00140_「貧乏」という病_20200320

私が、「貧乏人バイアス」と勝手に名付け、遠ざけている価値観・理念・哲学があります。

例えば、
「お金は汚いもの」
「お金に執着する心は邪悪で堕落している」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
といった、美辞麗句です。

1 「お金は汚いもの」?

お金って汚いものなのでしょうか?

私の知っている限り、お金持ちで、
「お金は汚い」
などといった罰当たりな考えをもつ人は皆無です。

皆、お金を大事にします。

中には、家族よりも、自分の命よりも大事にします。

それこそ、死ぬ直前までお金を握りしめます。

他方で、
「お金は汚い」
などと理解不能な戯言をのたまう方は、たいてい、それほどお金をもっておられません。

お金を腐るほどもった人が、
「お金が汚い」
と言うのは、サマになります。

お金をそれほどもったことのない人が、
「お金が汚い」
と言っても、
「お金をもちたくても、自分でお金をもてないもんだから、負け惜しみで言ってるだけじゃないの?」
とツッコミたくなります。

学歴の話になりますが、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉がありますが、これを使っていいのは、東大卒だけです。

東大卒の人間が、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉を使ったら、美しい謙遜として、サマになります。

ところが、東大に入ったことも卒業したこともない人間が、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉を使ったら、見苦しい負け惜しみにしか聞こえませんし、
「『たいしたことない』と言っている東大にすら入れなかったのに、くだらないことを言うんじゃねえよ。東大入ってから言え」
とツッコまれて、大恥をかく危険があります。

だから、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉は、この世の中で東大卒しか使えないのです。

ちなみに、私が東大を目指したのは、
「東大卒なんてたいしたことないよ」
という言葉を、ナチュラルに言ってみたかったからです。

実際、私は、たいしたことない人間です。

これと同様に、
「お金は汚い」
などという言いざまは、お金に縁のない人間が、
「自分の能力や地位に見合わないものを得ようとして得られないとき、人はその物の価値を貶めて心の平安を図ろうとする」
という下劣な精神の有り様そのものです。

そして、
「お金は汚い」
などという、何とも罰当たりなことを口に出したりしている人間は、一生お金に縁がない生活を送ることになるのだろう、と思います。

2 「お金に執着する心は邪悪で堕落している」?

お金に執着する心の有り様は、邪悪で堕落したものなのでしょうか?

じゃあ、どうすればいいのでしょうか?

お金と距離を置き、お金が近づいたら遠ざけ、お金をもたず、お金がダラダラ流れ出ても、流出を止める努力をせず、なすがままにするのでしょうか?

お金に執着しない、というのは、私の理解では、お金にルーズ、と同義です。

自己破産する方の中には、お金にルーズな方が相当にいらっしゃいます。

なぜ、お金にルーズかというと、見栄っ張りで、カッコつけだからです。

「お金のことをうるさく、ぐちゃぐちゃ言ったり、ケチったり、お金に執着するような言動は、見苦しいし、かっこ悪い。かっこいい自分は、お金にこだわらない」
と言って、お金の管理がルーズになり、借金が返せない規模になり、借金のために借金をして、最後に、経済的にパンクする。

そういうパターンで自己破産する方が少なからずいらっしゃるのです。

私は、ケチと呼ばれようが、セコいと言われようが、お金には無茶苦茶執着しますし、管理は徹底します。

私からすると、
「お金に執着しない」
という精神の有り様の方が、最後に債権者に迷惑をかける、という意味で、邪悪で、堕落しており、犯罪的ですらあると思います。

3 「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」?

お金に興味や関心をもったり、お金儲けを考えたり、お金を増やすことを考えたりするのは、下劣で、志の低さを意味するのでしょうか?

貧しい生活や、地味な生活を送ることは、正しく、美しいことなのでしょうか?

中世ヨーロッパにおいて、カトリック教会は
「蓄財や利子取り立ては、『罪』である」
などと説いていました。

このような狂った価値観が蔓延していた中世ヨーロッパは、暗く、貧しく、不合理で、遅れた社会でした。

なお、カトリック教会の欺瞞的な集金手法は、詐欺師もひっくり返るほど大胆で、エゲツないものでした。

カトリック教会は、前述のように
「蓄財や利子取り立ては、『罪』である」
と説くと同時に、
「蓄財の罪は、教会への寄進によって免れることができる」
というアクロバティックな論理を展開し、無知蒙昧な民を恐喝し、金を巻き上げ、莫大な財産を築きました。

ヨーロッパが、暗く、貧しく、不合理で、遅れた中世を脱したのは、カトリックの脅迫的な集団マインドコントロールから脱し、宗教改革、さらには、
「資本主義」
という
新たな「宗教」
が普及したことで、
「利潤の追求や、その結果としての蓄財」
に正当性が与えられたことによるものです。

現在、我々が、中世ヨーロッパの地獄のような社会を脱し、豊かで健康的で楽園のような社会で生活できるのも、
「利潤の追求や、その結果としての蓄財」
を是とする、
「資本主義」
という
「宗教」
が普及したおかげです。

だいたい、ほとんどの方は、株式会社に雇用され、日々の生活の糧を稼いでいます。

株式会社というのは、営利社団法人としての本質を有しますが、要するに、
「金儲けを組織の根本目的とする組織集団」
であり、
「資本主義」
という
「宗教」
における、狂信的で先鋭的な十字軍のような存在です。

お金に縁のなさそうなサラリーマンやそのご家族の方が、
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
などとおっしゃることがあるようですが、どうして、それほどまでに、自己否定をするのか、私にはまったく理解できません。

貧乏から脱するための最初の一歩は、
「お金は汚いもの」
「お金に執着する心は邪悪で堕落している」
「お金を追求する営みは、下劣で、志の低い営み」
といった、狂った価値観、病的なバイアスに罹患したメンタリティを脱し、お金を大事に扱い、お金に執着し、お金を追及することを健全視する理念や価値観を実装することからではないでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.174、「ポリスマガジン」誌、2022年3月号(2022年2月20日発売)

00139_知性と教養ある人間にとって「明確な意見をもつ」のは難しい_20220220

よく明確な意見をもつべき、主張をはっきりさせるべき、という言葉を聞きます。

しかし、日本人、特に、日本の知識人にとっては、この
「明確な意見をもつ」
ということはとても難しい事柄です。

事実がこうなっている、論理としてはこれが合理的だ、展開予測としてはこうなる蓋然性が高い、ということは、知性の働きによって、明確にできますし、そのことを表明することは、知識のある人にとってさして難しいことではありません。

他方で、意見をもつ、主張をはっきりさせる、というのは、別の次元の話です。

「資本主義が良いか、共産主義がよいか」
「天皇制は続けるべきか、廃止すべきか」
「女系天皇を認めるべきか、認めてはならないか」
「岸田総理は有能か、そうでないか」
「この島は、この国の領土であるか、そうでないか」
「米軍は沖縄から今すぐ出ていくべきか、時期尚早か」
こういう論点は、どちらも正解であり、どちらも不正解といえるものであり、正解が存在しません。

正解は存在せず、どちらも正解であり、どちらも不正解ということは、頭の良し悪しに関わらず、誰でも意見をもつことはできます。

それこそ、中学生だって、あるいは灘中や開成中を受験するような小学生であれば、それなりの理由をくっつけて、意見を述べることは、可能です。

「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
について、明確な意見をもつ、主張をはっきりさせる、ということは、言葉を変えれば、
「強い偏見をもつ」
「深く考えず勝手に決めつける」
「一方的な思い込みをもつ」
というのと大差ありません。

知性や教養ある人間は、リベラルでフェアなメンタリティをもっており、偏見や決めつけや思い込みというのは、非知的な精神作用である、と考えます。

特に、
「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
「正解のない課題」
について、
「強い偏見をもつ」
「深く考えず勝手に決めつける」
「一方的な思い込みをもつ」
のは、脳の活動を停止して、バカになれ、と言われるに等しく、知識人にとって、精神的な自殺を強いるのと同じことです。

どこぞの国では、
「意見をはっきり述べる」
「主張をはっきりさせる」
ということを賛美し、幼少期から、とくかく、意見や自己主張を強く述べることを推奨する教育を施す、ということを聞きます。

