00150_取締役の悲劇(3)_20100720

「取締役の悲劇」
の連載第3回目です。

前回
「取締役が知ったかぶりでどんどん状況を悪化させ、しかも本人はそのことにまったく気がつかず、気がついたら、三途の川を渡河し、地獄の底に到達していた」
という話がビジネス社会には実に多く存在する、と申し上げましたが、今回はそのような話の一例をご紹介します。

ここに一人、会社を経営している
「取締役」さん(実際の肩書は代表取締役)
がいらっしゃいました。

会社法の教科書等をみると、世間知らずの学者の方は、
「取締役は、経営の専門家である」
等と持ち上げていますが、この
「取締役」さん
は、経営の専門教育はおろか、まともな高等教育も受けた形跡はなく、会計も法律もほとんど無知。

パソコンも使えず、手紙やファックスをみても誤字脱字・当て字のオンパレードで、しかも文書をみても意味が通じない。

ところが、どういうわけかお金だけはあるみたいで、会社の
「取締役」
になれた。

会社の
「取締役」
になる、
といっても、これまで述べてきました通り、学歴も資格も試験も不要で、司法書士の方にカネを払えば誰でも
「取締役」
になれてしまう。

そして、この
「取締役」さん
は、
「取締役」
という肩書がついた瞬間から勘違いが始まりました。

「オレはエラい」
「なんつったって取締役」
「世間からは社長と呼ばれる身分」
「オフィスは立派で、部下もいるし、秘書もいる」
「ゴルフ会員権も、クレジット会社のホニャララカードも持っているし、移動はグリーン車かビジネスクラス」
「銀行の支店長とサシで話し、弁護士や税理士をアゴで使う」
「銀座のクラブでも丁重に扱われるし、行きつけのホテルや高級レストランでは名前を覚えてもらっている」
なんて具合でした。

このくらいの勘違いはまあ、かわいいもんでしょう。

ですが、その勘違いが、あるはずもない自分の能力や知識にまで及んでしまったことから悲劇が始まりました。

あるとき、
「取締役」さん
の取引先が経営危機となり、売掛債権が焦げつきそうになりました。

結構大きな額で、会社の資金繰りにも影響しかねない状況です。

「取締役」さん
は、取引先の社長を呼びつけ、
「どうしてくれるんだ!」
と詰問しました。

納入した商品は、取引先からさらに先の問屋さんのところにすでに納品されてしまっており、商品引き揚げは難しい状況です。

平伏する取引先の社長は、カバンから一枚の手形を差し出しました。

そして、
「私どもの取引先でやはりつぶれそうになっていたところから、少し前、こういう手形を振り出させました。額面は焦げついた金額よりはるかに大きな金額ですが、取り立てできるかどうかわかりませんから、すべて差し上げますので、これで、どうかご勘弁ください」
と言います。

この
「取締役」さん
は、手形取引の仕組についてはほとんどわかっていない状況で、手形の知識は専業主婦レベルでした。

しかし、
「取締役」さん
の目には、
「ご大層な金額がチェックライターで打刻してあり、見るからに価値のありそうで、仰々しい手形」
は、それなりの価値があるように見えました。

「これ以上潰れそうな会社を相手に押し問答したところで、どうしようもない」
と判断した
「取締役」さん
は、売掛額の倍額以上にもなる額面の手形を受け取り、
「まぁ、これで幾ばくかのカネになるだろう」
と考えました。

しかし、銀行との折衝を担当している経理部長に聞いたところ、
「こんな手形を銀行に持っていったところで、割り引いてくれませんよ」
等というつれない返事です。

「手形? 割り引き?」
ということ自体あまり意味がわかりませんが、そこは知ったかぶりで対応しておき、
「とにかく銀行に行って話をしてみてくれ。換金する方法があるはずだ」
と指示しました。

しかし、結果は経理部長が予想したとおりで、銀行は換金に協力してくれませんでした。

「莫大な金額が記載してあり、大手都市銀行の名前も入っている、見るからに価値のありそうな手形が換金できない?」

「取締役」さんの乏しい知識や経験からはまったく理解できない状況です。

「そんなバカな話があるか。もう、経理部長や銀行はアテにできない。こういうときは行動あるのみ。よし、金券ショップだ。」

「取締役」さん
は、自らの信念に基づき、行動を開始しました。

この悲劇の続きについては、次回、お話したいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.035、「ポリスマガジン」誌、2010年7月号(2010年6月20日発売)

00149_取締役の悲劇(2)_20100620

前回に引き続き、
「取締役」
という肩書を持つ人種の気質・行動について、いつもながら偏見に満ちた雑感を述べていきたいと思います。

前回みてきたとおり、日本社会である程度のステータスを有しているとされる人種のうち、医者や弁護士や公務員や教員に関しては、少なくとも過去の一時点において当該キャリア保持に必要とされる知識を資格試験という形で確認・検証されていることから、能力水準の下限にも、おのずと限度というものが存在します。

しかしながら、
「取締役」
というステータスに関しては、
「無試験・無資格・性別・人種一切無関係、破産者であろうが認知症の疑いのある方もウェルカム」
という形で広く門戸を開放しすぎてしまったため、能力水準の下限は
「底無し」
といった状況であり、想像を絶するとんでもないことをやらかしてくれる方々が相当多く混在することになるのです。

「取締役」
とは、もともと、その名のとおり、
「会社法その他関係法令に基づいて、会社という組織の運営を『取り締まる』役目を担うプロフェッショナル」
ということが想定されておりました。

会社法の専門書をみると、
「取締役とは株主から経営を付託された経営専門家である」
等と書いてありますが、これは、社会現実を知らず、机の上で理屈をコネ繰り回している学者だからこそ言える虚構です。

現実の取締役、とくに多くの中小零細企業の取締役については、会社法や簿記・会計はおろか、国語や算数の試験すらなく誰でもなれることから、法律が想定している役割・立場と、実際の能力との間に重篤なギャップが生じてしまっています。

しかも、このようなギャップを是正する制度的担保がなく、知的能力が破綻したまま放置される一方で、法律上、取締役である限り
「経営のプロ」
とみなされて会社運営に関する大きな権限を与えられてしまうが故、
「取締役」
と呼ばれる人種の周りには、会社をめぐるさまざまなトラブルに巻き込まれる高度の危険が常に存在するのです。

加えて、そんな危なっかしい状況にある
「取締役」
の皆さんですが、自らの職責や権限や責任に関する知識を補充する意欲が全くないといった方が多いため、被害を拡大し、自身も会社も不幸に追い込んでしまいがちです。

無論、
「取締役」
と呼ばれる方々も、自らが無知であることを知り、無知なら無知なりに、専門家の助言を求め、常に謙虚かつ慎重に行動していれば、トラブルを回避したり、脱出したりすることも期待できるでしょう。

しかしながら、
「取締役」
と呼ばれる方々の多くは、当該キャリアを保持するに必要な知識を確認するための試験を受けたこともないくせに、
「自信」

「思い込み」
だけは人一倍で、専門家の意見を謙虚に聞く方や勉強して自分の職や立場に関する知識を得ようというような殊勝な心がけの方はあまり見受けません。

むしろ、
「知ったかぶりでどんどん状況を悪化させ、しかも本人はそのことに全く気がつかず、気がついたら、三途の川を渡河し、地獄の底に到達していた」
等という悲劇とも喜劇ともつかない話がビジネス社会には実に多く存在することになるのです。

