00034_「金持ちと結婚して絶対幸せになってやる!」と意気込む婚活女子が知っておくべき、「金持ちの分類・特徴・生態・習性・偏向」その3:オーナー系企業の創業者_20190220

オーナー企業創業者も、やはりケチです。

ただ、ケチはケチでも、ロジカルなケチです。

カネをケチるときの哲学や価値観がはっきり、しっかりした、論理的な美しさを実装した、メリとハリとキレのある、吝嗇家です。

資産家のケチは、論理性やメリハリはなく、哲学的で宗教的で、求道者や修行僧のような、ただただ、ひたすら、首尾一貫したケチなのですが、この点は明らかな差異が観察されます。

オーナー企業創業者は、お金を大胆に使うこともあります。

むしろ、
「使うべきときに大胆に使うために、無駄なことにはカネを使わない」
という、お金を使って勝負することを予定して、その日のために無駄を排して蓄財する、そんな戦略的ケチのようです。

とはいえ、自己を差別化して、承認欲求を充足するための投資については、経済合理性について首を傾げるようなものも含め、かなり大胆に行われるようです。

衣服や、時計や、靴、また、車、住まいや別荘、クルーザー、ジェット機、競走馬、さらにはご子弟が通われる私立学校の費用や入学準備のためにかかる費用、そして、家族であったり、
「その他特殊な関係であったり、お側にいらっしゃる方」
のお召し物や宝飾品といった、自己差別化アイテム(威信財)には、あまり厳格な費用対効果の検証をなさらずに、積極的かつ大胆にお金を投じられます。

「東大卒で、留学歴があり、身長が高く、知性も教養もあり、容姿にコンプレックスもない、知人や友人に恵まれた、明朗快活なスポーツマン」
というタイプの方であれば、いってみれば、人間自身が究極のブランド物です。

これみよがしのブランド物の中身を、さらに、これみよがしのブランド物で着飾ると、かえって、くどくて、嫌味で、エレガンスがなくなります。

ですので、こういう
「(人間の)中身がブランド物」
というタイプの方は、ギンギン・ギラギラ・ゴテゴテ・ピカピカのブランド物を忌避し、清潔感があり、趣味のいい、こざっぱりした格好を好みますし、無駄に目立つと生活が窮屈になりますので、プライバシーをことのほか重視し、諸事ひっそりとした生活を営む傾向があります。

ところが、前述のようなタイプとはやや趣を異にしたタイプの方、すなわち、苦労に苦労を重ねて、どん底から、気合とド根性で這い上がって成功した、立志伝中の人となったような方は、やはり、ご自身で、差別化をより確実なものにしたいのでしょうか、
「わりと、わかりやすい形」
で、自己差別化アイテム(威信財)にお金をかけられます。

先程述べた
「経済合理性について首を傾げるような」威信財アイテム
を積極的に装備されますし、生活全般についても、
「無理して、そこまでしなくても」
というようなライフスタイルを次々と実践されます。

無論、そんな派手で目立つことをしていれば、プライバシーが犠牲になるのですが、この種の権利意識は乏しいのか、人目につくことについてはあまり気になさらず、むしろ、積極的にそのご様子を披瀝されるようです。

とはいえ、お金の使い方全体を観察すると、
「ロジカルで、シビアなケチ」
には変わりなく、特に、事業に関連するお金の使い方や、自己差別化に直接貢献・関連しない費用については、徹底した倹約精神を発揮されます。

都内に住んでおりますと、数千万円するような高級外車(商用上の実用性のなさそうなドイツの軍用ワゴン車やスポーツカー)が、割と庶民的なスーパーマーケットの前で路上放置されてあって、駐車監視員にみつかり、駐禁を切られている状況をしばしば目にします。

駐車場代ケチるほど貧乏なわけではないでしょうし、食材なんてそこらのスーパーで貧乏人と同じ列に並んでなど買わずに、デパートの外商をアゴで使って手軽に身軽に済ませればいいのに、と思ってしまいますが、そこは、お金持ちならではの独自の金銭感覚といったものがあるのでしょう。

いずれにせよ、オーナー企業創業者は、論理と独自の美意識をもつ、孤高のケチであり、とはいえ、
「自己差別化と威信を増幅するアイテムについては、経済的合理性を放擲した、大胆なカネの使い方をする」
という意味において、特徴ある生態と思考習性が観察されます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.138、「ポリスマガジン」誌、2019年2月号(2019年2月20日発売)

00033_「金持ちと結婚して絶対幸せになってやる!」と意気込む婚活女子が知っておくべき、「金持ちの分類・特徴・生態・習性・偏向」その2:資産家_20181220_20190120

まず、資産家という人種は、たいていケチです。

金持ちは総じてケチですが、資産家は、シビれるくらいケチです(いうまでもありませんが、褒め言葉です。私も稀代のケチですから)。

資産家という人種にとっては、
「カネが減るのが何より苦痛」
という絶対的感受性が神経の隅々まで支配しているようで、みていてすがすがしいくらいの、純粋で、度を超した、別格のケチが多いようです(繰り返しになりますが、最上級の褒め言葉です)。

考えてみれば、当たり前です。

代々の資産家にとっては、
「資産をできるだけ減らさず、次世代に承継すること」
が、絶対的使命であり、生きる目的であり、命をかけて遂行するべきプロジェクトです。

他方で、現在の相続税制度を前提とすれば、
「資産を減らさず、次にバトンタッチするゲーム」
におけるデフォルト設定として、資産は世代をまたぐたびに、きれいに55%ずつ、日本最大の暴力団である課税当局に毟り取られていく。

資産を運用するものの、成長が鈍化し、運用環境が悪化した日本においては、資産から得られる運用益は、まったく足りません。

もちろん、資産家は多額の資産をもっているので、運用収益もそこそこあるでしょうが、
「日本最大の暴力団が、将来相続の際に要求する莫大なみかじめ料」
を事前にしっかりと準備する、というプロジェクトゴールを比較前提として考えると、雀の涙、というよりミジンコのすね毛くらいの僅かなものにしかなりません。

結果、資産家の方は、冬眠したクマのように、でかい図体をもっていながら、極力、動かず、消耗せず、ひたすら、ひたすら、出ていくカネを抑制し、少しでも、多くの資産が減らないようにして、地味に、ひっそりと暮らす、という生き方を実践されます(くどいようですが、褒めてます)。