そして、このような
「どこぞの国」
の精神作用のあり方を是とする方々は、日本の教育や文化について批判し、
「日本人は意見をもたない」
「日本人は主張をしない」
ことを欠陥視し、もっと、意見や主張を明確に述べ、
「どこぞの国」
に近づこう、などと主張したりします。

私個人としては、
「どこぞの国」
は、単に、知性と教養がなく、リベラルでフェアなメンタリティがなく、無知で傲岸不遜で、成熟さに欠け、奥ゆかしさ・慎ましさがないだけであり、別に、そんな国の幼稚な文化水準を称賛して、同水準に向かって、日本人を退嬰化させる必要はないと考えます。

先の大戦において、我が国は、実に、多くの
「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
「正解のない課題」
に直面しました。

「満州での権益を拡大すべきか否か」
「さらに、暴支膺懲を唱えて中国に軍事侵攻をするべきか否か」
「英米の反感を所与として、あえてドイツと同盟を結ぶべきか否か」
「仏印に侵攻するべきか否か」
「アメリカに宣戦布告すべきか否か」
といった問題です。

当時の日本人は、このような
「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
「正解のない課題」
について、リベラルでフェアなメンタリティをもって、深く議論したでしょうか。

それとも、知性と教養もなく、リベラルでフェアなメンタリティももたず、無知で傲岸不遜で、成熟さに欠け、奥ゆかしさ・慎ましさも欠如した状態で、
「強い偏見をもつ」
「深く考えず勝手に決めつける」
「一方的な思い込みをもつ」
といった形で、明確な意見をもち、主張をはっきりさせ、異論や反論を抑え込み、ひたすら1つの方向に意見を収斂させ、視野狭窄に陥ったのでしょうか。

昔の日本人は、
「神州不滅」
「鬼畜米英」
「暴支膺懲」
「八紘一宇」
と、明確な意見をもっていましたし、主張もはっきりしていました。

しかし、同時に、政治家も、軍人も、メディアも、一般人も、知性と教養がなく、リベラルでフェアなメンタリティがなく、無知で傲岸不遜で、成熟さに欠け、奥ゆかしさ・慎ましさがなかったのではないでしょうか。

日本人が、
「どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題」
「正解のない課題」
について明確な意見をもたず、主張もはっきりしないのは、ある意味、知性、教養ともに成熟したからであり、むしろ、誇るべきことです。

こういう言い方をすると、
「日本人は、意見が不明確で、主張がはっきりしないから、外交の場で、いいようにあしらわれ、割を食ってばかりいる」
と批判する向きがあります。

違います。

まったく違います。

外交の場は、正解を探求する場ではありません。

外交の場で唱えるのは、知性と教養の働きを前提とする
「意見」
「主張」
ではなく、エゴのぶつけ合いであり、ハッタリのカマし合いであり、知性や教養はゲームの邪魔であり、必要なのは、自国の国益へのこだわりと、相手国への配慮や遠慮をかなぐり捨て、ひたすら厚顔無恥に振る舞うことです。

外交ゲームにおいて、一定の知性や教養が必要かのように誤解するのは、主張や意見がエゲツないほどに自己中心的で卑怯で姑息で志が低い内容なため、これを糊塗隠蔽する必要から、実体と真逆の、ジェントルでエレガントな言葉遣いが必要となるからです。

ですので、次世代を担う子どもたちには、このような言い方が正しいのかもしれません。

「『どちらも正解であり、どちらも不正解といえる問題』『正解のない課題』については、意見や主張などもたなくていいし、そんな問題や課題に意見や主張を述べるような、非知的で無教養で幼稚人間になるな。ただし、交渉の場では、徹底して自己の利益にこだわり、相手への遠慮や配慮をかなぐり捨て、卑怯に姑息に厚顔無恥に振る舞え。そして、そのような志の低い主張をするときほど、徹底して、ジェントルに、エレガントな言葉遣いと態度を取れ」
と。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.173、「ポリスマガジン」誌、2022年2月号(2022年1月20日発売)

00138_権力と戦うヤツはアホ_20220120

新聞や雑誌やテレビで、
「権力と戦う弁護士」
「権力と戦うジャーナリスト」
「わが政党は、権力と徹底的に戦います」
といった勇ましい言葉を目にすることがあります。

私も、
「自由と正義を実現し、そのためには権力と戦うことを辞さない」
というレーゾン・デートルをもつ弁護士の端くれではありますが、私個人としては、
「権力と戦うヤツはアホ」
と思っています。

権力と真正面から戦ったって勝てるわけはありません。

だいたい、そこら辺の一般人が勝てないほどの力をもっているのが
「権力」
ですから。

また、弁護士といっても、単なる市井の事務屋です。

国家資格を与えられているとはいえ、これも、
「裁判所という国家機関の出入りの業者の免許」
程度の意味合いしかなく、それほど力があるわけではありません。

蜂の一刺しや蚊の一刺しのように、一瞬チクリと刺すくらいはできるかもしれません。

ただ、相手を倒すまで継続的に戦闘を続けるには、時間や労力やお金といった莫大な資源動員が必要になりますし、そのうち行動限界点が訪れます。

行動限界点が過ぎると、相手から反撃を受けます。

相手は、カネも人員も含めた無限の資源をもつ権力です。

最後は歯向かった方が権力に追い詰められ、コテンパンに打ちのめされ、滅ぼされます。

権力側からの反撃から一時的に逃げられても、江戸の仇を長崎で討たれるような形で、死ぬまで延々と嫌がらせを受け続け、やはり、最後にはボロ負けとなります。

具体的に考えてみましょう。

「権力」
の中の最大のものは、国家権力です。

国家とは、当該国土における最大の暴力団です。

殺人を生業とする集団である軍隊ももっていますし、令状を根拠に一般人を誘拐・監禁したり、一般人宅に押し入って必要なものを掻っ攫うことを組織的に行う警察という組織ももっています。みかじめ料を徴収する税務署という地廻り組織ももっています。

暴力組織だけではありません。

東大卒をズラリと並べた情報処理機関である、中央官庁ももっています。

膨大な情報を保有しておりますし、情報を意のままに編集することもできますし、統計操作や情報の廃棄すら可能ですので、やりたい放題です。

こんな強大な組織を相手に真正面から喧嘩をして勝てるわけがありません。

実際、喧嘩をしてもよく負けます。

本当に負けます。

よく知られた数字ですが、税務訴訟を含めた行政訴訟の勝訴率は10%以下ですし、検察という国家機関を相手に喧嘩する刑事事件の勝訴率(無罪率)は数%以下です。

ほぼ確実に負けるとわかっている喧嘩に金をもらって請け負うのは、支払う側からみると、無駄金であり、騙された気持ちになるような話かもしれません。

権力と戦うヤツはアホですが、じゃあ、権力から不当な仕打ちをされたり、不当なことをされそうになっても、何もせず、言いなりになり、泣き寝入りするしかないのでしょうか?

