00259_相続_「法は家庭に入らず」_お金より大切なものを、人はいつ気づくのか

相続というのは、不思議な魔法をかけます。

昨日まで仲良く食卓を囲んでいた家族が、一枚の遺言状をめぐって、まるで別人のように険しい顔をする。

「たかがお金のことで」
と思う人もいるでしょう。

でも実際には、お金そのものより、
「自分だけ軽く扱われた」
という感覚が、人の心を変えてしまうのです。

弁護士に依頼したけれど、途中でやめた——それって「負け」なの?

あるご家族の話をしましょう。

自宅で介護していた母親の相続をめぐって、ある方(ここでは仮にAさんとします)が弁護士に依頼しました。

母親の葬儀後、忌明けもしないのに、兄弟が弁護士を連れてきて、母親の相続の財産分与の話を詰め寄ってきたというのです。

介護期間中のAさんの持ち出しや、Aさんの妻の貢献をまるでなかったかのように、話を押し通す兄弟とその弁護士に、やむなくAさんも弁護士に依頼したということです。

法的には、もう少し粘れば一定の財産を取り戻せる、そういう段階まで話は進んでいました。

でも、Aさんはある日、こう気づきます。

「この金額のために、家族全員が憎しみ合うのは、割に合わない」

ご主人とも話し合い、ふたりの出した結論は
「財産放棄に同意する」
でした。

弁護士から見れば、法的・経済的には明らかに不利な選択です。

着手金も戻ってきません。

では、これは
「負け」
でしょうか?

「法は家庭に入らず」——この諺が教える、もうひとつの論理

日本には
「法は家庭に入らず」
という言葉があります。

法律は、赤の他人同士のトラブルを解決するためのルールです。

契約、証拠、権利と義務——そういう冷たい言葉で人間関係を整理します。

それは必要なことですし、社会の秩序を守るために欠かせません。

でも家族の間には、法律とはまったく別の論理が流れています。

「情宜(じょうぎ)」
という、少し古い言葉があります。

情けと義理、といえばわかりやすいでしょうか。

数字で測れないもの、証拠として出せないもの、でも確かにそこにある、人と人をつなぐ何か。

法律はそこには踏み込めない。

踏み込むべきでもない。

Aさんが選んだのは、法律の論理ではなく、情宜の論理でした。

弁護士の「あと一歩」と、依頼人の「もういい」のあいだ

ここで少し、意地悪な問いを立ててみましょう。

弁護士は
「あと一歩で利益を実現できる段階だった」
と言います。

依頼人は
「やめる」
と言いました。

この二者の判断は、どちらが正しいのでしょうか?

答えは——どちらも正しい、です。

弁護士は、法律と経済の論理で生きています。

「取れるものは取れる状況だ」
というのは、プロとして正しい判断です。

一方で、依頼人は、家族関係という法律の外側にある論理で生きています。

「金銭的利益より、家族の平和のほうが自分には価値がある」
というのも、人間として判断です。

問題は、この2つの論理を同じ秤で量ろうとすることにあります。

弁護士は法律の専門家ですが、その人の家族関係の専門家ではありません。

「法的に損」

「人生で損」
は、まったく別の話なのです。

賢い撤退には、ちゃんと作法がある

Aさんのケースで、もうひとつ注目したいことがあります。

途中辞任に際して、弁護士は
「みなし報酬金は請求しません」
と申し出ました。

一見、当たり前のように見えますが、実は、まったく当たり前ではありません。

「みなし報酬金」
というのは、あと一歩で成果が出る段階まで来ているのに、依頼人の都合で
「やっぱりやめます」
と言われた場合に、本来発生する成功報酬相当額のことを指します。

依頼人の一方的な都合で辞任するなら、弁護士はこれを請求するのが筋です。

ところが、本件の弁護士は
「これまでの経緯を考えれば、みなし報酬金は請求しません」
と、その請求権を、自ら静かにしまい込みました。

つまり——撤退にも、人間関係の作法があるということです。

Aさんは深く感謝の意を伝え、弁護士は依頼人の苦しい胸中を酌んで費用を引いた。

法律の話を、最後は人間の話として、きれいに着地させた。

これこそが、双方が
「情宜」
を持って動いた、お手本のような幕引きです。

これは、双方がきちんと
「情宜」
を持って動いた結果です。

「家族の縁」は、お金で買い直せない_守るべきは、目に見えないもの

最後に、少し視点を変えてみましょう。

私たちはつい、
「目に見えるもの」
「数字に出るもの」
ばかりを大切なものと勘違いします。

通帳の残高、不動産の名義、株式の評価額。

確かに、これらは大切です。

しかし、本当に取り返しのつかないものは、たいてい、数字には出ない側にあります。

正月に集まれる兄弟姉妹がいるかどうか。

親が亡くなった後も、姪や甥と笑って会えるかどうか。

家族の集合写真の真ん中に、空席ができないか。

これらは、後からお金を積んでも、もう買い戻せません。

Aさんが守ったのは、目先の財産ではなく、
「取り返しのつかないものを、失わない権利」
だったのかもしれません。

法律にも、情宜にも、それぞれの出番がある

誤解されがちですが、
「法は家庭に入らず」
というのは、法律を軽く見なさい、という意味では決してありません。

法律には法律の出番があり、情宜には情宜の出番がある。

どちらか一方だけを振り回す人は、たいてい、人生のどこかで派手に躓きます。

両方の道具を、場面ごとに正しく使い分けられる人。

そういう人だけが、最終的に、家族も、財産も、自分の人生も、まるくおさめていけるのだと思います。

「割に合わない」
と、自分の頭で判断できる。

「ここは引きどきだ」
と、自分の足で立ち止まれる。

これは、十分すぎるほど、ひとつの
「勝ち方」
です。

そして、こういう勝ち方ができる人のところには、不思議と、後から本当に大切なものがゆっくりと戻ってきます。

著:畑中鐵丸

00258_「もったいない」が判断を狂わせる_有事に平時の金銭感覚を持ち込む、という致命的な誤り

スーパーのチラシを比べて、卵が10円安い店まで自転車を走らせる。

これは立派な生活の知恵です。

でも、もし家が火事になったとき、消火器を買うかどうか値段で迷っていたら? 

