00261_離婚交渉で損をする人の共通点_「合計欄」を先に書かない

離婚の話し合いになると、夫婦だった二人が、急に、値踏みをする商人の顔になります。

交渉の俎上に、論点がずらりと並びます。

養育費、慰謝料、財産分与、年金分割。

ついでに、子どもの学費、支払いをいつまで続けるかという
「期間」
の条項まで、ぞろぞろと出てきます。

一つひとつの金額が大きいので、つい、項目ごとに勝ち負けをつけようとしてしまいます。

「養育費は、月いくらもらわないと気がすまない」
「慰謝料は、いくらは取らないと、割に合わない」

それぞれの論点のうえで、腕まくりをして、こちらが押し、相手が押し返す。

ところが、離婚交渉の本当の勝敗は、個別の項目の上ではなく、紙の一番下の
「合計欄」
で、静かに決まっています。

この一点が、腹に落ちているかどうか。

そこから先の1年、そして、その後の20年の暮らしの設計図が、静かに枝分かれしていきます。

「養育費」は、思ったほど、動いてくれない。

家庭裁判所の実務には、養育費について
「算定表」
と呼ばれる一覧が存在します。

中身は、ごくシンプルです。

縦の軸に、支払う側の年収。

横の軸に、もらう側の年収と、子どもの年齢・人数。

ぶつかったマス目に書いてある金額が、
「まあ、だいたい、このあたりが相場です」
という、ひとつの目安になります。

この算定表が普及してから、離婚の現場における感情的な混乱は、一定程度、鎮静化しました。

泣き叫ぶ人も、啖呵を切る人も、まあ、この表の前にくると、だいたい大人しくなります。

しかし、便利な道具は、使い手の思考をも、静かに縛ります。

当事者も、相手方の弁護士も、調停委員も、裁判官も、みんなこの表のマス目のうえで考えるようになりました。

つまり、
「算定表の水準から大幅に乖離した数字を勝ち取る」
という交渉が、著しく機能しにくくなった、ということです。

算定表上
「月10万円」
と評価される案件で、どんなに声を荒らげても、そこから
「月20万円」
までは、ほとんど動きません。

1つの論点として眺めると、いちばん目立つのに、いちばん押しても引いても動かない項目――それが、
「養育費」
です。

本当に動くのは、「慰謝料」と「財産分与」の項目のほう

一方、慰謝料や財産分与には、算定表も、共通の物差しも存在しません。

「これまでの結婚生活で、あなたはどれだけ我慢してきましたか」
「どれだけ家計に貢献してきましたか」
「どれだけ、心を削って、傷ついてきましたか」

これらに、明確な目盛りを当てようとする者は、どこにもいません。

つまり、この領域は、交渉次第で数字が大きく動く、余白の広い戦場です。

そして、この余白の中にこそ、交渉の本当の主戦場が、ひっそりと口を開けています。

値付けを組み替える――「A+B」を下げて、「C」を上げる

具体的な話をしましょう。

ある家庭の協議書の案が、こんなふうに組まれていた、としましょう。

子どもの養育費 = A円 + B円

財産分与    = C円

Aは本体の養育費、Bは学費などの加算分、Cは、まるごとの財産分与、というイメージです。

多くの人は、こう考えます。

「Aも上げたい。Bも上げたい。Cも上げたい。全部、勝ちたい」

全項目を同時に最大化しようとする戦法です。

たいてい、うまくいきません。

ところが、一歩引いて、こう考える人がいます。

「A+Bのほうは、算定表があるし、相手も突っ張ってくる。ここは、相手の言い分を、ある程度、飲んでしまおう。そのかわり、Cの項目の数字を、これまでの苦労や心労のぶんとして、しっかり上乗せしてもらおう」