一例として、手形に関し、
「取締役」
がやらかした大失敗があります。

商業手形、法律上は約束手形と呼ばれるものですが、これについては、
「手形は怖い」
「手形は難しい」
「手形の取り扱いには注意しろ」
「手形の扱いを間違うと企業の命取りになるぞ」
等という話を聞かれたことがある方も多いと思われます。

実際、手形法と呼ばれる法分野は、かつての司法試験においても論文科目とされていましたが、技術的に難解なため、受験生泣かせの学習分野として有名でした。

国内最難関と呼ばれた旧司法試験の受験生すら苦しめた難解な法分野である手形法について、無試験・無資格でなれる
「取締役」
がご存じなわけはありません。

そんな
「手形のことなんてほとんど知らない『取締役』」
の方が、知ったかぶりで手形の扱いを間違ったばかりに、会社と当該取締役が地獄に突き落とされる事件が起きたのでした。

この悲劇の詳細については、次回、お話したいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.034、「ポリスマガジン」誌、2010年6月号(2010年5月20日発売)

00148_取締役の悲劇(1)_20100520

新聞やニュースをみれば明らかなように、日本の企業社会においては、会社や会社経営者をめぐるさまざまなトラブルは常にどこかで発生しており、これらが絶えてなくなることはありません。

今回から連載で、
「取締役の悲劇」
と題し、会社や会社経営者をめぐるさまざまなトラブルが恒常的に発生する原因について、いつものように、私なりの偏見と決めつけに満ちた雑感を述べてみたいと思います。

さて、一般的に、日本社会において
「ステータス」
といわれるものを有している人種については、当該
「ステータス」
といわれるものを獲得する過程で、一定の厳しい条件を達成あるいはクリアすることが要求されます。

たとえば、
「医者」
というステータスを獲得するためには大学医学部を卒業して医師国家試験に合格することが必要ですし、
「弁護士」
というステータスをもつためにはロースクールを卒業するか予備試験に合格した上で司法試験及び考試(司法研修所卒業試験。通常「二回試験」)に合格することが必要になります。

政治家になるには選挙という通過儀礼を経由することが必須ですし、大学教授や博士になるには論文や学術上の実績が必要になります。

教員には教員試験、公務員になるには公務員試験の合格がそれぞれ必要になります。

以上みてきた
「ステータス」
保持者は、各試験や通過儀礼を経由する過程でそれなりの時間とエネルギーとコストを費やすことを余儀なくされます。

そして、その
「ステータス」
取得プロセスでの艱難辛苦を通じて、自分が目指すべきキャリアのことを真剣に考えさせられ、また当該キャリアを手にした後のビジョンをいろいろと描くこととなります。

憧れのキャリアを手に入れる過程で、悩み、苦しみ、考えたせいか、
「キャリアを手にしたものの、どうしたらいいかわからず、途方に暮れる」
というような人間は基本的にいないように思われます。

しかしながら、日本社会における社会的
「ステータス」
の中でも、取締役(代表取締役であるいわゆる「社長さん」を含む)と言われる方々は、以上みてきた方々とはかなり事情が違うようです。

「取締役」
というステータスを取得するためには、試験とか資格とか能力とか条件とか一切ありません。

病人であろうと、知的水準や社会的常識に問題があろうと、あるいは破産者であろうとOKです。

老若男女問わず、誰でも
「取締役」
というステータスを得ることができます。

この
「取締役」
というステータスを手にする上では、お金もそれほどかかりません。

会社法が改正され、資本金が1円でも株式会社の設立が可能となりましたので、登録免許税等の実費を考えなければ、1円だけもっていれば、誰でも
「取締役」
になれるのです。

無論、上場企業の取締役になるには、会社で何十年もがんばって働いて認められ、また
「株主総会での選任」
という緊張を強いられる通過儀礼を経由することが必要となりますが、
「学歴・経歴・資格・試験等一切関係なくなれる」
ということには変わりありません。

実際、上場企業において入社半年くらいの暴力団関係者が突然取締役に選任されてしまうことだってありますし、同族系の上場企業においては、経営能力が全くない認知症の疑いのある老人が取締役として選任される例などもあります。

「重役」
とか
「社長」
とかいうと、なんだか非常に高いステータスのように思われていますが、実態をよくわかっている人間がみれば、
「資格試験とか一切なく誰でもなれる」
という点で、一定の知的水準や専門能力の裏付けとはみなされません。

このように
「取締役」
というキャリアがいとも簡単に取得できてしまうせいか、
「キャリアを手にしたものの、どうしたらいいかわからず、途方に暮れる」
という方が多いのも、
「取締役」
というステータスを有する集団の特徴です。

そして、
「試験等一切なく誰でも入れる」
公立の初等教育機関において学級崩壊が起こり、トラブルが多発するのと同様、
「試験等一切なく誰でもなれる取締役」
やこのような
「取締役」
が強大な権限を有して動かす会社にトラブルが多発することになるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.33、「ポリスマガジン」誌、2010年5月号(2010年4月20日発売)

00147_改めて「教育」というものを考える(5・完)_20221020

「教育再考」
と題し、改めて
「教育」
というものを考えておりますが、今回は最終回です。

前回から、教育との関係でよく話題にのぼる
「学歴」
というものについて述べております。

学歴なんて、
「過去の栄光」
に過ぎません。

「過去の栄光」
なんて、
「現在の挫折」
と同義です。

学歴を偏重する人間、過去の栄光をどうのこうの言う人間は、人間としてのスペックが劣化しています。実際、愚かだし、貧しいし、退屈だし、陳腐です。

とはいえ、世の中は不思議なもので、そういう
「愚かだし、貧しいし、退屈だし、陳腐な」
「ホンモノの学歴偏重主義者で、差別主義者」

「学歴くらいしか誇るもののない、ホンモノのクズ」
を、ありがたがり、崇め讃える、もっと愚かな連中もいます。

そういう
「学歴なき学歴信者(『学歴を誇るくらいしか能のないクズ』を、ありがたがる人間)」
は、クズとは思いませんが、
「なんだか、かわいそう」
と哀れに思います。

要するに、どっちの方々も、
「人間の本質を図る基準」

「学歴」
という
「便利で安易なもの」
に依存している。

自分の目を信じない。

まごころで人と接しない。

「人間のレベルをきちんと観察せず、レベルではなく、ラベルで人間を判断する」
という点で、生き方が大きく狂っている、ということなのだと思うのです。

学歴を重視する人間は、「ブランドモノを神のごとく信仰する、イタそうな、アレな方々」と変わりません。

「隠居したジジイ」
とみたら居丈高にマウントを取る。

ところが、三つ葉葵の印籠をみた途端にひれ伏す。

でも、
「先の副将軍」
なのに家来が
「脇差ししかもっていない若衆二人」
とみると、なめてかかって、タカをくくり、
「手下を使って闇討ちにしてやれ」
と考え、誰もみていないことを確認し、取り囲んで殺そうとする。

そうすると、今度は、
「意外に使える、若衆二人」
に返り討ちに遭う。

最後は、泣きながら土下座して命乞いをする。

目まぐるしいし、忙しいし、無様で、醜悪で、愚かで、滑稽なこと、この上ない。

「なんで、人を見た目やレベルで判断し、偏見と先入観で分かった気になってしまうのかなぁ」
「なんで、目の前の一個の人間を、人として、きっちりフェアに、対等に、関係を構築しようとしないのかなあ」
「本当に、どうしようもない、クズだなぁ」
とつくづく思います。