無論、貸しビル業やマンション経営をして相応に稼ぐことはされますし、キャッシュフローがないわけではないのですが、収入は固定化しているか、減ることはあっても増えることはないですし、将来の相続のことや、これに伴う根源的恐怖心から、派手に使えるようなマインドには傾かないようです。

よく、
「将来、お金持ちのお嫁さんになって、一生幸せになる!」
という野望を抱いて、涙ぐましいまでの婚活を行って、結果、めでたく資産家と巡り合い、見た目や年齢やルックスや離婚歴といった各種ハンデを乗り越えて、砂糖に群がるアリのようなたくさんの競争者との競争に打ち勝ち、資産家のハートをゲッチュし、無事、資産家に嫁いで、夢にまでみた資産家のお嫁さんになる、という野望を実現する女性をおみかけします。

こうやって苦労して嫁いで夢を実現した女性は傍目には幸せそのものにみえますが、時間が経つにつれ、
「資産家」
という
「お金持ち」
の、ナチュラル・ボーン・ケチっぷりに辟易し、節約・倹約生活にひどくくたびれて、消耗してしまわれる方も少なくありません。

いずれにせよ、使命、運命とはいえ、
「承継した資産を減らさない」
という死守すべき目的のため、お金を使わないようにするための涙ぐましいほどの努力は、もはや、求道者の域に達しています。

このような、常人には理解しがたい、哲学的で芸術性の高いケチ。

これが資産家の生態です(何度もいいますが、私は、資産家の生き方をものすごくリスペクトしています)。

資産家の最大の悩みは、将来、資産の世代承継が生じる際に確実に訪れる、
「我が国最大の暴力団からの、最大55%ものみかじめ料徴求行為」
をいかにうまいことやり過ごすか、という点であり、節税対策等のため、税理士、弁護士、コンサルタントといったプロフェッショナルの支援サービスを利用されます。

ところが、支援プロの立場においてもっとも面倒で頭を悩ませるのが、資産家のお仕事を引き受ける際、ギャラの支払いでモメるケースが意外に多いという経験上の現実です。

資産家にとって資産とは、先祖から預かった、命よりも大事なものであり、資産が減るのは、命が減る、寿命が短くなるくらい、不愉快で苦痛を感じさせるものです。

資産やお金が、カタチのあるものや、何か残るものに変わる、というのであれば、まだわかります。

カタチあるものに変わったり、何か具体的に残るものであれば、それが値上がりするかもしれませんし、売れるかもしれません(骨董や不動産は、手垢のついた瞬間半値になりますので、買った瞬間、ゴミやガラクタになるようなものは、値上がりしたり売れたりするケースは少ないのですが)。

ところが、プロフェッショナルの支援サービスなどというシロモノは、カゲもカタチもなく、ネットで調べればなんとか理解できるようなものであり、調達コストはゼロであり、聞いてしまえば済む話です。

「こんなものに、命より大事な財産を削って、手に入れる」
などという行為は、資産家にとっては、
「空気にカネを払うように愚劣で無駄で許しがたいもの」
ということになります。

プロフェッショナルは、サービスの詳細やメカニズムをご案内するフェーズで、特段フィーをいただかずに、要望を聞いたり各種説明をすることもあります。

このような無料サービスの段階でいろいろ知見をしてもらっていると、資産家の脳内では、
「へえ、賢いんだ。すごいんだ。なんでも知ってんだ。こんなことも無料で教えてくれるんだ。賢いアンタからすると、いろいろな難しい問題も、朝飯前のスムージーのように、簡単にさっくりできちゃうんだ。じゃあ、ここまで無料でやってくれるんだったら、その延長で、もうちょっと手間増やして、最後までやってよ。やってくれたら、晩飯おごって、ちょっとお駄賃あげるからさ」
というような話に展開されていくようです。

無論、こんな資産家の脳内の妄想をそのまま受諾すると、プロフェッショナル側は、小遣い銭程度で過酷な任務を負担させられ、大赤字となり、組織が維持できなくなります。

このような両者の思惑における根源的な誤解が解消されないまま、費用処理があいまいな状態でなし崩し的にサービスインして、プロジェクトが進んでしまうと、最後は、
「払え」
「払わん」
という醜悪なトラブルが発生してしまいます。

なお、そこまでシビアなトラブルに至らなくても、費用見積もりの段階で、資産家は、値切って、値切って、値切りたおします。

そりゃ、まあ、そうでしょうね。

だって、
「資産は、命より大事。大事な資産を減らすのは、寿命を縮めるのと同じ。物知りから知識を買うなんて、空気にカネを払うようなもので、できれば、一切払いたくない」
というのが本音なのですから。

結果、
「本来のプロジェクトのキックオフ前に、ギャラの取り決めに多大なエネルギーを費消し、仕事の士気を多いに損ねてしまう」
という悲喜劇が起こります。

無論、値切るのは悪いことではないのですが、プロフェッショナルサービスを値切るのはやや問題です。

私もケチっぷりについては人後に落ちないのですが、例えば、医者などのプロフェッショナルにお世話になる場合、絶対ケチりません。

ケチらないどころか、
「そんな安くていいんですか。もっと払いますから、その分、ちゃんとやってください」
といって、値上げをお願いするくらいです。

なぜなら、プロフェッショナルサービスにおける重大な課題とリスクは、
「完成度や品質について、形も基準も相場も検証方法も存在しない」
という点にあるからです。

すなわち、サービスプロバイダ側(プロフェッショナル側)は、気分一つで、いくらでも、手を抜いたり、適当にお茶を濁したり、頑張ったふりをしてサボったりすることが可能なのです。

もちろん、反対に、プロフェッショナルの気持ちや熱意次第で、いつも以上に情熱的に取り組み、アウトパフォームを期待することもできます。

要するに、プロ側の気分次第でサービスクオリティが大きく変動する。

この点こそが、この種のサービス取引の最大の課題であり、リスクなのです。

命や財産や事業が危険にさらされ、この状況の打開や改善を専門家に委ねざるを得ない状況で、値切って、値切って、値切りたおして、士気を低下させれば、どうなるでしょうか。

そんな状況でも、プロフェッショナルは、いつもと同じように、あるいはいつも以上に情熱を注ぎ込み、アウトパフォームして、見事な成果を出し、事態を打開して、窮地から救ってくれるでしょうか。

