00135_「訴えてやる!」と言われた場合の対処法_20211020

今回は、弁護士らしいお話です。

日常の口論でも、喧嘩がエスカレートすると、
「訴えてやる」
「出るとこ出てやる」
「裁判沙汰だ」
といった物騒な言葉が飛び交うことがあります。

こういうおどろおどろしい言葉で詰め寄られた場合、皆さん、どうされますか。

こういう有事における対処法は、意外と知られておらず、無駄にビビって、相手の言いなりになって、詫び状書いたり、念書書いたりして、やがて、そこからズルズルと
「やられたい放題やられていく」
という
「必敗」パターン
にはまり込んでいきます。

え、じゃあ、無視していいのでしょうか。

「無視したら、大変なことになるのじゃないか」
「『訴えてやる』という相手の威嚇を無視して、本当に大丈夫なのか」
「万が一、訴えられたら、より大変なことになって、それこそ地獄を見る羽目になるのではないか」
「とすると、訴えられることを回避するため、相手をなだめ、なんとかその場で話し合う方向で妥協した方がいいのではないか」
「弁護士は、他人事だと思って、いい加減なことを言ってるのではないか」
「というより、弁護士としては、揉め事起こった方が仕事になるから、仕事欲しさに煽ってるのじゃないか」
と無視するという態度決定を否定するいろいろな想像が頭を駆け巡ります。

しかし、民事で揉めて
「訴えてやる」
と言われた場合、弁護士として推奨する正しい対応は、無視であり、
「どうぞ裁判でも何でも、起こしたかったら起こしてください」
という突き放しなのです。

もちろん、本当に訴訟が提起される場合もないとはいえませんが、その確率は極めて低く、こういう
「訴えるぞ」
という脅し文句を絶叫する場合、単なるハッタリとしての捨て台詞であることがほとんどです。

こう言い切れるのは、訴訟の本質に根ざす事情に基づきます。

すなわち、訴訟を提起するといっても、裁判を行う場合、原告の負担があまりにも重く、訴訟を一種の
「プロジェクト」
と考えると、1万円札を10万円で買うような、無茶苦茶、コストパフォーマンスが悪い、
「キックオフした瞬間に、経済的敗北が確定する」
というくらい、厳しい負担が生じるものだからです。

というのは、民事裁判制度というゲームの構造が、原告にとってあまりに不愉快なシステムとして設計されているからです。

違法や不正義に遭遇したときに、被害者がこれを申し出て、権力的に解決する制度として、裁判制度というものが存在します。

よく、論争や見解対立が紛糾したりすると、
「出るとこ出たる」
「裁判を起こしてやる」
「公の場で白黒はっきりつけてやるから覚えとけ」
といった趣の売り言葉に買い言葉が応酬される場面に出くわしたりすることもあります。

しかしながら、裁判制度の現実を考えると、実際に訴訟を提起することはかなりの困難が伴い、さらにいえば、
「訴訟を提起する側は、提起しようとした瞬間、莫大な損失を抱えてしまい、経済的な敗北が確定する」
ともいえる状況が存在します。

なぜなら、民事問題の解決のため裁判制度を利用するには、莫大な資源動員が要求されるからです。

刑事事件として警察や検察等が動いてくれれば格別、民事の揉め事にとどまる限り、どんなに辛く、悲惨で、酷い状況に遭遇しても、被害者原告が、裁判を起こさない限り、国も世間も、基本的に、状況改善のために指一本動かしてくれません。

もちろん同情くらいはしてくれるでしょうが、同情を買うために愚痴を言い続けても、愚痴を聞く側もそれなりにストレスがたまるので、だんだん愚痴を聞いてくれなくなります。

それでも愚痴を言い続けて嫌がられると、友達までも失っていきます。 

「じゃあ、愚痴言ってるヒマがあれば、とっとと、さくっと、すぱっと、裁判を起こして、解決してもらえればいいじゃん!」
ってことになるのですが、これが、口で言うほど簡単ではなく、それなりの成果が出るように、真面目にやるとなると、気の遠くなるようなコストと手間暇がかかるのです。

無論、弁護士費用や裁判所の利用代金(印紙代)もかかりますが、この外部化されたコストは、費消される資源のほんの一部にしか過ぎません。

実際、訴訟を起こすとなると、原被告間において生じたトラブルにまつわる事実経緯を、状況をまったく知らない第三者である裁判所に、シビれるくらい明確に、かつ、わかりやすく、しかも客観的な痕跡を添えて、しっかりと説明する必要があります。

裁判所は、
「あいつは悪いやつだ」
「あいつは嫌われている」
「あいつはむかつく」
「あいつの評判は最悪だ」
とか、そんな、主観的評価にかかわるようなことにはまったく興味はなく(むしろ、この種の修飾語の類いはノイズとして嫌悪される)、聞きたいのは、事実だけです。

すなわち、客観的なものとして言語化された体験事実を、さらに整理体系化し、文書化された資料を整えることが、裁判制度を利用するにあたって、絶対的に必要な前提となるのです。

この前提を整える責任は、原告にのみ、重く、ひしひしと、のしかかり、世間も裁判所も、誰一人手伝ってくれません。

それどころか、少しでも、この前提に破綻や不備があると、相手方はもちろんのこと、裁判所も
「このあたりの事実経緯が不明」
「この点をしっかりと、根拠をもって説明してもらわないと、裁判がこれ以上進まない」
「もうちょっと、ストーリーを整理してくれないと困ります」
と言って、ツッコミを入れ、裁判が成り立たなくなるような妨害行動(といっても、これは原告の主観的心象風景であって、裁判所や相手方からすると、「裁判をおっぱじめるなら、おっぱじめるで、テメエの責任で、きちんとストーリー作ってこい!」という、ある意味当たり前のリアクションをしているだけ)を展開します。

このように、裁判システムは、ボクシングやプロレスの試合に例えると、原告が、ひとりぼっちで、延々とリングというか試合会場を苦労して設営し、ヘトヘトになって試合会場設営を完了させてから、レフリー(裁判官)と対戦相手(被告・相手方)をお招きし、戦いを始めなければならないし、さらにいうと、少しでも設営された試合会場ないしリングに不備があると、対戦相手(被告・相手方)もレフリー(裁判官)も、ケチや因縁や難癖をつけ、隙きあらば無効試合・ノーゲームにして、とっとと帰ろう、という態度で試合進行に非協力的な態度をとりつづける、というイメージのゲームイベントである、といえます。

こう考えると、裁判制度は、原告に対して、腹の立つくらい面倒で、しびれるくらい過酷で、ムカつくくらい負担の重い偏頗的なシステムであり、
「日本の民事紛争に関する法制度や裁判制度は、加害者・被告が感涙にむせぶほど優しく、被害者・原告には身も凍るくらい冷徹で過酷である」
と総括できてしまうほどの現状が存在するのです。

だから、
「訴えてやる!」
という威嚇を受けたら、
「どうぞ、どうぞ。訴状をお待ちしております」
と軽く受け流すことが、戦略的に最も推奨される対応という言い方ができるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.169、「ポリスマガジン」誌、2021年10月号(2021年9月20日発売)

00134_文明社会は「悪徳の栄え」を許容する_20210920

今回は、文明社会と
「悪徳の栄え」
との関係について述べてみます。

社会の文明度合いが進めば進むほど、犯罪は減り、喧嘩が減り、より、安全・安心に暮らせる空間ができあがる、というのが一般的な常識かと思います。

まさに
「衣食足りて礼節を知る」
の諺をなぞるような理解であり、もちろん、私としてもこの常識には相応の真実が含まれているものと思います。

しかしながら、他方で、これだけ文明が進み、モラルが行き渡った、デオドラントな社会ができあがったにもかかわらず、犯罪や法令違反不祥事は根絶される気配はありません。

もちろん、殺人や強盗といった凶悪犯はめっきり減っています。

一方、企業の犯罪や法令違反は一向に減る傾向にありません。

企業法務の専門家としては、
「企業不祥事は永久に不滅です」
という単純な真実を断言できます。

ここ2、30年くらい、継続的に、途切れることなく、企業不祥事が多発しまくっています。

「これだけ企業不祥事が出たから、もう、不祥事がなくなり、法律的に一点の曇りもない、清く、正しく、美しい、すみれの華のような、清廉な産業社会が日本にやってくる!」
と思われる方も、いらっしゃるかもしれません。