私が
「学歴というラベルを使って、レベル(本質)を見誤る人」
を愚かだと思うのは、心理学的根拠があってのことです。

ヒトに実装されている認知資源、脳の情報処理能力には、有意な個体偏差があります(端的に言うと、ヒトには、「無知で想像力貧困なバカ」もいれば、「利口で思慮深い物知り」もいる、という整理になります)。

そして、
「脳の認知資源や情報処理能力が不足している方々(世間知らずで未熟なバカ)」
は、認知資源の不足を補うために、
「ステレオタイプ(差別と偏見)」
を使います。

知的な鍛錬を受けていないと、人の脳はラクをしたがります。

ヒトの脳内では、
「ラクな情報処理プロセス」、
「自動的な情報処理過程」
が存在しますが、これをステレオタイプ化といいます。

ヒトは特定の対象者をステレオタイプ化するとき(「東大卒=優秀、そうでない奴=バカで無知」といった紋切り型の判断)、その過程やその結果に無自覚であることが多いですし、その認知や知覚の中には、誤りが介在している可能性が発生します。

だから、私は、
「ラベル(学歴、肩書、身分、立場、年齢、性別)で人間を計測して分かった気になる危険性」
を常に念頭に置き、
「その人間が言った内容が、筋が通っていて、合理的で、論理的であるか」
をしっかり聞いて、
「レベル(本質)で人間を計測する」
ように心がけているのです。

「情緒が安定していて、思考の柔軟性があり、経験の開放性・新規探索性があり、自己評価の下方柔軟性があって、伸びしろが大きく、外罰傾向が皆無で、本も読むし、才能ある人間の話もたくさん聞くが、他方、自らの経験に基づく知見が豊富で、想像力と創造性があり、自己の主観から離れて状況を俯瞰できるし、相手の立場と置き換えるなど観察視点を縦横無尽に置き換えることができる認識・観察の柔軟性もある」
という方がいれば、ラベルがどうあれ、レベル(本質)に基づき、しっかりとその方をリスペクトし、正しく、フェアな関係構築に努めます。

他方で、どんなに学歴や肩書や身分や立場が立派で、年齢が上であっても、
「情緒が不安定で、思考が硬直していて、経験の開放性や新規探索性もなく、プライドが高く、若さや柔軟性や伸びしろを感じさせず、外罰傾向が顕著で八つ当たりばかりしていて、本を読まないし、才能ある人間の話も敬遠し、あるいはロクな人間としか交わっておらず、経験がないくせに机上の空論や誇張した武勇伝ばかりいっちょ前に披瀝したがり、状況俯瞰する力や立場を置き換えた思考や発想が皆無」
という、レベル(本質)の欠如した人間については、正しく見下し、正当に蔑むとともに、そいつの戯言は、有害なノイズとして、一切遮断します。

学歴は、単なるアクセサリー、おもちゃにして遊ぶ程度のくだらない陳腐なガジェット。

そんなところです。

そして、私は、
「『学歴』というくだらないものを偏重するバカ」
を、心の底から軽蔑します。

とはいえ、
「学歴がない奴が素晴らしい」
ということまでいうつもりはありません。

「学歴『だけ』の人間」
にはクズやゲスが多いですが、
「学歴すらない人間」
にはさらに困った方が多い、というのも、経験上の蓋然性として、有力な推定根拠となり得ますので(※)。

[※この「経験上の蓋然性」を基礎づけるデータとしては、法務省が発表している矯正統計(2021年度)の「新受刑者の罪名別 教育程度」が参考になります。同統計によれば、令和3(2021)年度の新受刑者16,152名のうち、大学卒業者は1,173名であり、大学卒業以外の方が14,979名で92.7%に上ります。したがって、上記は、単なる思い込みや先入観ではなく、データに基づく合理的推定です。]

もちろん、「推定」は、あくまで「推定」です。

どんな人間であっても、学歴や経歴や肩書や立場を離れて、一人の人間として接し、その人間の言葉と行動をしっかり観察した上で、評価や判断をするように努めています。

以上、教育の再定義、あるいは教育との関係でよく話題にのぼる
「学歴」
に関して、いつものとおり、私の独断と偏見に満ちた持論を展開させていただきましたが、このあたりで、
「教育再考」
と題する小論を終えたいと思います。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.181、「ポリスマガジン」誌、2022年10月号(2022年9月20日発売)

00146_改めて「教育」というものを考える(4)_20220920

「教育再考」
と題し、改めて
「教育」
というものを考えております。

今回は、教育との関係でよく話題にのぼる
「学歴」
というものについてです。

まず、少し脱線した話から入ります。

私は、経営者の知恵袋として、投資案件の評価・助言をすることがあります。

顧問先の経営者が、
「知り合いの経営者から紹介された『投資のプロ』と称する人間」
から、
「極めて高度な投資理論を使った、安全で、儲かる投資案件」
を持ち込まれたことから、私が、案件の内容を聞き、私の評価・助言を聞いてみたい、ということで、当事務所で面談しました。

自称
「投資のプロ」
は、高そうなスーツに、高いネクタイをぶら下げて、理解しがたい、難解そうな理屈を並べ立てて、自分が提案する投資案件がいかに儲かるか、どれほどの投資家がこぞって投資を望んでいるか、を滔々と述べ立てます。

私は、コメントを求められましたが、
「私にはわかりません。理解できません」
と返答しました。

自称
「投資のプロ」
は、
「弁護士さんには難しいでしょうね。新しい投資商品ですから」
などとやや小馬鹿にしたような目線で返し、
「じゃあ、進めてよろしいでしょうか?」
と畳み掛けます。

私は、
「いや、やめておいた方がいいでしょう」
と答えました。

場が凍りつきます。

私は続けます。

「先程から、いろいろ小難しい話をされていますが、これって、たかが金儲けの話。儲かる話、の説明ですよね。1万円札を5000円で買って、買った1万円札を2万円で売れる。そんな程度の話ですよね。別に量子力学の議論をしているわけでもないし、ホッジ予想やリーマン予想や宇宙際タイヒミューラー理論の話でもない。単なる金儲けの話。そんな単純な話なのに、私はまったく理解できない。『たかだか金儲けの話なのに、この私が理解できない』という点が問題なのです。言えば嫌味になりますが、私は東京大学教養学部文科一類、通称東大文一に現役合格しております。バカでは合格できません。相応に国語読解能力が必要です。したがって、私は、世の中の方々の平均以上に国語読解能力があります。その、東大文一現役合格した私がもっている国語読解能力を総動員しても、あなたがおっしゃる、たかが金儲けの話が理解できない。別に、宇宙の成り立ちの話ではない。ニュートリノの話でも、メッセンジャーRNAの話でも、ABC予想の話でもない。何度も言いますが、たかが、金儲けの話です。にもかかわらず、東大文一の国語読解能力を総動員して2回繰り返し聞いても、どういう構造と論理で儲かるのかが理解できない。この場合の可能性は2つしかない。1つは、『あなたが、東大卒の想像と理解を絶するほど非常に高度に知的で、話されている内容がポアンカレ予想や量子力学並に難解で、そのために、東大卒風情の私が理解できない』という状況。あるいは、『あなたが話している内容が狂っているか、騙そうとしているから、東大卒の知性と理性を総動員しても、混乱した内容なので理解できない』という状況、のどちらかだ。で、失礼ですが、あなたの学歴をお尋ねしてよろしいでしょうか。」
と。

そうしたところ、自称
「投資のプロ」
は、そそくさと逃亡しました。

あとで詳細を確認したところ、マネロン絡みの法令抵触リスクの高い取引のブリッジファイナンスで、
「1万円札の洗濯をお願いするのに5万円払って、一歩間違うと、犯罪行為に加担したとされるリスクを引き受けてもらう」
という話でした。