いえ、そうは言っていません。

私は権力とは戦いません。

断固として戦いません。

権力は戦うものではなく、動かすものです。

権力を前向きに動かす場合もあれば、後ろ向きに動かしたり、止めたりすることも含めて、権力を動かします。

すなわち、権力を邪魔し、混乱させ、妨害し、足を引っ張り、困惑させ、ほとほと嫌にさせ、資源動員が成果に見合わぬことを自覚させ、ついには諦めさせることもします。

権力を動かしたり、止めたり、ギブアップさせたりする。

そのような
「権力と真正面から戦うのではなく、権力を動かしたり、転がしたり、止めてみたり、邪魔したり、足を引っ張ったり、嫌がらせをしたりして制御し、権力とうまいこと付き合う」
という知的活動を生業とするのが法律家である、というのが私なりの考えです。

そして、そのためには、
「権力」
が動く空間(権力空間という言い方もできるかもしれません)の構造、秩序、メカニズム、オペレーションロジックやルールを知らなければなりません。

このような情報は、公式情報・形式知として存在するのもありますが、実際は、膨大な、非公式情報や不文律や暗黙知やアノマリーが幅を利かせています。

また、
「『権力』を持ち、『権力』を動かす『権力者』」
についても、よく知らなければなりません。

「権力者」
のことを知るためには、
「権力者」たち
が権力を行使する営みにおいて直面する、現実、課題、欲求、業務実現プロセス、哲学や美意識や人生観や価値観まで把握しておく必要があります。

さらに言えば、
「権力者」たち
の好みや美醜好悪の感受性や偏見や先入観や偏向的修正や認知の限界や弱みや不安や愚劣なところまで理解知悉する必要があります。

もし、制御対象たる
「権力」
が司法権力や捜査権力を振りかざす司法機関(捜査機関)であれば、当該機関の中枢を締める権力者、すなわち司法エスタブリッシュメントと同様の学歴・経歴バックグラウンドをもっていることは、思考環境上の利点を形成します。

したがって、司法エスタブリッシュメントと同様のバックグラウンドであり、東大法学部在学中に司法試験を合格した経歴を有することは、司法権力を動かしたり、転がしたり、止めてみたり、邪魔したり、足を引っ張ったり、嫌がらせをしたりして制御し、権力とうまいこと付き合う上では、大きなアドバンテージとなります。

また、向き合うべき
「権力」
が、行政権力を振りかざす行政機関なら、行政エスタブリッシュメントと同様のバックグラウンドをもつ、東大法学部卒中央官庁の総合職(旧国家公務員Ⅰ種)で、課長まで務めたことのあることがアドバンテージになります。

同様に、
「権力」
がマスコミ権力なら早稲田大学卒の新聞記者、
「権力」
が財界で旧財閥系の非オーナー系企業の場合なら東大卒の企業人、
「権力」
がオーナー系企業の場合なら慶応卒の経営者といったキャリアが、
「権力」
を動かす場合のアドバンテージになります。

権力と向き合うとき、権力と戦ってはいけません。

権力を動かしたり、転がしたり、止めてみたり、邪魔したり、足を引っ張ったり、嫌がらせをしたりして制御し、権力とうまいこと付き合うことこそが、利口な対処です。

そして、そのためには、
「権力」

「権力者」
の手の内から趣味嗜好からすべてを知り尽くした協力者を味方につけて、スマートかつ効果的に対応すべきです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.172、「ポリスマガジン」誌、2022年1月号(2021年12月20日発売)

00137_敵に塩を送らず、毒を送れ_20211220

今回は、軍事作戦や外交戦略の話です。

「敵に塩を送る」
という逸話、というか美談があります。

戦国時代、海に面した領地を持たない甲斐の武将、武田信玄は、東海地方から塩を手に入れていました。

しかし、領主今川氏真は、関東地方の北条氏康と同盟を結び、武田領へ塩を売らない措置をとりました。

信玄の苦境を見かねたのが、宿命のライバル、越後の上杉謙信です。

信玄のもとに、謙信から
「争う所は弓箭に在りて、米塩に在らず(我々は、武力で正々堂々と争うのであって、生活必需品の流通を妨害したような卑劣な争いはしない)」
という手紙が参ります。

そして、謙信は、手紙で宣言したとおり、商人たちに公正な価格で武田領に塩を売らせた、というエピソードです。

現在でも、このような美談に酔いしれ、ビジネスの競争や、法的な紛争の場面で、交戦中あるいは熾烈な交渉の最中に、騎士道精神を発揮して、苦境の敵に情けをかけようとするが方がたまにいます。

もちろん、
「すでに勝敗が確定して、圧倒的で確定的な勝利を手にし、相手が降伏したあと、相手に靴をナメさせた上で、降伏した相手が心から感謝と敬服を示したことを確認してから、施しをくれてやる」
という文脈で相手にプレゼントをする態度は、極めて合理的です。

他方、勝敗が定かではない状態で、交戦状態にある敵に対して情けをかけるのは、あまりに危険であり、愚劣です。

そもそも、敵が困っているなら、敵の困惑を助長して、ギブアップを加速化させるような措置をとるべきです。

この点、天下統一を果たした豊臣秀吉やその帷幕にあった黒田官兵衛は、
「三木の干し殺し」

「鳥取の渇え殺し」
といった、
「謙信の美談とは真逆ともいうべき、苛烈な兵糧攻め」
を好んで採用し、赫々たる戦果を挙げていきました。

「三木の干し殺し」
は、糧道を完全に遮断した上で、籠城した兵士や家族7500人の1年以上にわたり補給なしで飢餓に追い込み、1000人以上の餓死者を出させた上で、自軍には損害を出さず、攻城に成功しました。

「鳥取の渇え殺し」
は、軍事作戦としてさらに洗練されています。

秀吉は、事前に、城内の米を高値で買い上げ、予め城内の兵糧を枯渇させておきました。

このようにして、補給の消耗を加速化させていたため、城内に逃げ込んだ兵士や近隣農民等3500人はすぐさま飢え始め、やはり、自軍には損害を出さず、より早く開城に成功させています。

秀吉や官兵衛の戦利を徹底した作戦遂行の姿勢は、もちろんヒューマニズムも美しさはありません。

周辺で小競り合いを繰り返したりしたものの
「地方領主」
の域を出なかった謙信と、天下統一を成し遂げた歴史上の英雄である秀吉、という比較においては、どちらの作戦手法が評価されるべきかは、明らかではないでしょうか。

飢えている敵をさらに飢えさせるのは、作戦として合理的です。

作戦手法としての合理性だけで言えば、さらに優れているのは、
「敵に塩を送る」
わけではなく、
「何も送らない」
というわけでもなく、塩がなくて困っている敵に
「青酸カリを薄く、まんべんなく混入させた塩」
を贈呈することです。

タイミングとしても、
「敵が、塩が不足して、困って、困って、困って、喉から手が出るほど塩が必要な頃合い」
を見計らって、恩着せがましく施しをしていやるような態度で、
「青酸カリの入った塩」
をプレゼントすることです。

と、かなり物騒な話をしましたが、ビジネスの交渉や、法的紛争における交渉場面や、あるいは国家間の外交交渉においては、この種の作戦手法を実践ないし応用する場面があります。

ビジネスの交渉や紛争解決の交渉場面においては、互いに条件を出し合い、その歩み寄りが可能かどうかを検証していきます。

その際、困っている敵対勢力に、騎士道精神やヒューマニズムを発揮して、相手が欲しがるものを気前よくくれてやるのは、絶対やってはいけないことです。

情けが災いを呼び、交渉が長引き、さらには、自身を窮地に追い込むことにも成りかねません。

相手が欲しがるものを気前よくくれてやるのは、あくまで相手が完全に降伏した後です。

もちろん、敵に意地悪をするのはありです。敵方が困っているときに、敵の急所を繰り返し攻撃したり、
「敵の傷口に塩を擦り込み、辛子とわさびを塗り、最後に、レモンを絞る」
ような、
「わかりやすい」
攻撃も、ありなのですが、やや洗練と上品さに欠けます。

こういう
「わかりやすい、えげつない嫌がらせ」
をすると、敵のほか、周囲の反発や離反を招き、孤立を深めます。

相手に恨みを買って妥協が遠のき、また第三者の忌避を買って中立的な仲介者を介した調整も困難となり、最終的な合意に至るまでの時間とエネルギーがより多く費消することとなり、作戦や交渉遂行上の資源動員の効率性を損ねます。

最善手としては、
「一見して毒とは解らないが、後でよく効く遅効性の毒」
を混ぜた、表面上は相手の立場に配慮した和解条件を織り込んで、妥協を呼びかけることです。

そして、このような毒入り条件も、即座に提示するような愚を犯しません。

時間的冗長性を徹底的に戦略的に活用し、のらりくらりと困惑した相手をさらなる窮地に追い込んでいき、
「死ぬ寸前まで追い詰められ、精神的余裕を喪失した相手」
が、
「毒」
の存在を見過ごすような錯乱した状態になる状況を構築します。

このような環境を整えた上で、
「救いの手」
にみえる
「悪魔の手」
を差し伸べることが効果的です。

こういう言い方をすると、
「そこまでやるんですか」
という声が聞こえそうですが、産業界や政界や官界のエスタブリッシュメントたちは、ごく自然にこういう発想で事態対処をしています。