しかし、残念ながら、今、まさにこの時点においても(私が執筆している時点であれ、皆さんがこの文書を読んでいる時点であれ、どの時点をとっても)、どこかで、上場企業の粉飾やチャレンジや不適切会計、反社会的勢力との不適切なお付き合い、製品の性能データの改ざん、などなど各種法令違反や不祥事や事件、あるいはこれらの萌芽であるミスやエラーや漏れや抜けやチョンボやうっかり、粗相や心得違いやズルやインチキが、雲霞のごとく発生しているはずです。間違いありません。

「企業不祥事」
はとどまるところを知らず、おそらく、今年も、来年も、再来年も、企業不祥事は、順調に、活発に増えまくることでしょうし、この傾向は未来永劫続く、と断言できます。

「文明社会がどれだけ進化や発展を遂げようが、このような『悪徳の栄え』の傾向が顕著となる」
と断言できるのは、それ相応の理由があります。

文明社会とそれ以前の社会を分かつ概念は、
「人権保障」
というものです。

そして、人権保障という原則は、必然的に、証拠裁判主義と適正手続の保障を要請します。

「あいつは怪しい」
「あいつは胡散臭い」
「あいつは気に食わない」
「あいつはいかがわしい」
という理由だけで、反キリストや魔女といった烙印を押し、火炙りにしていたのが、中世の遅れた社会でした。

こんな愚劣な社会体制の下では、社会の構成員は、四六時中ビクビク恐れながら生活をしなければなりませんし、変わったこと、新しいこと、他人が考えつかないようなぶっ飛んだアイデアは、出てきませんし、出てきたとしても、徹底的に排除され、抑圧されます。

それこそ、
「地球が太陽の周りを回っている」
などと
「愚劣な常識に反する、本当のこと」
を言おうものなら、串刺しにされ、火炙りにされかねません。

このような社会ではイノベーションは発生せず、社会は停滞し、暗黒の時代が続きます。

そこで、状況克服のため、
「他人に迷惑をかけない限り、新しいことや、変わったことを言おうが、実践しようが、自由」
という原則が打ち立てられ、さらにこの原則を現実的に保障するために、
「証拠がなければ火炙りにされない」
「串刺しにするなら、それ相応の手続きによって串刺し相当であることが証明されてから」
という社会運営上の原則も確立しました。

ただ、よく考えて下さい。

「証拠がなければ罪や責任に問われない」
ということは、裏を返せば、
「痕跡さえ残さなければ、悪いことはやりたい放題」
であり、
「適正手続きが保障される」
ということは、
「たとえ悪事の痕跡が存在しても、適正な手続きで発見・押収されない限り、やはり罪に問われない」
ことを意味します。

もちろん、
「公衆の面前で悪事を働いたり、あるいは痕跡を消し去るような配慮をしない、知能低劣な粗暴犯」
は、どんな社会体制でも、罪や責任に問われます。

しかしながら、
「『文明社会において法的責任を問われる場面』における『法的責任追求(あるいは追求からの逃避)ゲーム』の『ゲームの構造やロジックやルール』を知り尽くした、知的な挑戦者」
にとっては、文明社会ほど快適なものはありません。

かくして、文明社会においては、粗暴な悪事は消失していきますが、
「知的で、洗練された悪徳」
は多いに栄えることになるのです。

こういう言い方をすると、悪を礼賛しているように聞こえるかも知れませんが、イノベーションというのは、くだらない常識やシキタリや道徳を徹底的に否定し、
「こういうくだらないものを有難がる既得権益者」
を根こそぎ地獄に追い落とすところから始まります。

イノベーションは、既得権益者にとっては必然的に
「悪徳」
の香りをまといます。

「イノベーションが称賛され、年寄りやエスタブリッシュメントが滅ぼされる」
という状況は被害者からみれば、まさしく
「悪徳の栄え」
そのものなのです。

皆さんは、
「悪徳が完全に消滅する、静かなデオドラントな社会」
を望みますか? 

それとも、
「悪徳が栄えるが、他方で、常に新しく、進化し、変わっていく、刺激的な社会」
を望みますか?

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.168、「ポリスマガジン」誌、2021年9月号(2021年8月20日発売)

00133_パワーについて_続_20210820

今回も、前回に続き
「パワー」
というものについてお話したいと思います。

パワー、一般に力といわれますが、お話したいのは動力や馬力の話ではなく、そこはインテリっぽく、権力や暴力や政治力や国家権力など、人や社会を動かす支配の源泉についてです。

前回、パワーとプレゼンスの関係について、裁判所という司法権力を振りかざす国家機関の事例をもとに、裁判なり交渉なりトラブル処理というゲームをうまく進めるためには、ゲームを動かす決定的パワーを察知し、その所在を把握し、うまく働きかけて、ゲームを制御していく観察力と想像力が必要である、というお話をさせていただきました。

3、ハードパワーとソフトパワー

ところで、一般に
「パワー」
というと、ハードパワーとソフトパワーがある、などといわれます。

相手に何も言わせず、黙らせ、従わせるのが、ハードパワーです。

暴力、軍事力、法律や行政上の不利益措置を与える国家権力。

前回お話した裁判所が発揮する司法権力も大きな権力です。

あと、経済力。

札束で頬を引っ叩いたり、取引の廃止を匂わせたりして、相手を黙らせ、屈服させる、という力、これがハードパワーです。

他方で、ソフトパワーというものもあります。

相手を押し黙らせるのではなく、むしろ、自由に言いたい放題語らせ、意見を表明させ、自分をさらけ出させつつ、しかし、こちらが圧倒的に上位にあり、相手はこちらに従うしかないような状況を可能にするパワーです。

例えば、こちらがデジュールスタンダード(公的標準、公的基準)を策定する権限を有しており(あるいは、公的標準が存在しない分野の場合でも、デファクト基準を設定する事実上の権限を握っていて)、基準上、当該基準を策定する当方が圧倒的上位にある場合です。

こういう場合、こちらが常に先に進んでいるため、競争相手はどんなに頑張っても追いつけない状態にあることが多いので、無理に相手にあからさまな圧力や暴力を行使するまでもなく、相手に状況をわからせるだけで、状況を正しく理解し認知する能力さえあれば、相手が自発的に恥じ入り、沈黙する。

こちらが暴力や権力をあからさまに誇示しなくても、あるいは、大きな声を出したり、プレッシャーをかけたりしなくても、相手が言いたい放題語ろうとしても、やがて状況を理解したら、自然に押し黙らせることができる力。

これがソフトパワーです。

軍事力(暴力)や経済力(カネの力)とは異質の力であり、具体的には、文化の力や、芸術の力や、科学の力や、学術の力です。

もっと卑近な例でいうと、リアルの世界やネットでの情報発信力、フォロワー数などSNSにおける影響力の指標もこれに該当します。

4、ソフトパワー優位の時代

では、ハードパワーとソフトパワーの優劣でいえば、どのような評価が可能でしょうか。

どんなに大きな政治権力をもっていても、ネットで影響力あるブロガー等が、SNSで批判的意見を表明したり、つぶやいたりすると、途端に、大きな力となって政治権力側を謝罪させたり、退場させたりする。

大きな経済力をもつ企業が社運をかけ、大きな宣伝広告費をかけた新商品を世に出しても、多くのフォロワーをもつ発言者がTwitterで
「このテレビ広告は女性を蔑視している」
という見解をつぶやいただけで、たちまち、その商品と企業が窮地に陥る。

現代は、ソフトパワー優位の時代ではないでしょうか。

そして、ソフトパワーが決定力をもつ時代は、平和で、知的で、進化した時代ともいえるのだと思います。

ハードパワーを競う世界というのは、軍拡競争をイメージすればわかりやすいですが、お互いが疑心暗鬼となって絶えず緊張して警戒して競争を続ける世界です。

ハードパワー競争の時代は、競争の限界がイメージできず、際限ない消耗戦を強いられ、最後は、競争者全員が疲弊し、共倒れします。

しかし、ソフトパワーを競う世界は、新たな基準や新たな世界や新たな秩序を創造して参加を呼びかけるものです。

ソフトパワーの世界は、観念の世界であり、多元的世界であり、いろいろな競争空間が共存する世界です。

ファッションではこの国、美術ではこの国、建築ではこの国、クラッシックではこの国、ポップスはこの国、料理はこの国、アニメはこの国、医療ではこの国、文学ではこの国、といった形で、いろいろな競争空間を創出でき、ソフトパワーの競争の激化は、そのまま人類がより豊かにより多様に進化していくことを意味します。