犯罪行為の加担としての
「お金の洗濯の資金と名義協力」
を、(あくまで)
「投資商品」
と言い張るため、まともな思考を前提とする東大卒の頭脳では、理解できなかったというオチ。

ただ、それだけでした。

その後、紹介した知り合いの社長も含めて、たくさんの被害者が出たことを知りました。

なお、こういう言い方をすると、そそっかしいアホは、私のことをこう言います。

「畑中鐵丸は、学歴偏重主義者で、学歴差別主義者である」
と。

アホでなければできない誤解です。

私は、学歴差別主義者とは、真逆の人間です。

人間は、ラベル(学歴や表層)ではなく、レベル(本質・実体・行動)で判断します。

私は、
「学歴」
などというくだらないものは、エルメスのバッグやフェンディのお洋服と同じで、
「単なるファッションアイテムであり、アクセサリーにすぎない」
と捉えています。

シャネルを着た泉ピン子と、ユニクロを着た滝沢カレンと、どちらがどうか。

こういう課題を設定すれば、
「ブランド」
というものの本質が見えてきます。

私は、
「ブランド」
は、くだらなく、価値がない、と思っています。

私は、着ている服ではなく、中身を重視しますし、着ている服にはごまかされません。

私は、
「学歴やブランド」
を、徹底的にバカにしていますし、価値を認めません。

また、私は、
「学歴やブランド」
そのものもバカにしますが、
「『学歴やブランドといった、実にくだらないもの』を盲信する人間」
も、徹底的にバカにしていますし、価値を認めません。

私は、学歴はおもちゃにして遊びますが、学歴を神聖視したことなど、一度もありません。

「ホンモノの学歴偏重主義者、学歴差別主義者」
とは、学歴を神聖視する
「ほんまもんのアホ」
のことです。

そういう、
「学歴といった『くっだらないもの』をありがたがり、神聖視するアホ」
は、神聖な学歴を軽々しく議論の俎上に載せたり、おもちゃにして遊んだりしません。

この世には、
「ホンモノの学歴偏重主義者、学歴差別主義者」
という生き物も実在します。

法曹界や中央官庁の役人や上場企業に勤務する東大卒の中には、そのような
「変わった生き物」
の存在が確認されています。

「ホンモノの学歴偏重主義者、学歴差別主義者」
という
「変わった生き物」
は、学歴の話を公共の場で、軽々しく、ライトに、カジュアルにするようなことは、絶対しません。

私のように、ネタとして、小話として、あっけらかんとして、おもしろおかしくして話すことは、絶対しません。

「ホンモノの学歴差別主義者・学歴偏重主義者」
が学歴の話をするときは、裏でコソコソします。

なぜなら、こいつらにとって、
「学歴」

「神聖不可侵なもの」
だから。

私のように、
「神聖にして、高邁なる学歴」
を、ファッションアイテムやアクセサリー程度に扱ったり、話の小ネタとして
「おもちゃ」
にして遊んだりすると、こいつらはキレます。

要するに、こいつらは、
「学歴くらいしか誇るもののない、正真正銘、ホンモノのクズ」
なんです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.180、「ポリスマガジン」誌、2022年9月号(2022年8月20日発売)

00145_改めて「教育」というものを考える(3)_20220820

「教育再考」
と題し、改めて
「教育」
というものを考えております。

前回は、
「6 学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)に従うと却って地獄を見る」
ということを申し上げ、その一例として、
「(1)『争族(相続人同士の遺産争い)』においては、常識ではなく、非常識な法律という『争族というゲーム空間のゲームロジック・ゲームルール』を最優先に考えないと、地獄を見る」
という話をさせていただきました。 

6 学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)に従うと却って地獄を見る(続)

(1)『争族(相続人同士の遺産争い)』においては、常識ではなく、非常識な法律という『争族というゲーム空間のゲームロジック・ゲームルール』を最優先に考えないと、地獄を見る(承前)

なお、前回のお話を敷衍させていただきます。

「争族(相続人同士の遺産争い)」
というと、ちょっとした兄弟の諍い、姉妹のケンカ、というニュアンスがあるかもしれませんが、それは完全な誤解です。

兄弟喧嘩といっても、小学生時代のおもちゃの取り合いや、ケーキの分け方の話じゃないんです。

数千万円、数億、数十億といった財産の争いや、さらには、誰が
「跡目」
として親が率いていた組織のトップになるか、という跡目争いの話ですから、
「ケンカしても、翌日になったら、仲直り」
という生易しいものになるわけがありません。

実際、一生口を聞かない、墓参りは別、回忌法要は兄弟それぞれが主催して2回執り行う、さらには、刃物を持ち出して殺し合いをする、なんてことも起こります。

「深川の八幡様」
として知られる富岡八幡宮において、相続を契機とする亡宮司の姉弟間の跡目争いが殺人事件に発展しました。

2017年12月7日、第21代宮司(姉)とその運転手が、第20代宮司(弟)とその妻に日本刀で切られました。

第21代宮司(姉)は死亡し、運転手は重傷、第20代宮司(弟)は妻を殺害した後に自殺した、という壮絶な
「争族」
問題となりました。

こういう命をかけた争いをする段階で、何の覚悟も防衛意識もなく、
「人類みな兄弟、兄弟同士は一生仲良し、和気あいあい」
などと
「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)」
に従うと本物の地獄を見ることになるのです。

(2)数億円、数十億円単位の「常識を越えた金額」の取引の場面では、関係者の常識は吹っ飛び、たとえ明々白々な事実であっても、「言った言わない」という愚劣な争いが普通に起こり、備えをしておかない側は、当たり前のように地獄を見る

「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)に従うと却って地獄を見る」
のは、ビジネスや取引の場面にも当てはまります。

当たり前ですが、契約(約束)と契約書(紙切れ)は違います。

この理屈は、どんな取引や契約でも同じように適用されます。

契約書とは、契約の有効要件ではありません。

単なる記録やメモと同様の扱いです。

契約書がなくとも契約は成立します(契約書のない口約束による契約、すなわち、口頭による契約のことを、法律的には「諾成契約」と呼びます)。

約束するのに紙切れは不要です。

紙切れがなくとも、約束はできます。

じゃあ、
契約「書」
って一体、何なのか?

契約書とは、
「あってもなくてもいい、不安なら、作っといていいんじゃない?」
という類の記録、控え、メモ(モメなければただの紙切れですが、モメはじめて裁判になったら、証拠として機能します)に過ぎません。

ですから、契約書は
「作っても作らなくてもどっちでもいいけど、それほど作りたければ、あとから『言った言わないで揉めたくない』というなら、勝手に作ったらいいじゃない」
という程度のものです。

「言った言わない」
ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない、と言われそうです。

確かに、
「1000円貸した・貸さない」
とか、
「『その本、もう読んじゃって、メルカリで売ろうと思っていたから、500円で譲ってあげる』と言っていたのに、気が変わったのでヤメた」
みたいな話であれば、
「言った言わない、話が違う」
という形で目を吊り上げて大喧嘩する、なんてことは生じ得ません。

お互い譲り合えばいいだけですから。たかが1000円、500円の話ですから。

その程度の話で、
「言った言わない」
といって目くじら立てるなんて、時間と労力の無駄です。

しかし、億単位、あるいは数十億円単位となれば、話は別です。

億単位、あるいは数十億円単位の話は、常識を超えた話です。

そんな常識を超えた話にトラブルが発生したとき、
「ここはひとつ常識的に」
「ここは、常識人として、お互い譲り合って穏便に」
「相手のことも考えて、愛と平和と調和の精神で、思いやりをもって接しましょう」
「まあまあ、相身互いで、円満にいきましょう」
と言っても、納得するはずがありません。