「もったいない」
と感じる感覚そのものが、状況によっては命取りになります。

今回お話ししたいのは、そういう話です。

「危機のときに、平時の節約マインドを持ち込むと、なぜ失敗するのか」
という、ちょっと逆説的なテーマです。

「情報」と「証拠」は、まったく別のもの

たとえば、何か重大な決断を迫られる場面を想像してみてください。

就職、進路、人間関係・・・どんな場面でもかまいません。

そういうときに
「白黒はっきりさせたい」
と思ったとします。

そこで2つの選択肢が出てきます。

ひとつは
「いますぐ自分で調べる方法」、
もうひとつは
「時間はかかるが、公的・正式な方法」。

前者はお金も手間もそれほどかからない。

後者は確実だけれど、時間がかかる。

ここで多くの人がやってしまう失敗は、
「どうせ後で正式な方法でやり直すなら、今やるのは無駄じゃないか」
と考えることです。

一見、合理的に聞こえます。

でも実は、この考え方には大きな落とし穴があります。

「いますぐ自分が知るため」
の情報と、
「第三者を納得させるため」
の証拠は、目的がまったく違います。

情報は、自分が次の一手を決めるためのものです。

証拠は、相手や第三者に何かを認めさせるためのものです。

前者はスピードが命で、後者は精度が命。

2つは似て非なるものなのです。

たとえば、
「この会社、なんか変だな」
と感じたとき、すぐに自分で調べてみる。

それで
「やっぱりおかしい、辞めよう」
と決断できれば、その情報には十分な価値があります。

後になって法的に証明できるかどうかとは、別の話です。

戦っているときに「節約」を考えると、もっと大きな損をする

危機的な局面、つまり
「有事」
において、情報をケチることは致命的です。

なぜなら、判断が遅れるほど、失うものが増えていくからです。

「どうせ後でやり直すなら今は待とう」
と考えている間にも、状況は動き続けます。

その
「待つコスト」
は、ふつう見えにくい形で積み上がります。

機会の損失、時間の消耗、精神的な消耗・・・それらは数字になりにくいぶん、見過ごされやすいのです。

「二度手間になるのが嫌だ」
という感覚は、平和な日常では美徳です。

でも、局面が緊迫しているときには、その感覚が判断の邪魔をします。

しかも、先に情報を持っていることには、もうひとつの強力なメリットがあります。

それは
「先手を取れる」
ということです。

交渉でも、競争でも、人間関係のもつれでも、先に事実を把握している側は、圧倒的に有利な立場に立てます。

早めに動くことで、長引くはずだったことが、あっさり片付くこともあります。

歴史を振り返っても、ビジネスを見ても、
「競争や争いで負けるのは、リソースを持っていない人よりも、リソースを持っているのに使わなかった人」
であることが多い。

情報を得るための小さなコストをケチって、大局を見誤った例は、枚挙に暇がありません。

「もったいない」の正体

では、なぜ人は有事でも
「もったいない」
と感じてしまうのでしょうか。

それは、私たちの判断が、ほとんどの時間を過ごす
「平時」
に最適化されているからだと思います。

日常生活では、慎重に比較検討して、無駄を省く習慣が正しく機能します。

それが身についているほど、
「賢い人」
とみなされる場面も多い。

だから、危機的な局面に入っても、同じ判断基準をそのまま使ってしまいます。

でも、状況が変われば、最適な行動も変わります。

平時の美徳が、有事の足かせになることがある。

これは
「悪い習慣」
ではなく、
「正しい習慣の、間違った場面での適用」
という、より根が深い問題です。

だからこそ、大事な局面に差し掛かったとき、ひとつ立ち止まって自分に問いかけてみるといいかもしれません。

「私はいま、平時の感覚で動いていないか?」
と。

情報への投資を惜しまないこと。

それは、危機のときに自分を守る、もっとも確実な方法のひとつです。

著:畑中鐵丸

00257_組織_「中から変える」という幻想_同意なしに動ける世界を、自分の手で広げていく

家族が入院していた病院で、目を疑うような出来事が起きた。

あるいは、信頼していた会社に、顧客としてずいぶんぞんざいに扱われた。

大切な家族が、組織ぐるみの甘い管理のせいで、深く傷ついた。

そんなとき、多くの人の口から、とてもよく似た一言が飛び出します。

「あの組織の中に、私を入れてほしい。理事でも、アドバイザーでもいい。中に入って、自分の手で、根っこから立て直してやる」。

怒りの正しさは、少しも疑っていません。

それほど傷ついたし、それほど腹も立った。

それは動かしがたい事実です。

ただ、この一言は、残念ながら、ほとんどの場合、そのままでは通りません。

なぜか。

相手に
「あなたをそこに座らせます」
と、頭を下げてもらわないと、椅子は1つも動かないからです。

交渉とは、こちらの叫びを相手の耳に浴びせることではなく、相手のほうに
「うなずく理由」
を用意してあげることです。

ここに気づかないまま戦いを始めた人は、たいてい、途中で息切れしてしまいます。

「同意のいらない世界」と「同意がなければ始まらない世界」

世の中の行動を、一度すっきりと2つの箱に仕分けしてみると、景色がずいぶん違って見えてきます。

1つめの箱には、
「相手の意向とは関係なく、自分の意思と自分のお金と自分の時間で、勝手にどんどん進められること」
が入ります。

2つめの箱には、
「相手が『はい』と言ってくれない限り、どう頑張っても一歩も動かないこと」
が入ります。

たとえば、あなたがNPO法人を立ち上げて、病院全般の安全管理のあり方を世に問う活動を始めるとします。

これは、1つめの箱に入ります。

相手の病院からすれば、
「そちらが、そちらのお金と労力で、うちとは別の法人を作って何をなさろうが、どうぞご自由に」
という話です。

文句をつけられる筋合いも、ブレーキをかける理由も、ありません。

ところが、
「その病院の理事に私を迎え入れろ」
「系列グループから病院を切り離せ」
と要求し始めた瞬間、話は2つめの箱にすっと移ります。

相手の病院は、相手の組織です。

あなたが、いくら理屈を研ぎ澄ましても、いくら正義の旗を高く掲げても、相手が
「はい、お願いします」
と頭を下げないかぎり、椅子は1つも動きません。

2つの箱のあいだに引かれているのは、一見、細くて頼りない線に見えます。

しかし、この線を見落としたまま戦いを始めると、人は本当に消耗してしまいます。

怒りのあまり、自分の力では開かないドアを、何時間でも叩き続けてしまうからです。

「中に入れろ」と言った瞬間、あなたは相手の掌のうえにいる

もう一歩、話を踏み込んでみます。

「中に入って、内側から変える」
というフレーズは、正義感の強い人ほど、つい、うっとりしてしまいます。

しかし、冷静になってみましょう。

相手の組織というのは、どういう場所でしょうか。

文字どおり、相手の家です。

相手の家の椅子は、相手が置いたもので、相手が招いた人だけが座るものです。

「入れてほしい」
と頼み込む構図は、すでに、頭を下げる側があなた、頭を下げられる側が相手、という上下関係のうえに成り立っています。

さらに、意地悪な言い方をしますと・・・。

「中に入れろ」
と声を張るほど、あなたは相手を有利にしてしまいます。

もし相手が
「わかりました、理事にお迎えします」
と言い出したら、それは多くの場合、戦う意思が折れたのではありません。

「この人は、椅子を1つあてがえば黙る」
と、算盤をはじいた結果です。

中に入った瞬間、あなたは、その組織の守秘義務と、その組織の顔色と、その組織の人間関係を、まるごと背負うことになります。

外で自由にしゃべれていた言葉が、内側の作法と空気にからめ取られ、だんだんと、語尾が柔らかくなっていきます。

「改革する側」
に入ったはずが、気がつくと、
「改革されるべき対象の、広報担当」
に回されている。

これは、小さな会社でも、大きな法人でも、驚くほど同じ形で起きます。

「中から変える」
という夢は、じつは、もともと変わる気のある組織に対してしか、ほとんど効きません。

本当に変わってほしい組織ほど、あなたを内側には入れてくれない。

もし、すっと入れてくれたとしたら・・・。

それはもう、ほぼ例外なく、あなたの口を静かに塞ぐための、丁寧な工夫です。

それでも「中の椅子」が動くときはある――ただし、呼ぶのはあなたの怒りではない

もちろん、歴史を見渡せば、
「中の椅子」
が外からの声で動かされた例は、ちゃんとあります。

ひと昔前の話ですが、大手の乳業会社が、傷んだ牛乳を市場に出してしまい、世間から厳しい批判を浴びた事件がありました。

彼らは、自社の常識なら絶対に役員に迎え入れないタイプの、口うるさい消費者運動の専門家を、経営の中枢に座らせざるをえなくなりました。

あるいは、漢字の検定を行っていた団体で、親子の理事による身内支配が問題になったケース。

監督する役所が動き、当時の理事親子は追い出され、団体と縁もゆかりもなかった外部の弁護士が、いきなり理事長の椅子に据えられ、組織の作り方そのものが、根本から組み替えられました。

どちらも、
「法的な手続き」

「理屈」
だけで起きた変化ではありません。

背中を押したのは、マスコミという拡声器、世論というどよめき、監督官庁という「見張り役」――組織の外側から吹き込んだ、相当に強い風でした。

一般の人が、自力でこの風を呼べるかというと、正直、かなり難しい。

風を呼ぶためには、相手の事情が、全国ニュースに載るほど世間の関心を集める必要があります。

これは、誰にでも登れる壁ではありません。

平たく言えば、
「組織の中の椅子」
を動かす外圧とは、めったに落ちてこない雷のようなものです。

雷を
「落としにいく」
ことはできます。

しかし、雷を呼び寄せる人生を続けるには、相当の体力と、相当の運が要ります。

雷が落ちる前に、あなたの人生のほうが先に終わってしまうことも、十分にあり得ます。

雷を待つあいだに、あなたはあなたの旗を立てられる

話を、明るい方向に戻します。

先ほどの2つの箱でいえば、じつは、
「同意のいらない世界」
のほうが、想像よりずっと広い。

自分たちでNPO法人を作って、啓発活動を始める。

現場で起きた実態を、冷静な記録として丁寧にまとめて発信する。

同じような悩みを抱える患者家族たちを集めて、情報を分かち合う勉強会を開く。

現状を憂えている専門家に声をかけて、ゆるやかなネットワークを作る。

自分のブログや講演で、経験と、そこから引き出した教訓を、こつこつと語っていく。

いずれも、相手の病院の許可は要りません。

相手の会社の同意も要りません。

監督官庁の鶴の一声も要りません。

あなたの意思と、あなたのお金と、あなたの時間さえあれば、明日にでも始められる話です。

ここで気づいていただきたいことがあります。

こうした活動を地道に続けている人たちこそが、結果として、先ほどの
「外からの強い風」
を作り出す当事者に、静かに育っていきます。

最初は一人きりで立てた小さな旗が、いつのまにか風を呼び、気がつけば、頑として動かなかったはずの組織の中の椅子すらも、ゆらゆらと揺れ始める。

これは、きれいごとではなく、わりと地味な、社会の仕組みの話です。

直接、相手の椅子を奪いにいった人ではなく、
「自分の旗を、自分の手で立て続けた人」
のところにこそ、いつか雷は近づいてきます。

「カネで動く話」と「カネでは動かない話」を、区別しておく

もう1つ、整理しておきたいことがあります。

「同意が要る話」
と一口に言っても、じつは、さらに2段階に分かれます。

1つは、
「カネで動く話」。

もう1つは、
「カネでは動かない話」
です。

たとえば、相手に
「うちのNPOに寄付してくれませんか」
と持ちかけるたぐいの話は、前者に入ります。

世間体、事業上の思惑、税制上の扱いなど、相手の側にも、首を縦に振る動機がそれなりに用意されていて、条件次第で、手を打ってもらえる余地があります。

一方、
「病院の運営に口を出させろ」
「組織の編制を変えろ」
といった話は、後者です。

これは、相手の組織の背骨そのものにかかわる問題です。

いくらお金を積み上げたところで、相手は、絶対に、首を縦には振りません。

背骨を抜かれるのは、組織にとって、死ぬよりつらい話だからです。

このあたりを、ごちゃまぜに語っていると、
「あの人たちは、お金でも動かない強欲な連中だ」
といった、ずいぶんゆがんだ被害者意識に行き着きます。

相手が動かないのは、強欲だからではありません。

そもそも、構造上、動きようのない話を持ちかけている、というだけのことです。

相手の性根が悪いのではなく、こちらが、交渉している階(フロア)を間違えている。

この一段深い見立てができるだけで、怒りの量と、その怒りの注ぎ先が、ずいぶん違って見えてきます。

自分のエネルギーは、「動かせる盤」に集中させる

怒りには、残念なことに、使える燃料に限りがあります。

「取れる果実」

「取れない果実」
を見分ける力のことを、古い言い方で
「大局観」
と呼びます。

遺産分割でも、離婚でも、労働紛争でも、企業間のもめごとでも、最終的にきっちり結果を出している人たちには、例外なく、この大局観があります。

大局観の中身は、意外なほど素朴です。

「自分の意思だけで動かせる盤」
と、
「相手の手を借りなければ動かない盤」
を、最初の3分で仕分ける。

そのうえで、自分の時間と、自分のお金と、自分の怒りのエネルギーを、
「動かせる盤」に7割、
「動かない盤」に3割、
くらいの配分で、黙って注ぎ込む。

多くの人は、これを、見事に逆にやってしまいます。

動かない盤に9割のエネルギーを叩きつけ、動かせる盤は手つかずのまま放置し、気づけば、疲れ果てた自分と、びくとも変わらない相手と、何もしなかった1年だけが、手もとに残ります。

