00155_企業とは(2)_20111020

前回から実際の企業運営現場に即した仕事のお作法を述べる
「仕事のお作法・各論編」
に入っておりますが、各論・序論として、
「そもそも企業がどのように運営されているか」
ということをザックリと概観しております。

1 仕事を通じて奉仕する対象である「企業」とは

(3)企業の生態その2・経営資源の調達と活用

経営の基本方針やこれを実現する代表者や執行者が決まって、内部統治体制(ガバナンス)が整った企業は、次の段階として、経営資源を調達し、あるいは調達した経営資源を活用する、という活動に移行します。

ここにいう経営資源とは、よく言われる、ヒト(労働力)・モノ(設備や原材料)・カネ(資金)のほか、第4の経営資源と言われるチエ(技術・情報・ブランド)が挙げられます。

すなわち、企業は、資本を募ったり融資を得たりしながら資金を調達し、集めた資金で労働者を雇い入れたり設備や原材料を購入し、これらを活用して製品や商品を作り出したりサービス提供体制を整えたりします。

さらに、研究開発や情報収集を通じ、技術、ノウハウやブランドを創造・確立するとともに、企業経営の様々な局面でこれらを活用していきます。

このように、企業は、さまざまな経営資源を調達・活用しながら、製品・商品やサービス提供体制という形で、企業内部に付加価値を創出し、蓄積していくことになります。

ただ、
「付加価値を創出し、企業内部に蓄積する」
というだけでは企業活動としては不完全といえます。

企業は、次の段階として、自己の内部に蓄積した付加価値をキャッシュに転化させるための活動を行うことになります。

(4)企業の生態その3・営業活動

「自己の内部に蓄積した付加価値をキャッシュに転化させる」
という企業の生態ないし活動は、一般的に営業活動と呼ばれます。

なお、会計の世界では、
「営業活動によって、企業内部で格納されている商品在庫やサービス提供体制が、キャッシュに変わっていくプロセス」

「収益の実現」
と定義したりします。

営業活動によって、
「商品等がカネに転化し、そのカネが再び、経営資源として活用される」
というサイクルが生まれますが、この循環的な生態を繰り返すことにより、企業は継続して発展していくことになるのです。

ところで、営業活動は、営業ターゲットの属性によって、B2BとB2Cの2種に分類されます。

B2Bとは、“Business to Business”の略称であり、企業間取引、あるいはコーポレートセールス(ホールセール)を指します。

これに対して、B2Cとは、“Business to Consumer”の略称であり、消費者向営業、あるいはコンシューマーセールス(リテール)を指します。

このような分類がなされるのは、前記2種の営業は、採用される戦略・戦術も、活動の上で服すべき規制も、まったく異なることに基づきます。

すなわち、B2B営業においては、
「潜在顧客基盤が少ない反面、取引規模は大きく、また緻密で論理的な購買行動を取る顧客に対する活動」
という特徴があり、このような特徴に適合した戦略・戦術が採用されることになります。また、規制面では、B2B営業においては企業間の反競争行為(競争阻害行為)を禁止する独占禁止法が目を光らせることになります。

他方、B2C営業においては、
「低廉な取引価格と、感情的で衝動的な購買決定をする不特定多数の顧客」
を前提とした戦略・戦術(マスマーケティング)が採用され、また、規制面では、消費者契約法や特定商取引法に代表される消費者保護規制が働くことになります。

(5)企業の生態その4・決算、会計報告及び納税

企業は、以上のように、
「ヒト・モノ・カネ・チエという経営資源を調達・活用して商品等といった形で内部に付加価値を創出・蓄積し、これら付加価値を営業活動によってカネに転化させ、さらに転化したカネを再び経営資源として活用する」
という循環的な生態を永遠に続けて成長を遂げていきます。

とはいえ、以上のようなプロセスが
「途切れることなく、ダラダラ続く」
というわけではありません。

企業の活動は一定の期間毎に区切られ、その活動内容が会計的に記録され、整理されていきます(期間損益計算)。

このような計算の結果は、経営成績(P/L)・財政状態(B/S)という二元的切り口で表現されて、投資家や債権者に整理して報告されるとともに、産み出された利益の中から一定割合の税金を税務当局に納める、ということが行われます。

このように、
「一定の期間毎にその活動の成果が整理され、利害関係者(ステークホールダーズ)に報告する」
というのも企業の特徴的な生態といえます。

以上、典型的企業の生態・活動を2回にわたって概観してまいりました。

次回以降、これら企業の生態・活動の各局面において生じる様々な仕事に関し、その内容を解説するとともに、それぞれの仕事において推奨されるべき遂行指針を
「仕事のお作法・各論」
として述べてまいります。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.050、「ポリスマガジン」誌、2011年10月号(2010年9月20日発売)

00154_企業とは(1)_20110920

実際の企業運営現場に即した
「お仕事・各論編」
を述べてまいります。

今回は、各論の詳細に入る前に、序論として、そもそも企業がどのように運営されているか、ということをザックリとみてまいりたいと思います。

1 仕事を通じて奉仕する対象である「企業」とは

仕事とは、頭脳や体を使って
「対象」
に働きかけ、
「対象」
にとって有用なものを創りだし、それによって
「対象」
から賃金を得る活動を言います。

そして、一般のビジネスパースンの場合、
「奉仕対象」
となっているのが、企業ということになります。

仕事を通じて奉仕する対象である
「企業」
ですが、
「営利を目的として計画的・組織的に活動する経済主体」
と定義されています。

日本においては、企業のほとんどは会社組織となっており、また、会社組織の大半は株式会社の形態を取っています。

したがって、ここでは、
「企業とは概ね株式会社のことを指す」
という前提の下、お話ししてまいります。

(1)企業の特徴

では、企業すなわち株式会社は、どのような特徴をもっているのでしょうか。

株式会社は、通常の人間と違って、姿・形がありません。

「株式会社は法人である」
などといわれますが、法人とは、自然人(我々通常の人間)とは異なる、
「バーチャル(仮想上の)人間」
です。

法人には、人の集合体(社団法人)と財産の集合体(財団法人)の2種がありますが、いずれも、
「自然人ではないものの、財産的基礎があるので取引社会に参加させても、自然人と同様に取引失敗の責任を負わせることが可能である」
という特徴があります。