それとも、露骨に手を抜かないまでも、切所で踏ん張りが効かず、結果、大惨事につながる危険性が増幅するだけでしょうか。

私は、弁護士として、受任した以上は最善を尽くしますし、不合理に値切られるようであれば、そもそも仕事をお引き受けしませんが、資産家の無茶な値切りが遠因となって、ホニャララスキームがうまく機能せず、その後、支援プロとの間において、血で血を洗う内部ゲバルトに発展した、なんて話を聞くと、
「さもありなん」
と思ってしまいます。

と、最後は、業界事情の愚痴のような話になりましたが、このエピソードも含め、 資産家の生態や思考習性について、いろいろと学んでいただければ幸いです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.136-2、「ポリスマガジン」誌、2018年12月号(2018年12月20日発売)
初出:『筆鋒鋭利』No.137、「ポリスマガジン」誌、2019年1月号(2010年1月20日発売)

00032_「金持ちと結婚して絶対幸せになってやる!」と意気込む婚活女子が知っておくべき、「金持ちの分類・特徴・生態・習性・偏向」その1:「お金持ち」の種別_20181220

弁護士をやっていますと、たくさんのお金持ちの方に出会いますが、一言に
「お金持ち」
といっても、その特徴・生態・習性・思考上の偏向等は様々です。

ただ、1つ言えることは、どのタイプの
「金持ち」
も、
一般大衆とはまったく異なった思想・価値観・美意識・感受性・経済感覚を持っている、
ということです。

ここで、私個人の経験上の蓋然性を基礎に形成・獲得した、
「『金持ち』という生き物の種別に対応した、生態観察結果(といっても、主観的で、偏見に満ちたものである可能性はあります)」
を披瀝し、
「お金持ち」との付き合い方(あるいは距離の置き方や避け方)
をみていきたいと存じます。

特に、
「金持ちと結婚して絶対幸せになってやる!」
と意気込む婚活女子にとっては、
「金持ちとどのように接点をもち、関係構築していくか(あるいは、金持ちと関係を構築してもあまり幸せに生きることに貢献しないと判断される場合、どのように関係をリストラするか)」
を考える上で、多いに参考になるのではないか、と思いますので。

ここで、ひとくくりに
「金持ち」
といっても、いくつかのタイプに別れます。

猿にも、チンパンジーやゴリラやニホンザルやメガネザルやボノボ等いろいろ種類がいて、それぞれに行動上の偏向的習性が様々であるように、種別を整理して種別毎に典型的な生態を観察することは、科学的におおいに意味と価値があります。

私の小さな経験と歪んだ思考と強固な偏見において、日本に生息する
「金持ち」
を分類しますと、
「お金持ち」
のタイプとしては、

(A)資産家
(B)オーナー企業創業者
(C)オーナー企業後継者(二代目以降)
(D)投資家
(E)財産形成に成功したプロフェッショナル(士業の成功者やオーナーシェフや開業医や芸能人や出世したサラリーマン重役等)

に整理されると考えられます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.136-1、「ポリスマガジン」誌、2018年12月号(2018年12月20日発売)

00031_民主主義なんて要らない_20090520

ここに3人のオジサンがいたとします。

一人は、土建屋あがりの政治家で、声とガタイと態度はデカいが、学はなく、過去に逮捕歴がある。

残りは、国会で木で鼻をくくったような答弁を繰り返す行政官僚と、残る一方は裁判官。

一般の方に、
「3人のうち、誰をもっとも信頼し、誰をもっとも信頼しませんか?」
というアンケートをした場合、間違いなく、裁判官がもっとも信頼できるとし、政治家はワーストワンになるでしょう。

個人としてカネを貸すことをイメージしても、裁判官に貸せば期限に利息も含めてきっちり返ってきそうですが、政治家にカネを貸したら返済はあきらめた方がいいかな、というのが偽らざる気持ちです。

ところが、民主主義という観点でみると、政治家はもっとも民主的存在であり、次に民主的なのは、組織のトップが民主的にコントロールされている官僚。裁判官は、難しい試験に合格とはいえ、その選任基準は不明であり、もっとも民主主義から遠い存在です。

このように、一般国民は、自分たちが公正な選挙で選んだ代表を全く信用しておらず、むしろ民主主義とは関係なく、試験で選抜された偏差値の高い人間の方を信用します。

新聞などを呼んでいますと、「行政に民主的にコントロールを及ぼすべき」という論調がみられます。

しかしながら、「行政に民主的コントロールを及ぼす」ということは、「『経歴も素性も能力も雑多で何をやっているかよくわからない信用度ゼロの政治家』に、『東大卒で優秀な行政官僚』の仕事の邪魔をさせる権利を認めよ」ということと同義であり、字面だけでなく実態まで考えてみれば、無茶苦茶な話です。

「行政に民主的コントロールを及ぼす」ことは「政治家の行政介入」を是とする話です。

すなわち、「土建屋あがりの政治家が、官僚を恫喝し、公共工事を強引に自分の地元にもってくる」という昭和の時代に行われた違法不当な行為は、民主的といえば民主的なのです。

また、裁判員制度というのは、非民主的な裁判制度に国民を参加させるものであり、民主主義という観点からは多いに評価すべきものですが、多くの国民は、「そんなのは優秀な裁判官に任せればいい話で、できれば裁判員になんかなりたくない」と考えています。

このように、一般国民は、自分たちが選んだ代表者より、民主的基盤をもたない試験秀才を心から信用しており、また、裁判という国家権力行使への参加を「面倒くさい」といって毛嫌いするのです。

よく考えてみると、民主主義というのは、
「官僚や裁判官などのエリート集団」の判断より、
「平均偏差値の低い集団が選んだ、声の大きい目立ちたがり屋」の判断を
優先させるものであり、もともと大きな矛盾を孕んだ理念です。

ちなみに、
「当時としては画期的なほど民主的と評価されたドイツのワイマール憲法下において誕生した、究極の民主的政権」
として有名なのは、ナチスドイツです。

このように民主主義という統治理念は非常に問題が多く、
「『バカが選んだ目立ちがり屋』の声に左右されることなく、優秀で公平無私なエリート集団が、長期的視点に立って自由な裁量で社会運営する」
という非民主的な統治方法の方が優れているように思えるのです。 

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.021、「ポリスマガジン」誌、2009年5月号(2009年5月20日発売)

00030_国防や軍事に関する議論の前に_20090920

国防や軍事に関する議論に関して以前から感じたことを述べたいと思います。

私個人としては、日本の国防や軍事については、強化(ないし維持)・放棄(ないし削減)の両論ありうるところだと思います。

軍事力を放棄するというのは非現実的だと思いますが、他方、徴兵などは御免被りたいところですから。

この種の議論は正解というものが存在しない類のものであり、したがって、議論においては
「結論」
より
「適正なプロセスがふまえられること」、
すなわち
「議論に参加する者が正しい情報を有し、タブーのないオープンな議論がなされること」
が重要となります。