そして、
「対処行動の本質の卑劣さ」
とは完全に反比例する形で、ジェントルに、エレガントに振る舞いながら、こういう卑劣な営みを、肩に力を入れることなく、スマートにこなしているのです。

他方で、危機対処に失敗するような中堅中小企業オーナーは、愚かなヒューマニズムと騎士道精神を発揮して、会社や自身を窮地に陥らせたり、あるいは、そのまま地獄に直行したりするのですが、戦国時代の牧歌的な美談に酔いしれることなく、現代のエスタブリッシュメントの戦利を追求した冷徹なスタイルをもっと見習うべきかもしれません。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.171、「ポリスマガジン」誌、2021年12月号(2021年11月20日発売)

00136_「訴えてやる!」と言われた場合の対処法(続)_20211120

今回は、前回の続編として、弁護士っぽい話となりますが、
「訴えてやる!」
と言われた場合の対処法を続けて解説します。

例えば、名誉毀損とか侮辱されたという類の喧嘩が起こったとして、トラブルの相手が
「訴えてやる」
と言ったところ、こちらが
「どうぞ、訴えるか訴えないかはそちらの自由です。訴えたければどうぞ」
と対応し、相手が
「よし、覚えとけ。次に会うのは裁判所だ!」
と言って、破談となったとしましょう。

相手が、宣言どおり、現実に、訴訟を提起するとなると大変です。

というか、ほぼ無理です。

・まず、訴訟の相手はどこの誰で、具体的に特定されているか。名前は本名か、免許証等で確かめたか、住所は把握しているか。
・訴訟の具体的内容をミエル化・カタチ化・言語化・文書化・フォーマル化していくとして、「いつ、誰が、どこで、どうして、どのようなことを行い、それがどのような法律要件に該当し、損害賠償請求権を生み出すのか」は明確にできているか。
・賠償額をいくらにするのか。1万円か、10万円か、100万円か、1億円か。
・金額が大きくなれば印紙代もかかるが、無駄にならないか。
・主張する事実に関する証拠をどのように揃え、整理し、提出の準備を整えるか。手持ちの証拠で十分か。
・これだけの検討や準備や作業を独力でやるのか。そんな事務資源や知的資源が自分にあるのか。
・事務資源や知的資源が自分にないとして、弁護士に依頼するのか。弁護士はいくらで引き受けてくれるのか。
・仮に、一審で勝ったとしても、相手が争って控訴がはじまったら、また、弁護士費用がかかるのではないか。最高裁にも行くのではないか。
・そうやって、かけた弁護士費用分、きっちり賠償金が得られるか。

・・・・・などなど。

こんな疑問や、実施上の難題が、次から次へと浮かび上がります。

そして、これらの実施上の課題をクリアしようとすると、弁護士に依頼する場合はもちろんのこと、自分でやる場合であっても(そもそも、このレベルの事件では、素人さんにとっては、独力で訴状を書き上げることすら不可能かもしれません)、うんざりするような手間や時間やコストや労力がかかります。

さらに、残念なことに、名誉毀損の賠償相場は極めて低く、今回のようなケースで認められるとしても(そもそも認められない可能性も大変高いです)、100万円台はまずなく、10万円以下ではないでしょうか。

こんなプロジェクト、本当におっぱじめたら、経済的にも、労力的にも、精神的にも大変な負担を覚悟しなければならず、悲壮な覚悟が必要になります。

となると、経済合理性の点でもっとも賢明な選択は、
「訴えてやる」
と勢いよく宣言したことはおいといて、かなりかっこ悪いですが、実際は、
「訴えず、何もせず、諦める」
という態度決定です。

「やられたら、どうするか?」

やり返してはいけません。

「やられたら、泣き寝入り」
が正解です。

そして、おまけです。

「念書を書け」
と言われても、そんなもの書く義務はまったくありません。

ですので、応答としては、
「ヤだ」
が正解です。

念書作成を要求された場合、私などは、
「念書、念書、念書ってさっきから何度も言っておられますが、そんなに念書がほしいの? こっちはイヤなんだけど、そちらがどうしても念書がほしいんだったら、東京地裁に、『これこれこういう念書を作成し、交付せよ』という訴訟を提起すればいいじゃないですか。そちらが訴えたら、こっちはこっちで、最高裁まで3回は争わせていただきます。万が一、最高裁で敗訴が確定し、さらに、確定判決に基づいてそちらが強制執行を申し立てたら、その段階で、おとなしく従ったほうがいいか無視するか、改めて、考えます」
と答えることにしています。

「念書? ヤだ」
といっても、相手が引き下がらないとします。

義務がないことを強く求めたら、強要罪に該当します。

ローマ法皇や皇族の方々のように、ジェントルかつエレガントに念書や詫び状をお求めになるのであれば問題ないでしょうが、詫び状をしつこく求めるような通常のケースですと、暴力や害悪の仄めかしを伴うので、強要罪ないし脅迫罪、少なくとも迷惑防止条例違反には該当するでしょう。

実際、滋賀県近江八幡市のボウリング場で店員に言いがかりをつけ土下座させた、
「元気が良くて、声の大きい、権利意識高めの舗装工のお兄さん」
がいらっしゃったのですが、このお兄さん、大津地裁で、強要罪に問われ、2015年3月18日、懲役8月の実刑判決を食らっておられます。

あまりしつこくやられたら、こちらが被害者として、警察を呼んで対処すればいいだけです。

いずれにせよ、
「訴えるぞ」
と、明らかに実現性のないハッタリかまされてビビるのもダメですが、
「念書書け」
と言われ、言うなりになって書くのもアホです。

もちろん、こんな対処法、学校で教えてくれませんし、そもそも、教師は知りません。

親も知らないでしょう。

世の中、こういう、
「学校や親が教えてくれないが、生きていく上で、絶対知っておくべき、非常識なリテラシー」
がかなりの数存在するのです。

一番、いいのは、弁護士に聞くことです。

その前提として、疑問に思ったら、弁護士に聞ける環境を作っておくことです。

さらにさらにその前提として、常識という
「バイアス」
に依拠せず、
「相手はこう言っているけど、ほんまかいな」
と疑問に思うこと、です。

「我、疑うゆえに、我あり」

懐疑は、知的な人間としての、本質であり、すべてです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.170、「ポリスマガジン」誌、2021年11月号(2021年10月20日発売)

00135_「訴えてやる!」と言われた場合の対処法_20211020

今回は、弁護士らしいお話です。

日常の口論でも、喧嘩がエスカレートすると、
「訴えてやる」
「出るとこ出てやる」
「裁判沙汰だ」
といった物騒な言葉が飛び交うことがあります。

こういうおどろおどろしい言葉で詰め寄られた場合、皆さん、どうされますか。

こういう有事における対処法は、意外と知られておらず、無駄にビビって、相手の言いなりになって、詫び状書いたり、念書書いたりして、やがて、そこからズルズルと
「やられたい放題やられていく」
という
「必敗」パターン
にはまり込んでいきます。

え、じゃあ、無視していいのでしょうか。

「無視したら、大変なことになるのじゃないか」
「『訴えてやる』という相手の威嚇を無視して、本当に大丈夫なのか」
「万が一、訴えられたら、より大変なことになって、それこそ地獄を見る羽目になるのではないか」
「とすると、訴えられることを回避するため、相手をなだめ、なんとかその場で話し合う方向で妥協した方がいいのではないか」
「弁護士は、他人事だと思って、いい加減なことを言ってるのではないか」
「というより、弁護士としては、揉め事起こった方が仕事になるから、仕事欲しさに煽ってるのじゃないか」
と無視するという態度決定を否定するいろいろな想像が頭を駆け巡ります。

しかし、民事で揉めて
「訴えてやる」
と言われた場合、弁護士として推奨する正しい対応は、無視であり、
「どうぞ裁判でも何でも、起こしたかったら起こしてください」
という突き放しなのです。