そこで、これら人の集まり(社団)や財産のカタマリ(財産)について、一定の要件を備えたものを
「本来の人(ヒト)とは異なるが、法律上、人と同等に扱ってやろう」
とし、
「法人」
として扱うこととしたのです。

(2)企業の生態その1・意思決定

次に、企業の生態を見てまいります。

まず、企業は、自然人と違い、それ自体意思をもたない存在ですので、適当な方法で意思を決定し、また、その決定した意思の内容を誰か適当な自然人(代表者)を通じて
「法人の意思」
として表明してもらわなければなりません。

無論、法人の代表者を誰にするか、ということについても適当な方法で決定しておかなければなりません。

このように、企業においては、代表者を決めたり、その意思内容を決めたり、という活動が必要になります。

企業のこのような生態は、毎年6月末ころ多く観察できます。

株式を公開している株式会社(いわゆる上場企業)は、毎年3月末に決算期を迎え、その3ヶ月以内に定時株主総会を開催します。

「株主総会において企業は何をしているか」
というと、企業の方針を決定し、当該方針を実施する人間(取締役)を選出しているのです。

企業のオーナーである株主全体の方向性が一致していれば問題ないのですが、総会を撹乱させることを目的とした特殊な株主の方(総会実務の世界では「特殊株主」と呼ばれますが、日常用語でいう「総会屋」の方です)や、“ホニャララファンド”や“ホニャララパートナーズ”のように
「総会で元気よく発言される株主の方」
がいらっしゃる会社においては、このプロセスでモメることになります。

そして、企業のこのような生態に関連・派生して、モメ事に対応するお仕事が必要になります。

すなわち、企業においては、企業の意思決定が円滑に行われるようにするために様々な仕事をしていく部署が必要になりますが、多くの企業では
「総務部」
というところがその種の仕事全般を担っています。

ときどき、
「企業の意思決定が円滑に行われるようにする」
ために総会屋にお金を渡したりする総務部の方もいらっしゃりますが、これはご法度とされており、たまにバレて逮捕されたりすることがあります。

次回は、企業の生態の続きとして、経営資源の調達・活用や営業活動といった生態をみてまいります。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.049、「ポリスマガジン」誌、2011年9月号(2011年10月20日発売)

00153_取締役の悲劇(6)_20101020

「取締役の悲劇」
の連載の最終回です。

前回まで、ある
「取締役」
の方が手形法に関する知識がなかったばかりに大損を被った、というお話をさせていただきました。

ところで、法律オンチの
「取締役」
の方が大きな法務トラブルに見舞われるというのは別に珍しいことではなく、むしろ、
「取締役の多くが、法律的に間違ったことを仕出かしているものの、相手や運に恵まれ、大きなトラブルとして顕在化しない」
という状況がほとんどです。

実際企業法務の現場でおみかけする多くの
「取締役」
の考えや行動は、我々プロの法律家からみると、気でも狂ったかと思われるほど異常なものばかりです。

では、圧倒的大多数が法律知識を欠落している
「取締役」
という人種が、法的無知に起因する悲劇に見舞われないようにするには、一体どうすればいいのでしょうか。

まず、1つは、がんばって法律を勉強することです。

言ってみれば誰でもなれる
「取締役」
になったくらいで浮かれて毎晩飲み歩いたりせず、暇があったら早く家に帰って民法や会社法の本をしっかり読み、立場や役割にふさわしい法的知識を具備するよう精進することです。

さらに言えば、
「取締役」職
を資格制にして、
「『公認取締役資格試験(仮)』のような試験を合格した者でなければ、取締役になれない」
という制度にする、ということもアリだと思います。

そもそも
「どんなバカでも取締役になれる」
というのが、事故が多発する根本的原因です。

会社法が法運用の前提とする
「取締役」

「基本的な法律知識を有する経営専門家」
ですが、実体との乖離が甚だしい現状がある以上、特定の試験合格による能力担保を行う制度を実施すれば、
「取締役」
からバカや認知に問題がある人が排除され、不幸な事故が減るはずです。

とはいえ、以上のようなことを実現しようとすると、相当な時間とエネルギーを要しますし、経済界からの猛反発が予想されます。

さらに言えば、
「廃業数が起業数を上回る」
という日本の企業社会のお寒い現状が加速され、企業数の低下にますます拍車がかかり、経済が停滞しかねません。

現実的な対応策とすれば、まずは、
「取締役」さん
が自らの無知・無能(あくまで法律知識における無知・無能という意味ですが)を悟り、
「わからなければ、知ったかぶりをせず、知っている人の意見をよく聞く」
という当たり前のことを励行することが重要です。

「学校での学生生活」

「ビジネス社会における社会生活」
の違うところは、
「後者(「ビジネス社会における社会生活」)では、情報を買ったり、カンニングが許されている」
という点にあります。

すなわち、学校では、知らないことやわからないことを自分で調べることをせずに友達に結果だけを聞いてすませたり、レポートを自分で作らずに友達のものを書き写したり、あるいは自分の能力や勉強の成果が試される試験において他人の答案を覗き見たりするのはいずれもご法度とされます。

しかしながら、ビジネス社会においては、カネの力にモノを言わせ、プロを雇い、知恵や文書成果物を買い上げて、自分のモノとして利用するのはむしろ推奨される行動です(逆に、「能力がないのに、プロにまかせず、自分の力でやってみて失敗する」ことの方がNGとされます)。

ですので、ズブの素人である自身の法常識(そのほとんどは間違ったもの)など端からアテにせず、プロの弁護士をカネで雇って、法律知識を
「購入」
して武装すればいいだけなのです。