賢い人は、これをやりません。

動かない盤のほうに、エネルギーを半分置いてきぼりにしてでも、動かせる盤で、静かに、自分の旗を立て続けます。

「勝つ」とは、相手を屈服させることではなく、自分の陣地を広げること

最後に、もう一段、視点を引き上げてみます。

多くの人は、
「勝つ」
という言葉を、
「相手を屈服させること」
と、同じ意味で使ってしまいがちです。

しかし、長く効いてくる勝ち方は、相手を屈服させることではありません。

「自分が、自分の意思と自分の力で、立てられる陣地を、一歩ずつ広げていくこと」
です。

相手の椅子を1つ奪うより、自分の椅子を3つ新しく置いたほうが、結果として、あなたの世界は、確実に広くなります。

そして、自分の椅子が増えていけばいくほど、皮肉なことに、かつてあれほど欲しかった相手の椅子が、だんだん、どうでもよく見えてきます。

本当に手が届きそうになった頃には、もう、欲しくなくなっている。

そんなことすら、普通に起こります。

組織の不祥事に腹を立てた患者家族が、最初は
「あの病院を、なんとかしてやりたい」
と言っていたのに、3年経って振り返ってみると、
「気がつけば、日本じゅうの病院の安全の基準を、少しずつ引き上げる方向に、自分の活動が効いていた」
という景色になっている。

これは、現実に、何度も繰り返されてきた話です。

「中に入れろ」
と叫んでいた人が、内側の論理に飲まれて、いつの間にかおとなしくなってしまった隣で、自分の旗をこつこつ立て続けた人が、外側の景色そのものを、静かに塗り替えてしまう。

これが、世間というものの、少し意地悪で、しかし、かなり正直な一面です。

今夜、紙の真ん中に、縦に一本、線を引いてみてください

もし今、あなたが、どこかの組織の理不尽にぶつかり、
「どう戦えばよいのか」
と胸ぐらをつかまれるような思いでいらっしゃるなら、今夜、白い紙と、ペンを一本、用意してみてください。

紙の真ん中に、縦に一本、線を引きます。

左側には、
「相手の同意がなくても、今の自分で始められること」
を、思いつくまま書き出します。

右側には、
「相手の同意がない限り、どうやっても動かないこと」
を、同じように書き出します。

書き終えたら、右側の項目には、ひとまず、そっと鉛筆でバツ印を置いておきましょう。

すぐに諦めろ、という意味ではありません。

「今夜、自分のエネルギーを注ぎ込む場所ではない」
という目印を、そっと置くだけです。

そうしたら、左側に並んだ項目を、上から順に、1つずつ眺めていきます。

おそらく、あなたが思っていたよりも、ずっと多くの選択肢が、そこにはあるはずです。

「戦う」
とは、相手の家のドアを蹴り破ることではありません。

自分の家を、相手より一歩早く、ほんの少しだけ広く、建てていくことです。

同意のいらない世界を、今日から、1つずつ、自分の手で広げていく。

ただ、それだけで、あなたの立ち位置は、昨日までとは違う場所に、静かに移り始めます。

著:畑中鐵丸

00256_通帳には出ない、でも確実に消えているお金の正体

時間と神経を、じわじわ吸い取っていく相手

お店を開いていたり、会社を経営していたりすると、ときどき、妙な
「相手」
が現れます。

「相手」
と書きましたが、言葉を変えると、
「やっかいごと」「悩みの種」。
正確には、

「時間と神経を吸い取る装置」
とでも言うべき存在です。

一度関わりを持ったが最後、電話・メール・来店・クレーム・面談――あらゆる入り口から、あなたの時間と神経を、じわじわと、静かに、吸い続けます。

取引先のこともあれば、近所の誰か、元従業員、クレーマーっぽい常連のこともあります。

姿かたちは違っても、その行動は、ほぼ同じです。

あなたの1日の中の
「本業に使えるはずだった時間」
を、音もなく吸い取っていくのです。

ある会社の社長が、弁護士に相談しました。

「もう半年以上、この案件で、部下まで振り回されています。先生、どうしたらいいでしょうか」

話を聞けば、現場の主力スタッフが、一週間の仕事時間のうちざっと半分を、この件の対応に取られている。

期間は、もう8ヶ月。

つまり、人員にして1.5人分が、まる8ヶ月、この案件に貼りついている計算です。

領収書の出ないお金が、いちばん怖い

これをお金に換算してみましょう。

社員ひとりあたりに会社がかけるコストを、月給・社会保険・諸経費あわせて月60万円とします。

1.5人月を8ヶ月ぶん積み上げると――だいたい、700万円です。

ところが、社長はこの数字を聞いても、顔色ひとつ変えませんでした。

なぜか。

実際には、この金額は通帳から消えていないからです。

領収書もありません。

振込先の口座番号もありません。

要するに、

「見えないお金」
は、脳みそが
「出費」
として認識しない、という少し困った性質を持っているのです。

しかし、確実に、財布の底からこぼれ落ちています。

このお金があれば、その会社はおそらく、もう1店舗、開けることができたでしょう。

社長の
「やっかいごと」「悩みの種」
は、未来の店舗を、静かに食べていたのです。

会社には、帳簿が2冊ある

私たちは
「お金がかかる」
と言われると、反射的に見積書や請求書を思い浮かべます。

紙に数字が書いてあって、印鑑が押してあって、振込先がついている――それが
「かかったお金」
だと、頭の中で決めつけています。

しかし、会社の帳簿には、実は2種類あります。

ひとつは、
「目に見える帳簿」。

もうひとつは、
「目に見えない帳簿」。

後者には、一見、ゼロにしか見えないものが、並んでいます。

やらなかった商談、開けなかった店、採らなかった人、作らなかった商品、書かなかった企画書。

やらなかったのだから、そこにはゼロしか並ばないように見えます。

しかし、本当に経営が上手な人は、そのゼロの後ろに
「取り損ねた利益の金額」
を書き込んで、読んでいます。

これが、
「機会損失」
という、帳簿に載らない概念の正体です。

経営がうまい人とそうでない人の差は、才能でも人脈でもありません。

「見えない帳簿」
を、毎朝、見える帳簿と同じくらい真剣に眺めているかどうか――ただ、その1点に、ほぼ集約されます。

値札には「表」と「裏」がある

さて、弁護士は社長の前に、3つの選択肢を置きました。
1 コストをかけない
手紙は自分たちで書いて、弁護士は赤ペンを入れるだけ。
顧問料の範囲内で、なるべく安くすませる案です。

2 弁護士名義で警告文書を一本出す
25〜30万円ほどで、こちらが本気であることを相手に見せる。
ただし相手が引き下がらなければ、その後の交渉は別料金。

3 裁判もにらんだ徹底的な文書で一発かまし、弁護士が交渉もまるごと引き受ける
着手金は約60万円。
決着すれば、同額ほどの報酬金が上乗せされる設計です。

数字だけ眺めると、ほとんどの経営者の心は、だいたい同じ方向へ動きます。

「とりあえず1で。だめなら2で。3は、いざとなったら、で」。

いかにも堅実で、まっとうな判断に見えます。

ここに、見落としやすい、もう一つの事実が隠れています。

「表の値札と、裏の値札の金額が、まったく違う」
というものです。

表の値札には、〇万円・〇〇万円という具体的な数字が書いてあります。

裏の値札には、
「この選択をしたとき、あと何ヶ月、この案件があなたの社員を吸い続けるか」
が書いてあります。

表と裏、両方を足したときに初めて、その選択肢の本当の値段になります。

「安い封筒」には、見えない請求書が同封されている

1を選んだとしましょう。

問題の構造はほとんど変わらないまま、社長と部下の時間が、また静かに溶け続けます。

8ヶ月の足踏みが、1年になり、1年半になります。

見えない帳簿に、ゆっくりと赤い数字が書き足されていきます。

しかし、この帳簿を音読してくれる人は、どこにもいません。

「会社がなんとなく疲れている」
「利益がなんとなく薄い」
という空気だけが、じわっと社内に広がっていきます。

2にも、実は、同じ問題が潜んでいます。

相手が一発の警告文書で引いてくれれば、25万円ですべてが終わります。

しかし、何年もかけてこちらに貼りついてきた手ごわい相手が、紙一枚でさっと引き下がるかというと――だいたい、引きません。

しかも、2から3へ途中で乗り換えると、最初から3を選んでいた場合よりも、合計のコストは高くつきます。

こちらが途中で
「弱気」
を見せた瞬間、相手はむしろ勢いづくからです。

3は、見た目にはいちばん高くつきそうです。

しかし
「金輪際、二度と近寄らせない」
という目的に限って言えば、これがいちばん安上がりだった――という結末は、現場では、もううんざりするほど見てきました。

医療で言えば、痛み止めと手術の話に似ています。

痛み止めを飲んだ瞬間、楽になったように感じます。

しかし、病気そのものは、静かに、深く、広がっていきます。

あとになって
「最初から切っておけばよかった」
と、誰もが気づく。

痛み止めが悪いわけではありません。

ただ、痛みを消すことと、病気を治すことは、別の話なのです。

「高い」と感じたら、まず実態を数字にせよ

もし目の前の弁護士の見積書の
「60万円」
を見て
「高い」
と感じたとします。

その気持ちのまま、5分、手を動かしてみてください。

白い紙を1枚用意して、次のように書きます。

「この件に、いままでに、うちの誰が、何時間を、何ヶ月、使ってきたか」

現場責任者の時間が、どれほどこの件で消えていったか。

その部下の時間が、どれほど巻き添えになっているか。

総務や経理の時間が、どれほど後始末に取られているか。

そして社長自身の時間が、どれほどこれに奪われているか。

それらに、会社がその人にかけている月額コストを掛け合わせてみます。

出てきた金額が、見積書の金額より大きければ――答えは自ずと出るでしょう。

60万円というのは、
「新しく発生する費用」
ではありません。

すでに溶け続けているお金を、これ以上溶かさないための値段です。

700万円の流出を、ここで断ち切るための、小さな装置です。

そう捉え直した瞬間、60万円という数字の印象は、がらりと変わります。

「安いほうを勧めてくる専門家」が、実はあなたの財布に遠慮がない

ここで、少しだけ、視点を変えてみましょう。

「結局、弁護士は、いちばん高いプランを勧めたいだけなのでは?」
と思われた方。

その警戒心は、まっとうです。

絶対に捨ててはいけない感覚です。

しかし現実は、この警戒心が思っているのと、わりと逆向きにできています。

本当に目先の売上だけを考える専門家ほど、1や2を、にっこり笑って勧めてきます。

案件がいつまでも終わらず
「また、ご相談に」
「また、ちょっと対応を」
と、繰り返し呼んでもらえるからです。

依頼者が完全に勝ちきる前に静かに長居するほど、その専門家の懐は、こつこつと温まっていきます。

逆に
「ここで、いっぺんに、きれいにケリをつけましょう」
と最初から言い切るタイプの人は、長期のリピーター収入を、自分から手放しにかかっています。

「売上欲しさに見える助言」
のほうが、じつは、依頼者のお財布の味方だったりする。

この少しねじれた関係に気づいておくだけで、専門家との付き合い方は、ずいぶん冷静になります。

お医者さんも同じです。

「痛み止めでしばらく様子を見ましょう」
とやさしく言い続けてくれるお医者さんより、
「これは、今のうちに取りましょう」
と一度厳しい顔を見せるお医者さんのほうが、じつはあなたの寿命の、静かな味方をしてくれていたりします。