私個人としては、ハードパワー競争がどんどん劣位となり、あらゆる国、コミュニティ、企業、個人が、ソフトパワーで競争する空間を創出し、激しく攻防する平和で豊かで進歩を感じる世界が続いてほしいと願うばかりです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.167、「ポリスマガジン」誌、2021年8月号(2021年7月20日発売)

00132_パワーについて_20210720

今回は、
「パワー」
というものについてお話したいと思います。

パワー、一般に力といわれますが、お話したいのは動力や馬力の話ではなく、そこはインテリっぽく、権力や暴力や政治力や国家権力など、人や社会を動かす支配の源泉についてです。

1、裁判所のパワー

弁護士として、普段、交渉をやっていると、すぐさま交渉は暗礁に乗り上げます。

一般に、人はお互い折り合えるなら、弁護士になど頼みません。

どれほど努力しても折り合う余地がないから弁護士に頼むわけです。

ただ、そこまで関係が悪化している状況で、弁護士がついた途端にお互い譲り合って話がまとまるか、というと、そういうことにはなりません。

結局、弁護士がついて内容証明郵便によるエレガントな嫌味を言い合っても、すぐに交渉はスタックして(暗礁に乗り上げて)しまい、打開するためには、交渉を進める裏付けとなる力が必要になります。

では、この
「交渉を進める裏付けとなる力」
は何か、というと、もちろん、金属バットやトカレフや柳刃包丁を見せびらかしたり振り回したり、ということも論理上・想像上考えられますが、そこは、我々知的紳士としては、
「裁判所という国家機関による暴力的裁定によって、不利益を食らわせる」
ということを実践します。

すなわち、
「交渉を進める裏付けとなる力」
としては、
「裁判所という権力機関による裁定する権力」
がこれに該当します。

具体的には、どちらかが事件を裁判所に持ち込み(どちらも持ち込むというケースもあります)、裁判が始まります。

しかし、裁判所は、判決に向かってまっしぐらに事実や証拠を検証しはじめる、というわけではありません。

その間に、裁判所は、何度も何度も何度も、くどいくらい、
「もういい加減にしてよ」
っていうくらい、和解を斡旋します。

正確に調べたわけではありませんが、民事裁判がはじまって、最終的に判決で決着するのは3割程度ではないか、と思えるほど、和解で終了する蓋然性は高いです(なお、欠席判決や、銀行や貸金業者が事務的なルーティンで判決取得するような、争いの要素が皆無で、裁判所も事務的に判決をこなすような事件は除きます)。

要するに、裁判所という国家機関が提供するサービスの本質は、
「判決をくれる」
というものではなく、
「『イザとなったら権力的に(あるいは暴力的に)裁定して、どちらかを不幸にどん底に陥れる力』をもった国家機関が主導してお節介を焼き、そのようなパワーを背景に当事者双方を威嚇しつつ、できない譲歩をさせ、和解を強引にさせる」
という面があり、後者の役割を果たす場合の方が相対的に大きい、といえるのです。

2、パワーとプレゼンス

例えば、
「モノ(車でも家でも船でもいいのですが)を売った代金として、1000万円を払う・払わない」
という揉め事が起こり、弁護士同士の交渉が頓挫して、裁判を起こし、ある程度事件が進んだ段階で、裁判官が
「700万円くらいで折れませんか」
と言ったとします。

裁判官は、強制する口調や乱暴な口調や命じる口調ではなく、ドライに、クールに、ジェントルに、エレガントに、のたまいます。

裁判官のそのような優しげな言い方や口調の第一印象を軽く甘く判断して、
「うっせーうっせーうっせーわ。余計なお世話だ、馬鹿野郎!」
と思って、
「嫌です。そんな和解、承服できません。とっとと判決ください」
と言うのは、もちろん当事者の自由であり、実際、そういう対応をする方も少なくありません。

しかし、裁判官の
「700万円くらいで折れませんか」
という提案は、どんなにジェントルに、どんなにエレガントな口調で言ったとしても、
「当該事件を煮て食おうが焼いて食おうが、誰からも文句を言われない、神聖にして不可侵な絶対的権力を与えられた国家機関としての裁判所」
のお言葉であり、そういう話を前提に考えると、この提案は、実は恐れ多くも畏(かしこ)くも
「700万円で妥協せよ」
とお命じあそばした指示ないし命令と理解されます。

この命令に中指突き立て、峻拒すると、待っているのはシビれるくらいエゲツない祟り、ないし報復です。

かくして、裁判官の和解の勧告に対して、
「嫌です。そんな和解、承服できません。とっとと判決ください」
と言った原告は、後日の判決で、こっぴどく報復されます。

すなわち、具体的な和解提案を拒否して裁判所の手を払い除けた原告には、700万円どころか1円も手にできない、そんな残酷な未来が待ち構えるのです。

要するに、裁判所にはパワーがあるのですが、パワーにふさわしいプレゼンス(存在感)が見えにくいため、パワーの実体や大きさがわからず、最終的にゲームに失敗する、ということなのです。

裁判なり交渉なりトラブル処理というゲームをうまく進めるためには、ゲームを動かす決定的パワーを察知し、その所在を把握し、うまく働きかけて、ゲームを制御していく観察力と想像力が必要である、と総括できますでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.166、「ポリスマガジン」誌、2021年7月号(2021年6月20日発売)

00131_アフターコロナ・令和の時代を読み解く_その4・完_20210620

当初連載を想定していませんでしたが、思わぬ形で連載となってしまった
「アフターコロナ・令和の時代を読み解く」
と題する記事の続きです。

スピリチャル的な話として、
「物理的所有」の価値観
に重きをおく
「土の時代」
から、
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される、
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったことや、昭和や平成時代に当たり前とされてきた古いものや古臭いものが一掃され、DXやAIの普及により企業におけるゲームのルールやプレースタイルが変わる、飲食ビジネスが激変する、副業、フリーランスという働き方の普及、学校教育の変化などといったことを申し上げました。

今回も同じテーマで、さらなる補足をして
「アフターコロナ・令和の時代を読み解くヒント」
のようなものを述べていきたいと思います。

6、経済活動の基本構造を一変させる歴史的転換局面の到来

これは、やや大胆な予想というより、思考実験に近いものかもしれませんが、凄まじいインフレとなり、
「お金」
が根源的意味と価値を低下ないし喪失し、あるいは姿・形が様変わりし、まったく新しい経済システムが登場するかもしれません。

コロナ対策として、世界各国で壮大な社会実験が行われています。

史上空前のお金のジャブジャブ化とバラマキです。

二十世紀の大恐慌のときには、
「財政赤字になっても関係ねえ!」
とばかりに、金利を下げて輪転機を回してどんどんお金を増やして(金融政策)、公共工事を増やして(財政支出)、景気回復を試みました。

一般に
「大恐慌からの景気回復策として、アメリカを初めとする各国で、ケインズ理論に基づく金融政策・財政政策が実施された」
といわれているようですが、嚆矢となったのは、1932年に開始された我がニッポンの大蔵大臣高橋是清考案にかかる
「時局匡救事業」
という積極的財政策です。

その後、高橋の政策に続く形で、1933年にアメリカのニューディール政策が開始されました。

ケインズ理論が著された
「雇用、利子および貨幣の一般理論」
の出版はかなりあとの1936年です。

「ケインズ理論に基づき、ニューディール政策や高橋是清の政策が実施された」
などと誤解されているかもしれませんが、順序でいうと、
「高橋是清→ニューディール→ケインズ」
であり、その意味で、高橋是清の先見性と才能は再評価されるべきだと思います。