ここで行われているのは、一見すると
「譲歩」
ですが、本質は
「組み替え」
です。

金額を、動かしにくい項目から、動かしやすい項目へ、そっくり付け替えている。

世間的には、
「A+Bで妥協した人」
に見えます。

しかし、通帳に入ってくる合計金額だけを静かに眺めてみると、前者より後者のほうが、ずっと多かった――という話が、実務の現場では、ごろごろあります。

離婚の協議書というのは、個別の数字の勝負ではなく、複数の項目を束ねた
「パッケージ全体」
の設計図の上での勝負なのです。

「項目ごとの勝ち負け」という、静かな落とし穴

なぜ、多くの人が、この単純な組み換えに、たどり着けないのでしょうか。

それは、私たちの脳は
「項目ごとの勝ち負け」
が大好きにできているからです。

相撲の星取表のように、一番一番に、勝ち負けをつけていかないと、気がすまない。

養育費で勝って、慰謝料で勝って、財産分与で勝って、年金分割で勝って――全勝しないと、心のほうが、落ち着いてくれない。

これは、人としてごく自然な感覚です。

しかし、交渉の技術としては、ほぼ、最悪の部類に入ります。

すべての項目で、同時に100点を取りに行く人は、たいてい、どの項目でも、60点ずつしか取れずに終わります。

逆に、
「ここは30点でもかまわない」
と、ひとつの論点をさっさと手放した人は、別の項目で140点を取って、トータルでは、170点を持って帰ります。

「140点なんて、ルール上あり得ないじゃないか」
と思われるかもしれません。

交渉の世界では、これが、わりと、ふつうに起こります。

「譲歩してくれた人」
には、相手のほうも、
「心理的にお返しをしたくなる」
という、人間としての小さな習性があるからです。

お店でいえば、
「おまけ」
のようなものです。

最初の値段そのままより、少しだけ値引きしてくれた店員さんのほうを、私たちは、なぜか、ずっと、よく覚えている。

そして、次もその店に、足を運んでしまう。

離婚の交渉テーブルでも、まったく同じことが起きます。

「1つも譲らなかった人」
は、結局、1つも、余分に持たせてもらえません。

もう1つの軸――「金額」と「条件」は、別ものとして読む

ここまでは、
「金額」
の話でした。

じつは、もう1本、別の軸があります。

それが、
「条件」
という、地味な軸です。

養育費には、
「月いくら払うか」
という数字と並んで、

・「いつまで払うか」
・「学費や習い事代は、どこまで別枠で請求できるか」
・「進学先が私立の場合は、どうするか」
・「海外留学となったら、誰が、どこまで負担するか」
といった、文章のほうの条件が、ずらりとくっついてきます。

多くの人は、ここの条項を、契約書の
「細字の部分」
として、さらっと流してしまいます。

しかし、腕のよい交渉者ほど、むしろ、ここに、いちばん時間をかけます。

なぜなら、条件の一行は、金額に換算すると、数百万円、場合によっては、1000万円以上に化けることがあるからです。

具体的に言えば、こうなります。

毎月10万円を、子どもが18歳になるまでもらうのと、毎月10万円を、大学卒業の22歳までもらうのとでは、合計で、およそ500万円近い差が出てきます。

月額を1万円上乗せする交渉よりも、
「大学卒業まで」
という、たった1行の文言を付け加える交渉のほうが、ずっと大きな金額を、静かに動かしているわけです。

ところが、月額を上げる交渉は、だれが見ても
「交渉している風」
に見えるのに、期間を延ばす交渉は、ひどく地味で、ほとんど、目立ちません。

相手も、
「月額1万円アップは絶対に許せない」
と激しく抵抗するのに、
「大学卒業まで」
という1行を書き換えられても、その場では、あまりピンときていない、ということが、じつは、よくあります。

ベテランの交渉者が、
「月額のほうは飲みましょう。そのかわり、条件のほうを、こう書き換えさせてください」
というトレードを好む理由は、ここにあります。

「合理的だが厳しい条件」を、先に置いておく――静かに効くカード

ここで、もう一段、現場の話をします。

書面に、
「合理的ながら、かなり厳しい条件」
を、こちら側から先に書き込んでおく、というやり方があります。

たとえば、

・「養育費の支払いは、成人までではなく、大学卒業まで」
・「私立進学の場合、学費の半額は別途負担」
・「海外留学・大学院進学の場合も、相当額は対象」
といった類いのものです。