経営者の本当の仕事は、「見積書の値段くらべ」ではない

経営者という仕事は、しばしば誤解されます。

「ムダなコストをいちばん上手に削る人が、いい経営者だ」
と。

もちろん、ムダを削るのは大事な仕事のひとつです。

しかし、それは、仕事の入り口にすぎません。

経営者の仕事とは、

「いま支払うお金」
と、
「支払わないことで静かに溶け続けていくお金」
と、
「将来、取りにいけたはずのお金」

この3つを同じ天秤に乗せて、値踏みをすることです。

これができる人のことを、世間は
「肝の据わった社長」
と呼びます。

肝というのは、じつは、性格のことではありません。

計算の精度のことです。

「まだ終わっていない案件」を一枚の紙に書き出す

最後に、小さな宿題をひとつだけ。

今夜、静かな時間に、白い紙を一枚用意してください。

一番上に、こう書きます。

「うちの会社で、8ヶ月以上、きれいに終わっていない案件は、何か」

該当するものを、思いつくまま並べます。

それぞれについて
「誰が、どのくらいの時間を、毎週、吸われているか」
を、感覚でかまわないのでとなりに書き添えます。

書き終わってから、電卓を軽く叩いてみてください。

たいていの場合、そこに出てくる合計金額が、いまの通帳から毎月、音もなく消えていっているお金の、本当の正体です。

そのうえで、もう一度、手もとにある見積書を眺めてみます。

数字の印象が、不思議と、がらりと変わっているはずです。

「動かない」
という選択にも、値札はちゃんとついている。

そしてその値札が見えるようになった瞬間から、経営者としてのあなたは、確実に一段、大きくなっています。

そのとき、まだ開けていない2つ目のお店の図面が、机のいちばん下の引き出しの中から、そろそろ、こちらを向いて、静かに見つめ始めているかもしれません。

著:畑中鐵丸

00255_離婚交渉で損をする人の共通点_「合計欄」を先に書かない

離婚の話し合いになると、夫婦だった二人が、急に、値踏みをする商人の顔になります。

交渉の俎上に、論点がずらりと並びます。

養育費、慰謝料、財産分与、年金分割。

ついでに、子どもの学費、支払いをいつまで続けるかという
「期間」
の条項まで、ぞろぞろと出てきます。

一つひとつの金額が大きいので、つい、項目ごとに勝ち負けをつけようとしてしまいます。

「養育費は、月いくらもらわないと気がすまない」
「慰謝料は、いくらは取らないと、割に合わない」

それぞれの論点のうえで、腕まくりをして、こちらが押し、相手が押し返す。

ところが、離婚交渉の本当の勝敗は、個別の項目の上ではなく、紙の一番下の
「合計欄」
で、静かに決まっています。

この一点が、腹に落ちているかどうか。

そこから先の1年、そして、その後の20年の暮らしの設計図が、静かに枝分かれしていきます。

「養育費」は、思ったほど、動いてくれない。

家庭裁判所の実務には、養育費について
「算定表」
と呼ばれる一覧が存在します。

中身は、ごくシンプルです。

縦の軸に、支払う側の年収。

横の軸に、もらう側の年収と、子どもの年齢・人数。

ぶつかったマス目に書いてある金額が、
「まあ、だいたい、このあたりが相場です」
という、ひとつの目安になります。

この算定表が普及してから、離婚の現場における感情的な混乱は、一定程度、鎮静化しました。

泣き叫ぶ人も、啖呵を切る人も、まあ、この表の前にくると、だいたい大人しくなります。

しかし、便利な道具は、使い手の思考をも、静かに縛ります。

当事者も、相手方の弁護士も、調停委員も、裁判官も、みんなこの表のマス目のうえで考えるようになりました。

つまり、
「算定表の水準から大幅に乖離した数字を勝ち取る」
という交渉が、著しく機能しにくくなった、ということです。

算定表上
「月10万円」
と評価される案件で、どんなに声を荒らげても、そこから
「月20万円」
までは、ほとんど動きません。

1つの論点として眺めると、いちばん目立つのに、いちばん押しても引いても動かない項目――それが、
「養育費」
です。

本当に動くのは、「慰謝料」と「財産分与」の項目のほう

一方、慰謝料や財産分与には、算定表も、共通の物差しも存在しません。

「これまでの結婚生活で、あなたはどれだけ我慢してきましたか」
「どれだけ家計に貢献してきましたか」
「どれだけ、心を削って、傷ついてきましたか」

これらに、明確な目盛りを当てようとする者は、どこにもいません。

つまり、この領域は、交渉次第で数字が大きく動く、余白の広い戦場です。

そして、この余白の中にこそ、交渉の本当の主戦場が、ひっそりと口を開けています。

値付けを組み替える――「A+B」を下げて、「C」を上げる

具体的な話をしましょう。

ある家庭の協議書の案が、こんなふうに組まれていた、としましょう。

子どもの養育費 = A円 + B円

財産分与    = C円

Aは本体の養育費、Bは学費などの加算分、Cは、まるごとの財産分与、というイメージです。

多くの人は、こう考えます。

「Aも上げたい。Bも上げたい。Cも上げたい。全部、勝ちたい」

全項目を同時に最大化しようとする戦法です。

たいてい、うまくいきません。

ところが、一歩引いて、こう考える人がいます。

「A+Bのほうは、算定表があるし、相手も突っ張ってくる。ここは、相手の言い分を、ある程度、飲んでしまおう。そのかわり、Cの項目の数字を、これまでの苦労や心労のぶんとして、しっかり上乗せしてもらおう」

ここで行われているのは、一見すると
「譲歩」
ですが、本質は
「組み替え」
です。

金額を、動かしにくい項目から、動かしやすい項目へ、そっくり付け替えている。

世間的には、
「A+Bで妥協した人」
に見えます。

しかし、通帳に入ってくる合計金額だけを静かに眺めてみると、前者より後者のほうが、ずっと多かった――という話が、実務の現場では、ごろごろあります。

離婚の協議書というのは、個別の数字の勝負ではなく、複数の項目を束ねた
「パッケージ全体」
の設計図の上での勝負なのです。

「項目ごとの勝ち負け」という、静かな落とし穴

なぜ、多くの人が、この単純な組み換えに、たどり着けないのでしょうか。

それは、私たちの脳は
「項目ごとの勝ち負け」
が大好きにできているからです。

相撲の星取表のように、一番一番に、勝ち負けをつけていかないと、気がすまない。

養育費で勝って、慰謝料で勝って、財産分与で勝って、年金分割で勝って――全勝しないと、心のほうが、落ち着いてくれない。

これは、人としてごく自然な感覚です。

しかし、交渉の技術としては、ほぼ、最悪の部類に入ります。

すべての項目で、同時に100点を取りに行く人は、たいてい、どの項目でも、60点ずつしか取れずに終わります。

逆に、
「ここは30点でもかまわない」
と、ひとつの論点をさっさと手放した人は、別の項目で140点を取って、トータルでは、170点を持って帰ります。

「140点なんて、ルール上あり得ないじゃないか」
と思われるかもしれません。

交渉の世界では、これが、わりと、ふつうに起こります。

「譲歩してくれた人」
には、相手のほうも、
「心理的にお返しをしたくなる」
という、人間としての小さな習性があるからです。

お店でいえば、
「おまけ」
のようなものです。

最初の値段そのままより、少しだけ値引きしてくれた店員さんのほうを、私たちは、なぜか、ずっと、よく覚えている。

そして、次もその店に、足を運んでしまう。

離婚の交渉テーブルでも、まったく同じことが起きます。

「1つも譲らなかった人」
は、結局、1つも、余分に持たせてもらえません。

もう1つの軸――「金額」と「条件」は、別ものとして読む

ここまでは、
「金額」
の話でした。

じつは、もう1本、別の軸があります。

それが、
「条件」
という、地味な軸です。

養育費には、
「月いくら払うか」
という数字と並んで、

・「いつまで払うか」
・「学費や習い事代は、どこまで別枠で請求できるか」
・「進学先が私立の場合は、どうするか」
・「海外留学となったら、誰が、どこまで負担するか」
といった、文章のほうの条件が、ずらりとくっついてきます。

多くの人は、ここの条項を、契約書の
「細字の部分」
として、さらっと流してしまいます。

しかし、腕のよい交渉者ほど、むしろ、ここに、いちばん時間をかけます。

なぜなら、条件の一行は、金額に換算すると、数百万円、場合によっては、1000万円以上に化けることがあるからです。

具体的に言えば、こうなります。

毎月10万円を、子どもが18歳になるまでもらうのと、毎月10万円を、大学卒業の22歳までもらうのとでは、合計で、およそ500万円近い差が出てきます。

月額を1万円上乗せする交渉よりも、
「大学卒業まで」
という、たった1行の文言を付け加える交渉のほうが、ずっと大きな金額を、静かに動かしているわけです。

ところが、月額を上げる交渉は、だれが見ても
「交渉している風」
に見えるのに、期間を延ばす交渉は、ひどく地味で、ほとんど、目立ちません。

相手も、
「月額1万円アップは絶対に許せない」
と激しく抵抗するのに、
「大学卒業まで」
という1行を書き換えられても、その場では、あまりピンときていない、ということが、じつは、よくあります。