是清の政策は成功し、日本は欧米諸国に先駆けてデフレを脱却しましたが、彼は二・二六事件で暗殺されます。

その後は、戦争という
「究極の公共事業」
を続行する軍事や財閥やマスコミや世論に抗しきれず、日本は、社会全体で戦争拡大に邁進していきます。

なお、アメリカのニューディール政策ですが、経済の仕組みを理解しない最高裁が同政策に違憲判決を出してケチをつけたり、財政正常化に服するのが早すぎたこともあり、失業率が再上昇してしまい失敗に終わりました。結局、
「第二次世界大戦参戦と太平洋戦争開始」
という別の
「巨大な公共事業」
が開始されたことによって、アメリカは不況を脱することになります。

さて、令和のコロナ禍の時代においては、もはや
「公共事業」
なども前提とせず、
「ヘリマネ」
すなわち、
そのままお金をヘリコプターでばらまく、
という大胆な景気刺激策が登場しました。

「ヘリコプターから紙幣をばらまけば、いずれ物価は上がる」
というのは、経済学者ミルトン・フリードマンがその論文で書いた話が嚆矢となっています。 

これを敷衍する形で、米国の経済学者で第14代連邦準備制度理事会(FRB)議長のベン・バーナンキは、「デフレを解消するには、ヘリコプターから紙幣をばらまくような大胆な金融緩和策が有効」との見解を示しました(そこから、伝統的な経済学者等からは、揶揄を込めて、「ヘリコプター・ベン」「ヘリコプター印刷機」などと評されたことは有名です)

金利を下げたり、通貨供給量を増やしたり、公共事業をしたり、といったことであれば取引や交換秩序という文脈で理解できますが、
「取引や交換という前提もなく、お金をばらまく」
というのは、かなり大胆というか、理解を超えた対策です。おそらく、人類史上初の試みではないでしょうか。

コロナ禍以前においても、
「解決不能なデフレ(FRB議長だったイエレンさんも「puzzle」(謎)と評したしつこいデフレ)解消方法」
として、
「ヘリマネ」
が取り沙汰されはじめた際、私は、
「んなアホな」
「なんぼなんでも、そんな無茶苦茶なもん、デキるわけないやろ」
と思っていました。

しかしながら、コロナ禍の時代に入り、
「特別定額給付金」
やら
「go to ホニャララ」
といった
「ヘリマネ」
が現実的政策として実行されるようになり、
「長生きすると、いろいろな事態に巡り会えるもんだ」
と驚き、感慨を深くした記憶があります。

「ヘリマネ」については、「なにやら、変わった、壮大な社会実験がおっ始められたなぁ」「そのうち、終わるだろ」と冷ややかに眺めていましたが、なんと、「デフレを解消するには、ヘリコプターから紙幣をばらまくような大胆な金融緩和策が有効」とのたまっていた「ヘリコプター・ベン」ことベン・バーナンキ氏に2022年度のノーベル経済学賞が授与され、人類史上画期的な経済学的知見を示したものと認められてしまいました(?!)。

この「人類史上画期的な経済学的知見を示したものと認められてしまいました(?!)」の「(?!)」にはそれなりの含みがあります。

「ノーベル経済学賞」は、ノーベル財団が取り仕切る年次イベントのノーベル賞ではなく、「スウェーデン国立銀行経済学賞(正式には、『アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン国立銀行賞』という長たらっしい名前)」という、ノーベル賞にあやかった、便乗というか乗っかりイベントです。

2001年に朝日新聞科学部記者(当時)の杉本潔氏が、賞を運営するノーベル財団の実務責任者であるミハエル・ソールマン専務理事(当時)にインタビューに対して、「経済学賞はノーベル賞ではありません。ノーベルの遺言にはない、記念の賞です」と答えていますし、杉本氏によれば1997年には文学賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーが経済学賞の廃止を要請しているそうです。
また、杉本氏によれば、2001年にはノーベルの兄弟のひ孫「ノーベルは事業や経済が好きではなかった。経済学賞はノーベルの遺言にはなく、全人類に多大な貢献をした人物に贈るという遺言の趣旨にもそぐわない」などと新聞(地元紙)で批判したこともあったそうです。

要するに、ノーベル経済学賞は、船橋市非公認マスコットキャラクターの「梨の妖精、ふなっしー」同様、ノーベル財団非公認、ノーベル賞を勝手に自称している、ちゃっかり、乗っかりイベントのようです。

極めつけは、1997年にブラック-ショールズ方程式を理論面から完成させて、「ノーベル財団非公認、ノーベル経済学賞」である「スウェーデン国立銀行経済学賞」を授与された、マイロン・ショールズとロバート・マートンが加わったヘッジファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメント(Long Term Capital Management)が空前の損失を出して倒産してしまいました。

やっぱり、本物のノーベル賞とは違い、ノーベル財団非公認イベント特有の、パチもんっぽいというか、インチキさというか、えも言われる胡散臭さが漂っています。

ですので、「デフレを解消するには、ヘリコプターから紙幣をばらまくような大胆な金融緩和策が有効」という「ヘリコプター・ベン」の説が、「ノーベル賞により評価された学術成果同様、人類史上画期的な経済学的知見を示したものと認められた」と考えるのはやや早計かもしれません。

話をもとに戻します。

これを推し進めていき、平均年収分くらいの給付金を国民全員にあげる、とか、ベーシック・インカムは保障する、とかやりはじめると、論理的・原理的には、1万円札がどんどん価値を喪失していき、紙くず化していきます。

昨今話題となっている
「不況下での株式市場の熱狂」
も、
「コロナ禍回復後の経済の先取り」
というより、貨幣価値の激減への対抗措置とも取れます。

ところで、
「go to ホニャララ」
を推し進める過程で、飲食店等にキャッシュレス決済機能実装が求められ、このため、キャッシュレスが一挙に進みました。

個人的にも、現金(お札や硬貨)を触る機会が圧倒的に減少した感があります。

たった1、2年で、お金の意味と価値と姿・形が一気に様変わりしました。

あまり実感が沸かないかもしれませんが、経済や金融という世界においては、我々は衝撃的な歴史の転換局面に出くわしている、とも捉えられるような気がします。

俗に、経済的な資源を称して
「ヒト・モノ・カネ・チエ」
などといいます。

「ヒト」
の価値は、AIやRPAによって消失していく傾向にあります。

社会や市場が
「モノ」
への欲望そのものを喪失して
「モノ」
も価値を消失しました。

コロナ以前から、すでに
「モノ」離れ
の傾向は顕著で、どんなに景気を刺激しようとしてもインフレは鈍化しデフレに回帰してしまう状況で、
「モノ」
の生産による利潤創出には限界が見え始めていました。

大規模な金融緩和やヘリマネやキャッシュレスの動きも相俟って
「カネ」
が意味と価値と姿・形を変え、希薄化希釈化された存在になりつつあります。

さらに、インターネットによって瞬時の情報共有・拡散・希薄化・希釈化・陳腐化が可能となった現代においては
「チエ」
の価値もどんどん無価値化しています。

近代以降、人類は、
「カネ」を調達し、
「ヒト」を動員して、
「モノ」を作って、
「チエ」により磨き上げ、
利潤を創造して、
「カネ」を媒介した循環により、
自己増殖的に成長する方法で、企業を中核とする経済社会を拡大・発展させてきました。

しかし、このような
「経済の自己増殖ゲームのアーキテクチャそのもの」
がコロナ以前から疲弊し始め、コロナ禍による経済社会の変革によって息の根を止められ、新たな経済システムに向けて大きく変わっていくことになるのではないでしょうか。

アフターコロナにおいて、王政復古のように、昭和・平成の時代に逆戻りすることはまずあり得ないでしょう。

新しい時代にふさわしい、新しいゲームのアーキテクチャ・ゲームのロジック・ゲームのルールが創出され、新たな経済活動のプレースタイルが登場し普及すると思います。

「それがどのようなものであるか、具体的なものは今現在、世界の誰もが測りかねる。ただ、今のままでは機能せず、何か別の新しいものに変化し、置き換わることだけは確実である」