そして、そういう行動を取るためにも、法律の怖さを理解し、自分の能力を過大評価せず、謙虚に生きる気持ちをもつことです。

最後に、私からまとめの一言。

「いいですか、取締役の皆さん。
皆さんは、強大な地位と権限が与えられています。
法律上、
『会社法その他の法令に通暁した経営のプロ』
とみなされ、無知ゆえにどんなアホなことを仕出かしても、言い訳なしでケツをきっちり拭かされる立場にあります。
こんなに重大な責任ある立場であるにもかかわらず、試験も何もなく、バカでも誰でもなれちゃんです。
だから怖いんです。
世間がいくらチヤホヤしても、舞い上がることなく、己の分際をよくわきまえ、
『オレは法律オンチだ』
を常に心の中で唱え続け、わからない法律問題に遭遇したら、自分の使えない頭脳で考えたり変な知ったかぶりをせず、全部、事前に法律の専門家に相談するんですよ。
わかりましたね」

(了)

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.038、「ポリスマガジン」誌、2010年10月号(2010年9月20日発売)

00152_取締役の悲劇(5)_20100920

「取締役の悲劇」
の連載第5回目です。

前回、ある
「取締役」
の方が、換金のために持ち込んだ銀行に全く相手にされなかった手形について、とある事務所から裏書きした手形と引き換えに幾ばくかの現金をもらい、遂に手形の換金に成功したところまでお話ししました。

それから何ヶ月かした後、この
「取締役」さん
が務める会社のところに内容証明郵便による通知書が届きました。

通知書は、都内の某所にある
「ホニャララ商事」
というところが通知人となっているものですが、
「取締役」さん
は、こんな会社、接点はもったことはおろか、見たことも聞いたこともなく、まったく狐につままれた気分です。

通知書をよく読むと、先般、換金に成功した手形のことがつらつら書いてありました。

この点は身に覚えがある話です。

というか、この手形換金話は、その後も銀座のクラブで幾度となく語っている話であり、
「取締役」さん
にとって何度語ってもつきない輝かしい武勇伝でした。

通知書を読み進めると、
「手形を銀行に持ち込んだら、最初に手形を振り出した会社が支払を拒絶した。裏書きしたあなたの会社は、その責任を取って、額面全額の金額を支払わなければならないので、即刻耳を揃えて全額払え」
等と書いてありました。

「取締役」さん
は、ワケがわかりません。

「取締役」さん
は、
「ウチの会社は、借金のカタに手形をもらいうけ、これを換金しただけだ。手形を最初に書いた会社なんて、アカの他人じゃないか。なぜ、そんなヤツの借金まで面倒をみる必要があるんだ。どうせ、これは新手の『オレオレ詐欺』か何かだろう」
と断定し、通知書を放置することにしました。

すると、その後、東京地方裁判所民事7部というところから、訴状が届きました。

訴えを提起したのは、
「ホニャララ商事」。

先日の内容証明郵便による通知書に書いてあったようなことが、同じような形で味も素っ気もなくツラツラ書いてあります。

ここまで来ると、
「取締役」さん
も流石に気持ち悪くなり、知り合いの取引先に紹介したもらった弁護士のところに行き、意見を聞くことにしました。

弁護士さんは訴状をみて、その上でおおまかな事情を聞いたあと、いきなり
「こりゃ、ダメですな。こちら側の全面敗訴になりますよ」
と言うではありませんか。

「取締役」さん
は耳を疑いました。

思わず激昂し、
「先生、いい加減なこと言わないでください。私はもらった手形を換金しただけです。いわば権利者ですよ。なんで最初に手形を振り出したヤツのケツをもたなければならないんですか! 裁判所に行けばわかってくれます。こんな不当な訴訟、徹底的に戦ってください!」
と言いました。

弁護士さんは、
「素人が、慣れない手形をイジるとこうなっちゃうんだよな・・・」
とボヤキながら、手形制度の説明を始めました。

手形の信用を高めて、なるべく多くの人間が安心して手形を受け取るような制度とするため、手形法上、手形の裏書人は、振出人や自分より前に裏書きした人間が手形金の支払ができなかった場合の保証人になるとされています。

すなわち、手形の裏書人というのは、手形を受け取ったという点では権利者である反面、手形振出人や自分より前の裏書人のケツを拭かされるのであり、この点において、見ず知らずの人間が振り出した手形に裏書人として署名するのは非常に危険な行為だったのです。

他方、保証を引き受けずに手形を次の人間に譲渡する方法も用意されており、無担保裏書という特殊な裏書をしたり、そもそも裏書人として署名をすることなく手形そのものを売り飛ばしてもよかったのです。

手形の制度など全く知らなかったズブの素人の
「取締役」さん
は、手形を換金するために持ち込んだ先の事務所の社長にうまく騙され、わずかなカネと引き換えに、知らない間につぶれそうな会社の保証人にされてしまったのです。

もうこうなれば、恥も外聞もありません。

「取締役」さん
は、弁護士さんに必死で頼み込みます。

「私は、何にも知らなかったんですよ。手形なんて、それまで実物を見たこともありませんでしたし、そんなヘンなルール知りっこないじゃないですか。それに私は二代目で、親からもそんなこと教わっていません。素人相手にひどいじゃないですか。なんとか、ノーカンになりませんか。裁判所もわかってくれますよね。ね。ね」
と最後は哀願口調です。

しかし、弁護士さんから返ってきたのは突き放すような冷たい回答でした。

「無理なものは無理ですよ。手形はプロが扱う決裁道具であり、そんな言い訳通用しません。それに、仮にも取締役なんでしょ。高校生や専業主婦ならともかく、『ボクはバカですから今回のチョンボは見逃して』なんて話、裁判所で通用しませんよ」

結局、
「取締役」さん
の知ったかぶりのため、この会社は高い授業料を支払わせることになりました。

では、このような悲劇に見舞われないためには、
「取締役」さん
としては今後、どのようにして世知辛い世の中を生きていけばいいのでしょうか。

この点は、次回お話ししたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.037、「ポリスマガジン」誌、2010年9月号(2010年8月20日発売)

00151_取締役の悲劇(4)_20100820

「取締役の悲劇」
の連載第4回目です。

前回、ある
「取締役」
の方が、破綻しそうな会社からお金の代わりに取り上げた手形の換金方法を模索し、銀行に相手にされず、金券ショップで換金しようとするところまでお話しました。