ベテランの交渉者が、
「月額のほうは飲みましょう。そのかわり、条件のほうを、こう書き換えさせてください」
というトレードを好む理由は、ここにあります。

「合理的だが厳しい条件」を、先に置いておく――静かに効くカード

ここで、もう一段、現場の話をします。

書面に、
「合理的ながら、かなり厳しい条件」
を、こちら側から先に書き込んでおく、というやり方があります。

たとえば、

・「養育費の支払いは、成人までではなく、大学卒業まで」
・「私立進学の場合、学費の半額は別途負担」
・「海外留学・大学院進学の場合も、相当額は対象」
といった類いのものです。

どれも、それだけを取り出して見れば、それなりに、筋の通った合理的な条件です。

しかし、相手からすると、
「そこまでは、ちょっと・・・」
と、喉につっかえてくる項目が、いくつも混じっています。

このとき、腕のよい交渉者は、すましたまま、こう切り出します。

「月額のほうは、お相手のご提案を、そのまま受け入れましょう。そのかわり、この条件のほうは、全部、飲んでいただけますか」。

相手は、一瞬、ほっとした顔をします。

目先の、目に見えて動かしやすい
「月額」
で、こちらが大きく譲歩したように見えるからです。

ところが、紙面全体を、1年、3年、10年単位で合計してみると、勝ち負けは、とっくに、ひっくり返っていたりします。

「負けたように見える項目」
が、実は、
「いちばん取り分の多い項目」
だった――離婚交渉の世界では、そう珍しい結末ではありません。

なぜ、私たちは「見かけの勝ち」に目がくらむのか

ここで、少し本質的な問いに踏み込みます。

なぜ、多くの人は、
「見かけの勝ち」
に、こうも引きずられてしまうのでしょうか。

理由は、主に、2つあります。

1つ目は、感情です。

離婚の交渉というのは、ただのお金の話ではありません。

そこには、
「あんなに我慢したのに」
「あれだけ裏切られたのに」
という、巨大な感情の圧力が、蓄積されています。

この圧力は、
「月額15万円を勝ち取った」
という明快な一文に、強く反応します。

「支払期間を4年延長した」
とか、
「私立の学費は別枠にした」
といった、地味な一文には、ほとんど、反応しません。

結果、感情のほうが先に満足してしまい、頭のほうは、テーブルに置きっぱなしになります。

2つ目は、
「比べやすい数字」
への、小さな中毒です。

月額10万円と、月額15万円。

数字が隣に並んで書いてあると、だれでも一瞬で、
「5万円、勝った/負けた」
とわかります。

ところが、
「22歳まで」

「18歳まで」
は、ぱっと見ただけでは、いくら得なのか、いくら損なのか、電卓を叩かないと、頭に入ってきません。

この
「ひと手間」
の壁の手前で、ほとんどの人は、無意識のうちに、この論点を、そっと後回しにしてしまいます。

こうして、
「計算が面倒な論点」
は、誰にも争われないまま、放置されます。

その放置された論点の中に、実利の大部分が、静かに眠っている――離婚の現場で、何度も、何度も、繰り返されている光景です。

「合計欄」から逆算する――交渉のいちばん地味な極意

では、本当に賢い人は、どう考えているのでしょうか。

答えは、ほとんど拍子抜けするほど、シンプルです。

交渉前に、紙に書き出してみるのです。

「最終的に、私は、この話し合い全体から、いくらを持ち帰るのか」

この数字から、すべてを逆算していきます。

金額、期間、学費、年金分割、退職金の扱い、ローンの扱い――あらゆる論点を、いったん、バラバラに眺めたうえで、最後の
「合計欄」
にどれだけの数字を載せたいのかを、自分なりに、先に決めておきます。

あとは、その合計欄を、死守するゲームです。

Aの項目で譲ったぶんは、Bの項目か、Cの項目で、取り返す。

月額で譲ったぶんは、期間のほうで、取り返す。

期間で譲ったぶんは、学費の条項で、取り返す。

こうして、紙面全体を、ひとつのパッケージとして動かしていくのです。

離婚という、とても重い出来事のただなかで、こんな計算ばかりしているのは、冷たく見えるかもしれません。

しかし、これから先の10年、20年、子どもと一緒に暮らしていく自分の生活を、黙って支えてくれるのは、感情ではなく、この
「合計欄」
に書かれた数字のほうです。

感情は、3年もすれば、不思議と、形を変えていきます。

「合計欄」
に書いた数字は、30年、静かに、あなたの生活を支え続けます。

「勝ちすぎない」人のほうが、ほんとうに、勝っている

最後に、ひとつだけ。

離婚交渉で、最後まで穏やかに終わらせられる人は、実は、どの項目においても、相手を完膚なきまでに叩き潰そうとはしていません。

どこかで、
「ここは、お互い様ということにしましょうか」
と、論点をひとつ、相手の手元に、あえて戻してやる、その余裕を持っています。

これは、
「人間ができている」
という、きれいごとの話ではありません。

むしろ、極めて、冷たく、計算のきいた、戦略の話です。

相手が、交渉のどこかの場面で、
「あちらさんにも、少しは花を持たせてもらった」
と感じてくれた瞬間、その先の、あらゆる条項のニュアンスが、ふっと、やわらかくなっていきます。

逆に、
「何もかも、向こうに取られた」
と感じさせてしまった瞬間、相手は、支払いの1回目から、遅らせたり、滞らせたり、細かい嫌がらせをはじめたり、ということを、静かに、始めます。

離婚の協議書というのは、判を押して、それで終わり、ではありません。

そこから、10年、20年、下手をすると30年という、長い履行の時間が始まります。

「紙の上の勝ち」
が、
「毎月の支払い場面での、じわじわと続く負け」
に、ゆっくりと化けていく――これが、現場でいちばん、胸の痛む光景です。

すべての項目で1000点を取ろうとした人が、何年か経って、毎月の支払い遅延と、終わらない未収金の取り立てに追われて、もういちど、弁護士事務所のドアを叩きに来る。

そういう後日談は、残念ながら、1つや2つの話ではありません。

一方で、
「論点を一つ、そっと相手の側に残した人」
の協議書は、その後、毎月の振込予定日に、何ごともなかったかのように、淡々と、入金され続けます。

お子さんの進学や受験など、いざというときに、書面にはないちょっとした上乗せの申し出を、先方から自然にもらえたりすることさえ、あります。

今夜、紙とペンで、一度「合計欄」から書いてみる

最後に、実践的な問いを残しておきましょう。

紙を1枚、用意してください。

養育費の金額と期間、学費の取り扱い、慰謝料、財産分与、年金分割――すべての項目を、数字と短い言葉で、縦に書き並べます。

一番下に線を引き、
「合計」
と書く。

その合計欄は、まだ空欄のままでよい。

「どの項目をどう動かせば、この合計欄に、最大の数字を載せられるか」

それを、一晩、冷静に考える。

その一晩は、弁護士費用に換算すれば、相当の額に値します。

「養育費を上げろ」
と、声を張り上げる人は、交渉では、いちばん損をする人です。

「合計欄だけを、じっと見ている」
人は、交渉では、いちばん得をする人です。

そして、どちらの人になるかは、実のところ、交渉のテーブルにつく前夜、自室で一人静かに紙と向き合う30分に、すでに、ほぼ決まっている。

・・・これが、現場で繰り返し見てきた事実です。

著:畑中鐵丸

00254_「泣き寝入り」か「ケジメ」か_法の正義と、日本の現実の間で

「お金のためじゃない。ただ、きちんとケジメをつけたい」。

そう言える人でなければ、法律家の門を叩いてはいけない――。

ある弁護士が、依頼者への私信でそう綴りました。

これは過激な言葉でしょうか。

いいえ、むしろこれは、日本の司法制度の本質を突いた、静かで鋭い警告だと私は思います。

「正義」を求めた会社に起きたこと

ある会社が、犯罪被害を受けました。

詳細は伏せますが、従業員や取引先が傷つき、組織として無視できない損害が生じた、そういう類の事件です。

被害者側の会社は弁護士を立て、刑事告訴という手段を選びました。

刑事事件として警察・検察に動いてもらい、それを背景に加害者との示談交渉を進める、というプランです。

教科書的には、なかなか筋の良い戦略です。

ところが、現実はそうなりませんでした。

警察の動きは鈍く、起訴には至らず、不起訴あるいは執行猶予といった、いわば
「軽微扱い」
の方向で処理が進んでいく気配が漂い始めます。

刑事告訴というカードは、机の上で輝いていただけで、実際の交渉テーブルでは、ほとんど使えない状態になってしまったのです。

こういうとき、被害者はどうすればいいのか。

次の手として、民事訴訟という選択肢が浮かび上がります。

裁判所に損害賠償を求める、誰でも知っている
「法的手段」
です。

しかし弁護士は、この選択肢を安直に勧めませんでした。

日本の民事裁判は「やり得容認型」である

弁護士の言葉を、そのままの意味で受け取ってください。

「日本の民事裁判システムは、被害者に冷淡で、加害者に有利な、やり得容認型です」。

これは感情的な愚痴ではありません。

実務を積み重ねた専門家が、数字と経験から導き出した制度評価です。

勝訴は可能です。

しかし時間がかかり、手間がかかり、そして最後に判決が出ても、相手に支払う意思や財力がなければ、紙切れ一枚が手元に残るだけです。

強制執行という手段はあっても、財産が見当たらなければ絵に描いた餅です。

さらに言えば、検察官だって人間です。

被害者が声を上げても
「お金のために騒いでいるのだろう」
と冷ややかに見ることがあります。

被害者にとっては心外な話ですが、これもまた現実の一断面です。

正義を求めて動いた人間が、
「カネほしさに騒いでいる人」
と分類されるリスクが、日本の法実務の中には静かに潜んでいます。

「投資対効果」で法を考えてはいけない理由

ここで弁護士は、依頼者に向けて、非情な、しかし重要なことを言います。

「法的事件というプロジェクトは、一般の事業投資とは異なり、投資対効果という概念で割り切ることはできません。もし損得で考えるなら、泣き寝入りして株でも買っていた方が、よほど効率がいいです」。