どれも、それだけを取り出して見れば、それなりに、筋の通った合理的な条件です。

しかし、相手からすると、
「そこまでは、ちょっと・・・」
と、喉につっかえてくる項目が、いくつも混じっています。

このとき、腕のよい交渉者は、すましたまま、こう切り出します。

「月額のほうは、お相手のご提案を、そのまま受け入れましょう。そのかわり、この条件のほうは、全部、飲んでいただけますか」。

相手は、一瞬、ほっとした顔をします。

目先の、目に見えて動かしやすい
「月額」
で、こちらが大きく譲歩したように見えるからです。

ところが、紙面全体を、1年、3年、10年単位で合計してみると、勝ち負けは、とっくに、ひっくり返っていたりします。

「負けたように見える項目」
が、実は、
「いちばん取り分の多い項目」
だった――離婚交渉の世界では、そう珍しい結末ではありません。

なぜ、私たちは「見かけの勝ち」に目がくらむのか

ここで、少し本質的な問いに踏み込みます。

なぜ、多くの人は、
「見かけの勝ち」
に、こうも引きずられてしまうのでしょうか。

理由は、主に、2つあります。

1つ目は、感情です。

離婚の交渉というのは、ただのお金の話ではありません。

そこには、
「あんなに我慢したのに」
「あれだけ裏切られたのに」
という、巨大な感情の圧力が、蓄積されています。

この圧力は、
「月額15万円を勝ち取った」
という明快な一文に、強く反応します。

「支払期間を4年延長した」
とか、
「私立の学費は別枠にした」
といった、地味な一文には、ほとんど、反応しません。

結果、感情のほうが先に満足してしまい、頭のほうは、テーブルに置きっぱなしになります。

2つ目は、
「比べやすい数字」
への、小さな中毒です。

月額10万円と、月額15万円。

数字が隣に並んで書いてあると、だれでも一瞬で、
「5万円、勝った/負けた」
とわかります。

ところが、
「22歳まで」

「18歳まで」
は、ぱっと見ただけでは、いくら得なのか、いくら損なのか、電卓を叩かないと、頭に入ってきません。

この
「ひと手間」
の壁の手前で、ほとんどの人は、無意識のうちに、この論点を、そっと後回しにしてしまいます。

こうして、
「計算が面倒な論点」
は、誰にも争われないまま、放置されます。

その放置された論点の中に、実利の大部分が、静かに眠っている――離婚の現場で、何度も、何度も、繰り返されている光景です。

「合計欄」から逆算する――交渉のいちばん地味な極意

では、本当に賢い人は、どう考えているのでしょうか。

答えは、ほとんど拍子抜けするほど、シンプルです。

交渉前に、紙に書き出してみるのです。

「最終的に、私は、この話し合い全体から、いくらを持ち帰るのか」

この数字から、すべてを逆算していきます。

金額、期間、学費、年金分割、退職金の扱い、ローンの扱い――あらゆる論点を、いったん、バラバラに眺めたうえで、最後の
「合計欄」
にどれだけの数字を載せたいのかを、自分なりに、先に決めておきます。

あとは、その合計欄を、死守するゲームです。

Aの項目で譲ったぶんは、Bの項目か、Cの項目で、取り返す。

月額で譲ったぶんは、期間のほうで、取り返す。

期間で譲ったぶんは、学費の条項で、取り返す。

こうして、紙面全体を、ひとつのパッケージとして動かしていくのです。

離婚という、とても重い出来事のただなかで、こんな計算ばかりしているのは、冷たく見えるかもしれません。

しかし、これから先の10年、20年、子どもと一緒に暮らしていく自分の生活を、黙って支えてくれるのは、感情ではなく、この
「合計欄」
に書かれた数字のほうです。

感情は、3年もすれば、不思議と、形を変えていきます。

「合計欄」
に書いた数字は、30年、静かに、あなたの生活を支え続けます。

「勝ちすぎない」人のほうが、ほんとうに、勝っている

最後に、ひとつだけ。

離婚交渉で、最後まで穏やかに終わらせられる人は、実は、どの項目においても、相手を完膚なきまでに叩き潰そうとはしていません。

どこかで、
「ここは、お互い様ということにしましょうか」
と、論点をひとつ、相手の手元に、あえて戻してやる、その余裕を持っています。

これは、
「人間ができている」
という、きれいごとの話ではありません。

むしろ、極めて、冷たく、計算のきいた、戦略の話です。

相手が、交渉のどこかの場面で、
「あちらさんにも、少しは花を持たせてもらった」
と感じてくれた瞬間、その先の、あらゆる条項のニュアンスが、ふっと、やわらかくなっていきます。