この
「取締役」さん
は、
「ご大層な金額がチェックライターで打刻してあり、みるからに価値のありそうで、仰々しい、この手形が換金できないはずなどない。この国の取引社会は狂っているぞ」
との信念をもとに、金券ショップの門を叩きました。

無論、金券ショップは、商品券でも優待券でもない手形など換金などしてくれません。

しかし、金券ショップの店主は、
「ここだったら、手形を換金してくれるかもしれない」
と怪しげな事務所を紹介してくれました。

その事務所では、金券ショップと貸金業とクレジットカードを用いた金融等をやっているほか、裏メニューとして不動産の仲介や債権の回収のほか、手形の買い取りもやっている、とのことです。

「取締役」さん
は、金券ショップの店主から教えられた住所を頼りに、紹介されたところにたどり着きました。

そこの事務所のオーナーと称する男は、ゴルフ焼けした顔をほころばせ、
「我々は金融や手形のプロです。なんでもおまかせください」
とやたらと自信ありげに振る舞います。

「取締役」さん
は、これまでの経緯を話すとともに、
「どこから観察しても見た目に立派で価値がありそうな手形をもっているにもかかわらず、まったく相手にもされない」
という異常な現状を嘆くとともに、これを何とかしてカネに換えたいという思いを切実に訴えました。

事務所オーナーは、
「わかりました。あなたの言うことはもっともです。額面の5%で買い取りましょう」
と力強く答えてくれました。

干天の慈雨とはこのことです。

たしかに、買取金額としてはあまりにも安く、正直、不満がないわけではありません。

しかし、必死の思いで回収してきた
「見るからに価値のありそうな立派な手形」
を、
「紙切れ」
と言わんばかりの態度で鼻で笑って取り合ってくれなかった経理部長や銀行の担当者を見返すことができた、ということの方がうれしく、天にも登る気持ちでした。

買取金額がまとまったということで、事務所オーナーは、
「手形を譲ってもらう手続として裏書というものがあります。ご存じですよね。ほら、このとおり」
と言って
「だれでもわかるやさしい手形入門」
とかなんとかいう本の付箋を貼ったページを示します。

たしかに、本には
「手形を譲渡するときは裏書きするのが基本」
と書いてありますし、手形の裏側には、すでにいくつか
「裏書き」
なるものが書いてありました。

ずいぶん前に株の現物をみたときにも、株券の裏側にこれと同じようなものがありました。

「取締役」さん
は、それほどバカではなく、想像力は働きます。

要するに、
「ゴルフコンペの優勝カップに歴代チャンピオンの名前を書いた布をくっつけるようなもので、手形のこれまでの持ち主の素姓を明らかにしておくようなものだ」
と理解しました。

「取締役」さん
は、
「ナメられたらいけない」
という思いから、自信をもって大きな声で答えます。

「知ってます、知ってます。裏書きですよね、裏書。はいはい。手形の受け渡しの際の基本ですよね。今、会社の実印はもっていませんので、すぐに会社に戻って取ってきます」
といって大慌てで会社に行き、金庫から実印を取り出し、事務所に戻ってきました。

戻ってくると、事務所オーナーが、買取金額相当額の現金を用意して待っており、即座に
「裏書き」
をした手形と現金を交換し、無事手形の換金に成功しました。

「取締役」さん
は、鼻息も荒く会社に戻り、社員全員を前にして、換金に至る苦労を延々語るとともに、
「何事もあきらめてはいけない! 粘ることを忘れるな! 粘ることを知らないような人間はこの会社に不要だ!」
と締めくくり、経理部長にクビを言い渡しました。

経理部長は何か言いたかったようですが、前からこの
「取締役」さん
を好きではなく、銀行時代の友人から別のもっとましな会社の経理担当役員の仕事の紹介を受けていたので、退職することにしました。

この
「取締役」さん
は、その夜、銀座のクラブに行き、女の子を前に、手形換金の苦労話とバカな経理部長をクビにした武勇伝を延々語りました。

すぐ先に大きな落とし穴があるとは知らずに。

次回も、この知ったかぶりの
「取締役」さん
に襲った悲劇のお話を続けさせていただきます。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.036、「ポリスマガジン」誌、2010年8月号(2010年7月20日発売)

00150_取締役の悲劇(3)_20100720

「取締役の悲劇」
の連載第3回目です。

前回
「取締役が知ったかぶりでどんどん状況を悪化させ、しかも本人はそのことにまったく気がつかず、気がついたら、三途の川を渡河し、地獄の底に到達していた」
という話がビジネス社会には実に多く存在する、と申し上げましたが、今回はそのような話の一例をご紹介します。

ここに一人、会社を経営している
「取締役」さん(実際の肩書は代表取締役)
がいらっしゃいました。

会社法の教科書等をみると、世間知らずの学者の方は、
「取締役は、経営の専門家である」
等と持ち上げていますが、この
「取締役」さん
は、経営の専門教育はおろか、まともな高等教育も受けた形跡はなく、会計も法律もほとんど無知。

パソコンも使えず、手紙やファックスをみても誤字脱字・当て字のオンパレードで、しかも文書をみても意味が通じない。

ところが、どういうわけかお金だけはあるみたいで、会社の
「取締役」
になれた。

会社の
「取締役」
になる、
といっても、これまで述べてきました通り、学歴も資格も試験も不要で、司法書士の方にカネを払えば誰でも
「取締役」
になれてしまう。

そして、この
「取締役」さん
は、
「取締役」
という肩書がついた瞬間から勘違いが始まりました。

「オレはエラい」
「なんつったって取締役」
「世間からは社長と呼ばれる身分」
「オフィスは立派で、部下もいるし、秘書もいる」
「ゴルフ会員権も、クレジット会社のホニャララカードも持っているし、移動はグリーン車かビジネスクラス」
「銀行の支店長とサシで話し、弁護士や税理士をアゴで使う」
「銀座のクラブでも丁重に扱われるし、行きつけのホテルや高級レストランでは名前を覚えてもらっている」
なんて具合でした。