だって、常識を超えた額の話ですから。

常識が通用しないスケールの話ですから。

「ちょっとした勘違い、食い違い、想定外、思惑違いがあったので、ちょっとタンマ、ちょいノーカン、そこは許して、譲って」
という話を許容すると、数億円、数十億円のロスやダメージの容認となります。

そんなことをにっこり笑って許容するような、シビれるくらいのアホは、ビジネス社会では生きていけません。

たとえ、しっかり認知していて、はっきり記憶していて、ただ、契約書がなかった、あるいは契約書の記載があいまいだった、という事情があって、相手の言っている内容が事実としても記憶としても間違いなく常識的で正当な内容であっても、
「証拠を見せてみろ。契約書を作ってないだろ。ほら、どこに証拠があるんだ。ほら、ほら、ほら! 証拠がなければ、認めることはできない」
「どこにそんなことが書いてある?! 契約書を見てもそんなことは書いていない。書いていない以上、認めるわけにはいかない」
と突っ張る(平然と嘘をつき、居直りをカマす)のが、
「責任ある企業経営者」
「立派な組織のリーダー(ボス)」
として求められる態度です。

すなわち、
「言った言わない、話が違う」
ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない、というのは、1000円、1万円の話であればそのとおりでしょう。

しかし、ビジネスや企業間のやりとりにおいては、些細な勘違い、食い違い、想定外、思惑違いであっても、契約書や確認した文書がなければ、すぐさま、
「言った言わない、話が違う」
のケンカに発展し、常識も情緒もへったくれも通用しないトラブルに発展することは日常茶飯事なのです。

だからこそ、弁護士という生業が成立して、大きなビジネスに介在する余地が生まれるのです。

大きなカネや大きな権利・財産がからむときには、関係者の理性や思惑など、欲望の前に簡単に吹き飛ぶのです。

そんなときに、
「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)」
に従うと、必ず地獄を見ることになります。

というより、ビジネスの世界においては、相手のことをトコトン信じず、相手は
「自分の言葉は命をかけて守る」
どころか、しっかり証拠がないと、いくらでも、すっとぼけるし、居直りをカマすし、忘れたふりをする、
「あれは冗談、ノーカン」
とごまかす、という殺伐とした世界観で、相手を見据え、世間を認知する必要があります。

これが、
「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)」
とは真逆のものであることは、火を見るよりも明らかです。

その意味では、
「学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)」
は、ビジネスの世界では役に立たない、いや、それどころか、有害この上ない危険な妄想、と言わなければならないのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.179、「ポリスマガジン」誌、2022年8月号(2022年7月20日発売)

00144_改めて「教育」というものを考える(2)_20220720

「教育再考」
と題し、改めて
「教育」
というものを考えております。

前回は、教育とは洗脳と同義と捉えた上で、
「悪い教育(悪い洗脳)」
について述べました。

3 良い教育(良い洗脳)・承前

今回は、良い教育(良い洗脳)について考えてみたいと思います。

「正しい洗脳」、
もとい、
「正しい教育」
というのは、
「模範とする人物をベンチマーキングして、思考や言葉やビヘイビア、さらには仕草や呼吸の仕方に至るまで、徹底的にコピーすること」
がその本質的内容です。

謦咳(けいがい)に接する」
という言葉がありますが、
「間近で咳払いを聞けるだけで幸せであるという意味から、尊敬する人と直接会ったり、話を聞く」
という
「教育の本来的手法」
を表現しています。

「自分が憧れ、目指すスーパースター」
を特定し、その近くにいて、
「咳やくしゃみがかかるところまで接近して、暗黙知や認知不能な挙動や思考や感受性のコピーを含めて、完コピするくらい真似び、学べ」
ということです。

もし、皆さんが、
「学校の教師」
「親」
「大学の教授」

「自分が憧れ、目指すスーパースター」
として捉えるなら、当該
「学校の教師」
「親」
「大学の教授」
の言いなりになり、その近くに(はべ)り、
「暗黙知や認知不能な挙動や思考や感受性のコピーを含めて、完コピするくらい真似び、学ぶ」
というのは、実に正しい教育(洗脳)手法です。

他方で、もし、
「学校の教師」
「親」
「大学の教授」
をみて、
「なんだ、この退屈で陳腐で、どうしようもなくイケてない連中は。死んでも、こんな大人にはなりたくない。もっと、刺激的で、イケてる人生を歩みたい」
と考えるなら、当該
「学校の教師」
「親」
「大学の教授」
の言いなりになり、その近くに侍り、
「暗黙知や認知不能な挙動や思考や感受性のコピーを含めて、完コピするくらい真似び、学ぶ」
のは最悪の教育(洗脳)手法となります。

4 「退屈で陳腐で、どうしようもなくイケてない(と、子どもが主観的に評価し、将来の夢から除外した)教員」ではなく、「一流の経営者」を目指す人間に必要な教育(洗脳)とは?

では、一流の経営者を目指す方にとって、正しい洗脳、もとい、正しい教育を受ける環境が存在するでしょうか。

無論、洗脳をしてくださる方、もとい、教えてくださる方が、模倣の対象として憧憬し、敬愛する方であれば問題ありません。

例えば、ビジネスの世界で成功を目指す人にとっては、ビジネス界のトップスター、グーグルやアップルやアマゾンを立ち上げたような方であれば、いいでしょう。

ところが、実際はどうでしょう。

教育現場にいらっしゃる方々、あるいは、皆さんの親御さんとして、皆さんに
「常識」
という名の
「偏見のコレクション」

「洗脳」
いただける方々は、資産も収入もイマイチで、いってみれば、
「経済社会、資本主義社会における弱者、あるいは負け犬、負け組(※あくまで、「経済社会における」という意味です。教育の世界や、道徳の世界では、ものすごく立派である可能性は否定しません)」
ではありませんか?

そんな
「弱者、あるいは負け犬、負け組(※くどいようですが、あくまで、『経済社会、資本主義社会の』という意味です)」
に甘んじている方々から、
「教育」
という名の
「弱者の皆さまが有しておられる偏見のコレクションの洗脳」
を受けた瞬間、自分も
「弱者、あるいは負け犬、負け組(前記参照)」
クラス行き、ほぼ確定です。

5 成功者は陳腐な常識を無視する

成功してマイノリティを志向する人間が、人生の大事を陳腐な
「常識」
を働かせると失敗します。

「成功し、非常識なまでにリッチなマイノリティになって、笑いが止まらない人生」
を目指す人間が、
「常識
という
「マジョリティの有する、成功には有益とは言い難い『偏見』」
をOSとして移植したら、終わるに決まっています。

「常識」
はいろいろです。

「自分が憧れ、敬う、真似ぶべき存在の常識」
であれば意欲的に取り入れるべきです。

しかし、それと真逆の人間の雑音など、一切無視していいでしょう。

6 学校で教師から受けた教育(洗脳)の内容(=常識)に従うと却って地獄をみる

「常識」
については、アルベルト・アインシュタインが興味深い定義をしています。

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことである(Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.)」

筆者(畑中鐵丸)は、別の定義をしています。

「常識とは、『常識という偏見の一種を植え付ける機関である学校』において、教師という、『常識のプロにして、常識で凝り固まっていて、非常識をノイズとして弾圧して取り締まる役目を持つ勤め人』から受けた、『常識を無視して、過酷な現実が冷酷に作動し、幅を利かせる実社会』ではまったく役に立たない、誤った洗脳の内容のことである」