我々は、そんな時代の転換局面に立たされています。

変化の時代においては、変化に適応しなければなりません。

変化の時代に、変化に適応するためには、変化を察知し、正しく理解し、抵抗なく受け入れ、正しく評価できなければなりません。

対処行動の基本を簡単にいうと、
「若さ」を保て、
ということです。

「若さ」
は、
「バカさ」「愚かさ」
ではありません。

「戸籍年齢は若いが、頑迷固陋で、夜郎自大の、愚劣な小物」
は世に蔓延っていますが、この連中は
「若い」
のではなく、
「幼いだけのバカ」
です。

「若さ」
とは、進化し、変化し、自己を環境に適応させることのできる根源的能力を指します。

その能力を、整理分解すると、

(1)新しい環境を知り、理解する力(新規開放性、新規探索性及び思考の柔軟性)
(2)自己を健全に否定する力(健全で明るく前向きな自己否定を可能とする謙虚なメンタリティ)
(3)否定した自己を環境に合わせて変化させる力(カッコ悪さや恥をかくことや頭を下げることを恐れない勇気と柔軟性)
ということになるでしょうか。

もちろん、巨視・俯瞰視を可能とする知的情報基盤、すなわち
「良質の本」

「良質の師」

「良質の友」
の存在が前提となりますね。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.165、「ポリスマガジン」誌、2021年6月号(2021年5月20日発売)

00130_アフターコロナ・令和の時代を読み解く_その3_20210520

前回、前々回、
「アフターコロナ・令和の時代を読み解く」
と題して、スピリチャル的な話として、
「物理的所有」
の価値観に重きをおく
「土の時代」
から、
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される、
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったことや、昭和や平成時代に当たり前とされてきた古いものや古臭いものが一掃され、DXやAIの普及により企業におけるゲームのルールやプレースタイルが変わる、飲食ビジネスが激変する、などといったことを申し上げました。

まだまだ話したりない点がありましたので、今回も同じテーマで、さらなる補足をして
「アフターコロナ・令和の時代を読み解くヒント」
のようなものを述べていきたいと思います。

4、副業やフリーランスという働き方の一般化(承前)

大企業は、大規模なリストラを見越してか、自社従業員に対して、盛んに副業を勧めています。

副業をもっていると、リストラをされても、衝撃が和らぐので、
「君たち、今後何時リストラされてもいいように、今から、準備しておけよ」
ということだろう、と思います。

前向きなことをいえば、副業やフリーランスという働き方は、個々人が企業や組織に依存せず、経済的独立が精神的独立につながり、独立した気概を養い、経済や社会を活性化させる、ということになるのかもしれません。

ただ、
「組織に依存して、組織でしか通用しない価値を提供してきたサラリーマン」
がいきなり副業を始めたり、フリーランスになろうとしたりしても、無理があります。

まずは、足元をみて、
「組織でしか通用しない自分の価値」

「組織以外でも、社会でも通用する価値」
に変えていく必要があるのです。

そのためには、やみくもにスキルを磨くだけでなく、
「自分のスキルや価値の再定義・再構築」、
さらには、
「自分のスキルや価値」

「ミエル化・カタチ化・言語化・文書化・フォーマル化」
をして、外部に発信したり、表現したりすることが求められるようになると思います。

5、学校教育の変化

コロナによる社会変化・環境変化により、教育も変わるし、学校も変わるかもしれません。

学歴やキャリアということについても、ゲームのロジックやゲームのルールが激変するかもしれません。

コロナ禍によって、学校がしばらく閉鎖となり、そのため、これまで、頑なに
「インターネットによる情報通信」
という利便性の受け入れを拒否してきた学校ないし教育システムも、変化(というか、ネット時代になってもなお、石器時代のような古臭い価値観にしがみついてきたスタイルが、キャッチアップすることで、当たり前化・正常化する)を余儀なくされました。

予備校や資格試験準備においてはすでに一般化されていた通信教育・オンライン教育、というものが、学校教育にも入り込んできました。

当たり前ですが、
「学校で行われる、教師によってバラつきのある、サービス基準もなく、競争原理も働かない、効率的でもなく、時間や場所による制約が著しい、古典的教育サービス」
と、これと真逆の通信・オンライン教育サービスとでは、最初から、勝負はみえています。

おそらく、学校サイドでは強烈に抵抗するでしょうが、
「論理的正しさへ向かっていく変化」
に対して、政治的抵抗を試みても、降りのエスカレータを登攀するのと同様、持続可能性がなく、長期的・構造的には、変化に屈服することになります。

コロナ禍による社会の激変によって、
「不効率・不合理・非論理的・不経済性著しかった学校教育業界」
に変化の楔が打ち込まれ、大胆に変わらざるを得なくなると思います。

すべての学校が、放送大学や通信制高校のようになるかもしれません。

放送教育や通信教育だと、教える側のスキルが厳しく問われ、
「退屈な授業しかできない、トークの弱い、研究バカ」
が駆逐されるかもしれません。

「未来の学校」
はどんなものになるのでしょうか。

必要なリテラシーの実装は、すべてオンラインや通信で事足ります。

「話が下手くそで、退屈で、眠い授業」
に強制的に付き合わされることから開放され、それこそ、
「林修先生」のような、
「東大卒で、圧倒的に知識や教養が豊かで、話がうまくて、教えるのもうまい、スーパー先生」
から、退屈しない話を聞いて、メキメキ頭がよくなります。

知的好奇心旺盛で、勉強に興味がある生徒は、どんどんオンライン講座の勉強を進めていきます。

テキストも資料もすべてオンラインで提供されます。

死ぬほど重い、分厚い教科書をたくさん抱えて、つまんない教師から、眠たい話を聞くためだけに、無駄な通学時間を費消して、苦行のように学校に行くことから解放されます。

知的好奇心が旺盛で、勉強に興味がありながら、
「悪しき平等理念」
によって、これを抑え込まされ、飛び級等による健全な進歩と成長を禁じられるような愚行もなくなります。

とはいえ、学校は学校なりの意味が残ることもあるでしょう。

通信教育を補充するためのチュータリング施設として、保護者が忙しい家庭の子供を預かる収容施設として、同世代の友達と楽しく過ごすサロンとして、クラブ活動を行う際の活動拠点として、実力テストの試験会場と採点役として、であれば、オンラインや通信インフラが整った現代においても、
「学校」
という時代に適合しないカビ臭いインフラも廃物利用できそうです。

登校するのは、試験を受けるときか、通信教育を補充するためのチュータリングを受けるときか、友達と楽しく過ごすためのサロンに参加するときだけ。

担任の先生は、チューターであり、サロンの主人であり、クラブ活動の監督者であり、試験の際には、試験監督と採点担当をする。

私は、
「昭和や平成時代の、古臭くて、かび臭くて、退屈で、つまんないし、その割にエラそうで、権威主義的な学校や教師」
というものがあまり好きではなかったですが、以上のような
「未来の学校」
「未来の教育」
なら、
大歓迎です。

学級崩壊やイジメが生じるのは、無理してつまんない授業を聞かせようとしたりして、逃げ場のない密度の高い閉鎖空間にストレスが高い状態で知性未熟な(さらにいえば、動物的で暴力性をもつ)子供を長時間収容するからであって、
「未来の学校」
には、イジメも学級崩壊もなくなるかもしれません。

オンライン教育であれば、
「教育カリキュラムについていけない知性低劣で粗暴で自己抑制が困難な児童や生徒」
が、教師や教育インフラに八つ当たりしようとして、パソコンやタブレットを破壊しても、オンライン教育システムは破壊から免れます(自分のパソコンやタブレットが壊れるだけ)。

また、
「逃げ場のない密度の高い閉鎖空間にストレスが高い状態で収容される」状態
でなくなれば、イジメは劇的に少なくなりますし、仮にイジメが生じたら
「学校」
という
「不愉快であれば、別に行かなくてもいい、サロン」
を敬遠し、自宅でオンライン教育に没頭し、
「飛び級」
すればいいだけです。

学校という組織や、教師個人という、現代の教育サービスに利害や既得権をもつ連中にとっては、不愉快かもしれませんが、効率性、合理性、論理性、経済性にとっては、これが現代において本来あるべき学校や教育の理想の姿であり、社会にとっては輝かしい、美しい姿であるような気がします。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.164、「ポリスマガジン」誌、2021年5月号(2021年4月20日発売)

00129_アフターコロナ・令和の時代を読み解く_その2_20210420

前回、
「アフターコロナ・令和の時代を読み解く」
と題して、スピリチャル的な話として、
「物理的所有」の価値観
に重きをおく
「土の時代」
から、
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される、
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったことや、昭和や平成時代に当たり前とされてきた古いものや古臭いものが一掃され、DXやAIの普及により企業におけるゲームのルールやプレースタイルが変わる、などと申し上げました。

話したりない点がありましたので、今回も同じテーマで、少し補足して
「アフターコロナ・令和の時代を読み解くヒント」
のようなものを述べていきたいと思います。

3、飲食店の提供価値の再定義(承前)

コロナ禍で最も大きな影響を受けているのは飲食店です。

皆さんの周りでも、閉店したり休業したり、このコロナ禍で大変厳しい影響を受けている飲食店があるかと思います。

アフターコロナ・令和の時代に、飲食店は
「今まで通りの業態」
で生き残れるのでしょうか?