もちろん、本当に訴訟が提起される場合もないとはいえませんが、その確率は極めて低く、こういう
「訴えるぞ」
という脅し文句を絶叫する場合、単なるハッタリとしての捨て台詞であることがほとんどです。

こう言い切れるのは、訴訟の本質に根ざす事情に基づきます。

すなわち、訴訟を提起するといっても、裁判を行う場合、原告の負担があまりにも重く、訴訟を一種の
「プロジェクト」
と考えると、1万円札を10万円で買うような、無茶苦茶、コストパフォーマンスが悪い、
「キックオフした瞬間に、経済的敗北が確定する」
というくらい、厳しい負担が生じるものだからです。

というのは、民事裁判制度というゲームの構造が、原告にとってあまりに不愉快なシステムとして設計されているからです。

違法や不正義に遭遇したときに、被害者がこれを申し出て、権力的に解決する制度として、裁判制度というものが存在します。

よく、論争や見解対立が紛糾したりすると、
「出るとこ出たる」
「裁判を起こしてやる」
「公の場で白黒はっきりつけてやるから覚えとけ」
といった趣の売り言葉に買い言葉が応酬される場面に出くわしたりすることもあります。

しかしながら、裁判制度の現実を考えると、実際に訴訟を提起することはかなりの困難が伴い、さらにいえば、
「訴訟を提起する側は、提起しようとした瞬間、莫大な損失を抱えてしまい、経済的な敗北が確定する」
ともいえる状況が存在します。

なぜなら、民事問題の解決のため裁判制度を利用するには、莫大な資源動員が要求されるからです。

刑事事件として警察や検察等が動いてくれれば格別、民事の揉め事にとどまる限り、どんなに辛く、悲惨で、酷い状況に遭遇しても、被害者原告が、裁判を起こさない限り、国も世間も、基本的に、状況改善のために指一本動かしてくれません。

もちろん同情くらいはしてくれるでしょうが、同情を買うために愚痴を言い続けても、愚痴を聞く側もそれなりにストレスがたまるので、だんだん愚痴を聞いてくれなくなります。

それでも愚痴を言い続けて嫌がられると、友達までも失っていきます。 

「じゃあ、愚痴言ってるヒマがあれば、とっとと、さくっと、すぱっと、裁判を起こして、解決してもらえればいいじゃん!」
ってことになるのですが、これが、口で言うほど簡単ではなく、それなりの成果が出るように、真面目にやるとなると、気の遠くなるようなコストと手間暇がかかるのです。

無論、弁護士費用や裁判所の利用代金(印紙代)もかかりますが、この外部化されたコストは、費消される資源のほんの一部にしか過ぎません。

実際、訴訟を起こすとなると、原被告間において生じたトラブルにまつわる事実経緯を、状況をまったく知らない第三者である裁判所に、シビれるくらい明確に、かつ、わかりやすく、しかも客観的な痕跡を添えて、しっかりと説明する必要があります。

裁判所は、
「あいつは悪いやつだ」
「あいつは嫌われている」
「あいつはむかつく」
「あいつの評判は最悪だ」
とか、そんな、主観的評価にかかわるようなことにはまったく興味はなく(むしろ、この種の修飾語の類いはノイズとして嫌悪される)、聞きたいのは、事実だけです。

すなわち、客観的なものとして言語化された体験事実を、さらに整理体系化し、文書化された資料を整えることが、裁判制度を利用するにあたって、絶対的に必要な前提となるのです。

この前提を整える責任は、原告にのみ、重く、ひしひしと、のしかかり、世間も裁判所も、誰一人手伝ってくれません。

それどころか、少しでも、この前提に破綻や不備があると、相手方はもちろんのこと、裁判所も
「このあたりの事実経緯が不明」
「この点をしっかりと、根拠をもって説明してもらわないと、裁判がこれ以上進まない」
「もうちょっと、ストーリーを整理してくれないと困ります」
と言って、ツッコミを入れ、裁判が成り立たなくなるような妨害行動(といっても、これは原告の主観的心象風景であって、裁判所や相手方からすると、「裁判をおっぱじめるなら、おっぱじめるで、テメエの責任で、きちんとストーリー作ってこい!」という、ある意味当たり前のリアクションをしているだけ)を展開します。

このように、裁判システムは、ボクシングやプロレスの試合に例えると、原告が、ひとりぼっちで、延々とリングというか試合会場を苦労して設営し、ヘトヘトになって試合会場設営を完了させてから、レフリー(裁判官)と対戦相手(被告・相手方)をお招きし、戦いを始めなければならないし、さらにいうと、少しでも設営された試合会場ないしリングに不備があると、対戦相手(被告・相手方)もレフリー(裁判官)も、ケチや因縁や難癖をつけ、隙きあらば無効試合・ノーゲームにして、とっとと帰ろう、という態度で試合進行に非協力的な態度をとりつづける、というイメージのゲームイベントである、といえます。

こう考えると、裁判制度は、原告に対して、腹の立つくらい面倒で、しびれるくらい過酷で、ムカつくくらい負担の重い偏頗的なシステムであり、
「日本の民事紛争に関する法制度や裁判制度は、加害者・被告が感涙にむせぶほど優しく、被害者・原告には身も凍るくらい冷徹で過酷である」
と総括できてしまうほどの現状が存在するのです。

だから、
「訴えてやる!」
という威嚇を受けたら、
「どうぞ、どうぞ。訴状をお待ちしております」
と軽く受け流すことが、戦略的に最も推奨される対応という言い方ができるのです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.169、「ポリスマガジン」誌、2021年10月号(2021年9月20日発売)

00134_文明社会は「悪徳の栄え」を許容する_20210920

今回は、文明社会と
「悪徳の栄え」
との関係について述べてみます。

社会の文明度合いが進めば進むほど、犯罪は減り、喧嘩が減り、より、安全・安心に暮らせる空間ができあがる、というのが一般的な常識かと思います。

まさに
「衣食足りて礼節を知る」
の諺をなぞるような理解であり、もちろん、私としてもこの常識には相応の真実が含まれているものと思います。

しかしながら、他方で、これだけ文明が進み、モラルが行き渡った、デオドラントな社会ができあがったにもかかわらず、犯罪や法令違反不祥事は根絶される気配はありません。

もちろん、殺人や強盗といった凶悪犯はめっきり減っています。

一方、企業の犯罪や法令違反は一向に減る傾向にありません。

企業法務の専門家としては、
「企業不祥事は永久に不滅です」
という単純な真実を断言できます。

ここ2、30年くらい、継続的に、途切れることなく、企業不祥事が多発しまくっています。

「これだけ企業不祥事が出たから、もう、不祥事がなくなり、法律的に一点の曇りもない、清く、正しく、美しい、すみれの華のような、清廉な産業社会が日本にやってくる!」
と思われる方も、いらっしゃるかもしれません。

しかし、残念ながら、今、まさにこの時点においても(私が執筆している時点であれ、皆さんがこの文書を読んでいる時点であれ、どの時点をとっても)、どこかで、上場企業の粉飾やチャレンジや不適切会計、反社会的勢力との不適切なお付き合い、製品の性能データの改ざん、などなど各種法令違反や不祥事や事件、あるいはこれらの萌芽であるミスやエラーや漏れや抜けやチョンボやうっかり、粗相や心得違いやズルやインチキが、雲霞のごとく発生しているはずです。間違いありません。

「企業不祥事」
はとどまるところを知らず、おそらく、今年も、来年も、再来年も、企業不祥事は、順調に、活発に増えまくることでしょうし、この傾向は未来永劫続く、と断言できます。

「文明社会がどれだけ進化や発展を遂げようが、このような『悪徳の栄え』の傾向が顕著となる」
と断言できるのは、それ相応の理由があります。

文明社会とそれ以前の社会を分かつ概念は、
「人権保障」
というものです。

そして、人権保障という原則は、必然的に、証拠裁判主義と適正手続の保障を要請します。

「あいつは怪しい」
「あいつは胡散臭い」
「あいつは気に食わない」
「あいつはいかがわしい」
という理由だけで、反キリストや魔女といった烙印を押し、火炙りにしていたのが、中世の遅れた社会でした。