まあ、ほぼ同じことです。

「常識」
というものは、
「常識的な状況」
においては役に立ちますが、
「常識が通用しない状況」
「非常識な状況」
には無力です。

というか、そういう異常な状況においては、常識は有害です。

邪魔です。

最悪です。

(1)「争族(相続人同士の遺産争い)」においては、常識ではなく、非常識な法律という「争族というゲーム空間のゲームロジック・ゲームルール」を最優先に考えないと、地獄を見る

「非常識なまでに多額のカネや権利や財産が関係する、非常識な状況」
において、
「常識」
を働かせて対処すると、たいてい地獄をみます。

都内で、普通に仲良く暮らしてきた兄弟がいます。

そんな中、親が死にました。

都内の一軒家と貯め込んでいたお金、時価にして2億円の財産の分け合いになりました。

「非常識な」
金額の財産を分け合う、という
「非常識な状況」
です。

こんな状況では、お互い非常識に、相手のことを考えず、なりふりかまわず、ただただ、1円でも多く、権利や財産を主張するべき、ということが推奨されるべき対処行動となります。

「常識を働かして」、
「ジェントルに」、
「エレガントに」、
「誠実に」、
「思いやりをもって」、
「仲良く」、
「平和に」、
「温和に」
なんてやっていると、たちまち分け前が減らされる。

うかうかして、ぼんやりして、相手のいいなりになっていると、
「100万円のハンコ代と中古のロレックスの形見分け」
だけ渡され、あとは全部もっていかれます。

血を分けた実の兄弟にその気がなくとも、横にいる配偶者が
「こっちがいただく」
「取られてたまるか」
と、そそのかす。

だから、こういう非常識な状況における有事状況・非常時には、
「仲の良い兄弟が裏切ったり、だましたり、アンフェアなことをするはずがない」
という
「常識」
は邪魔であり、無意味であり、有害なのです。

「非常識な額の財産を分け合う」
という
「非常識な状況」
においては、
「常識がどうこう」
ではなく、
「常識とはかけ離れた形で存在する『法律』や『裁判所での喧嘩というゲームのロジックやルール』からみてどうすべきか」、
ということを考え、行動に結びつけなければならないのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.178、「ポリスマガジン」誌、2022年7月号(2022年6月20日発売)

00143_改めて「教育」というものを考える(1)_20220620

1 世の中、本当に大事なことほど、本や新聞に載っていない

世の中
「本当に大切なこと」
ほど、本や教科書には載っていないし、新聞やテレビでも教えてくれないし、親や、学校の先生や大学の教授も知りません。

じゃあ、
「公式情報として表に出てこない世の中の本質」
を、どうやって知るか?

それが、知性、
「ホンモノ」
の知性を働かす、ということです。

「本当の」
勉強というのは、この種の
「ホンモノ」
の知性を身につけることです。

周囲に流されず、良質な本を読み、成功した人間から正しい情報を得ることを通じて、初めて身に付けることのできる、本物の知性です。

そういう情報は、一握りの人間によって独占されていますし、独占している階層の人間は、この知恵を、よほどの理由がない限り、明かしません。

そして、この
「一握りの人間によって独占されている、公式情報として表に出てこない世の中の本質」
の存在を知り、中身を理解し、実際機能している現場をみて、自分でも使ってみて、限界を知り、臨床的な知見を増やし、
「モノにする」
というのが、
「本当の教育」
と呼ばれるものだと思います。

2 小学校以来、垢のように身に着けてきた「常識」や「良識」の価値と有用性を疑ってみる

「公式情報として表に出てこない世の中の本質」
というものは、だいたい非常識なものです。

そして、
「非常識この上ない、公式情報として表に出てこない世の中の本質」
を知るうえで、あるいは、これを知るための知性を身に付けようとするとき、たいてい、
「常識」
が邪魔します。

無茶苦茶邪魔します。

シビれるくらい、徹底的に邪魔してきます。

というか、そもそも、
「常識」
とは何でしょうか?

「常識」とは、「物心つくまでに身につけた偏見のコレクション」を指します
(アルベルト・アインシュタインの言葉です)。

そして、「(私からみた今行われている)教育(という名の営み)」は、
「頭脳が未発達で、知性が乏しい、知的水準が未熟な者へ、『常識』という『陳腐な偏見』を植え付けるための、国家主導の洗脳」
のように観察されます。

「(私からみた今行われている)教育(という名の営み)」を言い換えると
「集団行動にふさわしい挙動規律を適合するためのOS(オペレーション・システム、基本挙動)」
を、各端末である未成年にダウンロードする。

これが本質的な意味のように思えます。

なお、「ダウンロードするべき当該ソフトの是非や有効性」
は、まったく別の問題です。

格納先に複製ソフトを移植し、基本挙動を統一させる。

ただ、それだけがダウンロード、すなわち、「(私からみた今行われている)教育(という名の営み)」の目的、となっているように観察されます。

ダウンロードするソフトが、優れたソフトであれば、最高の教育となります。

しかし、ダウンロードしたソフトが狂っていたり、間違っていれば、どんなに優れたコンピューターもただのゴミとなります。

どんなに計算機能が高く、記憶領域の大きなコンピューターであっても、OSがダメであれば、まったく使いものになりません。

コンピューターに間違ったOSをダウンロードしてしまったら、一度、初期化するなりソフトを削除するなりして、正しいOSを入れ直すべきです。

しかし、一度おかしなOSをダウンロードされた人間の場合、すなわち、間違った教育を受けて強固な偏見、もとい常識に凝り固まってしまった人間をロボトミー手術したり…というのは、人権問題を生じかねません。

ですから、教育を受けるのは結構ですが、教育を受ける前に、
「教育」
という名のもとに一体どんな
「洗脳」
が行われているのか、をきちんと考えておく必要があります。

「洗脳」
には、
「いい洗脳」

「悪い洗脳」
があります。

ソフトウェアに、機敏で効率的な挙動をするよいソフトと、無駄にリソースを食うばかりで非効率でエラーばかり撒き散らす廃棄物のようなソフトがあるように。

3 悪い教育(洗脳)

ダメな会社やバカな組織に間違って入ってしまった場合、現状維持バイアスを働かせるあまり、

「探せばどこかいいところがあるはずだ」
「ダメなところをそのまましないようにすれば自分としても成長の糧を得られる」
とポジティブ(というか、アホ)な考え方をする人がいます。

その際、自分を納得させるために、
「反面教師」
という言葉が使われます。

曰く、
「反面教師という言葉があるじゃないか。この会社の経営のあり方を反面教師として、自分は 成長するぞ」
と。

一般に、
「反面教師」
とは、
「悪い手本となってくれる事柄や人物」
のことを指すと考えられてお り、
「人のふり見て、我がふり直せ」
と同じ意味で使われることが多く、故事成語のように思われています。

しかしながら、
「反面教師」
という言葉は、古来の諺でも何でもなく、第二次世界大戦後、毛沢東によって開発された陰惨なリンチ手法を指すもので、その中に肯定的な意味はまったくありません。

すなわち、毛沢東はある組織に、能力ないし思想に欠陥がある者がいた場合、放逐せず、あえて、仕事や権限や尊厳を一切奪った状態で飼い殺しにし、その酷い状況で晒し者にすることにより、制裁を加えるとともに、同様の人間の発生や増殖を防ぐという規律手段を用いたそうです。