ところが、国防や軍事について議論しようとしても、報道機関の行う報道に意図的な内容ないし実体の偽装がなされており、我々国民一般に
「正しい議論の前提たる正しい情報」
が届いていないという状況があります。

例えば、こういうニュースを例にとって検証してみます。

「防衛相、新日米安保宣言を提案 自衛隊派遣一般法へ布石
浜田靖一防衛相が2月に訪日したクリントン米国務長官と会談した際、対テロなど世界規模の課題や台頭する中国に対する日米協力強化を念頭に、新たな日米安保共同宣言の策定に向けた協議を提案していたことが分かった。複数の政府関係者が16日、明らかにした。米側は回答を保留した。防衛省は日米安保条約改定50年に当たる来年の発表を模索している。・・・・・・」(2009/04/17 02:07 【共同通信】)

しかし、これでは、正直いってまったく実体や背景が理解できず、報道本来の役割が果たされたとはいえません。

前述のニュースを読む場合、
「自衛隊→日本国軍」
「日米安全保障条約→日米軍事同盟」
「防衛省→国防相」
「防衛大臣→国防大臣」
「(米)国務長官→外務大臣」
といった形で、意味不明な言葉を、実体を正確に表す言葉に言語変換し、

「国防大臣、新日米軍事同盟宣言を提案 日本国軍派遣一般法へ布石 浜田靖一国防大臣が2月に訪日したクリントン米外務大臣と会談した際、対テロなど世界規模の課題や台頭する中国に対する日米軍事同盟強化を念頭に、新たな日米軍事同盟共同宣言の策定に向けた協議を提案していたことが分かった。複数の政府関係者が16日、明らかにした。米側は回答を保留した。国防省は日米軍事同盟条約改定50年に当たる来年の発表を模索している。・・・・・・」


「翻訳」
することにより、はじめて報道されるべき事実関係や実体が正確に理解できるようになります。

ちなみに、日本国内では、自衛隊の英訳として
「Self Defense Force(自衛軍)」
と表記が使われますが、これは、ナイターやマンションとかと同じ日本ローカルでしか通用しない一種の和製英語で、日本以外での報道や書籍では、海空自衛隊がそれぞれ
「Japanese Army(日本陸軍)」
「Japanese Navy(日本海軍)」
「Japanese Air Force(日本空軍)」
と表記・呼称されるのが通例とされます。

塩野七生著「ローマ人の物語」
の中で、ユリウス・カエサルが語ったものとしてこんな言葉が紹介されています。

「文章は、用いる言葉の選択で決まる。日常使われない言葉や仲間うちでしか通用しない表現は、船が暗礁を避けるのと同じで避けなければならない」

特定の思想傾向をもった特定の集団に配慮してか、あるいは単に国語能力が低いせいか、国防や軍事に関する報道については、事実を正確に伝達すべき報道機関が本来の役割を完全に放棄してしまっています。

この現状を改善しない限り、国民が国防や軍事や憲法9条問題に関する正しい議論をすることは永遠に不可能となるのではないでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.025、「ポリスマガジン」誌、2009年9月号(2009年9月20日発売)

00029_惨めで見苦しい「自分探し」_20100320

ちょっと前からテレビや雑誌等で、「自分探し」というコトバを目にするようになりました。

若いサラリーマンやOL等が、仕事を辞めてボランティア活動をしたり、大学・大学院や専門学校に入り直したり、職人の親方に弟子入りする行為を称して「自分探し」と言うそうです。

私としては、
「そんなことするくらいだったら、最初からボランティア活動をしたり、大学時代にもっと真剣に勉強するなり、やりたいこともわからずに中途半端な大学に入るようなことをせず、自分にあった職を早く手につけるために専門学校に入るなり、職人のところに弟子入りすればいいのに」
と思ってしまいます。

少し話が変わりますが、テレビなどで若い歌舞伎役者のインタビューをみていると、非常に受け答えがしっかりしており、大人びた印象を受けます。

また、経済的理由から中学や高校を出てすぐに働きに出て、そこから自分の店を持つようになった料理人や職人といった方々にあっても、年齢以上の落ち着きや風格を感じることがあります。

他方、それなりの大学を出ていながら、いい年をして自分探しをしている人間をみると、非常に幼稚で、惨めな印象を受けてしまいます。

また、それ以上に、「自分探し」をしている方々の話を聞くと、自分の能力や判断力に関し、客観値と主観値に大いなるギャップが生じているケースが多く見受けられ、
「負けているのに、負けを認めない」
「オレはまだ、本気出していないだけ」
という類の、えも言われぬ惨めさと見苦しさが目についてしまいます。

「自分探し」をする方々には、「自分探し」という行為の前提として、「今より優れた自分がいるはずだ」という強固な信念をお持ちのようです(「今より劣悪な自分を探す」というのは、宝探しならぬゴミ探しのようなものですから、通常の知的水準を有する方はそういう不合理で愚劣な行為はしないはずです)。

ところで、「自分探し」との名目で現在の仕事や生活から一時的に逃れる選択をした人間が、「自分探し」の結果、よりシアワセになったり、何か身につけたり、「探していた自分」を見つけたりできたかというと、必ずしもそういう成功例ばかりではなさそうです。

「自分探し」をしたが、見つかったのは、探し始めたころより不幸になっている自分で、「宝のような自分を探し」てみたものの、「ゴミのように使えないジブン」を再発見しただけで、時間と費用とエネルギーの大いなる無駄となった「自分探し」というのも相当あるのではないでしょうか。

話は変わりますが、「一所懸命」という言葉があります(「いっしょうけんめい」はもともとこちらが正しく、巷間使われる「一生懸命」は、「一所懸命」が変化したものと言われています)が、これは、鎌倉武士が幕府から賜った所領(=一所)を命懸けで守ること、ということが由来となっています。

「自分探し」は、仕事や生活から一時的に逃れるための弁解として使われることがあるようですが、「自分探し」をしている連中のなんとも言えない惨めさ、見苦しさは、「一所懸命」を放棄し、逃げ回っているようなところから来ているのかもしれません。