こんな愚劣な社会体制の下では、社会の構成員は、四六時中ビクビク恐れながら生活をしなければなりませんし、変わったこと、新しいこと、他人が考えつかないようなぶっ飛んだアイデアは、出てきませんし、出てきたとしても、徹底的に排除され、抑圧されます。

それこそ、
「地球が太陽の周りを回っている」
などと
「愚劣な常識に反する、本当のこと」
を言おうものなら、串刺しにされ、火炙りにされかねません。

このような社会ではイノベーションは発生せず、社会は停滞し、暗黒の時代が続きます。

そこで、状況克服のため、
「他人に迷惑をかけない限り、新しいことや、変わったことを言おうが、実践しようが、自由」
という原則が打ち立てられ、さらにこの原則を現実的に保障するために、
「証拠がなければ火炙りにされない」
「串刺しにするなら、それ相応の手続きによって串刺し相当であることが証明されてから」
という社会運営上の原則も確立しました。

ただ、よく考えて下さい。

「証拠がなければ罪や責任に問われない」
ということは、裏を返せば、
「痕跡さえ残さなければ、悪いことはやりたい放題」
であり、
「適正手続きが保障される」
ということは、
「たとえ悪事の痕跡が存在しても、適正な手続きで発見・押収されない限り、やはり罪に問われない」
ことを意味します。

もちろん、
「公衆の面前で悪事を働いたり、あるいは痕跡を消し去るような配慮をしない、知能低劣な粗暴犯」
は、どんな社会体制でも、罪や責任に問われます。

しかしながら、
「『文明社会において法的責任を問われる場面』における『法的責任追求(あるいは追求からの逃避)ゲーム』の『ゲームの構造やロジックやルール』を知り尽くした、知的な挑戦者」
にとっては、文明社会ほど快適なものはありません。

かくして、文明社会においては、粗暴な悪事は消失していきますが、
「知的で、洗練された悪徳」
は多いに栄えることになるのです。

こういう言い方をすると、悪を礼賛しているように聞こえるかも知れませんが、イノベーションというのは、くだらない常識やシキタリや道徳を徹底的に否定し、
「こういうくだらないものを有難がる既得権益者」
を根こそぎ地獄に追い落とすところから始まります。

イノベーションは、既得権益者にとっては必然的に
「悪徳」
の香りをまといます。

「イノベーションが称賛され、年寄りやエスタブリッシュメントが滅ぼされる」
という状況は被害者からみれば、まさしく
「悪徳の栄え」
そのものなのです。

皆さんは、
「悪徳が完全に消滅する、静かなデオドラントな社会」
を望みますか? 

それとも、
「悪徳が栄えるが、他方で、常に新しく、進化し、変わっていく、刺激的な社会」
を望みますか?

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.168、「ポリスマガジン」誌、2021年9月号(2021年8月20日発売)

00133_パワーについて_続_20210820

今回も、前回に続き
「パワー」
というものについてお話したいと思います。

パワー、一般に力といわれますが、お話したいのは動力や馬力の話ではなく、そこはインテリっぽく、権力や暴力や政治力や国家権力など、人や社会を動かす支配の源泉についてです。

前回、パワーとプレゼンスの関係について、裁判所という司法権力を振りかざす国家機関の事例をもとに、裁判なり交渉なりトラブル処理というゲームをうまく進めるためには、ゲームを動かす決定的パワーを察知し、その所在を把握し、うまく働きかけて、ゲームを制御していく観察力と想像力が必要である、というお話をさせていただきました。

3、ハードパワーとソフトパワー

ところで、一般に
「パワー」
というと、ハードパワーとソフトパワーがある、などといわれます。

相手に何も言わせず、黙らせ、従わせるのが、ハードパワーです。

暴力、軍事力、法律や行政上の不利益措置を与える国家権力。

前回お話した裁判所が発揮する司法権力も大きな権力です。

あと、経済力。

札束で頬を引っ叩いたり、取引の廃止を匂わせたりして、相手を黙らせ、屈服させる、という力、これがハードパワーです。

他方で、ソフトパワーというものもあります。

相手を押し黙らせるのではなく、むしろ、自由に言いたい放題語らせ、意見を表明させ、自分をさらけ出させつつ、しかし、こちらが圧倒的に上位にあり、相手はこちらに従うしかないような状況を可能にするパワーです。

例えば、こちらがデジュールスタンダード(公的標準、公的基準)を策定する権限を有しており(あるいは、公的標準が存在しない分野の場合でも、デファクト基準を設定する事実上の権限を握っていて)、基準上、当該基準を策定する当方が圧倒的上位にある場合です。

こういう場合、こちらが常に先に進んでいるため、競争相手はどんなに頑張っても追いつけない状態にあることが多いので、無理に相手にあからさまな圧力や暴力を行使するまでもなく、相手に状況をわからせるだけで、状況を正しく理解し認知する能力さえあれば、相手が自発的に恥じ入り、沈黙する。

こちらが暴力や権力をあからさまに誇示しなくても、あるいは、大きな声を出したり、プレッシャーをかけたりしなくても、相手が言いたい放題語ろうとしても、やがて状況を理解したら、自然に押し黙らせることができる力。

これがソフトパワーです。

軍事力(暴力)や経済力(カネの力)とは異質の力であり、具体的には、文化の力や、芸術の力や、科学の力や、学術の力です。

もっと卑近な例でいうと、リアルの世界やネットでの情報発信力、フォロワー数などSNSにおける影響力の指標もこれに該当します。

4、ソフトパワー優位の時代

では、ハードパワーとソフトパワーの優劣でいえば、どのような評価が可能でしょうか。

どんなに大きな政治権力をもっていても、ネットで影響力あるブロガー等が、SNSで批判的意見を表明したり、つぶやいたりすると、途端に、大きな力となって政治権力側を謝罪させたり、退場させたりする。

大きな経済力をもつ企業が社運をかけ、大きな宣伝広告費をかけた新商品を世に出しても、多くのフォロワーをもつ発言者がTwitterで
「このテレビ広告は女性を蔑視している」
という見解をつぶやいただけで、たちまち、その商品と企業が窮地に陥る。

現代は、ソフトパワー優位の時代ではないでしょうか。

そして、ソフトパワーが決定力をもつ時代は、平和で、知的で、進化した時代ともいえるのだと思います。

ハードパワーを競う世界というのは、軍拡競争をイメージすればわかりやすいですが、お互いが疑心暗鬼となって絶えず緊張して警戒して競争を続ける世界です。

ハードパワー競争の時代は、競争の限界がイメージできず、際限ない消耗戦を強いられ、最後は、競争者全員が疲弊し、共倒れします。

しかし、ソフトパワーを競う世界は、新たな基準や新たな世界や新たな秩序を創造して参加を呼びかけるものです。

ソフトパワーの世界は、観念の世界であり、多元的世界であり、いろいろな競争空間が共存する世界です。

ファッションではこの国、美術ではこの国、建築ではこの国、クラッシックではこの国、ポップスはこの国、料理はこの国、アニメはこの国、医療ではこの国、文学ではこの国、といった形で、いろいろな競争空間を創出でき、ソフトパワーの競争の激化は、そのまま人類がより豊かにより多様に進化していくことを意味します。

私個人としては、ハードパワー競争がどんどん劣位となり、あらゆる国、コミュニティ、企業、個人が、ソフトパワーで競争する空間を創出し、激しく攻防する平和で豊かで進歩を感じる世界が続いてほしいと願うばかりです。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.167、「ポリスマガジン」誌、2021年8月号(2021年7月20日発売)

00132_パワーについて_20210720

今回は、
「パワー」
というものについてお話したいと思います。

パワー、一般に力といわれますが、お話したいのは動力や馬力の話ではなく、そこはインテリっぽく、権力や暴力や政治力や国家権力など、人や社会を動かす支配の源泉についてです。