それとも、事業環境の劇的な変化に伴い、新たな形に転換することが求められるのでしょうか?

「飲食店」
ですが、昭和においても平成においても、その名称とは異なり、単に
「飲食だけが提供され、食えりゃあ、それで役割が全うされる施設」
ではなく、
「高い価値のある空間で、うまいものを食って、楽しく快適な時間を過ごす、一種のテーマパーク的設備」
という趣きがあったように思います。

もちろん、ファーストフードや牛丼屋やラーメン店のように、
「とっとと食事を済ませて、終わったらすぐに出る」
という合理性に徹した本来的な飲食提供施設もありますが、都心の一等地にある多くの飲食店は、店の外観や内装、座敷やテーブルのつくり、しつらえ、什器や調度品、サービススタッフの服装や立ち居振る舞い、行き届いたサービス等も含めて、食事代金プラス体験価値(テーマパークに行ったような体験価値)に対する費用が上乗せされた高額の費用を支払うことで成り立っている施設が大半でした。

そこでは、単に、
「食事ができれば、それで事足りる」
という話ではなく、テーマパークのように、当該場所に一定時間滞在することに意味の大半があり、夜遅くまで、ゆっくり時間をかけて、ぺちゃくちゃ喋り、食事の相手と親密さを増し、あるいは取引関係を含む人間関係を円滑にする、という目的がありました。

特に、お酒という、原価率が低く、貯蔵ができ、しかも経済性を逸脱した価格設定が可能な嗜好品が収益の柱になっており、お酒が提供される夜や深夜の営業が飲食店存立の基盤を形成していました。

しかしながら、このような事業のあり方(特に、夜や深夜の営業)が、
「コロナの感染拡大防止」
という公共政策目的によって全否定されてしまい、事実上、事業が大幅に制限されてしまいました。

そして、このような事業環境の変化に併せるかのように
「上質な価値空間において、客に、お酒を含めた食事を楽しみつつ、長時間滞在してもらう」
を役務内容とする飲食店が、どこもかしこも、テイクアウト(弁当)やケータリング(仕出し)を開始しました。

私も、いわゆる高級店の高級テイクアウトやケータリングを試してみましたが、どれもこれも、まったく美味しくありません。

少なくとも、価格に見合ったものではなく、リピートするような代物とはまったく出合えませんでした。

経験による習性とは恐ろしいもので、飲食店に行かない期間が続くと、飲食店については、
「あってもなくてもいいし、なくても別に困らない」
「テイクアウトやケータリングではもちろん利用する可能性があるが、味がイマイチだったり、味がそれなりであってもバカ高いものであれば、その店を見限る」
という行動が当たり前になってきました。

こうなると、アフターコロナの時代には、
「上質な価値空間における長時間の滞在を提供役務内容とする飲食店ビジネス」
は、
「あってもなくてもいいし、なくても別に困らない」
という捉えられ方をされ、以前のようなバブリーな持て囃され方をされなくなるかもしれません。

このことは、不動産屋がバブル期以降、以前ほどには持て囃されなくなった事例が参考になるかもしれません。

その先にあるのは、飲食店の本来的な姿・形の、強烈な様変わりではないでしょうか。

「テイクアウトやケータリングをメインとするキッチンに、申し訳程度にイートインスペースが付いている施設」
がデフォルトになるかもしれません。

また、
「飲食業界におけるプロフェッショナルの階級序列」
に革命が起こるかもしれません。

「料理人」

「弁当屋さん」
とでは、
「料理人>弁当屋」
という序列・格付けがあったやに思います。

ですが、コロナ禍になって、
「実は、『弁当屋』の方が、『料理人』より、遥かに高い技術が要求される」
ということが判明したのではないでしょうか。

「高級フレンチや高級割烹が、今まで店で出していたものをそのまま折り詰めしてテイクアウト用に、店で提供する価格(弁当としてはあり得ないくらい高価)で提供しはじめましたが、前述のとおり、どれもこれも味がイマイチでしたし、それなりの味かなと思えるものでも弁当としては圧倒的にコスパが悪くて、リピートされずに、ビジネスに失敗」
という事例が結構あったように思います。

これは、飲食店が、弁当ビジネスをナメ切っていて、失敗したのではないでしょうか。

できたての料理は、イマイチでもそれなりでも、まあ食べられます。ところが、どんな高級の料理でも、時間がたったり、冷めてしまったら、食べられたものじゃありません。

その意味では、飲食店では、
「できたてを提供できる」
というアドバンテージがあり、別の言い方をすれば、
「店で出すと、皿や雰囲気でごまかせるし、温かいものを提供できるので、味がイマイチでも目立たない」
という意味で、ごまかしが利いていたのかもしれません。

他方で、弁当を作るには、
「時間が経って冷めても美味しい」
という過酷な条件をクリアすることが要求され、そのために、ゴマカシが利かない高度の調理技術が必要とされます。

加えて、弁当は、廉価でコスパが良くないと、見向きもされないか、見向かれてもリピートされず、すぐ潰れますので、一般飲食店には想像もつかない価格競争力が求められます。

アフターコロナ時代には、
「超一流の弁当職人」
「仕出し界のスター」
「テイクアウトの魔術師」
という人間が珍重されるようになり、飲食業界の序列としては、
「弁当屋>料理人」
になるかもしれません。

銀座や丸の内といった一等地においても、テイクアウト・ケータリングがメインで、イートインスペースが申し訳程度か、あるいはそもそも存在せず、どうしても外食したければ、昔の貸席型料亭(板前がおらず、板場もなく、酒以外の料理はすべて仕出しでまかなう)のように、飲食スペースは別に、お金(席料)を払って、場所だけ借りて、仕出しを手配してもらう、ということになるかもしれません。

今まで
「抱き合わせ」の形
で曖昧になっていた、
「料理代と飲み物代と席料(または部屋代)とサービス料(または奉仕料)」
が振り分けられ、提供価値に対する価値認識が明確に整理され、サービスがより進化・深化・高度化・発展することになるかもしれません。

整理できないものや明確化できないものは、改善も発展も望めませんから。

食べるものは食べるもの、場所は場所、什器は什器、サービス料はサービス料、と明確に分類整理され、様々な組み合わせが可能となり、飲食という営みの再定義・再構築ができるようになれば、新たな食文化が生まれるかもしれません。

そうなったら、私としては、一度、数寄屋作りの古風な日本家屋で、素晴らしい日本庭園や横山大観先生の襖絵を眺めながら、備前にマックのポテトのチーズソースかけ、古伊万里に吉野家の牛丼をそれぞれ盛り付けてもらって、デカンタージュしたシャトー・オー・ブリオンをバカラのグラスでいただき、食後はスタバのラテを天目茶碗で飲む、なんて究極の贅沢をやってみたい、と思っています。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.163、「ポリスマガジン」誌、2021年4月号(2021年3月20日発売)

00128_アフターコロナ・令和の時代を読み解く_20210320

一昨年から、元号が令和に変わりました(記事を書いた当時は2021年2月です)。

昨年(2020年)から新型コロナウィルスが感染拡大し、2021年の今に至ってもなお猛威を振るっています。

非科学的なこと、スピリチャルなことを申し上げますと、西洋占星術では、2020年12月22日を境に、産業革命から始まり200年続いた、大量生産・大量消費を前提として人々が物や形あるものを
「所有」すること
を求める
「土の時代」
から、情報や知識など形のないもの・伝達や教育などが重視され、人々は何より
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったなどといわれています。