そして、そのリンチの対象となった人物を指して
「反面教師」
と呼んだそうです。

この言葉の本来の意味のとおり、
「反面教師」
は、リンチのターゲットであり、ここから学ぶものは一つもなく、また、学んではいけないものです。

たとえば、ここに、東大を強く志望する、開成中学受験に合格した少年がいたとしましょう。

この少年を、あえて、
「教師も生徒もやる気のない、すさんだ公立中学」
に放り込んでしまいます。

この場合、少年は、周囲の人間や環境を
「反面教師」
として学んで、人として大きく成長して、無事東大に合格してくれるでしょうか。

逆ですね。

おそらく、そのまま開成に入って中高6年間を過ごせば、現役で東大に合格できたであろう少年 は、一生東大に合格できないで終わることになるでしょう。

このように
「反面教師」
は、人間の健全な成長にとって有害無益なものなのです。

「目の前の残念な人間や環境を反面教師として成長するぞ」
などという文脈において語られる
「反面教師」
という言葉は、ダメな人間がダメな人間関係やダメな環境から抜け出す努力を放棄する際の自己正当化の弁解道具に過ぎません。

賢明な人間は、
「反面教師」

「教育上、悪い影響を及ぼす」
「このお手本をみても何も学ぶものはない」
「悪い洗脳を受けるだけ」
と考え、全速力で逃げて遠ざかり、一刻も早く
「模範たる教師」
をみつけるための努力をするものです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.177、「ポリスマガジン」誌、2022年6月号(2022年5月20日発売)

00142_「貧乏」という病(その3・完)_20220520

「貧乏」という病、のその3です。

貧乏から脱するための最初の一歩は、
「お金は汚いもの」
「お金に執着する心は邪悪で堕落している」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
といった、狂った価値観、病的なバイアスに罹患したメンタリティを脱し、

「お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装すること」
から始めるべき、というお話をさせていただきました。

加えて、前回、
「ビジネス」
という
「日常から隔絶されたゲーム空間」
において、その空間を支配する原理やルールが、いかに常識とかけ離れたものか(当たり前ですね、「日常から隔絶されたゲーム空間」なわけですから)、を解説するとともに、貧乏という
「病」
から脱するのは、
「ビジネス世界の常識」
を健全で正しいものとみなし、これと真逆の
「サラリーマンのお父さんや、専業主婦のお母さんや、小学校の教員が教えていること」
を、愚かで劣悪で有害な価値観として徹底して排除することから始めなければいけない、ということもお伝えしました。

さらに、
「非情過酷なビジネス空間を支配する、日常生活とはかけ離れた空間秩序」
もお話しなければなりません。

ビジネス社会においては、ありとあらゆる口約束が、片っ端から反古にされる世界です。

また、ビジネス社会は、
「善悪」

「思いやり」
によって物事を判断することは
「経済的な敗北や死」
を意味し、
「自分が生きるために、相手を仕留め、殺し、栄養源にすることが許されている世界」
であり、そのことを生き残った人間全員が理解している世界です。

ビジネス社会という
「森」
においては、
「森の中に彷徨い込んだ、楽しそうに遊んでいる小動物」
は、森で生存しているプレーヤーからみれば、
「仲間」

「保護対象」

「愛玩対象」

「救済対象」
ではなく、捕食する対象です。

言い換えれば、そのような不用心な小動物は、
「生き物」
ですらなく、
「単なる獲物、栄養源」
とみなし、罠を仕掛け、欺き、引き金を引き、仕留め、捕食する。

そんな世界です。

実際、ネット等でも、ビジネスを始めようとして、各種商材に手を出して、大金を失う素人のことを、
「カモ」
とか
「養分」
とか呼称することがあります。

もちろん、世の中には、このような殺伐とした世界観を拒否する人間もいるでしょうが、そのような
「小学校で洗脳された常識を捨てきれず、陳腐な常識に囚われ、ビジネス社会での殺伐とした常識を上書きできない、硬直した感受性の持ち主」
は、ビジネス社会に迷い込んだ瞬間、仕留められる側になって、全員、ビジネス社会で生き残った者たちの
「養分(カモ)」
になってしまっていて、すでにビジネス社会から退場しているので、そういうおめでたい方はビジネス社会には残っていないのです。

契約(約束)と契約書(紙切れ)は違います。

通常の取引や契約でも同様です。

契約書とは、契約の有効要件ではなく、単なる記録やメモと同様の扱いです。

契約書がなくとも契約は成立します(口頭による契約で、諾成契約と呼ばれます)。

約束するのに紙切れは不要です。

紙切れがなくとも、約束ができる。

じゃあ、契約書って何なのか?

契約書とは、
「あってもなくてもいい、不安なら、作っといていいんじゃない?」
という類の記録、控え、メモ(モメなければただの紙切れですが、モメはじめて裁判になったら、証拠として機能します)に過ぎません。

ですから、契約書は
「作っても作らなくてもどっちでもいいけど、それほど作りたければ、あとから『言った言わないで揉めたくない』というなら、勝手に作ったらいいじゃない」
という程度のものです。

「言った言わない」
ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない、と言われそうです。

確かに、1000円貸した・貸さない、みたいな話であれば、
「言った言わない、話が違う」
という形で目を吊り上げて大喧嘩する、なんてことは生じ得ません。

お互い譲り合えばいいだけですから。

たかが、1000円でしょ。

その程度の話で、言った言わない、といって目くじら立てるなんて、時間と労力の無駄です。

しかし、億単位、あるいは数十億円単位の話となれば、別です。

億単位、あるいは数十億円単位の話は、常識を超えた話です。

そんな常識を超えた話にトラブルが発生したとき、
「ここは一つ常識的に」
「ここは、常識人として、お互い譲り合って穏便に」
「まあまあ、相身互いで、円満に行きましょう」
と言っても、納得するはずがありません。

だって、常識を超えた額の話ですから。

常識が通用しないスケールの話ですから。

「ちょっとした勘違い、食い違い、想定外、思惑違いがあったので、ちょっとタンマ、ちょいノーカン、そこは許して、譲って」
という話を許容すると、その瞬間、数億円、数十億円のロスやダメージが確定してしまいます。

そんなことをにっこり笑って許容するようなシビれるくらいのアホは、ビジネス社会では生きていけません。

たとえ、しっかり認知していて、はっきり記憶していて、ただ、契約書がなかった、あるいは契約書の記載があいまいだった、という事情があって、相手の言っている内容が事実としても記憶としても間違いなく常識的で正当な内容であっても、

「証拠をみせてみろ。契約書を作ってないだろ。ほら、どこに証拠があるんだ! ほら、ほら、証拠は! 証拠は! 証拠がなければ、認めることはできない」
「どこにそんなことが書いてある?! 契約書みてもそんなことは書いていない。書いていない以上、認めるわけにはいかない」
と突っ撥ねるのが、責任ある企業の経営者としての態度です。

すなわち、
「『言った言わない、話が違う』ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない」というのは、1000円、1万円の話であればそのとおりですが、
「企業間の取引というビジネス空間の出来事」
においては、些細な勘違い、食い違い、想定外、思惑違いであっても、契約書や確認した文書がなければ、すぐさま、
「言った言わない、話が違う」
の大ケンカに発展し、常識も譲り合いもへったくれも通用しないトラブルに発展することは、日常茶飯事なのです。

だからこそ、弁護士という生業が成立して、大きなビジネスに介在する余地が生まれるのです。

大きなカネや大きな権利・財産がからむときには、関係者の理性や思惑など、生存本能の前に簡単に吹き飛びます。常識が通用しない世界で、常識にしたがった行動をしたら0.5秒で死にます。