これは逆説的な誠実さです。

弁護士は自分の依頼を減らすかもしれない言葉を、あえて言っています。

なぜか。

法的手続きを経済合理性だけで選ぶ依頼者は、途中で必ず
「こんなはずじゃなかった」
と言い始めるからです。

費用がかかった、時間がかかった、思ったほど取れなかった。

そして最後は、弁護士との関係がこじれる。

「お互いイヤな思いをする」
という言葉の裏には、そういう苦い経験の積み重ねがあるはずです。

弁護士が求めているのは、
「多少の面倒やコストは覚悟のうえで、法に照らしてきちんとケジメをつけたい。自分の力だけでは限界があるから、プロに任せたい」
という、明確な非経済的動機です。

この動機がある人だけが、法的手続きという長い旅路を、最後まで歩きとおせる。そういう意味での、資格審査とも言えます。

「費用」は信頼の代替である

弁護士はもう一点、率直に述べます。

「難易度やリスクとバランスが取れた費用を負担していただき、それをもって信頼関係の構築と考えるほかない」。

これは、弁護士が
「お金が大切だ」
と言っているのではありません。

費用を払うという行為が、依頼者の本気度と動機の明確さを示す、唯一の可視化手段だということです。

値段の安い弁護士を探し回る依頼者は、しばしばコスト意識より本気度の低さを示してしまいます。

逆に、相場をきちんと払う依頼者は、
「面倒やコストを覚悟している」
という意思表示でもあります。

廉価なサービスを求めるなら、他の選択肢も示す。

でも、劇的に安い場合はクオリティへの不安が生じる。

それも含めて、最終的には依頼者自身の選択だ、とこの弁護士は言います。

これほど誠実に、かつ正直に、現実を開示する専門家は、そう多くありません。

それでも、あなたは「ケジメをつけたい」か

損害賠償の相場は、後遺障害がなければ概ね百万円前後と言われます。

民事訴訟で勝訴しても、弁護士費用や時間的コストを差し引けば、純粋な経済的利益はほぼゼロか、マイナスになることすらあります。

国の犯罪被害者給付制度を活用する手もありますが、それも万能ではありません。

それでも人が法的手続きを選ぶとき、そこには
「損得を超えた何か」
が動いています。

社会の一員として、不正が不正のまま通り過ぎることへの違和感。あるいは、自分や組織への尊厳の問題。

「泣き寝入り」
という言葉が引っかかる感覚、それ自体が、法への扉を開く正当な動機です。

逆に言えば、その感覚がない人は、法律家を頼る前に、一度立ち止まって考えた方がいい。

「自分はなぜこれをやりたいのか」。

その問いへの答えが、法的手続きという旅を最後まで支える、唯一の燃料だからです。

日本の法制度は、完璧ではありません。

被害者が不利で、加害者が相対的に守られやすい構造は、制度設計の問題として長年指摘され続けています。

しかし、そのなかでも、誠実な専門家は存在します。

そして、誠実な専門家ほど、耳触りのいいことを言いません。

「それでもやりますか」
と問い返す弁護士の言葉は、冷たいようで、実はもっとも依頼者に寄り添った問いかけかもしれません。

正義を求めることは、安くありません。

しかし、ケジメをつけたいという意志は、値段では測れません。

その矛盾を静かに引き受けながら、法と向き合う人たちが今日もいる。

それが、日本の法実務の、もう1つの現実です。

著:畑中鐵丸

00253_退職後の競業禁止、その一文はあなたを縛れない_迫力だけの条項に、キャリアを預けるな

退職の挨拶が終わり、最後の荷物を段ボールに詰めた日。

1枚の書面が渡されることがあります。

「退職後2年間は、競合他社への就業を禁止する。違反した場合は、退職金を支払わない」

まるで、あなたのこれからの2年を、丸ごと人質に取ったような一文です。

競業避止義務条項。

退職した社員が、同じ業界や競合他社に転じることを制限する、契約上の縛りのことです。

ハンコを押した瞬間、あなたは、徐々に委縮していきます。

「やはり、同じ業界への転職は諦めるしかないか」
「昔の取引先に挨拶しに行くのも、まずいだろうか」
「声をかけてくれた元同僚との食事も、控えたほうが無難か」

その紙きれ1枚が、見えない檻を作り上げます。

しかし、少し立ち止まって考えてみてください。

その一文は、本当に、あなたを縛れるものなのでしょうか。

迫力と効力は、別の話

内閣府が2024年4月に公表した公式資料では、2つの事実が明記されています。

ひとつは、会社側の実態です。

「裁判例上どのように規定すれば有効になるのかが不明であるにもかかわらず、無効になる可能性を理解している場合であっても、敢えて牽制的に広範な定めにする場合がある」

会社側は、有効かどうかは二の次で、とりあえず広範に書いておく。

もうひとつは、労働者側の心理です。

「退職後の競業避止義務規定が無効になる場合があることを認識していたとしても、広範な定めが記載されていることにより不安になる」

労働者は、
「とりあえず広範に」
書かれたものについて、不安になるのです。

東京高裁は2012年、外資系生命保険会社の元執行役員が退職金の支払いを求めた事件で、
「保険業界では営業成績に人脈などが大きく影響するが、男性の努力で獲得したノウハウの流出を禁止することは、正当な目的とは言えない」
と判断しました。

条項は無効、退職金約3千万円を支払え、という結論です。

条項の迫力は、読んだ人間を黙らせるために存在しています。

中身を検証しないまま委縮する人には効き、検証した人にはそれほど効かない、といえます。

「無効」と「有効」を分ける、見えない線

では、競業避止条項はすべて無効なのかというと、そうではありません。

裁判所はこの種の条項を判断するとき、いくつかの物差しを当てます。

・守るべき正当なビジネス上の利益があるか
・禁止する職種・業種の範囲が広すぎないか
・禁止期間が長すぎないか
・禁止に見合った代償(手当や上乗せ退職金など)が支払われているか

このうちのどれかが欠けると、条項は
「行き過ぎ」
と判断されます。

たとえば、
「退職後2年間、同業他社は一切禁止」
と書いてあっても、その条項が一般の営業社員にまで広く適用され、特別な代償もなく、範囲も期間も際限なく広いとなれば、裁判所は
「これは個人の職業選択の自由を侵すものだ」
と判断する可能性が高くなります。

要するに、紙に書いてあることではなく、裁判所がその内容を
「正当だ」
と認めるかどうかです。

書いた側は条項を使いたいのか

ところで、競業避止条項を契約書に書き込んだ会社は、その条項を本気で使いたいと思っているでしょうか。

実務のプロからみると、たいていの場合、答えはノーです。

訴訟を起こすには、費用と時間がかかります。

しかも相手が
「条項は無効だ」
と反論してきたとき、裁判所がそれを認めれば、会社のほうが恥をかく羽目になります。

「元社員を訴えた会社」
という評判が業界に静かに広まれば、次の採用にも、取引先との関係にも傷がつきます。

さらに言えば、逆撃というリスクもあります。

会社が条項を根拠に強硬手段に出れば、相手方に弁護士がつき、そもそもこの条項は無効ですと裁判所に判断を仰ぐ展開になりかねない。

無効の判決が出れば、会社は、条項そのものの存在を否定された格好になります。

つまり、条項を
「本当に使う」
コストは、条項を
「書いておくだけのコスト」
よりも、圧倒的に高いのです。

だから多くの会社は、
「書いておく」
ことで、抑止力を得ようとします。

相手が自分から委縮してくれれば、それが低コストで有効な使い方というわけです。

「気にはする。でも、委縮しない」という距離感

では、手元に競業避止条項の誓約書があるとき、どう振る舞えばよいのでしょうか。

1 条項があること自体は「ちょっとは気にした方がいい」

これは無視してよいという意味ではありません。

条項の内容によっては有効と判断されるケースもゼロではなく、何より紛争になること自体がストレスの塊です。

書いてあることへの最低限の敬意は、社会人として持つべきものです。

2 だからといって「委縮する必要はない」

条項が怖いからと、同じ業界を避け、昔の取引先とも距離を置き、せっかく声をかけてくれた会社の内定まで断ってしまう――それは、自分のキャリアを自ら狭めているにすぎません。

しかも、その条項が本当に有効なのかを検討しないまま、相手の意図どおりに萎縮してしまっている可能性があります。

3 グレーゾーンには、グレーゾーンなりの立ち回り方がある

たとえば、旧来の取引先と接触するにしても、書面やメールなど証拠として残りやすい形での勧誘行為は避けること。

こうした知恵は、条項の外形に配慮しながら合理的に動く、大人のやり方です。

職業選択の自由は、あなたが思う以上に、頑丈にできている

職業選択の自由は、日本国憲法に定められた基本的権利です。

これはお飾りの言葉ではありません。

裁判所はこの自由を制限する契約条項に対して、
「よほどの合理性がなければ認めない」
というスタンスを、長年にわたって保ってきました。

個人が会社との契約で憲法が保障する自由をあっさり手放せては困る、という判断があるからです。

あなたが長年かけて積み上げた業界知識、人脈、スキル、経験――これらは、会社が
「うちのものだ」
と言い張っても、本来はあなた自身の汗と時間と才能が生み出したものです。