1、裁判所のパワー

弁護士として、普段、交渉をやっていると、すぐさま交渉は暗礁に乗り上げます。

一般に、人はお互い折り合えるなら、弁護士になど頼みません。

どれほど努力しても折り合う余地がないから弁護士に頼むわけです。

ただ、そこまで関係が悪化している状況で、弁護士がついた途端にお互い譲り合って話がまとまるか、というと、そういうことにはなりません。

結局、弁護士がついて内容証明郵便によるエレガントな嫌味を言い合っても、すぐに交渉はスタックして(暗礁に乗り上げて)しまい、打開するためには、交渉を進める裏付けとなる力が必要になります。

では、この
「交渉を進める裏付けとなる力」
は何か、というと、もちろん、金属バットやトカレフや柳刃包丁を見せびらかしたり振り回したり、ということも論理上・想像上考えられますが、そこは、我々知的紳士としては、
「裁判所という国家機関による暴力的裁定によって、不利益を食らわせる」
ということを実践します。

すなわち、
「交渉を進める裏付けとなる力」
としては、
「裁判所という権力機関による裁定する権力」
がこれに該当します。

具体的には、どちらかが事件を裁判所に持ち込み(どちらも持ち込むというケースもあります)、裁判が始まります。

しかし、裁判所は、判決に向かってまっしぐらに事実や証拠を検証しはじめる、というわけではありません。

その間に、裁判所は、何度も何度も何度も、くどいくらい、
「もういい加減にしてよ」
っていうくらい、和解を斡旋します。

正確に調べたわけではありませんが、民事裁判がはじまって、最終的に判決で決着するのは3割程度ではないか、と思えるほど、和解で終了する蓋然性は高いです(なお、欠席判決や、銀行や貸金業者が事務的なルーティンで判決取得するような、争いの要素が皆無で、裁判所も事務的に判決をこなすような事件は除きます)。

要するに、裁判所という国家機関が提供するサービスの本質は、
「判決をくれる」
というものではなく、
「『イザとなったら権力的に(あるいは暴力的に)裁定して、どちらかを不幸にどん底に陥れる力』をもった国家機関が主導してお節介を焼き、そのようなパワーを背景に当事者双方を威嚇しつつ、できない譲歩をさせ、和解を強引にさせる」
という面があり、後者の役割を果たす場合の方が相対的に大きい、といえるのです。

2、パワーとプレゼンス

例えば、
「モノ(車でも家でも船でもいいのですが)を売った代金として、1000万円を払う・払わない」
という揉め事が起こり、弁護士同士の交渉が頓挫して、裁判を起こし、ある程度事件が進んだ段階で、裁判官が
「700万円くらいで折れませんか」
と言ったとします。

裁判官は、強制する口調や乱暴な口調や命じる口調ではなく、ドライに、クールに、ジェントルに、エレガントに、のたまいます。

裁判官のそのような優しげな言い方や口調の第一印象を軽く甘く判断して、
「うっせーうっせーうっせーわ。余計なお世話だ、馬鹿野郎!」
と思って、
「嫌です。そんな和解、承服できません。とっとと判決ください」
と言うのは、もちろん当事者の自由であり、実際、そういう対応をする方も少なくありません。

しかし、裁判官の
「700万円くらいで折れませんか」
という提案は、どんなにジェントルに、どんなにエレガントな口調で言ったとしても、
「当該事件を煮て食おうが焼いて食おうが、誰からも文句を言われない、神聖にして不可侵な絶対的権力を与えられた国家機関としての裁判所」
のお言葉であり、そういう話を前提に考えると、この提案は、実は恐れ多くも畏(かしこ)くも
「700万円で妥協せよ」
とお命じあそばした指示ないし命令と理解されます。

この命令に中指突き立て、峻拒すると、待っているのはシビれるくらいエゲツない祟り、ないし報復です。

かくして、裁判官の和解の勧告に対して、
「嫌です。そんな和解、承服できません。とっとと判決ください」
と言った原告は、後日の判決で、こっぴどく報復されます。

すなわち、具体的な和解提案を拒否して裁判所の手を払い除けた原告には、700万円どころか1円も手にできない、そんな残酷な未来が待ち構えるのです。

要するに、裁判所にはパワーがあるのですが、パワーにふさわしいプレゼンス(存在感)が見えにくいため、パワーの実体や大きさがわからず、最終的にゲームに失敗する、ということなのです。

裁判なり交渉なりトラブル処理というゲームをうまく進めるためには、ゲームを動かす決定的パワーを察知し、その所在を把握し、うまく働きかけて、ゲームを制御していく観察力と想像力が必要である、と総括できますでしょうか。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.166、「ポリスマガジン」誌、2021年7月号(2021年6月20日発売)

00131_アフターコロナ・令和の時代を読み解く_その4・完_20210620

当初連載を想定していませんでしたが、思わぬ形で連載となってしまった
「アフターコロナ・令和の時代を読み解く」
と題する記事の続きです。

スピリチャル的な話として、
「物理的所有」の価値観
に重きをおく
「土の時代」
から、
情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される、
「知る」豊かさ
を求めていく
「風の時代」
に変わったことや、昭和や平成時代に当たり前とされてきた古いものや古臭いものが一掃され、DXやAIの普及により企業におけるゲームのルールやプレースタイルが変わる、飲食ビジネスが激変する、副業、フリーランスという働き方の普及、学校教育の変化などといったことを申し上げました。

今回も同じテーマで、さらなる補足をして
「アフターコロナ・令和の時代を読み解くヒント」
のようなものを述べていきたいと思います。

6、経済活動の基本構造を一変させる歴史的転換局面の到来

これは、やや大胆な予想というより、思考実験に近いものかもしれませんが、凄まじいインフレとなり、
「お金」
が根源的意味と価値を低下ないし喪失し、あるいは姿・形が様変わりし、まったく新しい経済システムが登場するかもしれません。

コロナ対策として、世界各国で壮大な社会実験が行われています。

史上空前のお金のジャブジャブ化とバラマキです。

二十世紀の大恐慌のときには、
「財政赤字になっても関係ねえ!」
とばかりに、金利を下げて輪転機を回してどんどんお金を増やして(金融政策)、公共工事を増やして(財政支出)、景気回復を試みました。

一般に
「大恐慌からの景気回復策として、アメリカを初めとする各国で、ケインズ理論に基づく金融政策・財政政策が実施された」
といわれているようですが、嚆矢となったのは、1932年に開始された我がニッポンの大蔵大臣高橋是清考案にかかる
「時局匡救事業」
という積極的財政策です。

その後、高橋の政策に続く形で、1933年にアメリカのニューディール政策が開始されました。

ケインズ理論が著された
「雇用、利子および貨幣の一般理論」
の出版はかなりあとの1936年です。

「ケインズ理論に基づき、ニューディール政策や高橋是清の政策が実施された」
などと誤解されているかもしれませんが、順序でいうと、
「高橋是清→ニューディール→ケインズ」
であり、その意味で、高橋是清の先見性と才能は再評価されるべきだと思います。

是清の政策は成功し、日本は欧米諸国に先駆けてデフレを脱却しましたが、彼は二・二六事件で暗殺されます。

その後は、戦争という
「究極の公共事業」
を続行する軍事や財閥やマスコミや世論に抗しきれず、日本は、社会全体で戦争拡大に邁進していきます。

なお、アメリカのニューディール政策ですが、経済の仕組みを理解しない最高裁が同政策に違憲判決を出してケチをつけたり、財政正常化に服するのが早すぎたこともあり、失業率が再上昇してしまい失敗に終わりました。結局、
「第二次世界大戦参戦と太平洋戦争開始」
という別の
「巨大な公共事業」
が開始されたことによって、アメリカは不況を脱することになります。

さて、令和のコロナ禍の時代においては、もはや
「公共事業」
なども前提とせず、
「ヘリマネ」
すなわち、
そのままお金をヘリコプターでばらまく、
という大胆な景気刺激策が登場しました。

「ヘリコプターから紙幣をばらまけば、いずれ物価は上がる」
というのは、経済学者ミルトン・フリードマンがその論文で書いた話が嚆矢となっています。 

これを敷衍する形で、米国の経済学者で第14代連邦準備制度理事会(FRB)議長のベン・バーナンキは、「デフレを解消するには、ヘリコプターから紙幣をばらまくような大胆な金融緩和策が有効」との見解を示しました(そこから、伝統的な経済学者等からは、揶揄を込めて、「ヘリコプター・ベン」「ヘリコプター印刷機」などと評されたことは有名です)