このくらいの勘違いはまあ、かわいいもんでしょう。

ですが、その勘違いが、あるはずもない自分の能力や知識にまで及んでしまったことから悲劇が始まりました。

あるとき、
「取締役」さん
の取引先が経営危機となり、売掛債権が焦げつきそうになりました。

結構大きな額で、会社の資金繰りにも影響しかねない状況です。

「取締役」さん
は、取引先の社長を呼びつけ、
「どうしてくれるんだ!」
と詰問しました。

納入した商品は、取引先からさらに先の問屋さんのところにすでに納品されてしまっており、商品引き揚げは難しい状況です。

平伏する取引先の社長は、カバンから一枚の手形を差し出しました。

そして、
「私どもの取引先でやはりつぶれそうになっていたところから、少し前、こういう手形を振り出させました。額面は焦げついた金額よりはるかに大きな金額ですが、取り立てできるかどうかわかりませんから、すべて差し上げますので、これで、どうかご勘弁ください」
と言います。

この
「取締役」さん
は、手形取引の仕組についてはほとんどわかっていない状況で、手形の知識は専業主婦レベルでした。

しかし、
「取締役」さん
の目には、
「ご大層な金額がチェックライターで打刻してあり、見るからに価値のありそうで、仰々しい手形」
は、それなりの価値があるように見えました。

「これ以上潰れそうな会社を相手に押し問答したところで、どうしようもない」
と判断した
「取締役」さん
は、売掛額の倍額以上にもなる額面の手形を受け取り、
「まぁ、これで幾ばくかのカネになるだろう」
と考えました。

しかし、銀行との折衝を担当している経理部長に聞いたところ、
「こんな手形を銀行に持っていったところで、割り引いてくれませんよ」
等というつれない返事です。

「手形? 割り引き?」
ということ自体あまり意味がわかりませんが、そこは知ったかぶりで対応しておき、
「とにかく銀行に行って話をしてみてくれ。換金する方法があるはずだ」
と指示しました。

しかし、結果は経理部長が予想したとおりで、銀行は換金に協力してくれませんでした。

「莫大な金額が記載してあり、大手都市銀行の名前も入っている、見るからに価値のありそうな手形が換金できない?」

「取締役」さんの乏しい知識や経験からはまったく理解できない状況です。

「そんなバカな話があるか。もう、経理部長や銀行はアテにできない。こういうときは行動あるのみ。よし、金券ショップだ。」

「取締役」さん
は、自らの信念に基づき、行動を開始しました。

この悲劇の続きについては、次回、お話したいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.035、「ポリスマガジン」誌、2010年7月号(2010年6月20日発売)

00149_取締役の悲劇(2)_20100620

前回に引き続き、
「取締役」
という肩書を持つ人種の気質・行動について、いつもながら偏見に満ちた雑感を述べていきたいと思います。

前回みてきたとおり、日本社会である程度のステータスを有しているとされる人種のうち、医者や弁護士や公務員や教員に関しては、少なくとも過去の一時点において当該キャリア保持に必要とされる知識を資格試験という形で確認・検証されていることから、能力水準の下限にも、おのずと限度というものが存在します。

しかしながら、
「取締役」
というステータスに関しては、
「無試験・無資格・性別・人種一切無関係、破産者であろうが認知症の疑いのある方もウェルカム」
という形で広く門戸を開放しすぎてしまったため、能力水準の下限は
「底無し」
といった状況であり、想像を絶するとんでもないことをやらかしてくれる方々が相当多く混在することになるのです。

「取締役」
とは、もともと、その名のとおり、
「会社法その他関係法令に基づいて、会社という組織の運営を『取り締まる』役目を担うプロフェッショナル」
ということが想定されておりました。

会社法の専門書をみると、
「取締役とは株主から経営を付託された経営専門家である」
等と書いてありますが、これは、社会現実を知らず、机の上で理屈をコネ繰り回している学者だからこそ言える虚構です。

現実の取締役、とくに多くの中小零細企業の取締役については、会社法や簿記・会計はおろか、国語や算数の試験すらなく誰でもなれることから、法律が想定している役割・立場と、実際の能力との間に重篤なギャップが生じてしまっています。

しかも、このようなギャップを是正する制度的担保がなく、知的能力が破綻したまま放置される一方で、法律上、取締役である限り
「経営のプロ」
とみなされて会社運営に関する大きな権限を与えられてしまうが故、
「取締役」
と呼ばれる人種の周りには、会社をめぐるさまざまなトラブルに巻き込まれる高度の危険が常に存在するのです。

加えて、そんな危なっかしい状況にある
「取締役」
の皆さんですが、自らの職責や権限や責任に関する知識を補充する意欲が全くないといった方が多いため、被害を拡大し、自身も会社も不幸に追い込んでしまいがちです。

無論、
「取締役」
と呼ばれる方々も、自らが無知であることを知り、無知なら無知なりに、専門家の助言を求め、常に謙虚かつ慎重に行動していれば、トラブルを回避したり、脱出したりすることも期待できるでしょう。

しかしながら、
「取締役」
と呼ばれる方々の多くは、当該キャリアを保持するに必要な知識を確認するための試験を受けたこともないくせに、
「自信」

「思い込み」
だけは人一倍で、専門家の意見を謙虚に聞く方や勉強して自分の職や立場に関する知識を得ようというような殊勝な心がけの方はあまり見受けません。

むしろ、
「知ったかぶりでどんどん状況を悪化させ、しかも本人はそのことに全く気がつかず、気がついたら、三途の川を渡河し、地獄の底に到達していた」
等という悲劇とも喜劇ともつかない話がビジネス社会には実に多く存在することになるのです。

一例として、手形に関し、
「取締役」
がやらかした大失敗があります。

商業手形、法律上は約束手形と呼ばれるものですが、これについては、
「手形は怖い」
「手形は難しい」
「手形の取り扱いには注意しろ」
「手形の扱いを間違うと企業の命取りになるぞ」
等という話を聞かれたことがある方も多いと思われます。