逆に、
「何もかも、向こうに取られた」
と感じさせてしまった瞬間、相手は、支払いの1回目から、遅らせたり、滞らせたり、細かい嫌がらせをはじめたり、ということを、静かに、始めます。

離婚の協議書というのは、判を押して、それで終わり、ではありません。

そこから、10年、20年、下手をすると30年という、長い履行の時間が始まります。

「紙の上の勝ち」
が、
「毎月の支払い場面での、じわじわと続く負け」
に、ゆっくりと化けていく――これが、現場でいちばん、胸の痛む光景です。

すべての項目で1000点を取ろうとした人が、何年か経って、毎月の支払い遅延と、終わらない未収金の取り立てに追われて、もういちど、弁護士事務所のドアを叩きに来る。

そういう後日談は、残念ながら、1つや2つの話ではありません。

一方で、
「論点を一つ、そっと相手の側に残した人」
の協議書は、その後、毎月の振込予定日に、何ごともなかったかのように、淡々と、入金され続けます。

お子さんの進学や受験など、いざというときに、書面にはないちょっとした上乗せの申し出を、先方から自然にもらえたりすることさえ、あります。

今夜、紙とペンで、一度「合計欄」から書いてみる

最後に、実践的な問いを残しておきましょう。

紙を1枚、用意してください。

養育費の金額と期間、学費の取り扱い、慰謝料、財産分与、年金分割――すべての項目を、数字と短い言葉で、縦に書き並べます。

一番下に線を引き、
「合計」
と書く。

その合計欄は、まだ空欄のままでよい。

「どの項目をどう動かせば、この合計欄に、最大の数字を載せられるか」

それを、一晩、冷静に考える。

その一晩は、弁護士費用に換算すれば、相当の額に値します。

「養育費を上げろ」
と、声を張り上げる人は、交渉では、いちばん損をする人です。

「合計欄だけを、じっと見ている」
人は、交渉では、いちばん得をする人です。

そして、どちらの人になるかは、実のところ、交渉のテーブルにつく前夜、自室で一人静かに紙と向き合う30分に、すでに、ほぼ決まっている。

・・・これが、現場で繰り返し見てきた事実です。

著:畑中鐵丸

00259_「泣き寝入り」か「ケジメ」か_法の正義と、日本の現実の間で

「お金のためじゃない。ただ、きちんとケジメをつけたい」。

そう言える人でなければ、法律家の門を叩いてはいけない――。

ある弁護士が、依頼者への私信でそう綴りました。

これは過激な言葉でしょうか。

いいえ、むしろこれは、日本の司法制度の本質を突いた、静かで鋭い警告だと私は思います。

「正義」を求めた会社に起きたこと

ある会社が、犯罪被害を受けました。

詳細は伏せますが、従業員や取引先が傷つき、組織として無視できない損害が生じた、そういう類の事件です。

被害者側の会社は弁護士を立て、刑事告訴という手段を選びました。

刑事事件として警察・検察に動いてもらい、それを背景に加害者との示談交渉を進める、というプランです。

教科書的には、なかなか筋の良い戦略です。

ところが、現実はそうなりませんでした。

警察の動きは鈍く、起訴には至らず、不起訴あるいは執行猶予といった、いわば
「軽微扱い」
の方向で処理が進んでいく気配が漂い始めます。

刑事告訴というカードは、机の上で輝いていただけで、実際の交渉テーブルでは、ほとんど使えない状態になってしまったのです。

こういうとき、被害者はどうすればいいのか。

次の手として、民事訴訟という選択肢が浮かび上がります。

裁判所に損害賠償を求める、誰でも知っている
「法的手段」
です。

しかし弁護士は、この選択肢を安直に勧めませんでした。

日本の民事裁判は「やり得容認型」である

弁護士の言葉を、そのままの意味で受け取ってください。

「日本の民事裁判システムは、被害者に冷淡で、加害者に有利な、やり得容認型です」。

これは感情的な愚痴ではありません。

実務を積み重ねた専門家が、数字と経験から導き出した制度評価です。

勝訴は可能です。

しかし時間がかかり、手間がかかり、そして最後に判決が出ても、相手に支払う意思や財力がなければ、紙切れ一枚が手元に残るだけです。