いずれにせよ、ここ1、2年で、時代が激変したことは、諸事鈍感な私でも、ビンビン感じる今日このごろです。

本稿では、今後、
「アフターコロナ・令和」
の時代になって、社会がどのように変わるのか、について、私なりの、いつものように独断と偏見に基づく雑感を述べてみたいと思います。

1、古臭いものや不条理なものが消え去る時代

ちょっと前までは、昭和や平成初期のころまでにでき上がった古臭いものや、無駄なもの、陳腐なもの、意味や価値が不明な建前や虚構や不条理が惰性でまかり通っていました。

しかし、令和になり、新型コロナの感染拡大に伴って、古臭いものや、無駄なもの、陳腐なもの、意味や価値が不明な建前や虚構や不条理がたちまち消え去り、しかもその消え去るスピードが今までは考えられなかったほどの速さになったような気がします。

具体的には、男尊女卑といった価値観、銀座のクラブで遅くまでダラダラ時間を過ごすというナイトライフ、取引や会議は雁首揃えて対面でという非効率なコミュニケーションや意思決定方法等。

こういう古臭いスタイルや価値観は、リモートでその非効率っぷりが顕著となり、また、その不条理さや歪さはSNSで一挙に拡散し、世論となって、消え去る圧力が形成されるようになりました。

今後も、平成時代にまかり通っていた、このような古臭い、カビ臭い、不条理や非効率がどんどん消え去っていくものと考えられます。

2、ヒトに優しくないデジタル・情報通信

また、平成のころに持て囃された
「IT」
「ICT」
といった情報通信技術は、ヒトと共有し、ヒトをサポートし、ヒトに奉仕し、ヒトを豊かにするような、ヒトを邪魔しないし、ヒトを攻撃しないような、そんな方向性をもつコンピューティングや情報通信ないしその使い方でした。

令和の時代、
「IT」「ICT」
と呼ばれたものは、
「DX」や「AI」や「RPA」や「リモート」
といった装いを変えて取り沙汰されるようになりました。

これは、単に名前が変わっただけではありません。

ヒトに優しい、ヒトに奉仕する、ヒトを攻撃しない
「IT」「ICT」
から進化・発展した
「DX」や「AI」や「RPA」や「リモート」
は、使えないヒトや風習や慣行を排除し、使えないヒトや風習や慣行と競争し、張り合い、使えないヒトや風習や慣行を攻撃し、駆逐し、排除し、殲滅する、といった方向性をもつコンピューティングや情報通信ないしその使い方を示唆しています。

新しい環境や新しいゲームのロジックやゲームのルールを見据えて、自分の価値を再定義、再構築して、社会や環境に適合していかないと、知らない間に社会の隅に追いやられる、それが令和の時代ではないでしょうか。

令和の時代がすすむと、
ホワイトカラーその他「管理職」
という業務領域のほぼ全てが消滅するかもしれません。

特に、イノベーションとは無関係な、ルーティンオペレーションを担う管理職が、ことごとくいなくなるような気がします。

「昨日まで、30人、100人が出社して運営していた業務を、いきなり、AIやRPAにアウトソースする」
などという過激な業務改革をすると、ビジネスや管理オペレーションに重大な支障が出るかもしれませんし、リストラされる側も黙っちゃいないでしょうし、最悪赤旗を掲げて、かつての国鉄のような深刻な労使紛争になるかもしれません。

ところが、半年あるいは1年ほど、すでに
「リモート」状態
で、出社する人間が誰もいない状態で、
実質は「外注」しているような外観でオペレーションしている業務をAIやRPAにアウトソースする、
ということであれば、衝撃は少ないかもしれません。

また、企業での仕事が生活の糧のすべてであるホワイトカラーをいきなりリストラすると、抵抗も必死になり、大変な事件になるかもしれませんが、
「副業」
を持っているのであれば、リストラされる側の衝撃もやや緩和され、解雇騒動もソフトランディングできる期待が持てそうです。

こういう見方を前提としますと、現在、大企業を中心にグイグイ推進されている
「リモート」「副業」
というトレンドが、将来のホワイトカラーの大リストラの布石を打っているのではないか、とも思われるところです(思い過ごしであればいいのですが)。

「丸の内(東京都千代田区丸の内)」
という街は、いってみれば、生産拠点でも販売拠点でもなく、管理拠点が集中している、ただそれだけの街です。

大企業が、管理をヒトから
「AI」や「RPA」に
「アウトソース(恒久的なリモート化)」
し始めて、管理機能が大幅に小さくなると、今までの管理拠点としての丸の内が街ごと消滅するかもしれません。

今から、10年後、丸の内には、企業の本社や拠点が一掃され、ホテルやマンションだけになっているかもしれません。

また、令和の時代がすすめば、メールが上手、リモート環境において短時間で要領よく用件を伝えられる、義理人情浪花節ではなくクリアにベネフィットを伝えられる、というスキルが必要になるわけですから、
「交渉力がある」
「威圧感がある」
「オーラが半端ない」
という人的価値要素が、ビジネスにおいてその価値を喪失するのかもしれません。

平成の時代に、大きな顔をして会社内を闊歩していた
「雰囲気やオーラのある、エラそうなおっさん」
が企業から駆逐される、そんな時代も予感させます。

以上、いろいろ、雑感を申し上げましたが、私の独断と偏見に基づく、適当なものですので、どこまで当たるかはわかりません。

信じるか、信じないかは、皆さん次第です。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.162、「ポリスマガジン」誌、2021年3月号(2021年2月20日発売)

00127_「退屈で、お上品で、説教臭く、ジジ臭い社訓」を作る会社はたいていブラックだし、未来がない_20210120-20210220

「社訓」
と呼ばれるものがあります。

会社としての訓(おしえ)を略したものと思われますが、会社の役職員すべてが順守すべき、行動規範・指針として定めた理念や心構えを示したものです。

ちなみに、
「ブラック企業が使いがちな社訓キーワード」
と、いうものがあるそうです。

「挑戦(チャレンジ)」「創造」「誇り」「感謝」「最高(最良、ベスト、No.1)」「思いやり」「チーム」「仲間」「誠実」「真心」「正直」「自主性」「働きがい」「愛」「夢」「幸せ」「信頼」「安全第一」「満足」「健康」「感動」「成長」「やりがい」「精神」「姿勢」「向上」「貢献」「社会(の発展、繁栄)」

こういう、抽象的で無内容ながら、耳に心地いい、響きの美しい、デオドランド(清潔)で、お上品な言葉であったり、高潔さ・高邁さが感じられる言葉、逆に言えば、教師や宗教家が使いそうな、説教臭い、ジジ臭い、退屈そうな言葉を社訓にするような会社は、労働者の人権を無視して、奴隷労働を強いるようなブラック企業にありがちだ、ということのようです。

これと似ているのがヤンキーの価値観とされる
「気合主義」

「反知性主義」
です。

斎藤環氏(精神科医だそうです)著「ヤンキー化する日本」(角川ONEテーマ21刊)
によれば、
「ヤンキーは、熟慮を嫌う、理屈を嫌うという反知性主義の傾向が強い」
「ヤンキーにとって無条件に『良いもの』とされている言葉は、『夢』、『直球』、『愛』、『熱』、『信頼』、『本気』、『真心』、『家族』、『仲間』、『覚悟』、『遊び』、『シンプル』、『リアル』、『正直』 … 」
「アツさと気合いで、やれるだけやってみろ、という行動主義」
「判断より決断が大事、考えるな、感じろという世界」
と書いてありますが、ヤンキーとブラック企業って、顕著な親和性があります。