前述の東京高裁の判断が示したのも、まさにその一点です。

法律というものはどこか冷たく難解で、自分の味方には思えないことがあります。

しかし、こと職業選択の自由に関しては、裁判所は、かなりしっかり、個人の側に立ってくれています。

怖い紙を、正しく怖がる

競業避止条項は、確かに
「怖い紙」
に見えます。

しかし、その怖さの大部分は、中身を検証しないまま、書いてあるという事実だけで委縮してしまう、読み手側の思い込みによって成立しています。

条項の有効・無効を判断する物差しがある。

裁判所は過去に
「無効」
の判断を下してきた。

会社側も、本気で訴追することのコストとリスクを承知している。

これらを踏まえたうえで、
「正しく怖がる」
ことが重要です。

怖がらないのは無謀。

しかし怖がりすぎて自ら可能性を閉ざしてしまえば、それこそ相手の思うつぼです。

自分の人生の主導権まで、辞める会社に明け渡してしまうことになりかねません。

著:畑中鐵丸

00252_週刊誌に書かれた「嘘」。怒りは正当でも、名誉毀損は成立しないことがある

週刊誌に事実と異なる内容を書かれた場合、
「名誉毀損」
として法的に争えるのでしょうか。

「嘘を書かれた」
ことと
「名誉を傷つけられた」
ことは、法律の世界では必ずしも同じではありません。

法的に争えるのか、争えないとすれば何ができるのか。

名誉毀損が成立する条件と、裁判によらない実践的な対処法を整理します。

<事例/質問>

週刊誌に、自分のことが書かれました。しかも、事実と違う内容で。

「上級生がやっかんで嫌がらせを繰り返し、彼女は転校に追い込まれた」

こんな一文を、全国に向けてばらまかれました。「これは嘘だ。訂正させたい。謝罪させたい」という気持ちは抑えられません。法的に、相手を訂正・謝罪させることはできるのでしょうか。