そこでカモにされないために、生き残るために、まず、敵視するべきは、残忍で冷酷な相手ではなく、自分の脳にこびり付いた
「(ビジネス社会の常識については)必ずしもよく知り、理解されているとは言い難い小学校の先生の皆様が、パラダイム未生成の小学生に植え付けてきた『一般常識』という、偏った、一つの偏見ないし先入観(※『常識とは、物心つくまでに身に着けた偏見のコレクション』とのたまったのは、しがない市井の事務屋風情の小職ではなく、アインシュタイン大博士です)」
なのです。

こういう常識を、土足で踏みにじり、横へ蹴飛ばし、ゴミと一緒に捨てることから、
「貧乏から脱出する冒険」
が始まります。

他方で、人は常識を否定されると、大事なものを冒涜されたような感情をもちます。

新しい常識や新規の価値観や論理やルールに対して、反発し、拒否します。そして、自分の常識を否定した人間を殺したいほど憎みます。

さらに、どんなに間違っていて危険だと理性や知性が示唆しても、常識にしたがった行動を、断固としてとります。

ところが、常識が通用しない世界においては、これが命取りになりますし、貧乏から抜け出させない大きな原因となるのです。

もちろん、
「小学校の教員の方々が洗脳、もとい教育してきた(リアルなビジネス社会から観察すると)偏った(というべき)先入観」
を後生大事にかかえて、貧乏のまま生き続けるのも、一つの価値ある選択であり、それは、皆さんのご自由です。

まあ、全員が全員、ビジネス社会の常識を実装して、カモや養分がいなくなったら、ビジネス社会の人間は困りますから。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.176、「ポリスマガジン」誌、2022年5月号(2022年4月20日発売)

00141_「貧乏」という病(続)_20220420

「貧乏」という病、の続編です。

前回、貧乏から脱するための最初の一歩は、
「お金は汚いもの」
「お金に執着する心は邪悪で堕落している」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
といった、狂った価値観、病的なバイアスに罹患したメンタリティを脱し、
「お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装すること」
から始めるべき、というお話をさせていただきました。

こういう言い方をすると、簡単に聞こえるかもしれません。

しかしながら、
「お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装すること」
は、殊の外、難しいのです。

この
「お金ファーストという価値観の実装」
は、
「わかっちゃいるけどやめられない」
の最たるもので、特に、健全で豊かな幼少期を過ごした人ほど、ほぼ不可能といってもいいほど、超絶な難易度のある試みとなるのです。

「健全で豊かな幼少期を過ごした人」
は、
「心優しい、尊敬できる、素晴らしいサラリーマンのお父さんや専業主婦のお母さん」
に育てられ、小学校では、
「心優しい、尊敬できる、素晴らしい教師」
に薫陶を受けた、と推測されます。

では、この
「心優しい、尊敬できる、素晴らしいサラリーマンのお父さんや専業主婦のお母さん」

「心優しい、尊敬できる、素晴らしい教師」
は、皆さんに、どのような洗脳、もとい、教育をしてきたのでしょうか。

「お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装」
してきたでしょうか。

まったく逆ですね。

「心優しい、尊敬できる、素晴らしいサラリーマンのお父さんや専業主婦のお母さん」

「心優しい、尊敬できる、素晴らしい教師」
が、
「形成途上で可塑性のある子ども時代の皆さんの未熟な脳」
に植え付けたのは、
「お金は汚いもの」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
「お金は額に汗して働いて得るもの」
「お金持ちは悪いことをしている人たち」
「悪いことをしているお金持ちに媚びへつらう行為は、下劣で、志の低い営み」
「お金は天下の周りもの」
「お金は結果。正しいこと、価値のあることをしていれば、真面目に努力すれば、お金は後からついてくる」
といった理念や価値観ではないでしょうか。

これらいずれも、前回ご紹介したもの同様、私が、
「貧乏人バイアス」
と呼び、蔑んでいる価値観・理念・哲学の一種です。

そして、このバイアスに罹患している限り、一生、お金と縁が持てません。

お金を創り出すビジネスという世界は、凄まじいまでの非常識な世界です。

「原価率3割の商品販売事業」
というビジネスモデルを考えてみましょう。

これは、言い方を変えれば、
「1万円を5000円で買ってきて、買ってきた1万円を2万円で売りつける」
という、極めて阿漕(アコギ)な営みです。

化粧品の原価率は10%とも20%とも言われています。

仮に原価率10%とすると、
「1万円札を2000円で買ってきて、これを2万円で売りつける商売」
という見方もできます。

こんな凄まじいまでにエゲツない営利活動を、眉一つ動かさず、平然と行う世界。

これがビジネスの世界です。

ビジネスとは、ストレートかつシンプルに表現すれば、
「合法的」詐欺
の別名です。

原価率が10%とか20%の商品を、
「価値あるものを正しい値段で売っているかのようなミスリード(意図的なごまかし。広告宣伝活動とも言われます)」
を行い、錯誤に陥った一般消費者から金をまきあげるのがビジネスです。

安く手に入れた千円札や5千円札を1万円で売るのですから、ビジネスの本質は詐欺です。

ただ、ビジネスと詐欺と異なるのは、ビジネスは、社会的に許容されている、ただそれだけです。

ビジネスというゲーム空間において確立された一定のロジックとルールがあり、それを知り、その空間秩序にしたがって、千円札や5千円札を1万円で売る場合、人は、その営みのことを、詐欺ではなく、
「ビジネス」
と呼称するのです。

素直に、シンプルに、
「正しいこと、価値のあること」
をしても、
「真面目に努力」
しても、お金は決して後から勝手についてきてはくれません。

それどころか、困った人やかわいそうな人に、1万円札を5千円でばらまくような狂ったことをしていると、すぐさま路頭に迷います。

ビジネスの世界での常識は、小学校で教えた価値観や理念から観察すれば、
「額に汗して働いて得る」
ようなものではなく、どちらかというと
「下劣で、志の低い営み」
と位置づけられるようなものかもしれません。

いや、実は、ビジネス世界の常識が健全で正しいのであって、サラリーマンのお父さんや、専業主婦のお母さんや、小学校の教員が教えていることこそが真っ赤なウソなのかもしれません。

貧乏という
「病」
から脱するのは、
「ビジネス世界の常識」
を健全で正しいものとみなし、これと真逆の
「サラリーマンのお父さんや、専業主婦のお母さんや、小学校の教員が教えていること」
を、愚かで劣悪で有害な価値観として徹底して排除することから始めなければいけないのかもしれません。

そして、重度の薬物依存症患者の治療が困難なように、長年洗脳を受けた人間の洗脳解除が困難なように、脳ができ上がっていない小学校時代に反復継続する形で強固に植え付けられた
「真実や現実に反する、誤ったリテラシー」
から脱却するのは、極めて困難なのです。

「信念」

「常識」
といった
「主観的に」
大事なもの(信念も常識も、バイアスの一種に過ぎません。

「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」
というのはアルベルト・アインシュタインの言葉です)を冒涜されると、人間は、ムキになって、いや、宗教戦争や宗教テロをみればわかるように、命を賭して戦ってまで、
「脳内でいったん確立してしまった思考上の偏向的習性」
を守ろうとするものです。

「三つ子の魂百まで」
といわれますが、小さいころに受けた洗脳を解くのは、100歳になっても無理、すなわち、身についた愚かさは死んでも治らない、というほど、強力かつ不可逆なもの、という言い方ができるのかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.175、「ポリスマガジン」誌、2022年4月号(2022年3月20日発売)