金利を下げたり、通貨供給量を増やしたり、公共事業をしたり、といったことであれば取引や交換秩序という文脈で理解できますが、
「取引や交換という前提もなく、お金をばらまく」
というのは、かなり大胆というか、理解を超えた対策です。おそらく、人類史上初の試みではないでしょうか。

コロナ禍以前においても、
「解決不能なデフレ(FRB議長だったイエレンさんも「puzzle」(謎)と評したしつこいデフレ)解消方法」
として、
「ヘリマネ」
が取り沙汰されはじめた際、私は、
「んなアホな」
「なんぼなんでも、そんな無茶苦茶なもん、デキるわけないやろ」
と思っていました。

しかしながら、コロナ禍の時代に入り、
「特別定額給付金」
やら
「go to ホニャララ」
といった
「ヘリマネ」
が現実的政策として実行されるようになり、
「長生きすると、いろいろな事態に巡り会えるもんだ」
と驚き、感慨を深くした記憶があります。

「ヘリマネ」については、「なにやら、変わった、壮大な社会実験がおっ始められたなぁ」「そのうち、終わるだろ」と冷ややかに眺めていましたが、なんと、「デフレを解消するには、ヘリコプターから紙幣をばらまくような大胆な金融緩和策が有効」とのたまっていた「ヘリコプター・ベン」ことベン・バーナンキ氏に2022年度のノーベル経済学賞が授与され、人類史上画期的な経済学的知見を示したものと認められてしまいました(?!)。

この「人類史上画期的な経済学的知見を示したものと認められてしまいました(?!)」の「(?!)」にはそれなりの含みがあります。

「ノーベル経済学賞」は、ノーベル財団が取り仕切る年次イベントのノーベル賞ではなく、「スウェーデン国立銀行経済学賞(正式には、『アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン国立銀行賞』という長たらっしい名前)」という、ノーベル賞にあやかった、便乗というか乗っかりイベントです。

2001年に朝日新聞科学部記者(当時)の杉本潔氏が、賞を運営するノーベル財団の実務責任者であるミハエル・ソールマン専務理事(当時)にインタビューに対して、「経済学賞はノーベル賞ではありません。ノーベルの遺言にはない、記念の賞です」と答えていますし、杉本氏によれば1997年には文学賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーが経済学賞の廃止を要請しているそうです。
また、杉本氏によれば、2001年にはノーベルの兄弟のひ孫「ノーベルは事業や経済が好きではなかった。経済学賞はノーベルの遺言にはなく、全人類に多大な貢献をした人物に贈るという遺言の趣旨にもそぐわない」などと新聞(地元紙)で批判したこともあったそうです。

要するに、ノーベル経済学賞は、船橋市非公認マスコットキャラクターの「梨の妖精、ふなっしー」同様、ノーベル財団非公認、ノーベル賞を勝手に自称している、ちゃっかり、乗っかりイベントのようです。

極めつけは、1997年にブラック-ショールズ方程式を理論面から完成させて、「ノーベル財団非公認、ノーベル経済学賞」である「スウェーデン国立銀行経済学賞」を授与された、マイロン・ショールズとロバート・マートンが加わったヘッジファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメント(Long Term Capital Management)が空前の損失を出して倒産してしまいました。

やっぱり、本物のノーベル賞とは違い、ノーベル財団非公認イベント特有の、パチもんっぽいというか、インチキさというか、えも言われる胡散臭さが漂っています。

ですので、「デフレを解消するには、ヘリコプターから紙幣をばらまくような大胆な金融緩和策が有効」という「ヘリコプター・ベン」の説が、「ノーベル賞により評価された学術成果同様、人類史上画期的な経済学的知見を示したものと認められた」と考えるのはやや早計かもしれません。

話をもとに戻します。

これを推し進めていき、平均年収分くらいの給付金を国民全員にあげる、とか、ベーシック・インカムは保障する、とかやりはじめると、論理的・原理的には、1万円札がどんどん価値を喪失していき、紙くず化していきます。

昨今話題となっている
「不況下での株式市場の熱狂」
も、
「コロナ禍回復後の経済の先取り」
というより、貨幣価値の激減への対抗措置とも取れます。

ところで、
「go to ホニャララ」
を推し進める過程で、飲食店等にキャッシュレス決済機能実装が求められ、このため、キャッシュレスが一挙に進みました。

個人的にも、現金(お札や硬貨)を触る機会が圧倒的に減少した感があります。

たった1、2年で、お金の意味と価値と姿・形が一気に様変わりしました。

あまり実感が沸かないかもしれませんが、経済や金融という世界においては、我々は衝撃的な歴史の転換局面に出くわしている、とも捉えられるような気がします。

俗に、経済的な資源を称して
「ヒト・モノ・カネ・チエ」
などといいます。

「ヒト」
の価値は、AIやRPAによって消失していく傾向にあります。

社会や市場が
「モノ」
への欲望そのものを喪失して
「モノ」
も価値を消失しました。

コロナ以前から、すでに
「モノ」離れ
の傾向は顕著で、どんなに景気を刺激しようとしてもインフレは鈍化しデフレに回帰してしまう状況で、
「モノ」
の生産による利潤創出には限界が見え始めていました。

大規模な金融緩和やヘリマネやキャッシュレスの動きも相俟って
「カネ」
が意味と価値と姿・形を変え、希薄化希釈化された存在になりつつあります。

さらに、インターネットによって瞬時の情報共有・拡散・希薄化・希釈化・陳腐化が可能となった現代においては
「チエ」
の価値もどんどん無価値化しています。

近代以降、人類は、
「カネ」を調達し、
「ヒト」を動員して、
「モノ」を作って、
「チエ」により磨き上げ、
利潤を創造して、
「カネ」を媒介した循環により、
自己増殖的に成長する方法で、企業を中核とする経済社会を拡大・発展させてきました。

しかし、このような
「経済の自己増殖ゲームのアーキテクチャそのもの」
がコロナ以前から疲弊し始め、コロナ禍による経済社会の変革によって息の根を止められ、新たな経済システムに向けて大きく変わっていくことになるのではないでしょうか。

アフターコロナにおいて、王政復古のように、昭和・平成の時代に逆戻りすることはまずあり得ないでしょう。

新しい時代にふさわしい、新しいゲームのアーキテクチャ・ゲームのロジック・ゲームのルールが創出され、新たな経済活動のプレースタイルが登場し普及すると思います。

「それがどのようなものであるか、具体的なものは今現在、世界の誰もが測りかねる。ただ、今のままでは機能せず、何か別の新しいものに変化し、置き換わることだけは確実である」

我々は、そんな時代の転換局面に立たされています。

変化の時代においては、変化に適応しなければなりません。

変化の時代に、変化に適応するためには、変化を察知し、正しく理解し、抵抗なく受け入れ、正しく評価できなければなりません。

対処行動の基本を簡単にいうと、
「若さ」を保て、
ということです。

「若さ」
は、
「バカさ」「愚かさ」
ではありません。

「戸籍年齢は若いが、頑迷固陋で、夜郎自大の、愚劣な小物」
は世に蔓延っていますが、この連中は
「若い」
のではなく、
「幼いだけのバカ」
です。

「若さ」
とは、進化し、変化し、自己を環境に適応させることのできる根源的能力を指します。

その能力を、整理分解すると、

(1)新しい環境を知り、理解する力(新規開放性、新規探索性及び思考の柔軟性)
(2)自己を健全に否定する力(健全で明るく前向きな自己否定を可能とする謙虚なメンタリティ)
(3)否定した自己を環境に合わせて変化させる力(カッコ悪さや恥をかくことや頭を下げることを恐れない勇気と柔軟性)
ということになるでしょうか。

もちろん、巨視・俯瞰視を可能とする知的情報基盤、すなわち
「良質の本」

「良質の師」

「良質の友」
の存在が前提となりますね。

著:畑中鐵丸

初出:『筆鋒鋭利』No.165、「ポリスマガジン」誌、2021年6月号(2021年5月20日発売)