他方、自分の意志ではなく強制されたものとはいえ、与えられた職分をまっとうし、逃げることなく、その道を究めようとしている歌舞伎役者や料理人や職人の立ち居振る舞いに潔さ、凛々しさ、成熟した人格・風格を感じるのは、「一所懸命」の精神で戦っているサムライの姿を彷彿させるからだと思います。

研究者を志したり、一定の目的をもって入学するならともかく、「大学くらい出ていないとカッコ悪い」という横並び意識だけで、モラトリアム(猶予期間)を過ごすための施設としての大学に入って無駄な時間を過ごし、中途半端な知性と大いなる勘違いを身につけ、その結果「自分探し」をするというのは、不効率ですし、カッコ悪いです。

「きっとどこかにある、宝物のような、自分を探す」などと称して無駄なゴミ漁りをしている方々が少なくなり、「一所懸命」働く、凛々しい人間が増えてくると、日本も活力を取り戻しそうな気がします。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.031、「ポリスマガジン」誌、2010年3月号(2010年3月20日発売)

00028_日本の食文化のレベルが世界最高水準である件について_20100420

ずいぶん前になりましたが、ミシュラン(正式にはミシュランガイド)が日本版を出版することとなった際、日本のレストランや料理屋が、フランス人により採点されるようになりました。

ただ、出版されたものを見てみると、ミシュランに掲載されていたり、高い評価を得ている店には目新しいところはまったくなく、
「誰でも知っているところ」
「高いからおいしいのは当たり前」
といったところばかりで、ミシュランの提供情報にまったく価値が感じられませんでした。

ところで、採点は、「情報や知識の面で優位にあり、評価する能力を有する者」が、劣位な者に対して行うものです。

私個人としては、ミシュランが日本の食事情あるいは世界の食文化一般にどれほどの情報や知識を有しているか不明であり、評価者に評価能力が備わっているかどうか、大いに疑問を感じます。

出張や旅行で海外に行っていつも感じるのは、「どこの国に行こうが、日本より食事が美味いところはない」という世界の現実です。

アメリカなどは論外ですが、中国やフランスなどそこそこ食文化の歴史がある国についても、「日本(というか、東京)の中華料理店やフランス料理店の方が細やかで気が利いた味で、全体としての美味しさとしては確実に優れている」
という事実に気付かされます。

昔、インドに行ったとき、日本のものとは似ても似つかぬカレーの不味さに閉口しましたが、その後、実家の近くに住んでいたパキスタンからの留学生が帰国する際、
「こんな美味しいものはない」
と言って日本製のカレールーを大量に買い込んでいったという話を聞きました。

小さいころからある
「インド人もびっくり」
というカレールーのキャッチコピーは明らかな誇大広告と思っていましたが、
「本場インド人もビックリするくらい美味しい」
というのはどうやら、誇張のない、極めて客観性ある事実のようです。

また、私の知人の体験談ですが、彼が中国に長期間出張することになったとき、日本の中華料理とは比べようもない不味い料理に閉口する日々を送っていました。

ところがあるとき、北京で、地味ながら非常に美味しい料理店を見つけたそうです。

特に餃子は絶品で、近隣のレベルをはるかに超えた美味しさだったそうです。

店のオーナー兼料理長の女性が日本語を少ししゃべれるとのことで、餃子の味を褒めたところ、オーナーは

「ウチの餃子は北京で一番だよ!美味しいのは当たり前だよ!わざわざ、餃子の本場、宇都宮に行って5年も修行したんだから!」

と胸を張って答えたそうです。

このように、日本の食文化が世界の他の国を圧するほど優位を保っており、オリジナルものを取り入れ、これをはるかに凌駕するものを創造していく力があることは、ほぼ間違いないと思います。

その意味では、日本の食文化はフランスのそれをすでに上回っており、フランスに評価なりご指導をすることはあっても、評価されるような立場にはないのではないか、とさえ思うのです。

最後に、塩野七生著「サイレント・マイノリティ」の中の一節をご紹介します。

ミシュランの評価に、日本の料理評論家や石原慎太郎が一斉に反発し、ミシュランの評価自体を酷評したそうですが、彼らが言いたかったのはこの種のことのような気がします。

——–モラヴィア(筆者注・ファシズム体制下で検閲を受けたイタリアの小説家)はいう。自分の作品が、芸術的に下手である、といわれるのならわかる。それも、検閲する人々に、そういう方面をわかる感覚の持主がいて、その人たちによって自分の作品が反対されるのならば、まだ我慢ができる。ところがそうではない。委員たちのほとんどは、文学的才能もないくせに文学をこころざしたことのある人であり、しかも、その世界では成功できなくて、現在は中学の教師でもしている人々なのだ。彼らが自分の作品にケチをつけてくる。彼らの月並な頭で判断して、ケチをつけてくる。これにはなんとしても我慢がならなかったのだそうだ。——–

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.032、「ポリスマガジン」誌、2010年4月号(2010年4月20日発売)

00027_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(8)~関係構築をする、交渉する~

1 前世紀における関係構築術

前世紀、すなわち西暦2000年ころまで、ビジネスの世界では性善説が優勢で、
「取引相手をとことん信じる」
ということが企業間の関係構築理念として推奨されていました。

前世紀の産業社会は、
「ガイシ系」

「ホリエモン」

「ホニュララファンド」
もおらず、
「顔なじみ」
だけの牧歌的なムラ社会であり、信頼こそがムラ社会の唯一の秩序基盤であり、ムラの長(監督官庁)や庄屋(業界団体の顔役)がムラの秩序に睨みを利かせていました。

ムラの民は、お互いを信頼していれば、楽しく生活ができていたのです。

2 今世紀における企業間関係構築のあり方

ところが、世紀の境目のあたりから、
「インフレ経済を前提とした高度成長時代」
から
「デフレ経済を前提としたモノ余り、低成長時代」
に突入し、日本の産業社会に顕著な変化が訪れました。

従来までの大量消費(販売)を前提とした大量生産が不要となり、効率的大量生産を支えてきた監督官庁の保護育成も業界同士の横のつながりも機能不全に陥りました。

また、規制緩和が行われ、外資や新規ベンチャーの参入が促されます。

産業社会は、品質と価格による能率競争を前提に、縮小しつつあるパイを苛烈に奪い合う競争社会に突入したのです。

加えて、
「監督官庁と企業、あるいは企業同士が、イチャイチャ、ベチャベチャすること」
も公務員倫理法違反あるいは談合と呼ばれるようになり、このような親密な関係が徹底的に排除される時代が到来し、ムラの秩序は崩壊しました。