強制執行という手段はあっても、財産が見当たらなければ絵に描いた餅です。

さらに言えば、検察官だって人間です。

被害者が声を上げても
「お金のために騒いでいるのだろう」
と冷ややかに見ることがあります。

被害者にとっては心外な話ですが、これもまた現実の一断面です。

正義を求めて動いた人間が、
「カネほしさに騒いでいる人」
と分類されるリスクが、日本の法実務の中には静かに潜んでいます。

「投資対効果」で法を考えてはいけない理由

ここで弁護士は、依頼者に向けて、非情な、しかし重要なことを言います。

「法的事件というプロジェクトは、一般の事業投資とは異なり、投資対効果という概念で割り切ることはできません。もし損得で考えるなら、泣き寝入りして株でも買っていた方が、よほど効率がいいです」。

これは逆説的な誠実さです。

弁護士は自分の依頼を減らすかもしれない言葉を、あえて言っています。

なぜか。

法的手続きを経済合理性だけで選ぶ依頼者は、途中で必ず
「こんなはずじゃなかった」
と言い始めるからです。

費用がかかった、時間がかかった、思ったほど取れなかった。

そして最後は、弁護士との関係がこじれる。

「お互いイヤな思いをする」
という言葉の裏には、そういう苦い経験の積み重ねがあるはずです。

弁護士が求めているのは、
「多少の面倒やコストは覚悟のうえで、法に照らしてきちんとケジメをつけたい。自分の力だけでは限界があるから、プロに任せたい」
という、明確な非経済的動機です。

この動機がある人だけが、法的手続きという長い旅路を、最後まで歩きとおせる。そういう意味での、資格審査とも言えます。

「費用」は信頼の代替である

弁護士はもう一点、率直に述べます。

「難易度やリスクとバランスが取れた費用を負担していただき、それをもって信頼関係の構築と考えるほかない」。

これは、弁護士が
「お金が大切だ」
と言っているのではありません。

費用を払うという行為が、依頼者の本気度と動機の明確さを示す、唯一の可視化手段だということです。

値段の安い弁護士を探し回る依頼者は、しばしばコスト意識より本気度の低さを示してしまいます。

逆に、相場をきちんと払う依頼者は、
「面倒やコストを覚悟している」
という意思表示でもあります。

廉価なサービスを求めるなら、他の選択肢も示す。

でも、劇的に安い場合はクオリティへの不安が生じる。

それも含めて、最終的には依頼者自身の選択だ、とこの弁護士は言います。

これほど誠実に、かつ正直に、現実を開示する専門家は、そう多くありません。

それでも、あなたは「ケジメをつけたい」か

損害賠償の相場は、後遺障害がなければ概ね百万円前後と言われます。

民事訴訟で勝訴しても、弁護士費用や時間的コストを差し引けば、純粋な経済的利益はほぼゼロか、マイナスになることすらあります。

国の犯罪被害者給付制度を活用する手もありますが、それも万能ではありません。

それでも人が法的手続きを選ぶとき、そこには
「損得を超えた何か」
が動いています。

社会の一員として、不正が不正のまま通り過ぎることへの違和感。あるいは、自分や組織への尊厳の問題。

「泣き寝入り」
という言葉が引っかかる感覚、それ自体が、法への扉を開く正当な動機です。

逆に言えば、その感覚がない人は、法律家を頼る前に、一度立ち止まって考えた方がいい。

「自分はなぜこれをやりたいのか」。

その問いへの答えが、法的手続きという旅を最後まで支える、唯一の燃料だからです。

日本の法制度は、完璧ではありません。

被害者が不利で、加害者が相対的に守られやすい構造は、制度設計の問題として長年指摘され続けています。

しかし、そのなかでも、誠実な専門家は存在します。

そして、誠実な専門家ほど、耳触りのいいことを言いません。

「それでもやりますか」
と問い返す弁護士の言葉は、冷たいようで、実はもっとも依頼者に寄り添った問いかけかもしれません。

正義を求めることは、安くありません。

しかし、ケジメをつけたいという意志は、値段では測れません。

その矛盾を静かに引き受けながら、法と向き合う人たちが今日もいる。

それが、日本の法実務の、もう1つの現実です。

著:畑中鐵丸