実際、手形法と呼ばれる法分野は、かつての司法試験においても論文科目とされていましたが、技術的に難解なため、受験生泣かせの学習分野として有名でした。

国内最難関と呼ばれた旧司法試験の受験生すら苦しめた難解な法分野である手形法について、無試験・無資格でなれる
「取締役」
がご存じなわけはありません。

そんな
「手形のことなんてほとんど知らない『取締役』」
の方が、知ったかぶりで手形の扱いを間違ったばかりに、会社と当該取締役が地獄に突き落とされる事件が起きたのでした。

この悲劇の詳細については、次回、お話したいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.034、「ポリスマガジン」誌、2010年6月号(2010年5月20日発売)

00148_取締役の悲劇(1)_20100520

新聞やニュースをみれば明らかなように、日本の企業社会においては、会社や会社経営者をめぐるさまざまなトラブルは常にどこかで発生しており、これらが絶えてなくなることはありません。

今回から連載で、
「取締役の悲劇」
と題し、会社や会社経営者をめぐるさまざまなトラブルが恒常的に発生する原因について、いつものように、私なりの偏見と決めつけに満ちた雑感を述べてみたいと思います。

さて、一般的に、日本社会において
「ステータス」
といわれるものを有している人種については、当該
「ステータス」
といわれるものを獲得する過程で、一定の厳しい条件を達成あるいはクリアすることが要求されます。

たとえば、
「医者」
というステータスを獲得するためには大学医学部を卒業して医師国家試験に合格することが必要ですし、
「弁護士」
というステータスをもつためにはロースクールを卒業するか予備試験に合格した上で司法試験及び考試(司法研修所卒業試験。通常「二回試験」)に合格することが必要になります。

政治家になるには選挙という通過儀礼を経由することが必須ですし、大学教授や博士になるには論文や学術上の実績が必要になります。

教員には教員試験、公務員になるには公務員試験の合格がそれぞれ必要になります。

以上みてきた
「ステータス」
保持者は、各試験や通過儀礼を経由する過程でそれなりの時間とエネルギーとコストを費やすことを余儀なくされます。

そして、その
「ステータス」
取得プロセスでの艱難辛苦を通じて、自分が目指すべきキャリアのことを真剣に考えさせられ、また当該キャリアを手にした後のビジョンをいろいろと描くこととなります。

憧れのキャリアを手に入れる過程で、悩み、苦しみ、考えたせいか、
「キャリアを手にしたものの、どうしたらいいかわからず、途方に暮れる」
というような人間は基本的にいないように思われます。

しかしながら、日本社会における社会的
「ステータス」
の中でも、取締役(代表取締役であるいわゆる「社長さん」を含む)と言われる方々は、以上みてきた方々とはかなり事情が違うようです。

「取締役」
というステータスを取得するためには、試験とか資格とか能力とか条件とか一切ありません。

病人であろうと、知的水準や社会的常識に問題があろうと、あるいは破産者であろうとOKです。

老若男女問わず、誰でも
「取締役」
というステータスを得ることができます。

この
「取締役」
というステータスを手にする上では、お金もそれほどかかりません。

会社法が改正され、資本金が1円でも株式会社の設立が可能となりましたので、登録免許税等の実費を考えなければ、1円だけもっていれば、誰でも
「取締役」
になれるのです。

無論、上場企業の取締役になるには、会社で何十年もがんばって働いて認められ、また
「株主総会での選任」
という緊張を強いられる通過儀礼を経由することが必要となりますが、
「学歴・経歴・資格・試験等一切関係なくなれる」
ということには変わりありません。

実際、上場企業において入社半年くらいの暴力団関係者が突然取締役に選任されてしまうことだってありますし、同族系の上場企業においては、経営能力が全くない認知症の疑いのある老人が取締役として選任される例などもあります。

「重役」
とか
「社長」
とかいうと、なんだか非常に高いステータスのように思われていますが、実態をよくわかっている人間がみれば、
「資格試験とか一切なく誰でもなれる」
という点で、一定の知的水準や専門能力の裏付けとはみなされません。

このように
「取締役」
というキャリアがいとも簡単に取得できてしまうせいか、
「キャリアを手にしたものの、どうしたらいいかわからず、途方に暮れる」
という方が多いのも、
「取締役」
というステータスを有する集団の特徴です。

そして、
「試験等一切なく誰でも入れる」
公立の初等教育機関において学級崩壊が起こり、トラブルが多発するのと同様、
「試験等一切なく誰でもなれる取締役」
やこのような
「取締役」
が強大な権限を有して動かす会社にトラブルが多発することになるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.33、「ポリスマガジン」誌、2010年5月号(2010年4月20日発売)

00147_改めて「教育」というものを考える(5・完)_20221020

「教育再考」
と題し、改めて
「教育」
というものを考えておりますが、今回は最終回です。

前回から、教育との関係でよく話題にのぼる
「学歴」
というものについて述べております。

学歴なんて、
「過去の栄光」
に過ぎません。

「過去の栄光」
なんて、
「現在の挫折」
と同義です。

学歴を偏重する人間、過去の栄光をどうのこうの言う人間は、人間としてのスペックが劣化しています。実際、愚かだし、貧しいし、退屈だし、陳腐です。

とはいえ、世の中は不思議なもので、そういう
「愚かだし、貧しいし、退屈だし、陳腐な」
「ホンモノの学歴偏重主義者で、差別主義者」

「学歴くらいしか誇るもののない、ホンモノのクズ」
を、ありがたがり、崇め讃える、もっと愚かな連中もいます。

そういう
「学歴なき学歴信者(『学歴を誇るくらいしか能のないクズ』を、ありがたがる人間)」
は、クズとは思いませんが、
「なんだか、かわいそう」
と哀れに思います。