官僚主導により企業同士が鉄の結束を誇っていた日本の産業界は、
「『阿吽の呼吸』を相手に期待していると、問答無用で斬って捨てられる」
そんな仁義なき競争社会に変わり果て、かくして、
業界「協調」時代

業界「競争」時代
にシフトしていきました。

具体例を挙げますと、かつて
「健全な経済発展のためには必要なもの」
という論調まであった談合(談合の当事者は、「談合」という言葉を忌避し、「業界協調」という言葉を使いますが、言葉を変えたからといって違法性が払拭されるわけではありません)ですが、リーニエンシーという密告奨励制度まで整備され、仲間同士の裏切りが次々に起こり、カルテルや談合の摘発件数は増加の一途を辿っています。

3 産業社会における性善説の終焉

少なくなりつつあるパイを奪い合うために企業として徹底的に現実的思考・行動を追求することが求められる現代、
「性善説」
という前世紀の考え方を維持する企業は、市場から放り出されます。

以上のような時代の変化をふまえますと、企業間の関係構築のあり方としては、性悪説が大前提となります。

すなわち、交渉過程においては、言質を取られない限り、相手方は常に耳に心地よいウソを平然とつく可能性がありますし、最終的な関係構築においても
「契約書に書かれていないことは、すべてやっていいこと」
という品のない法的理屈を前提に、約束を反故にしたり、信頼を裏切る行動に出る危険があります。

したがって、交渉の場面では
「相手が口でペラペラしゃべっていることは文書にしない限り信用しない」、
文書化する際においても
「『やりたくなければ書いておけ。書いてなければ、何をされても文句はいえない』という理屈を前提に、事細かに禁止事項や規制事項を書き連ねる」
ということが必要になってきます。

日本においては、契約書とは、
「良好な関係と輝かしい将来への期待を相互に宣言し、不幸な事態の想定を忌避した儀礼的な文書」
と考えられていた節があります。

これは、言霊思想に基づき、結婚の際に破綻を示唆・暗示するものを
「忌み詞(いみことば)」
として徹底的に排除する考え方に基づくものなのかもしれませんが、このような契約書ではイザというときに、まったく機能しません。

他方、
「Prenup(夫婦財産契約)等結婚前に離婚の際の清算合意書を取り交わす文化」
が存在する欧米においては、契約書とは、関係破綻を視野に入れた、法的危機管理における有効な道具たる法的証拠として
「不愉快な事態がより多く書いてあった方が優れている」
と考えられており、現代の企業社会ではこちらの欧米流の合理的契約文化が主流になりつつあります。

このように、企業間の関係構築や交渉の場においては、
「相互に信頼し合って、良好な関係構築をする」
のではなく、今や、
「良好な関係構築をするために、相手をトコトン信用しないこと」
が求められるようになっています。

「関係構築をする、交渉する」
という仕事を進める上では、以上をきちんとふまえておかなければなりません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.048、「ポリスマガジン」誌、2011年8月号(2011年7月20日発売)

00026_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(7)~改善する、改革する~

1 「改善や改革」という仕事の重要性

「改善や改革」
をできない企業は、激変する環境に適応できず、太古の恐竜のように絶滅させられます。

企業が生き残る上で、社内において
「改善や改革」
といった仕事を継続的に進めさせることはきわめて重要です。

また、サラリーマン本人にとっても、
「何時でも余人をもって替えられるような、ルーティンしかできない」
となると、地方に飛ばされたり、不景気になると真っ先にクビを切られます。

その意味では、
「改善や改革」
という仕事を効果的に進めることは、企業にとっても、ビジネスマンにとっても生き残る上できわめて重要であり、関心がある事項といえます。

2 「改善や改革」という仕事は苦手科目

しかしながら、ビジネスマンの方で
「改善や改革」
が苦手という方は非常に多いようで、この種のタスクを命じられるとたいていの方は憂鬱になられるようです。

一般に、サラリーマンと呼ばれる方々の大多数が日々行っている
「仕事」
なるものの正体は、よく観察すると
「作業」レベル
のものに過ぎないことが多いように思われます。

作業のやり方を根本から変えたり、作業そのものをなくすような新たな仕組みを構築したり、といった劇的な付加価値を生むような仕事を行っているビジネスマンは圧倒的に少数です。

人間の頭脳は保守的にできている上、現在の詰め込み型の学校教育においては、小さいころから百マス計算とか漢字書き取りとか
「余計なことを考えず、目の前の単純作業を全力で取り組め」
という形での洗脳を長期間行っているため、平均的日本人は、
「柔軟な発想で仕事そのものを変えてみろ」
といわれても自然と思考が停止してしまうのです。

「改善や改革」
という仕事を遂行する上では、小学校以来延々と脳に刷り込まれてきた
「盲目的に目の前のルーティンを効率的にこなすことに集中せよ」
という奴隷労働的美徳から解放され、真の知的活動をする必要があるのです。

3 「改善や改革」課題の選定

「改善や改革」
というタスクを遂行する上で最初に衝突する困難は
「そもそも改革課題や改善テーマがまったく思い浮かばない」
という事態です。

この症状は、
「昔から存在するルーティンは、それなりの理由があって現在も使用されているのであり、したがって合理的なものである」
という思い込みが障害になっているものと考えられます。

しかしながら、ルーティンの中には、すでに意味を失っているものや、
「もはやその存在自体が効率性を阻害している」
という類のものも多数あります。

「改善や改革」
のテーマは、
「ルーティン課題自体を否定してみる」
という考え方から生まれてくることが多いのです。

すなわち、
「もしこのルーティンがなかったら、どうなるか?」
という発想によって、ルーティンをより効率的なものに変質させたり、別の新たなルーティンに置き換えたり、ルーティンの順序を変更することにより劇的な効率改善を生むアイデアが出てくるのです。

小学校以来優等生だった人はこの種の思考が苦手なようです。

他方、
「小さいころからレポート課題や宿題が大嫌いで、この種の『人生に役に立たない代物』がなくなることを願い、常に回避する方法や手を抜く方法を考えてきたような、小ズルイ人間」
は、
「改善や改革」系の仕事
で劇的な成果を上げることが多いようです。

これは、優等生が陥りがちな
「目の前の課題を疑ってはならない」
という固定観念に拘束されない自由な思考があるからかもしれません。

いずれにせよ、ビジネス社会では、
「課題をうまく処理できる」
というのはたいしたスキルではなく、
「課題そのものにおける課題をみつけることができる」
「新たな課題を発見することができる」
「課題そのものをなくすことができる」
能力の方が重要とされるのであり、このような能力が改善や改革の前提として機能するのです。

