶ珊瑚礁の島でゆっくり過ごしてこい」
と命じられただけですが、かなりヘコんでしまい、最後は食を絶って自害したとか。

でも、私は、なんとなく、わかるような気がします。

といいますか、

「労働=罰」

「仕事もせずのんびり過ごすこと=幸せ」

という考え方は、最近になって欧米から輸入されたものであり、我々日本人のDNAはこの考え方にどこかで拒絶反応を起こしているのではないでしょうか。

哲学史的な話をすれば、西洋社会における労働は罰として考えられていました。

旧約聖書において、アダムとイブが、神様の言いつけに反して、知恵の実であるリンゴを食べ、この罰として、
「男は労働という苦役を、女は出産という苦役を課せられた」
という経緯が書かれており、西洋における
「労働=罰」
の考え方はこれがバックボーンになっているようです。

ですが、日本人の労働観は、西洋社会のものとは異なります。

「労働というのは、神様の国づくりをお手伝いすることであり、これに参加できることは一種の喜びだった」
という考え方があるようです。

この考え方からすると、
「みんなと一緒に、神様の近く(天皇のいる都)で働くことこそが幸せ」
なのであり、
「一人、田舎でリゾートライフ」
は刑罰であるという話も理解できます。

最近、夏休みを都心で過ごす方が増えたと聞きます。

私も、お盆の時期は、オフィスでスローに過ごし、仕事は早めに切り上げ、人口が減少した都会で快適に遊ぶのが、最高に贅沢な夏の過ごし方だと感じています。

夏を都会で過ごすのは、原油高とか不景気とかによる一時的なものではなく、「実はリゾートライフが嫌い」な我々日本人の本質にフィットした休暇のあり方として今後も根付いていくのではないか、と勝手に思っています。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.014、「ポリスマガジン」誌、2008年10月号(2008年10月20日発売)