要するに、どっちの方々も、
「人間の本質を図る基準」

「学歴」
という
「便利で安易なもの」
に依存している。

自分の目を信じない。

まごころで人と接しない。

「人間のレベルをきちんと観察せず、レベルではなく、ラベルで人間を判断する」
という点で、生き方が大きく狂っている、ということなのだと思うのです。

学歴を重視する人間は、「ブランドモノを神のごとく信仰する、イタそうな、アレな方々」と変わりません。

「隠居したジジイ」
とみたら居丈高にマウントを取る。

ところが、三つ葉葵の印籠をみた途端にひれ伏す。

でも、
「先の副将軍」
なのに家来が
「脇差ししかもっていない若衆二人」
とみると、なめてかかって、タカをくくり、
「手下を使って闇討ちにしてやれ」
と考え、誰もみていないことを確認し、取り囲んで殺そうとする。

そうすると、今度は、
「意外に使える、若衆二人」
に返り討ちに遭う。

最後は、泣きながら土下座して命乞いをする。

目まぐるしいし、忙しいし、無様で、醜悪で、愚かで、滑稽なこと、この上ない。

「なんで、人を見た目やレベルで判断し、偏見と先入観で分かった気になってしまうのかなぁ」
「なんで、目の前の一個の人間を、人として、きっちりフェアに、対等に、関係を構築しようとしないのかなあ」
「本当に、どうしようもない、クズだなぁ」
とつくづく思います。

私が
「学歴というラベルを使って、レベル(本質)を見誤る人」
を愚かだと思うのは、心理学的根拠があってのことです。

ヒトに実装されている認知資源、脳の情報処理能力には、有意な個体偏差があります(端的に言うと、ヒトには、「無知で想像力貧困なバカ」もいれば、「利口で思慮深い物知り」もいる、という整理になります)。

そして、
「脳の認知資源や情報処理能力が不足している方々(世間知らずで未熟なバカ)」
は、認知資源の不足を補うために、
「ステレオタイプ(差別と偏見)」
を使います。

知的な鍛錬を受けていないと、人の脳はラクをしたがります。

ヒトの脳内では、
「ラクな情報処理プロセス」、
「自動的な情報処理過程」
が存在しますが、これをステレオタイプ化といいます。

ヒトは特定の対象者をステレオタイプ化するとき(「東大卒=優秀、そうでない奴=バカで無知」といった紋切り型の判断)、その過程やその結果に無自覚であることが多いですし、その認知や知覚の中には、誤りが介在している可能性が発生します。

だから、私は、
「ラベル(学歴、肩書、身分、立場、年齢、性別)で人間を計測して分かった気になる危険性」
を常に念頭に置き、
「その人間が言った内容が、筋が通っていて、合理的で、論理的であるか」
をしっかり聞いて、
「レベル(本質)で人間を計測する」
ように心がけているのです。

「情緒が安定していて、思考の柔軟性があり、経験の開放性・新規探索性があり、自己評価の下方柔軟性があって、伸びしろが大きく、外罰傾向が皆無で、本も読むし、才能ある人間の話もたくさん聞くが、他方、自らの経験に基づく知見が豊富で、想像力と創造性があり、自己の主観から離れて状況を俯瞰できるし、相手の立場と置き換えるなど観察視点を縦横無尽に置き換えることができる認識・観察の柔軟性もある」
という方がいれば、ラベルがどうあれ、レベル(本質)に基づき、しっかりとその方をリスペクトし、正しく、フェアな関係構築に努めます。

他方で、どんなに学歴や肩書や身分や立場が立派で、年齢が上であっても、
「情緒が不安定で、思考が硬直していて、経験の開放性や新規探索性もなく、プライドが高く、若さや柔軟性や伸びしろを感じさせず、外罰傾向が顕著で八つ当たりばかりしていて、本を読まないし、才能ある人間の話も敬遠し、あるいはロクな人間としか交わっておらず、経験がないくせに机上の空論や誇張した武勇伝ばかりいっちょ前に披瀝したがり、状況俯瞰する力や立場を置き換えた思考や発想が皆無」
という、レベル(本質)の欠如した人間については、正しく見下し、正当に蔑むとともに、そいつの戯言は、有害なノイズとして、一切遮断します。

学歴は、単なるアクセサリー、おもちゃにして遊ぶ程度のくだらない陳腐なガジェット。

そんなところです。

そして、私は、
「『学歴』というくだらないものを偏重するバカ」
を、心の底から軽蔑します。

とはいえ、
「学歴がない奴が素晴らしい」
ということまでいうつもりはありません。

「学歴『だけ』の人間」
にはクズやゲスが多いですが、
「学歴すらない人間」
にはさらに困った方が多い、というのも、経験上の蓋然性として、有力な推定根拠となり得ますので(※)。

[※この「経験上の蓋然性」を基礎づけるデータとしては、法務省が発表している矯正統計(2021年度)の「新受刑者の罪名別 教育程度」が参考になります。同統計によれば、令和3(2021)年度の新受刑者16,152名のうち、大学卒業者は1,173名であり、大学卒業以外の方が14,979名で92.7%に上ります。したがって、上記は、単なる思い込みや先入観ではなく、データに基づく合理的推定です。]

もちろん、「推定」は、あくまで「推定」です。

どんな人間であっても、学歴や経歴や肩書や立場を離れて、一人の人間として接し、その人間の言葉と行動をしっかり観察した上で、評価や判断をするように努めています。

以上、教育の再定義、あるいは教育との関係でよく話題にのぼる
「学歴」
に関して、いつものとおり、私の独断と偏見に満ちた持論を展開させていただきましたが、このあたりで、
「教育再考」
と題する小論を終えたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.181、「ポリスマガジン」誌、2022年10月号(2022年9月20日発売)

00146_改めて「教育」というものを考える(4)_20220920

「教育再考」
と題し、改めて
「教育」
というものを考えております。

今回は、教育との関係でよく話題にのぼる
「学歴」
というものについてです。

まず、少し脱線した話から入ります。

私は、経営者の知恵袋として、投資案件の評価・助言をすることがあります。

顧問先の経営者が、
「知り合いの経営者から紹介された『投資のプロ』と称する人間」
から、
「極めて高度な投資理論を使った、安全で、儲かる投資案件」
を持ち込まれたことから、私が、案件の内容を聞き、私の評価・助言を聞いてみたい、ということで、当事務所で面談しました。