<弁護士畑中鐵丸の回答・アドバイス・指南>

「嘘を書かれた」と「名誉を傷つけられた」は、別の話である

「名誉毀損」
という言葉を、多くの方はなんとなく
「悪口を書かれること」
だと理解しています。

しかし法律が
「名誉毀損」
と呼ぶのは、もう少し絞り込まれた概念です。

鍵になるのは、
「その人の社会的評価が、下がったかどうか」
という点です。

「あの人はお金を横領した」
と書けば、その人の社会的評価は確実に下がります。

「あの人は不倫をしていた」
と書けば、場合によっては評価を下げるかもしれません。

では
「上級生の嫌がらせが原因で転校した」
という記事は、どうでしょうか。

この記事で評価が下がるのは、嫌がらせをした上級生と、それを放置した顧問です。

当事者本人は、記事の中では
「被害者」
として描かれるでしょう。

しかし、
「嘘だ」
と憤る当事者の感情と、法律の判断は、この点で食い違います。

嘘を書かれた本人の社会的評価は、法律の目には
「下がっていない」
と映るのです。

「嘘を書かれた」
ことと、
「名誉を傷つけられた」
ことは、かならずしも一致しないのです。

強ければ強いほど、傷つく――名誉毀損の、釈然としない逆説

1点だけ、名誉毀損が成立する余地を探すとすれば、次のようなロジックはあります。

仮にその人が、
「精神的にも肉体的にも、オリンピックで金メダルを狙えるほど強い人だ」
という社会的なイメージを持たれていたとしましょう。

そのイメージの上に、
「嫌がらせ程度で転校した」
という話が重なると、世間はこう思うかもしれません。

「そんなに強い人が、それくらいのことで?」
と。

このとき初めて、
「その人の社会的評価が下がった」
という主張が成り立つ余地が生まれます。

しかしここで、見過ごしがたい逆説が浮かび上がります。

普通の人なら名誉毀損にもならない記事が、強さのイメージが強い人ほど、深く刺さる。

「強い」
という評判が高ければ高いほど、
「弱さ」
を示唆する記事のダメージが大きくなる。

強さが、弱点になる。

釈然としない話ですが、これが名誉毀損をめぐる法律の論理です。

そして、この論理を裁判所に認めてもらうのは、非常に難しいのが現実です。

「強さのイメージが傷ついた」
という主張は、証明は難しく、裁判所が認定することは稀です。

「裁判で勝てない」は、「黙っていい」とは違う

「法的には難しいですね」
と言われると、多くの方は肩を落とします。

「では、泣き寝入りするしかないのか」
と。

しかし、

「裁判で強制的に訂正させること」
と、
「相手に訂正を申し入れること」
は、まったく別の話です。

裁判所が訂正を命じることは、たしかに難しい。

しかし、
「この記事は事実と異なります。訂正を求めます」
と文書で申し入れること、これは今日からでもできますし、やるべきです。

週刊誌の編集部というのは、
「面倒な相手だ」
と思ったとき、ひっそりと態度を変えることがあります。

訴えられるかどうかより、
「この人は、黙っていない」
という認識が、彼らの行動を変えるのです。

「無反応」が、書いた側を大胆にする

週刊誌というのは、ある種のギャンブルで動いています。

書いて売れれば儲かる。

クレームが来なければ、それでよし。

この構造の恐ろしいところは、書かれた側の沈黙が、書いた側の行動を後押しすることになる点です。

何も言ってこなかった、ということは、
「この人は怒らない」
「この人は訴えてこない」
というデータが、編集部の中に蓄積されていきます。

「次の記事では、もう少し大胆に書いてみようか」
と。

一方、
「この記事は事実と異なります。訂正を求めます」
と、きちんと文書で申し入れた相手には、編集部内でこういうメモが回ります。

「この人は、動く人だ」
と。

これが牽制になります。

裁判で勝てなくても、
「面倒な人だ」
という評判は、将来の記事を抑止する効果を持ちます。

これは感情論ではなく、冷静なリスク管理の話です。

申し入れは、戦いの準備でもある

もう1つ、地味ながら大切なことがあります。

「事実と異なる。訂正を求める」
と申し入れた場合、相手の編集部は内部で必ず何らかの判断をします。

「放置するか」
「訂正するか」
「謝罪するか」。

「放置する」
という選択をした場合でも、その判断は組織の中に記録として残ります。

仮にその後、法的手続きに進む場面が来たとき、
「申し入れたにもかかわらず、無視された」
という事実は、裁判の中で重い意味を持ちます。

申し入れは、単なる感情の吐き出しではありません。

それは証拠を積み上げる行為であり、将来の交渉の布石であり、相手を萎縮させるカードでもあります。

「黙るかどうか」は、あなたが決められる

ここで、論点を整理しておきましょう。

裁判で
「名誉毀損だ」
と認めさせ、強制的に訂正・謝罪をさせること。

これは、法律上の要件を満たすことが難しく、現実的ではありません。

しかし、
「事実と異なる。訂正を求める」
と相手に伝えること。

これは、今日からでもできますし、やる意味は十分あります。

動くことで生まれる効果は、3つあります。

1つ目は、相手が実際に訂正・謝罪をしてくれる可能性があること。

2つ目は、
「この人は黙っていない」
という認識が相手の中に生まれ、今後の記事を抑止できること。

3つ目は、万一その後に法的手続きに進む際、
「申し入れ済み」
という事実が証拠として機能すること。

「裁判で勝てそうにないから、何もしない」
という選択が、実はいちばんコストの高い選択かもしれません。

週刊誌に書かれたとき、法律の世界で
「名誉が傷ついた」
かどうかは、思ったより繊細な問題です。

しかし
「黙っているかどうか」
は、あなたが決められる問題です。

そして、その選択が、あなたへの扱われ方を、静かに、しかし確実に変えていきます。

著:畑中鐵丸

00251_相続_「高い」「安い」は議論ではない_遺産交渉で最初に問われる、あなたの「値札を書く覚悟」

お葬式から帰った夜。

まだ線香のにおいが服に染みついているうちに、リビングの座卓の上で、不動産屋ごっこが始まることがあります。

「このマンションの査定は高すぎる」
「軽井沢の別荘は、もっと安く見るのが筋だろう」

さっきまで棺の前で目を腫らしていた兄弟姉妹が、急に査定士のような顔で数字を取り合う――どこかで覚えのある風景かもしれません。

話し合いは、たいてい堂々めぐりのまま夜が更けます。

誰がどの不動産を引き取るか、いくらが公平な値段なのか、議論は平行線をたどり、決着がつかないまま何か月も過ぎていく。

そうなると、誰かがついに家庭裁判所の門を叩くことになります。

まず
「調停」
という場が設けられ、調停委員を挟んだ話し合いが続く。

それでも折り合えなければ
「審判」
に移行し、裁判官が分け方を決めます。

その瞬間から、居間の言い合いは
「主張」
として裁かれることになります。

裁判所は、このやりとりにきわめて冷たい目を向けています。

 「高いだ、安いだ、と文句だけ並べる人の話は、そもそも聞くに値しない」

これが、現場で遺産分割を裁いてきたプロたちの、共通の肌感覚です。

「評論家席」に、交渉の椅子はない

世の中には、評論家席が大好きな人がたくさんいます。

テレビの解説者のように、
「あの政策は失敗だ」
「この経営判断は甘い」
と、腕を組んで首を振ってみせるのは、誰にでもできます。

ところが、
「では、あなたならどうしますか」
と問い返された瞬間、彼らはたいてい黙り込みます。

評論家は、責任をとらないから評論家なのです。

責任をとらなくてよい立場から、責任をとる人の判断に点数をつけるだけ。

これは、ある意味で安全な商売です。

しかし、遺産分割は違います。

ここには、評論家席はありません。

全員が、自分の口から
「いくらで、何を、どう引き受けるか」
を名指しで言わなければならない。

責任と切り離された意見は、テーブルに置かれた瞬間、ただの独り言として聞き流されます。

「兄の出してきたマンションの値段は高すぎる」
と声を荒らげる人に、裁判所がまず返す一言は、
「では、あなたはいくらなら引き取りますか」
です。

ここで詰まった人は、もう土俵の外にいます。

裁判所のたった一つの物差し――「文句」か「値札」か

裁判所が相続人を見るとき、じつは、ものすごく単純な1つの物差しで判定しています。 それは、
「具体的な清算条件を、自分の口から出せるかどうか」。

「高い」
という文句を言うのであれば、
「では、こちらが○○円でお引き受けします」
と、その場で値札を書けなければならない。

「安い」
という文句を言うのであれば、
「では、こちらは○○円でお譲りします」
と、その場で売り札を書けなければならない。

この
「値札」
を出せる人だけが、裁判所の土俵に上がる資格を与えられます。

それ以外は、
「不服申立て」
ではなく、ただの
「ぼやき」
として処理される、というのが実務の暗黙ルールです。

オークション思考の放棄――吊り上げ競争でも、値引き合戦でもない

遺産分割を、オークションだと勘違いしている人がいます。

サザビーズの会場のように、手を挙げ、声を張り上げ、値段を吊り上げていくゲーム。

反対に、中古品売場の値引き交渉のように、ひたすら
「安くしろ」
と詰め寄るゲーム。

どちらも、筋違いです。

裁判所は、このたぐいの駆け引きを、不健全なものとしてはっきり嫌います。

なぜなら、そこには、
「この財産を、最終的に誰が、どういう条件で引き受けるのか」
という、肝心かなめの議論がないからです。

財産には、必ず
「持ち主」

「果実」

「負担」
がセットで付いてきます。

マンションひとつ取っても、所有権という看板の裏側には、家賃収入という果実、管理費と修繕積立金という負担、固定資産税という義務が、黙ってぶらさがっています。

これを、同じ人が丸ごと引き受ける――これを、法律家は
「帰属清算」
と呼びます。

果実だけ欲しがり、負担は他人に押し付けたがる人は、この時点で相手にされません。 「この条件で、丸ごと私が引き取ります」
と言える人が、最終的には一番強い。

強いふりをしている人ではなく、覚悟を決めた人が強い、ということです。

「カネの塊」と「思い出のモノ」――財産には2つの顔がある

もう1つ、混乱の原因になっている大事な論点があります。

財産には、大きく分けて2つの顔があるのに、それを同じ顔として扱ってしまう癖です。

都心のマンションは、典型的な
「カネの塊」タイプ。

持ち主の顔ぶれが変わっても、家賃と管理費の収支さえ回れば、機能的にはびくともしません。

感情の入る余地が少ないぶん、数字で割り切れます。

一方、軽井沢の別荘のような物件は、
「思い出のモノ」タイプ
に近い。

夏休みに家族で過ごした庭、父が選んだ暖炉、母が毎年手入れしていた花壇――これらは、固定資産税評価額では測りきれません。

同じ
「不動産」
という一言でまとめるから、話がこじれます。

さらに言えば、誰がいくらの値をつけるかは、数字の問題であると同時に、家族へのメッセージでもあります。

軽井沢の別荘に、市場価格どおりの冷たい値札を貼る人は、
「この家に思い出などない」
と宣言しているに等しい。

逆に、マンションに感情論を持ち込みすぎる人は、
「私は、カネの塊をカネの塊として扱えません」
と自己申告しているのと同じです。

2種類の財産には、2種類の物差しを。

この切り替えを自然にできる家族だけが、遺産分割を美しく終わらせられます。

遺産分割にも、料理の順番がある

料理と同じで、遺産分割にも、手を付ける順番があります。

この順番を守らないと、せっかくの素材を全部ダメにしてしまう。

まず最初にすべきは、故人の
「個人」
の財布と、故人が関わっていた
「法人」(事務所や会社)
の財布を、きっちり切り離すこと。

同じ名前の看板が掛かっていても、法人は法人、個人は個人です。

これを混ぜたまま分け始めると、あとから包丁が入らない塊になります。

次に、葬儀代を精算する。

これは、故人が生きていれば当然に負担していたはずの、最後の出費。 ここで変な遠慮や見栄を挟むと、後で必ず遺恨になります。

そのあとで、預貯金・有価証券といった
「数字で処理できる資産」
に手を付ける。

動産は、主観的価値が入り込みやすいので、原則として折半。

最後に、不動産と、その果実(家賃)・費用(管理費)を丸ごとセットで誰に帰属させるかを決める。

この順番で1つずつ片付けていくと、霧が晴れるように全体像が見えてきます。

逆に、いきなり
「軽井沢の別荘をどうするんだ」
と大物から始めると、そこで全員が立ち往生し、ほかの論点まで巻き添えで止まってしまう。

遺産分割における
「最初の一手」
は、派手な一点突破ではなく、地味な切り分けである――これが、実務の極意です。

特別受益の持戻し――「生前にもらった分」を、見なかったふりはできない

もう1つ、忘れてはいけない論点があります。

「特別受益の持戻し」。

少し固い言葉ですが、中身は極めてフェアなルールです。

要するに、
「生前に多めにもらっていた分は、相続の時に一度テーブルに戻してから、改めて分け直しましょう」
という話。

長男が、家を建てるときに父から3千万円の援助を受けていたとします。

援助を受けたこと自体は、悪でも何でもありません。

親が、自分の意思で、自分の財布から出した、家族への贈り物です。

ただし、相続のときに、
「3千万円はなかったことにして、残りの財産を均等に分けよう」
と言い出すのは、さすがに虫がよすぎる。 持戻しというルールは、この「虫のよさ」を、矯正する仕組みにすぎません。

これを見て見ぬふりをしたまま、形式的な「頭数割り」だけで話を進めようとすると、どこかで必ず、長年うっすら抱いていた
「自分だけが軽く扱われている」
という感情の方が、数字より先に爆発します。

このような次第で、たとえば、
「長男30、次男70」
といった、一見偏った配分比率が出てきた場合、それは多くの場合、単なる力関係ではなく、特別受益の持戻しを丁寧に反映した結果であることが少なくありません。

持戻しとは、家族の中で、
「過去の贈与」

「今の公平」
に翻訳し直す、翻訳作業のようなものです。

最後に問われるのは、あなたの「覚悟」である

話をまとめましょう。

遺産分割で、最終的に取り分を守るのは、声の大きい人ではありません。

涙の量が多い人でもありません。

「具体的に、いくらで、何を、どの負担と一緒に引き受けるか」
を、自分の口で、名前入りで語れる人です。

「高い」
「安い」
は、幼児でも言えます。

「だったら、私はこの条件で引き受けます」
は、覚悟のある大人にしか言えません。

そして、裁判所も、相手方も、兄弟姉妹も、弁護士も――この覚悟の有無を、驚くほど冷静に、そして一瞬で見抜いています。

もし今、あなたがご家族の遺産分割の渦中にいるなら、今夜、紙とペンをいちど用意してみてください。

その紙の上に、全ての物件について、
「私はこの財産を、○○円で、こういう負担条件とセットで引き受けます」
と、自分の値札を書いてみる。

書けた時、あなたは初めて、本当の意味で交渉のテーブルに着いています。

書けなかった時は――まだ、評論家席から降りられていません。

相続というのは、遺産をどう分けるかの話であるのと同時に、自分がどの席に座る人間なのかを、静かに問われる通過儀礼でもあるのです。

著:畑中鐵丸

00250_「了解、もらってます」_伝言を一度通過するだけで、言葉は別物になる

「了解もらってます」の構造

たとえば、ビジネスの現場で、仲介者が
「相手も乗り気です!」
と報告してくることがあります。

あるいは、電話の向こうから、
「先方からは、もう、ご了解いただいておりますので。あとは、あなたさえよろしければ」
明るく、確信に満ちた声で、いわれるとき。

このたぐいの言葉を耳にした瞬間、あなたは
「本当か」
と問い返す間もなく、頭がその話を既成事実として受け取り、
「ああ、そうですか」
と答えてしまいそうになりませんか。

ところが、電話を切ったあと、先方に直接確認を入れてみると、こういう返事が返ってくることがあります。

「えっ。なんの話ですか。私、『いいよ』と申し上げた覚えはないのですけれど」

「了解」の中身は3つ――事実、思い込み、でっち上げ

「先方から了解をもらっています」
という言葉の裏には、次のどれかが隠れています。

1つ目は、先方が実際に
「いいですよ」
と明言していた場合。

2つ目は、
「まあ、考えておきますね」
程度の返事だったにもかかわらず、伝える側の頭の中で
「了解」
に書き換えられた場合。

3つ目は、そもそも先方ときちんと話ができていないのに
「『先方から了解をもらった』と言えば、話は通るだろう」
と、伝える側が見切り発車している場合。

実際のところ、多いのは2つ目と3つ目で、1つ目は少数派です。

ところが、聞いた側からすると、この3つの区別がつきません。

どの場合でも、伝えてきた人の声には同じ明るさと同じ確信がこもっているからです。

確かめない遠慮は、つけ込まれる

ここで多くの人がためらいます。

「わざわざ先方に確認を入れるのは、相手を疑っているようで失礼ではないか」
と。

この遠慮こそが、問題です。

伝言の途中でこっそり話を盛る人間にとって、いちいち確かめてこない相手ほど扱いやすい客はいません。

「他人の言葉を鵜呑みにする」
というのは、ビジネスにおいては、リスクを伴う行為なのです。

確認するとは、疑うことではありません。

「あなたが伝えてくださった話を、齟齬なく受け取りたい」
という、最も丁寧な作法です。

実際、
「念のため、先方にも私からひと言入れさせていただいてよろしいですか」
このひと言を添えたとき、相手の顔色がやわらぐか曇るか、どちらかに分かれます。

その反応が、こちらにとって最も信頼できる情報です。

「直(チョク)」で確認するまでは、すべて「幻(まぼろし)」

私が以前経験した案件でも、似たようなことがありました。

ある仲介者から 
「相手方の了解を得られたので、具体的な相談を進めてほしい」 
と打診がありました。

普通なら、そこで動き出すところですが、私は性悪説の権化のような弁護士ですので、念のため、相手方ご本人に直接確認を入れました。

すると、どうでしょう。

ご本人曰く、 
「え? 許諾を与えた認識なんて、これっぽっちもありませんよ」 
とのこと。

これが現実です。

仲介者が言っている 
「OKもらいました」 
は、 
「挨拶したら、無視されなかった」 
程度の意味しかない場合が多々あるのです。

「了解もらってます」と聞いたときにやること

このセリフを耳にしたとき、やることは3つです。

まず、
「ありがとうございます」
と普通に相づちを返します。

ここで、必要以上に同調する必要はありません。

次に、
「念のため、私からも先方にひと言入れますね」
とさらりと添えます。

そして最後に、直接、先方の
「了解」
を確かめます。

この3つ目を面倒くさがらずにできる人ほど、リスクを避けられます。

さらに言うなら、
「念のため、先方にもご挨拶を」
と品よく添えながら、確認を相手に気取られないほど自然に組み込める人は、丁寧さの裏で、最もしたたかに確認をしています。

丁寧さとしたたかさは矛盾しません。

愛想よく確かめない人が損を引き受け、にこやかに確かめる人が損を避ける。

長いビジネスの現場で生き残っている人は、たいてい、この2つを持っています。

著:畑中鐵丸