ここで、2019年度に、栄えある(?)ブラック企業大賞に輝いた、M株式会社の社訓をみてみましょう。

Mグループは、技術、サービス、創造力向上を図り、活力とゆとりある社会の実現に貢献することを企業理念に掲げています。これは、創業時の『経営の要諦』に示した『社会の繁栄貢献する』『品質の向上』『顧客の満足』の考え方を引き継いだもので、社会やお客様に対するMの対応の基本精神となっています。この精神を具現化するため、『七つの行動指針』において、社会やお客様などとの高い『信頼』関係を構築すること、最良の製品・サービスや最高の『品質』の提供を目指すこと、研究開発・技術革新を推進し、新しいマーケットを開拓することにより『技術』でお客様のご期待にこたえること、などを姿勢として示しています。この考え方のもと、Mグループでは、高品質で使いやすい製品づくりから、ご購入後のサポート、不具合発生時の対応まで、すべての事業活動において常にお客様の満足向上に努め、社会の繁栄貢献していきます。

この社訓からは、ブラック企業の香りもそうですが、
「気合と勢いがあればなんとかなる」
「考えるな、感じろ」
「ややこしい理屈をこねるより、大それたことを実行した奴が偉い」
「ハートで熱く感じて考えずに行動に移してテッペン取ったれ」
みたいな反知性的なヤンキー臭がぷんぷんしてきます。

こういう前近代的な会社は、従業員の犠牲の下に一生懸命金儲けに勤しんでくれますので、株主にとっては実によい会社です。

その意味では、株を買って株主として資本参加はしたいですが、入社して従業員としては働くのはマジ勘弁です。

日本人や、日本の組織の上層部の方は、昔からこういう
「センスのない訓示」
を作るのが好きだったようです。

戦時中(といっても、第二次大戦中ですよ。京都人みたく「応仁の乱でっしゃろ」とか言わんといてくださいね)、
「教育勅語」
というものがありました。

教育勅語の効果のほどについて、
パオロ・マッツァリーノ著「反社会学講座」(イースト・プレス刊)
に面白いことが書かれています。

「昭和23年の(少年犯罪としての)強盗件数は『戦後最高』の3878件。これは戦後の混乱期だったことを示します。当時の17歳は、教育勅語による学校教育を受けています。近年、教育勅語の有用性を訴える老人がいらっしゃいますが、なんの効果もないことが証明されました。人間、食うのに困れば、盗みを働くのです。道徳教育を強化したところで、犯罪の抑止効果は期待できません」

このように、説教臭い社訓、ジジ臭い社訓、お上品な割に無内容で上っ滑りしているような社訓を作って悦に入っている経営者は、今どき、ちょっとセンスがありませんし、こんなセンスのない会社にロクな従業員は入ってこないですし、業績もイマイチでしょうし、少なくとも、未来はあまりなさそうです。

じゃあ、どんな社訓がいいのでしょうか?

社訓は、人間の本質に訴えて、人間がもつ根源的なエネルギーを解放あるいは活性化させ、これを単一目的に収斂し有機的に結合させ、組織としてのエネルギーに転換させ、組織が希求し、組織でしかなし得ない大きな目標を達成させることに、その本来的役割が存します。

ここで、
「組織が希求し、組織でしかなし得ない大きな目標」
とは何でしょうか? 

「弱者救済」や、
「差別なき社会の実現」や、
「社会秩序や倫理の発展」や、
「健全な道徳的価値観の確立」や、
「世界平和の実現」や、
「環境問題の解決」や、
「人類の調和的発展」や、
「持続可能な社会の創造」なのでしょうか?

また、
「企業活動やビジネス活動において」、
訴えるべき
「人間の本質」や、
活性化させるべき
「人間がもつ根源的なエネルギー」
とは何でしょうか?

「挑戦」や「創造」や「誇り」や「感謝」や「自主性」や「愛」や「思いやり」や「信頼」や「正直さ」や「真心」なのでしょうか?

まったく違いますね。

企業(株式会社)の目的(ミッション)は、会社法の教科書の冒頭に書いてあるとおり、
「営利追求」
であり、それ以上でもそれ以下でもありません。

無論、「非法律的な」目的を主観として勝手に思い込むのは自由です。

しかし、それは、非法律的なものであるがゆえ、他者とは共有出来ないものです。

上場企業が、社長の個人的思い入れで、「わが社は、営利を捨ててでも、従業員への愛や思いやりを優先します。したがって、銀行への返済を停止し、納税を忌避し、配当を無期限に行わず、余剰資金を全て賃金に回します」といった場合を想像してください。

このような「非法律的」な目的を、銀行や、税務当局や、目つきの鋭い投資家が、笑って許してくれるでしょうか?

そもそも、企業(株式会社)は、
「『営利追求組織である企業に集う人間』誰もが本質的に有する、『カネが欲しい』、『地位や名誉や自己承認の欲を充足したい』という無限にほとばしる強烈なエネルギー」
を結集し、収斂させ、有機的に結合させ、これを効果的に発散させて、凄まじいまでの規模感とスピード感で
「営利追求」
目的を達成させようとするのです。

要するに、前記のブラック企業が好むエレガントでデオドランドなキーワードは、このような構造・本質と真逆のものであり、端的に言うと、
「ウソをついている」
といえるのです。

このような
「ミエミエ、スケスケなウソ」
を臆面もなく、かつ偉そうに語る、という下劣で愚劣なところに、ブラック企業やヤンキー集団の本質的いかがわしさが看取されるのです。

外資系の金融企業やIT企業等、しびれるくらい儲かっている会社は、「退屈で、お上品で、説教臭く、ジジ臭い社訓」や「道徳や倫理を説教くさく押し付ける社訓」など作りません。

会社のカルチャーを発信するだけです。

「『カネが大好き・楽しいことや快楽が大好きで、欲まみれで、カネや欲のためにはどんな努力も厭わない』という人間の本質に訴えかけ、人間のエネルギーを健全に爆発させるような、明快なカルチャー」
があり、 これをオープンにする。

ただ、それだけです。

「欲のエネルギーを封印させるような説教臭く、ジジ臭く、年寄り臭く、退屈な社訓」
は、人間の有する本来的な活動指向性と真逆のものであり、本質的・構造的に無理があります。

「本質的・構造的に無理がある」
ような指示・命令は、
「降りのエスカレーターを上れ」
というメッセージと同様であり、一過性はあっても持続可能性がありませんし、早晩、破綻します。

「経営者が自分に対する戒めとしてもつ」
のは結構ですが、教師や宗教家でもない、単なる
「金儲け組織の首魁」にすぎない方々
が、陳腐な戒めを下位の者に説くのは、お笑い草です。

「金儲け組織の首魁」
として下位の者に伝えるべきメッセージは、
「誰もが根源的にもつ欲や好奇心をどのようにして効果的に発散するか」
という点、すなわち、
「『ビジネス』という『ゲーム』」の「ロジック」や「ルール」や「プレーの楽しさ」や「結果の魅力」
であるべきです。

「お金、地位を目標に、わくわくと、刺激を感じ、楽しく努力して、ゲームに勝ち、勝負に勝とうぜ!」
という誰もがもつ欲の本質に根ざしたゲームロジック・ルールやプレースタイルを、ミエル化・カタチ化・言語化・数字化・定量化・フォーマル化し、さらに、イージー化・カジュアル化・面白化させて、健全な欲に溢れた人間の本質を解放させて、金儲けエネルギーに転換させる内容。

これが、
「社訓」
の本来あるべき内容ではないか、と考えるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.161、「ポリスマガジン」誌、2021年1月・2月合併号(2020年12月20日発売)

00126_「決断の技術」_8_まとめ

以上のとおり、まことに志の低い、卑怯で姑息で、
「ゲスの極み」
というリテラシーだったかもしれませんが、リアリストとしての知的スキルとしてはかなり重要なメッセージが入っていたと思います。

世間体とか、一般常識に囚われて、こんなことしたら格好悪いんじゃないかということで、大事な決断に、くっだらないバイアスを掛ける必要はないと思います。

私みたいな考えでいると、私みたいに嫌われちゃうっていうこともあるかも分かりませんが、やるやらないは別として、一つの考え方として知っておくことは有益かと思います。

もちろん、私も小さな事柄について毎度毎度こんな思考や発想で事態処理をしているわけじゃありませんよ。

10万円のパソコン買うのもこういう方法でやれ、なんて、そんなこと言ってるわけじゃないですよ。

あくまで、伸るか反るか、人生の切所で、重大な決断をするときの話です。

あれやこれやむかつく話をさせていただいたかもしれませんが、決断という知的営みをする際のスキルアップにつながれば幸いです。

著:畑中鐵丸