自称
「投資のプロ」
は、高そうなスーツに、高いネクタイをぶら下げて、理解しがたい、難解そうな理屈を並べ立てて、自分が提案する投資案件がいかに儲かるか、どれほどの投資家がこぞって投資を望んでいるか、を滔々と述べ立てます。

私は、コメントを求められましたが、
「私にはわかりません。理解できません」
と返答しました。

自称
「投資のプロ」
は、
「弁護士さんには難しいでしょうね。新しい投資商品ですから」
などとやや小馬鹿にしたような目線で返し、
「じゃあ、進めてよろしいでしょうか?」
と畳み掛けます。

私は、
「いや、やめておいた方がいいでしょう」
と答えました。

場が凍りつきます。

私は続けます。

「先程から、いろいろ小難しい話をされていますが、これって、たかが金儲けの話。儲かる話、の説明ですよね。1万円札を5000円で買って、買った1万円札を2万円で売れる。そんな程度の話ですよね。別に量子力学の議論をしているわけでもないし、ホッジ予想やリーマン予想や宇宙際タイヒミューラー理論の話でもない。単なる金儲けの話。そんな単純な話なのに、私はまったく理解できない。『たかだか金儲けの話なのに、この私が理解できない』という点が問題なのです。言えば嫌味になりますが、私は東京大学教養学部文科一類、通称東大文一に現役合格しております。バカでは合格できません。相応に国語読解能力が必要です。したがって、私は、世の中の方々の平均以上に国語読解能力があります。その、東大文一現役合格した私がもっている国語読解能力を総動員しても、あなたがおっしゃる、たかが金儲けの話が理解できない。別に、宇宙の成り立ちの話ではない。ニュートリノの話でも、メッセンジャーRNAの話でも、ABC予想の話でもない。何度も言いますが、たかが、金儲けの話です。にもかかわらず、東大文一の国語読解能力を総動員して2回繰り返し聞いても、どういう構造と論理で儲かるのかが理解できない。この場合の可能性は2つしかない。1つは、『あなたが、東大卒の想像と理解を絶するほど非常に高度に知的で、話されている内容がポアンカレ予想や量子力学並に難解で、そのために、東大卒風情の私が理解できない』という状況。あるいは、『あなたが話している内容が狂っているか、騙そうとしているから、東大卒の知性と理性を総動員しても、混乱した内容なので理解できない』という状況、のどちらかだ。で、失礼ですが、あなたの学歴をお尋ねしてよろしいでしょうか。」
と。

そうしたところ、自称
「投資のプロ」
は、そそくさと逃亡しました。

あとで詳細を確認したところ、マネロン絡みの法令抵触リスクの高い取引のブリッジファイナンスで、
「1万円札の洗濯をお願いするのに5万円払って、一歩間違うと、犯罪行為に加担したとされるリスクを引き受けてもらう」
という話でした。

犯罪行為の加担としての
「お金の洗濯の資金と名義協力」
を、(あくまで)
「投資商品」
と言い張るため、まともな思考を前提とする東大卒の頭脳では、理解できなかったというオチ。

ただ、それだけでした。

その後、紹介した知り合いの社長も含めて、たくさんの被害者が出たことを知りました。

なお、こういう言い方をすると、そそっかしいアホは、私のことをこう言います。

「畑中鐵丸は、学歴偏重主義者で、学歴差別主義者である」
と。

アホでなければできない誤解です。

私は、学歴差別主義者とは、真逆の人間です。

人間は、ラベル(学歴や表層)ではなく、レベル(本質・実体・行動)で判断します。

私は、
「学歴」
などというくだらないものは、エルメスのバッグやフェンディのお洋服と同じで、
「単なるファッションアイテムであり、アクセサリーにすぎない」
と捉えています。

シャネルを着た泉ピン子と、ユニクロを着た滝沢カレンと、どちらがどうか。

こういう課題を設定すれば、
「ブランド」
というものの本質が見えてきます。

私は、
「ブランド」
は、くだらなく、価値がない、と思っています。

私は、着ている服ではなく、中身を重視しますし、着ている服にはごまかされません。

私は、
「学歴やブランド」
を、徹底的にバカにしていますし、価値を認めません。

また、私は、
「学歴やブランド」
そのものもバカにしますが、
「『学歴やブランドといった、実にくだらないもの』を盲信する人間」
も、徹底的にバカにしていますし、価値を認めません。

私は、学歴はおもちゃにして遊びますが、学歴を神聖視したことなど、一度もありません。

「ホンモノの学歴偏重主義者、学歴差別主義者」
とは、学歴を神聖視する
「ほんまもんのアホ」
のことです。

そういう、
「学歴といった『くっだらないもの』をありがたがり、神聖視するアホ」
は、神聖な学歴を軽々しく議論の俎上に載せたり、おもちゃにして遊んだりしません。

この世には、
「ホンモノの学歴偏重主義者、学歴差別主義者」
という生き物も実在します。

法曹界や中央官庁の役人や上場企業に勤務する東大卒の中には、そのような
「変わった生き物」
の存在が確認されています。

「ホンモノの学歴偏重主義者、学歴差別主義者」
という
「変わった生き物」
は、学歴の話を公共の場で、軽々しく、ライトに、カジュアルにするようなことは、絶対しません。

私のように、ネタとして、小話として、あっけらかんとして、おもしろおかしくして話すことは、絶対しません。

「ホンモノの学歴差別主義者・学歴偏重主義者」
が学歴の話をするときは、裏でコソコソします。

なぜなら、こいつらにとって、
「学歴」

「神聖不可侵なもの」
だから。

私のように、
「神聖にして、高邁なる学歴」
を、ファッションアイテムやアクセサリー程度に扱ったり、話の小ネタとして
「おもちゃ」
にして遊んだりすると、こいつらはキレます。

要するに、こいつらは、
「学歴くらいしか誇るもののない、正真正銘、ホンモノのクズ」
なんです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.180、「ポリスマガジン」誌、2022年9月号(2022年8月20日発売)