4 「改善や改革」案を創出する

お話しましたとおり、
「改善や改革」
といった仕事を進めていく上では、
「どういう改革課題を選定するか」
という前提をクリアするのがそもそも大変ですが、ここを何とかクリアし、無事
「改善や改革」
という仕事のテーマが選定できたとしましょう。

「改善や改革」
の遂行を命じられた人間は、次に
「(設定された)課題を克服するための具体的アイデア(ブレークスルー方法)が思い浮かばない」
という障害に直面します。

この種の
「ひらめき」
というものは個人差があり、ぽんぽんアイデアが出る人もいれば、まったくアイデアが出てこない人もいるようです。

では、どうしたら、
「ひらめき」
をうまく創出することができるのでしょうか。

発明の瞬間を描いたドラマや映画をみていますと、
「人里離れ、孤独に研究を続ける主人公の発明家が、資料が乱雑に積み上がった、みるからに雑然したデスクの上で煩悶としていたところ、天啓に撃たれるが如く、突然偉大な発明をひらめく」
といった場面が出てきます。

しかし、これは、
「天才と呼ばれる一種の異常者が、人類社会を変えるような特異な発明を行う」
という場合に限定して当てはまる話です。

「凡人の勤め人が、金儲けを効率化するようなアイデアを捻り出したり、工場現場において操業方法を工夫して品質を向上させる方法を創出する」
という卑近なアイデア創出に関しては、経験上、ゴミ屋敷のような乱雑な場所からは生まれてこないようです。

ビジネス上の改善・改革方法を創出プロセスは、
「『ビジネス上のゴールを達成しうる可能な限り多くの合理的選択肢』を丁寧に拾い出していき、これらの長所短所やコスト分析を理性的に整理・分析し、うまく行かない場合、当初の選択肢抽出の範囲を広げ」
というプロセスを地味に繰り返していくことによって生まれます。

このような退屈な作業を繰り返し行う中で、思考が純化・短絡化されていき、課題を効率的に解決する新たなプロセスが必然的に導き出されます。

思考の純化・短絡化が、他者とのコミュニケーションの中で行われることもあります。

ブレインストーミングや、あるいはまったく関係のない第三者に意見を求めたことがきっかけとなって、他者から課題に対する別の視点が提供され、これによって、思考の純化・短絡化が一挙に進み、新たな選択肢が創出されるという場合です。

以上のいずれのケースにおいても、課題を整理したり、関係者と課題共有をしたり、自分の置かれている状況を他者に説明したり、といった
「解決方法創出のための前提環境の整備」
が必要となります。

無論、
「関連データや情報も整理せず、他者とも一切コミュニケーションを取らない状況において、混乱したデスクやこんがらかった頭脳の中から、突然、トンデモないアイデアを思いつく」
という場合があるかもしれません。

しかしながら、SF小説や推理小説のトリックとは違い、ビジネスや工業製品開発におけるアイデア創出現場においては、
「一般人のドギモを抜く、驚愕のアイデア」
といった趣のものは、商業上あるいは採算上まったく価値がなく、むしろ有害であるような代物が多いといえます。

世界的時計メーカーであるセイコーを創業した服部金太郎は、こういったそうです。

「すべて商人は、世間より一歩先にすすむ必要がある。ただし、ただ一歩だけでよい。何歩も先にすすみすぎると、世間とあまり離れて予言者に近くなってしまう。商人が予言者になってしまってはいけない」

つまり、
「個人の妄想の中で生み出された独りよがりの突拍子もないアイデアは、産業社会においては使えない」
ということなのです。

いずれにせよ、机上も頭の中も乱雑になっているとますます混乱しますし、他者とコミュニケーションを取らず独善的に妄想を募らせるだけでは、あり得べき解決方法創出から遠ざかってしまいます。

ビジネスにおいて
「改善方法や改革方法」
を探求する方は、ドラマや映画の天才発明家の真似をすべきではありません。

むしろ、情報やデータを常に整理整頓し、クリアな頭で考えられる環境を作り、あるいは課題や関連情報を常に客観化して他者から様々なアイデアや意見を得られる状況を作ることが、目の前の課題を解決する方法をひねり出す近道といえるのではないでしょうか。

5 「改善や改革」は必ず誰かを損させる

「改善や改革」
という仕事を行う際、注意しなければならないのは、
「改革とは必ず誰を損させるものである」
という本質です。

改善や改革が劇的であればあるほど、損や迷惑を被る人の数が多くなり、かつダメージの度合いも大きくなるものです。

歴史上、改善や改革で大失敗したのは、織田信長やナポレオンやケネディーです。

彼らの行った事業あるいは行おうとした事業は、いずれも斬新で進歩的で有意義でしたが。

しかし、
「改革とは、結局、誰かを不幸にするものである」
という単純な仕組みを知らなかった彼らの末路はいずれも悲惨極まりないものとなりました。

以上をふまえると、改善や改革を完成させる局面では、
「改革によって損をするであろう人間」
に対して、

(1)損を被るべき人に対して何らかの形で損失の補填を行うか
あるいは、
(2)損を被るべき人に損をしないようにみせかけて騙す

といういずれかの対策を取るべき必要が出てきます。

「お前の存在は不要となったので、経済的に、あるいは社会的に抹殺させてくれ。ところで幾らほしい? 言ってみろ」
といって、ふんふん頷いて適正な補償額を答えるような人間は古今東西皆無です。

法外な補償額を答えるか、そもそも
「経済的に、あるいは社会的に抹殺されること」
を良しとせず、我武者羅に抵抗するでしょう。

というわけで、成功した改善や改革の多くは、(1)という馬鹿正直な方法によらず、(2)という
「狡猾で陰険な方法」
に基づき、改革や改を邪魔する人間を排除しています。

「日本史上最大の社会改革事業」
であった明治維新についてみてみましょう。

明治維新を実務面で遂行したのは、後に
「維新の元勲」
と呼ばれる薩摩長州藩等に所属する一部の下級官僚たちでした。

「維新の元勲」
たちは、
「維新という事業を進めていく上では、江戸幕府のみならず、自らが属した藩や士族階級そのものも邪魔になるので、解体するべきである」
ということは明確に認識していました。

しかしながら、彼らは、このことは一切明らかにせず、逆に、所属する藩にあたかも
「維新によって、単純な支配交替が生じ、薩摩藩や長州藩及びこれらの藩に属する士族たちが、それまで栄華を極めていた江戸幕府に替わってオイシイ思いができる」
かのような錯覚を与え続けました。

薩摩藩出身の大久保利通は、同郷の盟友である西郷隆盛さえ騙し続けたのではないか、と思われる節があります。

いずれにせよ、
「元勲」
たちのクレバーさは図抜けています。

そして、最終的には、藩や士族たちが
「江戸幕府を倒した。これで、我が藩が我が世の春を謳歌できるぞ」
などと夢見心地の状態で惚けている間に、廃藩置県によって藩そのものを消滅させてしまい、事態に気づいて騒いだ士族連中もすべて葬り去り、明治維新という改革・改善事業をなし遂げたのです。

明治維新は
「『江戸幕府以外の諸藩』が、『江戸幕府』を滅ぼした戦争(内戦)」
という構図と、
「『“江戸幕府以外の諸藩”の一部下級管理職』が、『“江戸幕府以外の諸藩”のボヤボヤしていたオーナーや上司たち』をまるごと滅ぼして自分たちの政権を確立したクーデター」
という構図をあわせ持っています。

後者のクーデターという側面は、歴史においては明確に述べられていませんが、
「損を被るべき人に損をしないようにみせかけて騙す」
というセオリーに忠実に則って行われたものであり、維新という改革・改善事業を完成させる上で非常に有意義なものでした。

以上のとおり、改善や改革は単なる思いつきさえ出せば終わりというものではなく、
「既得権者の効果的排除という生臭い点まで意識しながら進めなければならない」
ということもよく認識しておく必要があります。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.045~047、「ポリスマガジン」誌、2011年5~7月号(2011年4~6月20日発売)

00025_ビジネス・プロフェッショナルの仕事術(6)~整理する、評価する~

経営コンサルタントやM&Aアドバイザーをやっていると、倒産する会社、倒産した会社、倒産間際の会社、もう実質倒産しているがゾンビのように生き延びている会社等、組織として経済的に死んでいる会社を相当数みかけます。

倒産する会社にはどの会社にも共通するある一定の特徴がみえてきます。

倒産する会社は、どの会社も
「整理」
というものがまったくできていない、ということです。

倒産間際の会社の社長に書類の在り処をきくと、帳簿も決算書も手形帳も社長室のキャビネットにつっこんであり、順序もヘッタクレもなく、ぐちゃぐちゃ。

会社設立の際に作成した原始定款は当たり前のように行方不明となっており、株主総会議事録や取締役会議事録などまったく見当たらない。

まさしくカオス状態になっています。

また、こういう会社は、
「営業重視、管理軽視」
という単純な経営理念で突き進んできたせいか、これまでの事業を振り返ったり評価したりすることもなく、ひたすら前だけを向いて突っ走っています。

モーレツ営業会社には、
「過去」

「歴史」
もなく、破産申立をする弁護士さんは、経過を聴取し、文書化するのに大変苦労する、とボヤく姿に出会います。

他方で、
「整理や管理や評価をきちんと行っている、すべてにおいて小綺麗な会社」
をみると、たいてい事業が順調であり、弁護士に後ろ向きのことを相談するようなところは皆無です。

以上のような経験に基づく雑感が正しいかどうかは別にして、整理とか管理とか評価とかという仕事は、単純で地味なものですが、事業を円滑に進めていく上で重要な役割を担っていることは間違いありません。

しかしながら、会社であれ、勤め人であれ、整理とか管理とか評価とかといった仕事を苦手とする方は意外と多くいらっしゃるようです。

このように、
「整理」

「評価」
という仕事に苦労するのは、仕事の意味や本質をはき違えていることが原因と考えられます。

まず、
「整理」
とは、理をもって整える、すなわち、一定の理屈にしたがって履歴を並べかえる、ということを意味します。

時系列、サブジェクト毎、重要性、近似性といった
「一定の理屈」
を構築し、当該理屈にしたがって資料や事実を並べ替えることが
「整理」
の意味です。

「整理」
という仕事を
「仕事がデキる人」

「デキない人」
それぞれにやらせてみると、
「整理」
の力点の置き方に違いが表れます。

仕事のデキる人に
「整理」
をさせると
「一定の理屈」
の構築に時間とエネルギーを注ぎ込み、後に残った
「並べ替え」
という作業自体は適当に行うか、
「こんな作業ごときオレがやる必要はない」
といって誰かに振ってしまいます。

他方、仕事のデキない人間は、深く考えずに
「並べ替え」
という
「作業」
に着手し、着手したら最後、この作業に盲目的に没頭し、無駄に時間を費やした挙げ句、
「努力の痕跡は認めるが、努力の方向性を喪失した感が否めない、何とも使いにくい成果物」
を寄越します。

整理とは、
「作業」
ではなく、自分やチームのプロジェクト遂行のプロセスの理屈化・体系化であり、実にクリエイティブな仕事です。

そして、このような創造的な体系化・論理化が適切に遂行されことにより、今後のプロジェクトの企画・遂行の際、無駄が省かれ、失敗が少なくなり、全体として成功率が増えることにつながるのです。

その意味では、整理という仕事を行う上では、体系構築のための創造性が要求されるもので一定の才能が要求されます。

次に、
「評価」
という仕事についてです。

「評価」
という言葉の意味は
「値打ちを定める」
というものですが、
「値打ち」
などといったものは人により様々であり、正解があるわけではありません。

要するに、
「独断と偏見によるでっち上げ」
を上等な言葉で飾ると
「評価」
という仕事になるのです。

「評価」
という仕事を苦手にする人というのは、要するに、

1 物事をデッチ上げるための勇気がない
あるいは
2 デッチ上げるための表現技術に乏しい
のいずれかまたは双方の特徴を備えた人間

ということです。

言い換えれば、
「無駄に誠実で控え目な人間」
であり、企業社会においては
「使えない人間」
あるいは
「使いたくない人間」
といえます。

仕事のデキる人間は、以上のような
「評価」
という仕事の本質をよくわかっており、上司から
「どういう結論をデッチ上げてほしいのか」
「デッチ上げの際、どういうロジックが好まれるか」
ということを事前によく確認します。

そして、デキる人間は、眉一つ動かさずに上司の好みに合わせた
「デッチ上げ」
ができ、これを
「客観的評価」
と臆面もなく言い切ることができるのです 。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.044、「ポリスマガジン」誌、2011年4月号(2011年3月20日発売)